‘本を読む楽しみ’ カテゴリーのアーカイブ

『帳簿の世界史』 ジェイコブ・ソール

2018年2月1日 木曜日

先日、簿記・会計の本を二冊読んだ話をしました。

すると友人が、今、税理士さんの間で話題になっている本がある、と教えてくれたのがこの『帳簿の世界史」という本です。

良く見たら、本のタイトルが誤訳です。

元のタイトルは『The Reckoning – Financial Accountability and the Rise and Fall of Nations』というもので、直訳すれば
『(国の決算の)見積り -(国の)財政の説明責任と国々の盛衰』
というくらいの意味です。

本の中では『複式簿記は大切なもので、簡単ではないけれど、これをちゃんとする国は栄え、できない国は亡びる』というテーマを、いわゆる西洋流の世界史をからめて繰り返し繰り返し唱えています。

とはいえちゃんとした複式簿記の説明があるわけでもなく、具体的な帳簿の説明があるわけでもなく、簿記や会計に関する本だと思って読むとガッカリするかも知れません。元のタイトルにもあるように、国の財政状況を(複式簿記を使って)きちんと把握し、その内容を(国王や国民に対して)きちんと説明できるようにすることがいかに大事なのか、ということを、イタリア→スペイン→オランダ→フランス→イギリス→アメリカと、世界史(西洋史)の流れに沿って説明している本です。様々なトピックスが盛りだくさんに出てくるので、それなりに面白い本ではあります。

この本で、実はアメリカの植民地開発が文字通りベンチャービジネスであり、出資者に会計報告するためにアメリカでは植民の初期の頃から簿記についてはきちんと対応していた人が多かったという話がありましたが、この『ベンチャービジネス』という視点は面白かったです。

本の最後に付録として日本の事情について『帳簿の日本史』というタイトルで編集部の作った6ページばかりの小論が付いています。編集部がまとめているのですが、速水融・山口英男・由井常彦というそうそうたる3氏に協力してもらったということで、この部分はなかなか面白いものでした。律令制が始まった時代からの流れを概説し、江戸時代には日本にもちゃんと複式簿記のシステムがあり、そのため明治になって西洋流の複式簿記が入ってきたとき、それへの移行もあまり困難なく実施できたという話も入っています。

挿絵もかなり多く入っており、私にとっては世界最初のアクチュアリーといわれるオランダのヨハン・デ・ヴィットが、その兄と一緒に国民に私刑で殺され逆さ吊りにされている場面の絵(オランダ、アムステルダムの国立美術館蔵の『デ・ヴィット兄弟の私刑』という絵です)は初めて見るもので、興味深いものでした。

西洋史の流れを国の決算・債務の増減という立場からまとめ直した、といった本です。
なかなか面白い読み物です。

『会計の歴史探訪』 渡邉 泉

2018年1月18日 木曜日

前回の投稿からかなり時間がたってしまいました。その間、本を読まなかったわけでもないのですが、個人的な事情であれこれ忙しく、なかなか投稿するまでの余裕がありませんでした。それもほぼひと段落したので、ボチボチ投稿を再開します。

この渡邉泉という会計学者、会計史学者の先生の書いた「会計学の誕生-複式簿記が変えた世界」という本が評判で、何人かから勧められて読んでみようと思って図書館で予約を入れたのですが、評判の本なので、しばらく待たないと順番が回ってこないことが分かりました。

そのため同じ著者の他の本も借りることにして予約したのですが、こちらの方はすぐに借りることができ、その本が素晴らしかったので、今評判の本が大人気ですぐに借りることができなくて却ってラッキーだったということになります。

で、最初に読んだのが『会計の歴史探訪-過去から未来へのメッセージ』という本で
 1. 複式簿記の誕生
 2. 複式簿記の完成
 3. 損益計算に対する二つの考え方
 4. 世界最初の簿記書「スンマ」(1494)
 5. イタリアからオランダ、そしてイギリスへ
 6. 産業革命期のイギリスの簿記書
 7. 18-19世紀イギリスにおける新たな潮流
     ―複式簿記と単式簿記
 8. 簿記から会計へ
 9. 財務諸表の生成
 10.キャッシュフロー計算書の登場
 11.現代会計の落とし穴
 12.彷徨する現代会計
という章立てで、簿記・会計の800年の歴史をものの見事にまとめています。

商人間の貸し借りに関して、その都度公正証書を作るのも手間とコストがかかるので、その代わりに帳簿に取引の目的・内容等を記載し、その帳簿に十字架と神の名とアーメンを書き込んで、その記載内容が神の名にかけて真正だ、とした所から始まって

次にある期間の儲けを資産・負債の期初から期末への増加分として計算するの対して、その計算が正しいことを説明・証明するために帳簿の損益計算書・貸借対照表の記述を使用し、資産・負債から計算した利益が正しいことを明らかにした、という話。

