‘本を読む楽しみ’ カテゴリーのアーカイブ

『新聞の嘘を見抜く』 徳山喜雄 -(3)

2018年5月18日 金曜日

この本を読みコメントを始めた時は、もう少しのんびり・じっくりコメントしようと思っていたのですが、その後事態の進展は想定以上のスピードで、もはやこれ以上のコメントは不要と思われるので、今回のコメントで終了とします。

その間新聞のファイクニュースはどんどん多くなり、また質的にもかなりひどくなり、従来のようにファイクニュースかどうか見分ける必要もなくなり、あからさまなファイクニュースあるいは願望ニュースを何の工夫もなく書き上げ、あとはそれをできるだけ広範囲にばらまくという戦略をメディアが採用することになったため、メディアのニュースは原則ファイクニュースだと考える所からスタートした方が手っ取り早いということになってしまいました。

もはやどのようにフェイクニュースをフェイクじゃなく見せるかなどという努力や工夫は消え去ってしまい、単に『大声で広範囲にばらまいて数の力で勝負』ということでは何の面白みもありません。

皮肉なことにこの本の最後の章のタイトルが『新聞はもう終わったメディアなのか』となっているんですが、たった半年で『なのか』が消え、『新聞はもう終わったメディア』になってしまったようです。

さてこのように終わってしまったメディアですが、いつの日かまた復活する日は来るのでしょうか。

ゆっくり気長に、その日の来るのを待ちたいと思います。

『ダ・ヴィンチ・コード』 ダン・ブラウン

2018年5月18日 金曜日

図書館のお勧めの本コーナーでこの本をみつけました。
何年か前大騒ぎになった本です。あまりの大騒ぎに私は本も映画も見ていません。

えらく分厚い本だなと思って手にとってみると『ビジュアル愛蔵版』とあり、本に出て来る美術品・建物・場所・シンボルその他を写真等でできるだけ全て挿入しているということで、600頁を超える単行本ですが、カラー写真がたくさん入っているので楽しそうで、読んでみようかと思いました。

非常に面白い本で、全体600頁のうち570頁までが、ある晩の夜10時から翌日の昼頃までにあてられています。その間主人公は殺人の犯人と疑われパリを逃げ回り、ロンドンに逃げ、ロンドンでも逃げ回りながら謎解きをします。

いくつかの殺人が行われるのですが、その直接の犯人は最初から姿を現しますが、その黒幕の本当の犯人は、本の真ん中くらいでようやく主人公の友人として主人公を助ける切り札の立場で登場し、それが実は本当の犯人だ、ということが分かるのが540頁、全体の9割が過ぎた所だというのもなかなかの構成です。

本の中味にはキリスト教にかかわる様々な異端・異説・伝説・秘密結社・修道会・十字軍・レオナルド・ダヴィンチ、ニュートンその他がぎっしり詰まっていて、キリスト教のそのような話に興味がある人にはたまらなく興味深く読めます。600ページの大冊がハラハラドキドキしながら一気に読めてしまい、久しぶりに読み終わった直後に2度読みしてしまいました。

極上のエンタテインメント・ノベルです。
まだ読んでいない人は読んでみてはいかがでしょう。

『広田弘毅』

2018年4月23日 月曜日

玄洋社について調べている中、急に広田弘毅についてきちんと読んでみようと思い、次の3冊を読みました。

『広田弘毅-「悲劇の宰相」の実像』 服部龍二(中公新書)
『黙してゆかむ-広田弘毅の生涯』 北川晃二(講談社)
『落日燃ゆ』 城山三郎(新潮社)

中公新書のものは小説ではなく政治学者による研究書、という位置づけなので、各種資料からの引用により広田弘毅の人物像を描こうとしています。
他の2冊は伝記小説で、特に『落日燃ゆ』は人気小説家によるベストセラーです。

『黙してゆかむ』と『落日燃ゆ』では広田弘毅は玄洋社員ではない、と書いてありますが、中公新書の方では根拠を示して広田弘毅の言葉を引用しながら、玄洋社員だったと言っています。

