前回紹介した宇沢弘文さんの『経済学の考え方』は1989年の本ですが、そのちょっと前に書かれた『近代経済学の再検討』(岩波新書)は1977年の本です。
この本も新古典派の経済学の中味を検討し、ケインズによるその批判の内容を紹介し、ケインズの批判し残した部分として、社会的共通資本の理論を説明しています。
いくつも印象的な言葉があるので、順次それを紹介しましょう。
一番最初に『まえがき』のしょっぱなに書いてあるのが
【世界の経済学は今一つの大きな転換点に立っている。現実に起きつつあるさまざまな経済的、社会的問題がもはや、新古典派ケインズ経済学というこれまでの正統派の考え方にもとづいては十分に解明することができなくなり、新しい発想と分析の枠組みとを必要としているからである。】
です。
『新古典派ケインズ経済学』というのはいったい何なんだろう、ケインズは新古典派経済学をやっつけてしまったんじゃなかったんだっけ・・・というのが正直な感想です。この新古典派ケインズ経済学というのは、新古典派の経済学がケインズ理論を取り入れたいわゆる新古典派統合の経済学のことかも知れませんが、私にとっては新古典派の経済学はケインズによって完璧に否定されてしまったと思っていたので、これが正統派の考え方だというのは驚きです。まあこのあたり私が経済学をあまり良く知らないということなんでしょうが。
次に『序章』の最後は
【正統派の経済学について、その理論的な枠組みをかたちづくっているのは、言うまでもなく、新古典派の経済理論である。しかし新古典派の経済理論について、その基礎的な枠組みを明快に解説した書物はないと言っても良い。新古典派理論の基本的な考え方と中心的な命題とは、すべての経済学者にとって自明のこととして当然知らなければならないこととされてきたからである。本書ではまず、新古典派の経済理論について、その基礎的な考え方にさかのぼって、枝葉末節にとらわれることなく、その前提条件を一つ一つ検討することからはじめよう。】
となっています。この部分、ケインズの『一般理論』を読んでいるような気がします。
この新古典派の経済学について明快な説明がないことについては、『Ⅱ 新古典派理論の基本的枠組み』のはじめの方でも、
【新古典派経済理論の前提条件をどのように理解し、その理論的な枠組みをどのように捉えたらよいか、という問題について、経済学者の間で必ずしも厳密な意味で共通の理解が存在するわけではない。しかし現在大多数の経済学者にとって共通な知的財産として、ほとんど無意識的に前提とされているような基本的な考え方の枠組みが存在するのは否定できない事実であろう。これは、いわゆる近代経済学を専門としている人々にとって自明な考え方の枠組みであり、トマス・キューンの言うパラダイムを形成するものと考えてもよい。したがって、多くの場合に必ずしも明示的に表現されることはなく、研究論文はもちろんのこと、教科書の類いですら、この点に詳しく言及することはまず皆無であると言ってよいだろう。逆に、このような理論の基本的枠組みについては、わたくしたち経済学者が当然熟知していなければならないものであり、ひとつひとつ検討する必要のないほど自明のこととされてきた。そしてこの論理的斉合性を問うたり、基本的な命題に疑問を提起することは、ジョーン・ロビンソン教授がいみじくも指摘したように、近代経済学の研究にさいしての重大なルール違反であるとすらみなされることもあったのである。】
これは何ともはやの話ですね。こんなんで経済学を学問とか科学とか言えるのか、という話です。特に言葉の定義や前提条件を明確にすることがもっとも大事で、すべてをそこから始めることになっている数学をやった人間にとっては、このような状況は耐えられない話でしょうね。
で、このあと新古典派が自明のこととしている前提条件がまるで非現実的なものであり、その一部についてケインズが明確に批判したこと、そしてケインズが批判しなかった部分についても社会的共通資本の考え方を入れなければならないことを指摘して、この本は更なる新古典派の批判をしているんですが、最後の『おわりに』の最後に
【本書では、経済学が現在置かれている危機的状況、すなわち理論的前提と現実的条件との乖離という現象の特質をできるだけ鮮明に浮彫りにするために、現代経済学(日本では近代経済学と呼ばれている)の基礎をなす新古典派の経済理論の枠組みについて、その皮と肉を剥いで、骨格を露わにするという手段を用いた。このような手法によってはじめて修辞的な糊塗に惑わされることなく新古典派理論の意味とその限界とを誤りなく理解することが可能であるだけでなく、現実的状況に対応することができるような理論的体験の構築もまた可能になると考えたからである。 しかしこの極限的な接近方法は、審美的な観点から感性を害うような反応を感ずるだけでなく、職業的な観点から、往々にして非知的な、そして退嬰的な反発を招く危険性が皆無ではない。とくにわが国では、高度成長期を通じて、いわゆる近代経済学者が、社会的にも政治的にも大きな役割を果たすようになり、政策的提言、社会的発言、アカデミックな地位などにおいて、20年前とは比較にならないような影響力を持つようになってきたのであるが、そのもっとも重要な契機は、新古典派的経済理論という分析手法の効果的な適用という点にあった。したがって、このような形で批判的検討を加えようとすると、多くの経済学者の職業的な既得権益に抵触せざるを得なくなるからである。】
とあります。やはり自分が生まれ育った新古典派を裏切って批判する立場に立つ、というのは覚悟のいることのようです。
その後の『あとがき』には
【本書の内容は、この数年間にわたるわたくしの思索をまとめたものであるが、ここで取り上げた主題の一つ一つについて、いずれも不完全なまま、このようなかたちで一冊の書物として出版することに対して、大きな心理的抵抗を感じないわけにはゆかない。ただ新古典派の経済学を学んで、自らも研究を行ってきた者の一人として、この新古典派の制約的体系を否定して、新しい思索的な、分析的な枠組みを構築することがいかに困難であるかという苦悩の軌跡を記して読者の参考に資することができたらという、かすかな期待を持ってこの書物をまとめたのである。】
とあります。
ケインズも宇沢さんも新古典派のホープとして活躍した後で新古典派を批判する立場に転じ、新しい経済学(ケインズの経済学、宇沢さんの社会的共通資本の理論)を提案しているわけですが、ケインズが新古典派を一刀両断しているのに対し、宇沢さんは日本人らしくちょっと遠慮勝ちというのも面白いですね。
社会的共通資本については、宇沢さんはそのままのタイトルの本を別途2000年に、これも岩波新書として出版していますが、新古典派経済・ケインズ経済学とのかかわりでそれらを批判する中で宇沢さんが社会的共通資本の考えに至った経緯について理解するには、この本の方が良く分かるかも知れません。
ケインズにも宇沢さんにもこれだけ批判された新古典派経済学ですが、いくら批判されても相変わらず正統派の立場を保っているのも不思議なことですね。