その後大規模な会社(東インド会社とか鉄道会社とか鉄鋼会社とか)が増えて多数の株主に決算を説明する必要が出たり、膨大な固定資産を持つ会社が出てきたり、取扱う商品が数量でも種類の数でも膨大になって、商品勘定を仕入れ・売上げ・棚卸残の三つに分けなければならなくなったとか、いろいろな変化に合わせて簿記のシステムの発展のあとを解説してくれています。

で、最後の所で最近の会計の行き過ぎた時価主義会計の方向性について批判しています。

2冊目は『帳簿が語る歴史の真実-通説という名の誤り』という本で、
1. 損益計算制度の展開
  「口別損益計算から期間損益計算へ」の誤り
2. 収益・費用の認識規準
  「現金主義から発生主義へ」の誤り
3. 資産・負債の測定基準
  「取得原価から時価へ」の誤り
4. 決算締切法の展開
  「大陸式決算法から英米式決算法へ」の誤り
5. 複式簿記の展開
  「単式簿記から複式簿記へ」の誤り
6. 会計の第一義的な役割
   受託責任かそれとも情報提供か
終  現代会計が抱える問題

という章立てで
このそれぞれの内容は1冊目の本にも書いてあるんですが、簿記・会計の世界で通説となっている話が実は間違いだ、という点に焦点を当てて書いてあります。

最後の2つの章は、1冊目の本にも書いてありましたが、やはりこの先生は時価主義の会計、それも市場で取引されるようなものの値段を市場価格で評価するというのは良いのですが、市場で取引されないようなものの値段を、将来の収入の見込みを将来にわたる金利で割引いて評価するというのがまるで受け入れられないようです。

で、その市場で取引されるものを市場の売買価格で評価するというのと、市場で取引されないものを将来の収益の割引現在価値で評価するという二つを、まるで同じものであるかのように『時価』と表現し、それをさらに『公正価値』などと呼んでいることが我慢ならないということのようで、繰り返し主張しています。

これについて、『この取扱いは経済学なら良いけれど、会計学ではダメ』というような表現が最初のうちしてあって、経済学というのは何のことだろうと思っていたのですが、2冊目の半ば過ぎの所で『ファイナンス』と言い換えていたので、これは金融論あるいは金融取引であれば良いけれど、会計学あるいは会計実務としてはダメ、ということなんだなと分かりました。

この2冊を通じて、かなり重複繰り返しがありますが、実際の簿記の資料、また簿記・会計の教科書を山ほど読んだ上で、その一部を実例として紹介しながらの論述は面白いです。

単式簿記というのも日本で一般に言われる小遣い帳方式の単式簿記と、この本で説明されている、会計史の世界で使われる18-19世紀に発明された、複式簿記の簡略版としての単式簿記とは内容がまるで違うもので、この言葉がこのどちらの意味で使われるか気をつけなければいけないな、ということも分かりました。

簿記や会計の世界に興味がある人にはお勧めです。

『ファシズムとは何か』ケヴィン・パスモア

2017年7月6日 木曜日

ファシズムとかファシストとかいう言葉を時々聞くことがあります。この言葉の意味がいまいち良く分からないので、この本を借りてみました。

この本は2014年に第2版が出ているのですが、第1版が出たのは2002年のことで、この第1版はかなり優れたファシズムの定義を作ったことで評価の高いものだったようなんですが、10年経って著者自身が第1版の結論を完全に否定して第2版を出した、ということのようです。

ファシズムとかファシストとかいう言葉は政治団体あるいは政治運動について言う言葉ですが、その意味は必ずしも明確ではありません。どの団体あるいは運動かファシズムのものかを決めると、そのようなものの特徴としてファシズムの定義を導き出すことができます。逆にファシズムとは何かを決めると、一つの政治団体あるいは政治運動がファシズムのものかどうか、その定義に照らして判断することができます。

もともとイタリアのムッソリーニのファシスト党というのがファシズムを信奉するファシストの運動だ、というのは殆ど問題のない所ですが、その先、ドイツのナチス・ナチズムはどうなのか、その他の類似の団体・運動はどうなのか、ということになるとそう簡単ではありません。

イタリアのファシスト党とドイツのナチスはお互いがお互いの真似をしたり影響しあったりしていますが、はっきりした違いもあります。『ナチスもファシズムだ』と考えれば、ナチスも含むようにファシズムの定義が作れます。『ナチスはファシズムと似ているけれど別物だ』と考えれば、別物とするようにファシズムの定義が必要になります。