玄洋社というのは福岡の政治結社の一つで、超国家主義の団体だ、ということになっています。広田弘毅が玄洋社員だったかどうかというのは、広田弘毅が東京裁判で死刑になった一因が玄洋社員だったことにある、ということになっているので、北川さんや城山さん等は、広田は玄洋社員ではなかったけれど東京裁判では玄洋社員だったと誤認されて死刑になった、と言いたいのかな、と思います。

で、この3冊ですが、まず中公新書の方、客観的な事実にもとづいて書かれていますので、広田弘毅を取り巻く環境を知るには良く役に立ちます。特に中国やロシアの状況については役に立ちます。

ただし、広田弘毅が外務大臣になり総理大臣になり、また外務大臣になり、また元首相として政府にアドバイスした期間について、軍部に対抗できず、ずるずると引きずられるままだった優柔不断の政治家だった、という評価についてはちょっと違うんじゃないかなと思います。

この本の著者は私より20年近く若い人なので当時の状況が(特に戦前の陸軍がどのようなものであったのか)良く分かっていないのか、あるいは学者の立場で考えているので現実の政治家の立場が分かっていないのかな、と思います。

『黙してゆかむ』の著者は修猷館の広田の後輩にあたる人で、広田が総理大臣になった時に在校生として学校を挙げて、あるいは福岡県挙げてお祝いし、誇らしく思ったということですから、尊敬すべき郷里の大先輩の伝記を書いた、ということのようです。本は伝記小説の形になっていますが、伝記としては異例なほどその当時の政治情勢、軍事情勢(特に国内の政治、軍事的な情勢)について丁寧に説明されています。

『落日燃ゆ』はさすがにベストセラー作家による伝記小説ですから読みやすいのですが、広田弘毅を取り巻く状況等についてはあまり説明はなく、その分小説として楽しむことができます。

楽しい小説としてそのまま終わるのかなと思っていた所、最後の東京裁判の所以降については一番丁寧に書かれているようです。

これはこの本の『あと書き』の部分に書いてありますが、広田弘毅の遺族は基本的に広田弘毅に関する取材に協力しない、広田弘毅について語らない、というスタンスを取っていて、城山三郎も困っていてそれを作家仲間の大岡昇平に話した所、大岡昇平は広田弘毅の長男とは子供の頃から親友だから任せろと言ったということで、その結果遺族からかなり詳しい話を取材することが出来たんだろうと思います。

で、いずれにしても広田弘毅が玄洋社員であったかなかったかにはかかわらず、広田弘毅という人は玄洋社精神によって生き、玄洋社精神によって進退し、玄洋社精神によって死んでいった人なんだろうと思います。

玄洋社というのは幕末の筑前勤皇党の流れをくむ政治結社ですから、2.26事件の直後に陸軍がその先どうなるか分からない状況での大命降下に対して、近衛文麿のように逃げるという選択肢はなく総理大臣に就任し、また東京裁判においても罪を免れるよりむしろ天皇の代わりに処刑されることにより天皇を守ることを選択した、ということだと思います。

裁判でしゃべったかしゃべらなかったか、についても『落日燃ゆ』にあるように、取り調べの段階では検事や弁護士には何ごとも丁寧に説明したけれど、裁判の席上自己の弁護のためには無言で通した、ということだと思います。

総理大臣になる所でも、近衛文麿が逃げたので広田弘毅が受けて総理大臣になり、東京裁判でも近衛文麿が(捕まる直前に自殺して裁判を受けることから)逃げたので広田弘毅が裁判を受け、裁判をする側が文民を一人有罪にして死刑にする方針であることが分かると、自分がその一人になると決めて死刑になった、ということだと思います。

玄洋社というのは政治結社といってもリーダーの命令一下メンバーが一致して皆で何らかの行動をする、というものでなく、メンバーがそれぞれ独立して何かの行動をし、それに参加・協力したい他のメンバーがそれぞれの判断で参加する、という形のもので、このやり方は政治結社としては問題がありそうですが、その分個々のメンバーの行動の仕方という点ではなかなか興味深いものがあります。この広田弘毅という人の生きざまもその一つです。