で、学者としては何とか良い定義を見つけようと頑張った成果が第1版の本になったわけですが、その後、その定義は定義を作るために現実を一部過小評価したり捻じ曲げたりしてしまっているのではないか、という反省に立って、この第2版では『ファシズムは定義できない』というのが著者の主張です。

イタリア・ドイツときて第二次大戦を枢軸国として一緒に戦った日本も、イタリアのファシスト党・ドイツのナチスと並んでファシズムの国だ、としようとして、戦前の最後の10年間くらいの軍国主義日本をファシズム国家だと言う人も少なくありません(この本では日本のことはほとんど眼中にありません。イタリア・ドイツその他ヨーロッパ・アメリカ大陸の国くらいが考察の対象となっています。日本についてはこの本の後に借りた、山口定さんによる岩波現代文庫の『ファシズム』という本を参考にしています)。

で、第二次大戦まではイタリア・ドイツにならってファシズムを標榜する政治団体・政治運動がいくらでもあったのですが、第二次大戦でイタリア・ドイツが敗けてしまってから、自らファシズムやファシストを掲げる政治団体・政治運動は全くなくなってしまったようです。その代わりに自分達と対立する団体や運動のことをファシズムとかファシストとか言って非難する、そのような悪口言葉になってしまっているようです。

ですからファシズムやファシストの明確な定義はそっちのけで、『お前達はファシストだ』『何を言う、お前達こそファシズムの信者じゃないか』というような悪口の応酬の言葉になっているようです。

ここまで分かるともう大丈夫です。ファシズムとかファシストとかいう言葉は、少なくとも今ではほとんど具体的な意味のない、悪口言葉でしかないということです。

で、ファシズムについてしっかりした定義はできないにしてもいくつかの特徴づけはできるので、それについて紹介しましょう。それは

  • 暴力を否定しない。
  • 非合法的な活動を否定しない。
  • 自らの組織内に暴力組織を持っている。
  • 共産主義は明確に否定する。
  • インターナショナリズムに対立する考え方として、ナショナリズムの立場を取る。
  • 現実的で柔軟で原理主義的でなく、矛盾や整合性の取れないことはあまり気にしない。
  • で、これらの特徴のいくつかに反したとしても、現実的な目的のためであれば意に介さない。

というくらいのものです。

いずれにしてもファシズムに関して『定義はない』『定義することはできない』ということが明確になって、この本を読んだ価値は十分にあったなと思いました。要するに、ファシズムというのは強いて言うなら『単なる悪口だ』ということです。『おマエのカーチャン、デベソ』というのと同じような言葉だ、ということです。

ということで、こんな本に興味があったら読んでみて下さい。学者の本だけあって読みやすい本ではありませんが、ファシズムとファシズムに近い、あるいは似ている様々なヨーロッパおよびアメリカ大陸の各国の政治運動についての概要がまとまっています。

『リベラルのことはキライでもリベラリズムは嫌いにならないで下さい-井上達夫の法哲学入門』

2017年6月27日 火曜日

『リベラルのことはキライでもリベラリズムは嫌いにならないで下さい-井上達夫の法哲学入門』

プライムニュースの憲法問題の回に時々出てきて、憲法学者をけちょんけちょんにやっつける面白い人がいて、その人は自分は憲法学者じゃない、法哲学者だ、と言いながら憲法改正の話になると9条全部削除などという過激なことを言っているので、ちょっと読んでみようかと思って借りてみました。

この本の続編の『憲法の涙-リベラルのことは嫌いでもリベラリズムは嫌いにならないでください 2』という本も一緒に借りました。

最初の法哲学入門の方は、安保の話や憲法改正の話もありますが、中心となるのはこの井上さんの専門の法哲学の解説になっています。井上さん本人に書かせると時間がかかってとても読みにくい本になるということで、編集者が井上さんに質問をして、その答えを本にするという形式のものになっています。

この本を読んでびっくりしたのが、今どき本気になって『正義』などということを考えている人がいるんだということです。
井上さんによるとリベラリズムの本質は『正義』ということだ、ということです。すなわち、リベラリズムというのは啓蒙思想と寛容の精神がもとになっていて、その根っこにあるのが『正義』だ、ということで、正式に『正義論』という議論があるようです。
寛容、というのは、日本語の漢字を見ると、度量が大きい、とか何でも受け入れる、とかいうようなそんな意味になりますが、元々の意味は、宗教戦争で殺し合いをするのはやめよう、ということのようです。
ヨーロッパでは宗教改革でプロテスタントができて以降、宗教戦争でカトリックとプロテスタントが互いに殺しあう戦争が続き、大量の死人を出しているわけですが、宗教が違っても殺し合いはしないでお互いの宗教を容認しよう、というのが寛容、ということのようです。で、その殺し合いをしないための理論的枠組みが『正義』ということになるようです。

例の白熱教室のサンデル教授というのも井上さんと同じような領域を専門とする人のようで、だから『正義の話をしよう』なんてタイトルにもなるようです。井上さんはサンデルの白熱教室のやり方にはかなり批判的で、それでもアメリカでのやり方はサンデルとの議論の前に学生に十分な準備学習をさせるんですが、それを真似て日本でやっているのは準備もなしにいきなり議論を始めるようなもので、何の意味もない・・・というような話もあります。

で、続編の『憲法の涙』の方は、むしろ最近の安保法制の話や憲法改正の話が中心となっているので、面白く読めます。

この人の改憲論は憲法9条改正なとどいういい加減な話ではなく、憲法9条を全部削除して、日本が軍隊を持つかどうか、自衛隊はどこまでの範囲で認めるのか等は、憲法ではなく普通の法律のレベルで議論する方が良いという主張です。

この人の憲法学者批判は『護憲派の憲法学者が一番ひどいうそつきだ』というもので、タイトルの『憲法の涙』というのも、『護憲派の憲法学者の裏切りで憲法は泣いているぞ』という位の意味です。

法哲学というくらいで哲学的な精緻な(しちめんどくさい)議論を得意としている分、論理的思考力のない憲法学者が束になってかかっても太刀打ちできないのは明らかです。不覚にも相手になってしまった憲法学者は蛇に睨まれた蛙のようなもので、可哀想になる位です。

ということで、正議論に興味がある人は最初の『法哲学入門』の方を、安保や憲法改正に興味のある人は2冊目の『憲法の涙』の方を読んでみてはいかがでしょう。

ただし、『法哲学入門』の方は、著作でなく聞き書き、という形式にしたとはいえ、かなり読みにくい、歯ごたえのある本です。

『さらば財務省』 高橋洋一著

2017年6月27日 火曜日

加計学園の前川文書に関連してコメンテーターとしてこの高橋さんが出ていて、そのコメントが面白いので図書館で探したら、かなりたくさんの本があったので、借りてみました。

『さらば財務省-官僚すべてを敵にした男の告白』という本と、
『さらば財務省-政権交代を嗤う官僚たちとの決別』という本と両方借りられたので見てみると、中味は同じで単行本が文庫になる時にサブタイトルが変わったということのようです。

で、この本にあるこの人のキャリアが非常に面白いんですが、まずは東大の理学部数学科を卒業します。その後文部省の統計数理研究所に採用されて助手つきの個室の研究室をあてがわれ、将来はその研究所の教授になる予定だったものが、急に途中で博士号を持っている人が来るからとその話がなくなり、そんなこともあろうかと手を打ってあった東大の経済学部に学士入学し、その同じ学部仲間が公務員試験を受けるというので一緒に受けて合格し、財務省(当時は大蔵省)に入ったということです。

その当時のキャリア官僚として5年目には地方の税務署長になったけれど、暇だから金融工学の本を翻訳して出版した、なんて話もあります。

郵便貯金の利率の決め方とか大蔵省のALMとか、財投とか特殊法人改革とか、大蔵省でも他にほとんどいない理系出身の役人としていろんな事をやったようです。その後役所からプリンストン大学に派遣され、2年で帰る予定を勝手に3年に延ばして大蔵省の中での出世コースから完全にはずれ、竹中さん・小泉さんに協力して大蔵省(財務省)に逆らうような事を次々にし、最終的に小泉さんがやめ、竹中さんがやめて自分も役所をやめて、ということのようです。

郵政民営化の話や特別会計の埋蔵金の話も、この高橋さんが直接かかわった話のようで、このあたりの話も面白いです。

で、この人は理系で経済学もちゃんと分かっている人なので、やめてからいろんな本を出しているんですが、そのうちの一つに『たった一つの図で分かる図解経済学入門』という本があり、これも同時に借りることができたので読んでみました。

たった一つの図、というのは、例によって、需要曲線と供給曲線を描いて、その交わるところで価格が決まる、というあの図です。

『たった一つの図』といってもこの本には35個の図が付いていて、中にはいくつか違うものもあるんですが、そのほとんどはこの需要供給の図のバリエーションです。35個もの図を使って『たった一つの図』というのもちょっと無理があるなと思うのですが、本屋さんからすればこの方が売れやすいということかも知れません。

また極力この一つの図のバリエーションという形でいろんなことを説明しようとするため、かえって分かりにくい部分もあるんじゃないかと思います。

高橋さんは経済の話の9割はこの一つの図で分かると言っているんですが、多分そんなことはなく、一つの図で分かると思って読んだ人は却って分からないことになっているんではないかなと思います。

この人の本はまだ何冊も予約のままになっているので、それを読むのも楽しみです。

で、『たった一つの図』で経済が分かるとは思いませんので、おススメはしません。『たった一つの図』でどうやって経済が分かるんだろう、と興味のある人は読んでみてください。