ということで、なかなか面白かったので、紹介します。
出来ればこの3冊をこの順に読むといいと思います。

『イタリアの歴史を知るための50章』

2018年3月14日 水曜日

これは明石書店のエリアスタディーズのうちの1冊として、去年の12月に出たばかりの本です。例によって図書館の『新しく入った本』コーナーでみつけました。

イタリアの歴史は塩野七生さんの『ローマ人の物語』のあたりは楽しく読んだのですが、その後ローマ帝国が東に移って東西に分かれ、その後西ローマ帝国が滅亡して以降はいろんな国が乱立し良く分からなかったのですが、この本ですっきりしました。

中世の都市国家の話の所で『ポポロ』という言葉が出てきて、以前憲法学者の樋口陽一さんの本を読んだ時に『市民』と『人民』という言葉の使い分けをしていたのが何のことか分からなかったのが、ようやく分かりました。即ち大雑把に言うと、『市民』というのは都市の市民権を持ち、納税や兵役の義務を負う代わりに参政権その他の権利を持っている少数の人達。『人民』というのは、その都市に住んでいるだけで何の権利も義務もない一般庶民のことだと分かって、樋口さんの言っていたのが、憲法の基本的人権というのがその『市民』に関するものなのか、『人民』全員に関するものなのかという話なんだとようやく納得しました。日本では『市民』も『人民』も同じようなものですが、やはり中世の都市国家を経験してきているヨーロッパの国々では、この言葉の違いに敏感なんでしょうね。

イタリアは明治維新の頃、小さな国に分かれていたのがようやく統一されてイタリア王国になっているんですが、これもたまたまあれよあれよという話だった、ということです。その当時、元々はまずは北イタリアだけでも統一しようとしていた所、南の方もあっという間に統一できてしまい、間に挟まった教皇領もついでに統一してイタリア王国になったんだというあたりも面白い話でした。

第二次大戦で『日独伊が敗戦国』というのが日本では一般的な認識ですが、イタリアではイタリアは敗戦国ではなく戦勝国だ、と認識されているというのも初耳でした。

イタリアはムッソリーニのファシスト党の下、ドイツ・日本と手を組んで戦争をしてたのですが、その途中でイタリアの王様はムッソリーニを捕まえて閉じ込めていたのをヒトラーのナチスがそれを取り返して北イタリアに新しい国を作り、イタリア国内ではムッソリーニ対レジスタンスという戦争をやっていて、結局レジスタンス側が連合国軍(アメリカやイギリス)と一緒になってムッソリーニを倒した。だからイタリアは連合国側で、戦勝国だということになるようです。すなわち日本とドイツは連合国に敗れた、ムッソーリニのファシストはイタリア人のレジスタントに敗れた、というわけです。

そのムッソリーニのファシズムについても、ファッシとかファッショというのは暴力団とか警防団とかの『団』という意味の言葉で(ファッショの複数形がファッシだということです)、ムッソリーニのファシスト党というのはもともとイタリア戦闘ファッシ(戦闘団)という名前だったとか、そのファシスト党には地方の親分みたいな人もたくさんいて、それぞれの地方で労働組合運動に殴り込みをかけたりしていて、必ずしもムッソリーニにおとなしく従っていたわけではなく、ヒトラーのナチスとはまるで違うものだというのも面白かったです。

少し前に読んだ『ファシズム』に関する本ではまるでわからなかったのが、この『暴力団の団のことだ』という説明で一気にすっきりしました。

というわけで、かなり内容豊富で読むのは大変ですが、読みやすそうな所だけ目を通すというのでも楽しく読めると思います。私としては思いがけない収穫が盛りだくさんの本でした。

『新聞の嘘を見抜く』 徳山 喜雄 -(2)

2018年2月21日 水曜日

さて前回は『プロローグ』の所のコメントで終わってしまいましたが、今回はいよいよ本文に入ります。
第一章は『「ポスト真実」時代の新聞』というタイトルです。まずはpost-truthという言葉の説明から入ります。