『石油を読む(第3版)』 藤 和彦著

2017年6月2日 金曜日

この本は日経文庫で2005年に出版されたものを、今年の2月に10年ぶりに全面的に改訂したものだということです。

石油あるいは原油と天然ガスというのは、その流通と価格の変動が世界経済に大きな影響を与えるので、たとえば原油価格やOPECの会議など話題になることも多いにもかかわらず、何となく全体像がつかめないでもやもやしていたのですが、この本で一気に全体像がつかめました。

シェールオイル、ショールガスの位置づけとか、ロシアの原油・天然ガスの日本にとっての重要性、ロシアからウクライナへの天然ガスパイプラインを巡るウクライナとロシアとヨーロッパの関係とか、サウジアラビア・OPECの重要性(あるいは重要性の低下)とか、いろんな話がうまく整理されています。

原油の生産量というのは1日あたりの量で表し、だいたい1日あたり1億バレルだというのは分かりやすい話で、これを基準にすればそれぞれの地域の生産量・消費量の全体像がつかめそうです。

日本では原油は中東からタンカーで20日もかけて運んで来るのですが、その運賃は原油価格の2%でしかないので、原油価格の変動からすると殆ど無視できるとか、天然ガスは日本のようにLNGで運んでくるのはごく例外的なケースで、普通はパイプラインで運ばれていて、LNGはかなりコストがかかるけれどパイプラインは安く済むとか、原油にしろ天然ガスにしろ初期になかり高額の投資が必要になるけれど、一旦生産が開始され流通の設備が出来上がってしまうとランニングコストは非常に安くなるので、原油価格がかなり安くなっても生産は継続するとか、生産するまでに高いコストと長い時間がかかるので、原油価格が高くなったからといって生産量は急に増えないとか、仕組みが分かってくると原油価格はいわゆる需要と供給で値段が決まるという流通の経済学がなかなか成立せずに、高くなっても安くなっても生産量も消費量もあまり変わらず、高くなったら当分高くなり続ける、安くなったら当分安くなり続けるという性格のものだ、ということが良くわかります。

さらに実需による売買の何十倍もの投機による売買と、その先物取引の残の存在によって価格の変動(乱高下)が不可避だ、ということも良くわかります。

原油の埋蔵量がどのように計算されるか、全世界で大量に消費しているにもかかわらず、50年前にあと20年分と言われていた原油の埋蔵量が50年経ってあと50年分に増えるのは何故か、という仕組みも良くわかります。

世界的に経済が発展しつつあるにもかかわらず、原油の消費量はもしかするとピークを打って、今後は減少に転ずるかも知れないという話も新鮮でした。

この本も図書館の新しい本コーナーでみつけじっくり読んだのですが、読み終わって改めてこの本を買いました。今後書き込みをしながら、改めてじっくり読もうと思います。

ということで、このような話に興味のある人にお勧めです。

『長考力』 佐藤康光著

2017年6月2日 金曜日

この本も図書館の『新しく入った本』コーナーで見つけたものです。将棋の世界では羽生さんがあまりにも有名なんですが、この佐藤さんもいくつものタイトルを取ったりして、トップクラスの人のようです。

で、この人は棋士の中でも長考派とよばれ、『1秒に一億と3手読む』と形容される人のようです。

で、この手の本はその長考はどのようにしてやっているのか、どうすればできるのかとか、一般の読者にも参考になるのではないかとかいう観点で書かれることが多いのですが、この本はそんなことは一切お構いなしです。確かに長考してはいるけれど、それは良いことだということでも良くないことだということでもなく、『自分はきちんと突き詰めて考えるのが性に合っているからそうしている』と言ってしまっています。長考するにはどうするかとか、役に立つか、なんてことはお構いなしで、むしろ長考して失敗しているエピソードがいくつも出てきます。

一般の人の参考に、などということはまるで眼中になく、ただひたすら一冊全部将棋の話しかしていません。もちろん、時々サッカーの話・野球の話・ゴルフの話なども出てきますが、それは将棋の話を分かりやすくたとえ話にするためだけのことです。

将棋の話といっても、この本を読んで将棋が分かるわけでも強くなるわけでもありません。そんな話はお構いなしに『自分はこうやっている』という話だけしか出てきません。

プロの勝負は持ち時間があって、それを使い切ると一手60秒以内で指さないといけないというのが一般的で、その60秒を秒読みして50秒のあと1, 2, 3・・・と読み上げ、それが10になったら時間切れ負けということになります。とはいえ、いきなり『10』と読んで即反則負けというのは可哀想なので、実際は読み上げ係が多少手心を加えて、10になる前に指すことができるようにしているようです。長考派はすぐに時間を使ってしまいますから、すぐに秒読みになります。

この佐藤さんは対局が終わってから相手に抗議され(もちろん自分では全く気付いていない)、10ぎりぎり(あるいは少し超えて)指していると指摘され、それ以降は気をつけて『8』を読まれる前に指すようにしているとか、あわてて駒を落としてしまい、拾っていたら時間切れになるので、仕方なく指でマス目を指して『6八玉』などと叫んだこともある(このようなやり方はルールとして認められているということですが、むしろそんな所までルールが決まっているということの方がビックリですね)というエピソードも紹介しています。

将棋の駒の配置は飛車と角行を除けば左右対称になっていて、駒の動きも左右対称となっているので、最初から飛車と角行を入れ替えて置いて、そのあとの駒の動きも左右逆の動きで指していけば左右逆転の一局ができるのですが、たとえば居飛車の一局は左右逆転すれば見た目相振り飛車のように見えます。これで途中まで進んだ所で形勢判断すると、左右置き換えただけなので形勢が変わるはずもないのに、元の盤面では先手が良さそうに見えたのが左右逆転すると後手が良さそうに見えたりする、なんて話もあります。

こんなことを考えても多分何の役にも立ちそうもないんですが、面白いことを考えるものです。

いずれにしても、一般に人には何の役にも立ちそうもないことを四六時中考え続けていている人がいて、それを何の遠慮もなしで本にしてしまうそのすがすがしさ(無神経さ)が何とも不思議に面白い本です。

何の役にも立たない本を読んでみたい人にお勧めです。

『片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧』 片倉衷

2017年4月21日 金曜日

著者の片倉衷(カタクラ タダシ)というのは、2.26事件の時、陸軍大臣官邸に駆けつけ、反乱をやめさせようとして反乱軍のリーダーの一人の磯部浅一に拳銃で頭を打たれて病院に担ぎこまれた人です。

この人が昭和56年に出版した回想録がこの本ですが、この中に昭和8年~9年に作ったという3つの論文が納められています。
すなわち
 『筑水の片言』
 『瞑想余録』
 『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』
というものです。

『筑水の片言』は軍改革に向けての提言ですが、それが『瞑想余録』になると国の改革に向けての提言となり、 『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』では2.26事件のような叛乱が起きることを想定し、それを乗っ取る形でクーデターを起こし、日本を軍主導の国家に作り変えるという作戦計画になっています。

『筑水の片言』と『瞑想余録』は著者が自分の考えをまとめたものですが、それを元に周りの陸軍省あるいは参謀本部の青年将校達と勉強会を開き、その結果をまとめたものが『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』になっているということです。

勉強会の成果物ですから、これは参加した青年将校達にフィードバックされ、それはその青年将校達からそれぞれの上司の将校達にも報告され、結果的に陸軍省および参謀本部の殆どの将校達はこの内容を知っていたということです。

私は2.26事件というのは反乱軍の青年将校達によるクーデターを、真崎大将とその仲間達が乗っ取ろうとして失敗した事件だ、と思っていたのですが、この『片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧』の存在を知り、『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』を読むことにより、真崎大将達の乗っ取り計画は失敗して、その代わりにこの「要綱」の線でのもう一つのクーデター乗っ取りが計画され、こっちはまんまと成功したという事件だ、と思うようになりました。

真崎大将達による乗っ取りは、東京警備司令官の香椎中将が戒厳司令官になったところで成功したかに見えたのですが、戒厳司令部ができた時、東京警備司令部の人間はそのまま戒厳司令部に移り、司令官も東京警備司令官がそのまま戒厳司令官になった所までは良かったのですが、同時に司令部のスタッフが大幅に増員され、参謀本部その他の人間が兼務の形で戒厳司令部に入ってきたことにより、第一の乗っ取りは破綻し、第二の乗っ取りが始まったということです。

反乱を起こした青年将校は士官学校を出てそのまま各地の軍の任務に就いた将校ですが、その後陸軍大学に入学し、将校の中でもエリートコースを歩む者もいました。そのような人達は陸軍大学のしるし(その形から『天保銭』といわれました)を付けていたので『天保銭組』とよばれていました。士官学校を出て陸軍大学に行かなかった人達はその『天保銭』を付けていないので、『無天』組と呼ばれていました。

2.26事件の反乱を起こした将校達は、その無天組です。
天保銭組の青年将校達は陸軍大学を出て、成績の良い者はそのまま陸軍省や参謀本部に配属され、自分達はエリート中のエリートだと自負して、陸軍大臣でも参謀総長でも、あるいは天皇でも自分達の言いなりだ、というくらいの気持ちでいたようです。