2016年のオックスフォード大学の出版局によるWord of the Yearになったこの言葉の意味を
 『世論形成において客観的事実の説明よりも、感情に訴える力が影響する状況』(15頁)とか、
『世界は客観的な事実や真実が重視されない時代、換言すれば「自ら望んでいるストーリー」だけを読みたいという時代に踏み込んだかのようである。』(16ページ)と説明しています。

このような意味づけは確かに良く見かけるものですが、これもどちらかと言えばマスコミやジャーナリズムの世界で使われている説明だと思います。

私の考えではこの言葉は、『もはや新聞が報道する「真実」も専門家と称する人達が主張する「真実」も殆ど信用されなくなり、本当の「真実」を求めて他のメディア、他の人達の言うことに耳を傾ける人が多い』ということだろうと思います。

新聞人からすると『自分達が報道しているのが真実だ』というスタンスを変えるわけにはいかないので、新聞の報道する真実が信頼されなくなっていることを、読者が真実を求めなくなっている、とすり替えて説明しているもののようです。
まぁ長期間マスコミにいると、自らの存在を否定するような話を簡単には受け入れられないんでしょうが。

で、この言葉を軸に、イギリスのEU離脱の国民投票と、アメリカ大統領選のトランプ氏当選の報道についてコメントしています。

EU離脱の国民投票では、多分離脱反対の結果になるだろうと(欧米のメディアを含めて)誰でもが思っていたことも『「日本のメディア」に流れる空気はEU残留派の勝利であった』(17頁)などと、わざわざ「日本のメディア」と限定し、日本のメディアだけがダメだったかのように書いてあります。

そして結果として離脱賛成派の勝利について、『EU離脱報道には欠陥があり、世論をミスリードした』(18頁)と書いています。ここで著者お得意の新聞各紙読み比べをやっているんですが、『毎日新聞が「離脱だ」と言い切っているのは間違いだ。読売新聞が「英国の脱退方針が決まった」と書いてあるのは冷静で正確だ』(18頁)と書いてあるのにはあきれ果てますね。法的拘束力のない国民投票でもちろん離脱が決まったわけでもないですが、脱退方針が決まったわけでもないんですから、毎日新聞も読売新聞も同じようなものです。やはり朝日新聞に長くいたため論理的思考能力が欠けているんでしょうね。

次はアメリカ大統領選のトランプ勝利ですが、『当初は泡沫候補扱いでまともに相手にされていなかった不動産王のトランプ氏が共和党の大統領候補になり、その果てに大統領になってしまった。殆どの既存メディアはこれを予測できず、産経が言うようにまさに「敗北」した。換言すれば、嘘を報じてきたのである、ひどい誤報である。』(21頁)

『嘘』と言いながらすぐに『誤報』と言い換えて、嘘の印象をやわらげる、というのも一つのテクニックかも知れません。
で、トランプさんの選挙運動中のマスコミとのやりとりについて、『メキシコ不法移民を「麻薬密売人」「強姦犯」と決めつけ、国境に壁を築き、この建設費はメキシコに払わせるとするトランプ氏をメディアは厳しく批判したにも関わらず、その効果はなく、酷評した相手に逆手に取られ逆襲されることになった。批判した相手を結果として応援するような報道ならしない方が良いということになる。』(23頁)

この最後の文章、ここではからずも本音が出てしまいましたね。ネットの世界で良く言われる『報道しない自由』というものです。安倍さんに都合の良いこと、自民党にとって都合の良いことは無視して報道しない。安倍さんに不利なこと、自民党にとって不利なことは針小棒大に膨らませて大きな記事にする。日本では憲法で言論の自由が保証されていて、その中には嘘をつく自由も含まれると解釈されていますから、この『報道しない自由』も憲法で保証されているんでしょうか。これをこのようにあからさまにしてしまっては、報道の自殺のようなものです。新聞の報道は新聞社にとって都合のいいことのみの報道だ、と言っているようなものですから。
まさかこんなことを、これほど明確に書いてしまうとは、何ともはやビックリです。

ここでなぜか清沢洌が登場し、そのジャーナリズム批判が紹介されています。ここで著者が書いてあるのも何となくおかしな話なのですが、コメントは実際に清沢洌の書いたものを読んでからにしたいと思います。