軍には統帥権というものがあり、たとえ軍人とはいえ軍隊を勝手に動かすことはできません。『軍を動かすことができるのは天皇だけ』という建前で、その天皇の代理という位置付けで参謀本部だけが軍を動かす命令を出すことができることになっていました。ただしこれにはいくつかの例外があり、たとえば自分の部下が命令に違反したような時は、他の部下に命令してその命令に従わない部下を捕まえたりすることはOKです。また東京警備司令官は東京で何か事件があった時は、その警備のために東京近辺の軍を動かして警備あるいは制圧に当たることができ、それには参謀本部の了解は不要でした。

このような状況ですから、2.26事件の反乱に対し、それが反乱だと分かっていても他の軍隊は勝手に制圧に動き出すことはできません。動くことができるのは反乱軍の上官が部下の反乱を鎮圧するために他の部下を動かすか、東京警備司令官が命令を出すか、参謀本部が命令を出すか、ということになります。

2.26事件の時、反乱軍は陸軍省も参謀本部も制圧してしまっていたのですが、どういうわけか道一つ隔てた東京警備司令部については警戒するだけで制圧はせず、反乱軍の将校と警備司令部の将校は道端で話をしたりしています。反乱軍も東京警備司令部をそれほど警戒していなかったということでもあり、東京警備司令部も反乱軍を捕まえたり攻撃しようとしなかった、ということでもあります。

で、2月26日に『陸軍大臣告示』なる文章が作られます。これは陸軍大臣の名前で、反乱軍の将校達に『2.26事件の行動は正しい』とお墨付きを与えるものです。

これは事後の辻褄合わせの結果、2月26日の午後3時過ぎに作られ反乱軍の将校達をおとなしくさせる説得のために使われたということになっていますが、この文章が実は2月26日の午前10時過ぎに作られ、東京警備司令官が陸軍大臣の代わりに、と言って方々に配布しています。反乱軍の将校に見せるだけのものが全国の陸軍の部隊に配布され、海軍にも渡されています。これによって反乱軍の行動は陸軍大臣が正当化していることを広く軍全体に通知しているわけです。

反乱軍が御輿に担ごうとした真崎大将は、この時すでに陸軍の中では軍事参議官というお飾り的な地位に置かれており、他の真崎派の将軍達も実質的な権力を持っていなかった中、この東京警備司令部の香椎中将だけは実際に兵隊を動かす力を持っていて、この『陸軍大臣告示』を全国にばら撒いたり、その前に反乱軍の団体である第一師団や近衛師団に命令を出して反乱軍を勝手に鎮圧しないようにしたり、あるいは東京近辺の部隊に命令を出して東京に集めたりしています。それが反乱軍を制圧するためだったのか、反乱軍に加わらせるためだったのかは不明ですが、そんなわけで反乱軍としては戒厳令が敷かれて香椎中将がそのまま戒厳司令官になれば、もうクーデターは成功したも同然、という風に考えていたと思われます。

一方参謀本部の若手将校もこの片倉さんの計画に従って2.26事件のクーデターの乗っ取りをしようと思っていますから、戒厳令の発令は計画通りということになります。東京警備司令部は10人ちょっとの小さな組織ですが、戒厳司令部となるとそんな少人数ではどうにもならないので、他の部署から応援を求めて倍位の規模になっています。そしてその中に参謀本部の将校が何人も入っているわけです。

東京警備司令部では司令官に反対の意見を言う者がいても、司令官の意向で香椎中将の思うとおりにできたのですが、戒厳司令部に新たに加わった参謀本部から来た将校達は東京警備司令官であれ戒厳司令官であれ、中将であれ、そんなものはへとも思っていませんから、片倉さんのシナリオ通りにクーデター乗っ取りを着々と進めます。この時点で2.26事件の首謀者の将校達の敗北は決まってしまったわけです。

戒厳司令部は反乱軍の占拠しているすぐ目の前の三宅坂の東京警備司令部から、一夜にして皇居を挟んで反対側の九段下の軍人会館(3.11の地震で被害を受けて閉館になってしまった九段会館がこの当時はこの名前でよばれていました)に移されたわけですが、反乱軍側の将校達は自分達の陣地を離れて何度もその戒厳司令部に香椎さんを訪ねて行って、いろいろ相談しています。

しかしどうにもならず、2月29日にはほとんどの青年将校達はあきらめておとなしく逮捕されることになります。その後2.26事件専用の軍法会議で裁判が行われ、主だった者が死刑の判決を受け死んでいったわけです。

青年将校達の純粋な気持ちを踏みにじって無残にも殺してしまった、という言い方もできますが、多分そうではないんだろうと思います。
青年将校達は自分たちのクーデターが失敗するとは思わず、ほぼ確実に成功し、救国の英雄として称賛されながら満州に進軍するんだ、と思っていたんだと思います。失敗して国賊の汚名を着せられて処刑されることも覚悟のうえで決起した、ということではなさそうです。