いろんな人を引き合いに出して、自分の言いたいことはこんな人もこんな人も言っている、という言い方をするのは良くあるやり方ですが、ここでキッシンジャーが登場して、読売新聞のインタビューに答えて『(インターネットによって情報を記憶する必要がなくなった。)記憶しなければ人は考えなくなる。その結果知識を受容する能力が著しく損なわれ、何もかも感情に左右されるようになり、物事を近視眼的にしか見られなくなってしまった』(30頁)なんて文章が引用されていたりします。これは電子メディアと民主主義の関係を語ったという注がついていますが、著者がITやインターネットが嫌いだ、というだけのことのようです。

このキッシンジャーの言葉については、それじゃぁ紙や字がない方が良かった(紙や文字がない時代には、口承で覚えるしかなかったんですから)ということなのか、新聞などない方が良いと言いたいのか、とツッコミを入れたくなります。どうもこの本の著者は、気が付かないまま自己否定するのが好きなようです。

ということで、今回はこのへんまで。

『新聞の嘘を見抜く』 徳山 喜雄

2018年2月19日 月曜日

この本は新聞がフェイクニュースを量産し、新聞が信用されないようになっており、インターネットがマスコミに代わって様々なニュースを提供するようになっている状況を踏まえ、インターネットには新聞以上にフェイクニュースが溢れており、やはり新聞の方が信頼できるメディアだ、ただし新聞のニュースも正しく理解するためにはそれなりの新聞の読み方があるので、その新聞の読み方を説明し、インターネットに溢れる嘘に惑わされる事なく、また新聞にも登場するフェイクニュースもきちんと見極めることができるようにする為にはどうしたら良いか、というようなことを宣伝文句にする本です。

著者は長く朝日新聞に所属し、AERAにも所属していた人という人ですから、最初からこんな本を読むつもりはなかったのですが、先日かなり久しぶりにたまたま本を買うために本屋さんに行った所この本を見つけ、パラパラめくってみた所、この本の著者の意図とは全く違う視点で読んでみると面白いかも知れないなと思いました。

朝日新聞の記事など紙面で読むことは殆どありませんし、ネットで読むような時も日々様々なニュース記事に紛れて一過性の読み飛ばしになってしまいますが、このように印刷されて本になっているとじっくり読むことができますし、本に赤字で書き込みしてツッコミを入れることもできます。この本を材料に、朝日新聞流のフェイクニュースの作り方を分析してみようと思いました。

もちろんこんな読み方は著者の意図とはまるで違った話になってしまうんですが、本が印刷されて販売されてしまった以上、その本を買ってどう料理するかというのはこっちの勝手です。

ということで、買うつもりのなかったこの本を買って読んでみることにしました。

で、まずは『プロローグ』から順番に読んでいくんですが、その2ページ目(本の8ページ)に
『日本において現代の新聞の原型ができたのは明治初めで、150年ほどにわたってほぼ同様のビジネスモデルで貫かれてきた。この過程で出来上がった報道スタイルは作為あるいは不作為の嘘をつき、社会や読者を翻弄してきたという歴史もある。』

なんと、日本の新聞の歴史は嘘・フェイクニュースの歴史だ、と真正面から言っています。これには本当にびっくりしたんですが、この部分についてコメントしている記事は見たことがありません。本の前書きの部分なので、ちゃんと読んでいる人はあまりいないのかも知れません。

もしこの本の主張がこの通りだとすると、私の意図とは違ってしまうので困ったな、と思ったのですが、やはり本文に入ると、その内容は私の想定した通りのもので、インターネットにはファイクニュース・嘘が満ち溢れている、新聞の記事にも時として間違いやミス・誤報はあるけれど嘘をついているわけではない、インターネットの嘘に騙されずに本当の事を知りたければ新聞を読むしかない、という事が書いてあります。

これからじっくりとコメントしていきたいと思いますが、その前にこのプロローグの終りの所に、新聞の読み方に関して『私は複数の新聞を読み比べ、切り口の違い、使っているデータ(事実)の違い、解釈の違いなどを丹念にみていくことを薦めている』(本の10ページ)と言っています。