青年将校達は自分達を『昭和維新の志士』だと思っていたはずです。ですから吉田松陰の『志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず』(もともとは孟子か何かの言葉のようです)という言葉を知っていたはずです。これは志がうまく行かずに野たれ死にし、死体がどぶに捨てられるということを常に覚悟している、というような意味です。

彼らは死刑になりましたが、死体がどぶに捨てられたわけではなく、彼らのクーデターは天保銭組の青年将校達に乗っ取られたとはいえ、その結果財閥や政治家や官僚を排除した軍主導の国家にするという彼らの目的は見事に達成され、日本は太平洋戦争に突っ込んで行き悲惨な敗戦を迎えるに至ったわけです。すなわち彼らが願った維新革命は、太平洋戦争の敗戦という形で見事に成功したわけです。

もって瞑すべしというべきでしょうか。

この片倉さん達のクーデター乗っ取り計画、どこまで詳細なものか見てみるのも一興かと思います。見開きでA4サイズの比較的小さな本ではありますが、この『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』だけで50頁もあります。

興味がある人にはお勧めです。

なおこの本、243頁の本ですが、その半分は上記3つの論文と片倉さんがいろんな人とやり取りした書簡集になっています。前半の回想録の部分、2.26事件に至る三月事件、十月事件、5.15事件、士官学校事件については触れていますが、2.26事件そのものについての直接のコメントはありません。

『粋な旋盤工』 小関智弘

2017年3月17日 金曜日

またまた小関さんの本ですが、この本にまとめられているのは小関さんがNC旋盤の勉強を始める以前のもので、まだNC旋盤など何するものだ、というようなスタンスなんですが、むしろ著者が高校を卒業して旋盤工になり、見習いとしてこき使われながら社会正義のために頑張っている姿が書かれています。

高校生のうちから(朝鮮戦争の前のころのことです)社会正義に目覚めた文学少年として反戦・反米運動に参加して、ビラ配りのために町工場に潜り込み、そこで働く職工を見て、少年客気のあまり自分も職工になろうときめてこの世界に飛び込み、60年安保では職場の仲間と零細企業の未組織の労働者としてデモに参加したり、職場で労働組合を作って待遇改善の闘争をしたり、労使の合意がなされる条件として、職場の問題児の著者だけが職場をクビにされたり、そのような中、当初の自ら職工となって中から革命を起こそうという考えが非現実的な話だと理解するようになり、本物の職人となろうとするあたりを、自分自身と周りの様々な職工たちの姿を描くことで表現しています。

これまで私が読んだ、様々な職人の世界に関する話とは違い、むしろ著者本人に焦点を当てた、プロレタリア文学から職人のドキュメントに至る過程が非常に面白い本です。

お勧めします。

『鉄を削る-町工場の技術』小関 智弘

2017年3月12日 日曜日

少し前に紹介した『機械加工の知識がやさしくわかる本』で参考図書として紹介されていた、小関智弘さんの『町工場巡礼の旅』と『町工場の磁界』を読み、あまりにも面白いので同じ著者の他の本を借りて読みました。

読んだのは、『春は鉄までが匂った』『ものつくりに生きる』『鉄を削る 町工場の技術』『町工場・スーパーなものづくり』という本です。まだ読めていないものも何冊もあります。

著者は高校を卒業して町工場で旋盤工になり、いくつもの工場を転々としながら旋盤工を続け、途中で従来からの旋盤だけでなく新しくできたNC制御の旋盤も使いこなすようになり、定年後も勤め先に頼まれて週に何回か工場に通って、旋盤・NC旋盤を使って鉄を削り続けていた人です。

その傍ら文筆活動をして何度も芥川賞・直木賞の候補となり、もうちょっとの所で受賞を逃した、ということです。

さらに各地の多数の町工場を訪ね、そのルポルタージュレポートを上にあげたいくつもの本にまとめています。

町工場のレポートといってもそれだけでは分量に不足する分を、自分の職人としての経験も話しています。

NC旋盤というのは、コンピュータ制御の旋盤でプログラムを組んで、それで自動運転させる旋盤ですが、多分今ではこんなやり方ではないと思いますが、小関さんが始めた頃はプログラムを紙テープに穿孔して、それを機械にかけて動かしていました。

で、『プログラムを組む』と言う所、小関さんは『紙テープを作る』と表現しています。

文学青年の旋盤工が四苦八苦しながら手探りで『紙テープ作り』に挑戦するくだりは、40年前私が手探りでコンピュータプログラミングを始めたころと良く似ていて、懐かしくなりました。

どの本を読んでも面白く、職人の世界の辛さと面白さを満喫させてくれます。

お勧めします。