これはまぁある意味その通りだとは思うのですが、どうしてその対象を新聞に限定してしまうのか、複数の新聞だけでなく他のインターネットの記事も同様に読み比べる方がさらに良いのではないか、と思うのですが、著者は『インターネット=嘘』という前提に立っているので『インターネットの記事も』なんてことは思いもしないんでしょうね。その代わり、新聞の方では朝日・毎日・東京新聞もちゃんとした新聞として取り扱っているようです。

という所で、次からはいよいよ本文に入ります。

まともな本だと思って読むと何の意味もない本ですが、私のように読むつもりになるとかなり面白い本だと思います。そのような人におススメです。

『帳簿の世界史』 ジェイコブ・ソール

2018年2月1日 木曜日

先日、簿記・会計の本を二冊読んだ話をしました。

すると友人が、今、税理士さんの間で話題になっている本がある、と教えてくれたのがこの『帳簿の世界史」という本です。

良く見たら、本のタイトルが誤訳です。

元のタイトルは『The Reckoning – Financial Accountability and the Rise and Fall of Nations』というもので、直訳すれば
『(国の決算の)見積り -(国の)財政の説明責任と国々の盛衰』
というくらいの意味です。

本の中では『複式簿記は大切なもので、簡単ではないけれど、これをちゃんとする国は栄え、できない国は亡びる』というテーマを、いわゆる西洋流の世界史をからめて繰り返し繰り返し唱えています。

とはいえちゃんとした複式簿記の説明があるわけでもなく、具体的な帳簿の説明があるわけでもなく、簿記や会計に関する本だと思って読むとガッカリするかも知れません。元のタイトルにもあるように、国の財政状況を(複式簿記を使って)きちんと把握し、その内容を(国王や国民に対して)きちんと説明できるようにすることがいかに大事なのか、ということを、イタリア→スペイン→オランダ→フランス→イギリス→アメリカと、世界史(西洋史)の流れに沿って説明している本です。様々なトピックスが盛りだくさんに出てくるので、それなりに面白い本ではあります。

この本で、実はアメリカの植民地開発が文字通りベンチャービジネスであり、出資者に会計報告するためにアメリカでは植民の初期の頃から簿記についてはきちんと対応していた人が多かったという話がありましたが、この『ベンチャービジネス』という視点は面白かったです。

本の最後に付録として日本の事情について『帳簿の日本史』というタイトルで編集部の作った6ページばかりの小論が付いています。編集部がまとめているのですが、速水融・山口英男・由井常彦というそうそうたる3氏に協力してもらったということで、この部分はなかなか面白いものでした。律令制が始まった時代からの流れを概説し、江戸時代には日本にもちゃんと複式簿記のシステムがあり、そのため明治になって西洋流の複式簿記が入ってきたとき、それへの移行もあまり困難なく実施できたという話も入っています。

挿絵もかなり多く入っており、私にとっては世界最初のアクチュアリーといわれるオランダのヨハン・デ・ヴィットが、その兄と一緒に国民に私刑で殺され逆さ吊りにされている場面の絵(オランダ、アムステルダムの国立美術館蔵の『デ・ヴィット兄弟の私刑』という絵です)は初めて見るもので、興味深いものでした。

西洋史の流れを国の決算・債務の増減という立場からまとめ直した、といった本です。
なかなか面白い読み物です。

『会計の歴史探訪』 渡邉 泉

2018年1月18日 木曜日

前回の投稿からかなり時間がたってしまいました。その間、本を読まなかったわけでもないのですが、個人的な事情であれこれ忙しく、なかなか投稿するまでの余裕がありませんでした。それもほぼひと段落したので、ボチボチ投稿を再開します。

この渡邉泉という会計学者、会計史学者の先生の書いた「会計学の誕生-複式簿記が変えた世界」という本が評判で、何人かから勧められて読んでみようと思って図書館で予約を入れたのですが、評判の本なので、しばらく待たないと順番が回ってこないことが分かりました。

そのため同じ著者の他の本も借りることにして予約したのですが、こちらの方はすぐに借りることができ、その本が素晴らしかったので、今評判の本が大人気ですぐに借りることができなくて却ってラッキーだったということになります。

で、最初に読んだのが『会計の歴史探訪-過去から未来へのメッセージ』という本で
 1. 複式簿記の誕生
 2. 複式簿記の完成
 3. 損益計算に対する二つの考え方
 4. 世界最初の簿記書「スンマ」(1494)
 5. イタリアからオランダ、そしてイギリスへ
 6. 産業革命期のイギリスの簿記書
 7. 18-19世紀イギリスにおける新たな潮流
     ―複式簿記と単式簿記
 8. 簿記から会計へ
 9. 財務諸表の生成
 10.キャッシュフロー計算書の登場
 11.現代会計の落とし穴
 12.彷徨する現代会計
という章立てで、簿記・会計の800年の歴史をものの見事にまとめています。

商人間の貸し借りに関して、その都度公正証書を作るのも手間とコストがかかるので、その代わりに帳簿に取引の目的・内容等を記載し、その帳簿に十字架と神の名とアーメンを書き込んで、その記載内容が神の名にかけて真正だ、とした所から始まって

次にある期間の儲けを資産・負債の期初から期末への増加分として計算するの対して、その計算が正しいことを説明・証明するために帳簿の損益計算書・貸借対照表の記述を使用し、資産・負債から計算した利益が正しいことを明らかにした、という話。

その後大規模な会社(東インド会社とか鉄道会社とか鉄鋼会社とか)が増えて多数の株主に決算を説明する必要が出たり、膨大な固定資産を持つ会社が出てきたり、取扱う商品が数量でも種類の数でも膨大になって、商品勘定を仕入れ・売上げ・棚卸残の三つに分けなければならなくなったとか、いろいろな変化に合わせて簿記のシステムの発展のあとを解説してくれています。

で、最後の所で最近の会計の行き過ぎた時価主義会計の方向性について批判しています。

2冊目は『帳簿が語る歴史の真実-通説という名の誤り』という本で、
1. 損益計算制度の展開
  「口別損益計算から期間損益計算へ」の誤り
2. 収益・費用の認識規準
  「現金主義から発生主義へ」の誤り
3. 資産・負債の測定基準
  「取得原価から時価へ」の誤り
4. 決算締切法の展開
  「大陸式決算法から英米式決算法へ」の誤り
5. 複式簿記の展開
  「単式簿記から複式簿記へ」の誤り
6. 会計の第一義的な役割
   受託責任かそれとも情報提供か
終  現代会計が抱える問題

という章立てで
このそれぞれの内容は1冊目の本にも書いてあるんですが、簿記・会計の世界で通説となっている話が実は間違いだ、という点に焦点を当てて書いてあります。

最後の2つの章は、1冊目の本にも書いてありましたが、やはりこの先生は時価主義の会計、それも市場で取引されるようなものの値段を市場価格で評価するというのは良いのですが、市場で取引されないようなものの値段を、将来の収入の見込みを将来にわたる金利で割引いて評価するというのがまるで受け入れられないようです。

で、その市場で取引されるものを市場の売買価格で評価するというのと、市場で取引されないものを将来の収益の割引現在価値で評価するという二つを、まるで同じものであるかのように『時価』と表現し、それをさらに『公正価値』などと呼んでいることが我慢ならないということのようで、繰り返し主張しています。

これについて、『この取扱いは経済学なら良いけれど、会計学ではダメ』というような表現が最初のうちしてあって、経済学というのは何のことだろうと思っていたのですが、2冊目の半ば過ぎの所で『ファイナンス』と言い換えていたので、これは金融論あるいは金融取引であれば良いけれど、会計学あるいは会計実務としてはダメ、ということなんだなと分かりました。

この2冊を通じて、かなり重複繰り返しがありますが、実際の簿記の資料、また簿記・会計の教科書を山ほど読んだ上で、その一部を実例として紹介しながらの論述は面白いです。

単式簿記というのも日本で一般に言われる小遣い帳方式の単式簿記と、この本で説明されている、会計史の世界で使われる18-19世紀に発明された、複式簿記の簡略版としての単式簿記とは内容がまるで違うもので、この言葉がこのどちらの意味で使われるか気をつけなければいけないな、ということも分かりました。

簿記や会計の世界に興味がある人にはお勧めです。

『ファシズムとは何か』ケヴィン・パスモア

2017年7月6日 木曜日

ファシズムとかファシストとかいう言葉を時々聞くことがあります。この言葉の意味がいまいち良く分からないので、この本を借りてみました。

この本は2014年に第2版が出ているのですが、第1版が出たのは2002年のことで、この第1版はかなり優れたファシズムの定義を作ったことで評価の高いものだったようなんですが、10年経って著者自身が第1版の結論を完全に否定して第2版を出した、ということのようです。

ファシズムとかファシストとかいう言葉は政治団体あるいは政治運動について言う言葉ですが、その意味は必ずしも明確ではありません。どの団体あるいは運動かファシズムのものかを決めると、そのようなものの特徴としてファシズムの定義を導き出すことができます。逆にファシズムとは何かを決めると、一つの政治団体あるいは政治運動がファシズムのものかどうか、その定義に照らして判断することができます。

もともとイタリアのムッソリーニのファシスト党というのがファシズムを信奉するファシストの運動だ、というのは殆ど問題のない所ですが、その先、ドイツのナチス・ナチズムはどうなのか、その他の類似の団体・運動はどうなのか、ということになるとそう簡単ではありません。

イタリアのファシスト党とドイツのナチスはお互いがお互いの真似をしたり影響しあったりしていますが、はっきりした違いもあります。『ナチスもファシズムだ』と考えれば、ナチスも含むようにファシズムの定義が作れます。『ナチスはファシズムと似ているけれど別物だ』と考えれば、別物とするようにファシズムの定義が必要になります。

で、学者としては何とか良い定義を見つけようと頑張った成果が第1版の本になったわけですが、その後、その定義は定義を作るために現実を一部過小評価したり捻じ曲げたりしてしまっているのではないか、という反省に立って、この第2版では『ファシズムは定義できない』というのが著者の主張です。

イタリア・ドイツときて第二次大戦を枢軸国として一緒に戦った日本も、イタリアのファシスト党・ドイツのナチスと並んでファシズムの国だ、としようとして、戦前の最後の10年間くらいの軍国主義日本をファシズム国家だと言う人も少なくありません(この本では日本のことはほとんど眼中にありません。イタリア・ドイツその他ヨーロッパ・アメリカ大陸の国くらいが考察の対象となっています。日本についてはこの本の後に借りた、山口定さんによる岩波現代文庫の『ファシズム』という本を参考にしています)。

で、第二次大戦まではイタリア・ドイツにならってファシズムを標榜する政治団体・政治運動がいくらでもあったのですが、第二次大戦でイタリア・ドイツが敗けてしまってから、自らファシズムやファシストを掲げる政治団体・政治運動は全くなくなってしまったようです。その代わりに自分達と対立する団体や運動のことをファシズムとかファシストとか言って非難する、そのような悪口言葉になってしまっているようです。

ですからファシズムやファシストの明確な定義はそっちのけで、『お前達はファシストだ』『何を言う、お前達こそファシズムの信者じゃないか』というような悪口の応酬の言葉になっているようです。

ここまで分かるともう大丈夫です。ファシズムとかファシストとかいう言葉は、少なくとも今ではほとんど具体的な意味のない、悪口言葉でしかないということです。

で、ファシズムについてしっかりした定義はできないにしてもいくつかの特徴づけはできるので、それについて紹介しましょう。それは

  • 暴力を否定しない。
  • 非合法的な活動を否定しない。
  • 自らの組織内に暴力組織を持っている。
  • 共産主義は明確に否定する。
  • インターナショナリズムに対立する考え方として、ナショナリズムの立場を取る。
  • 現実的で柔軟で原理主義的でなく、矛盾や整合性の取れないことはあまり気にしない。
  • で、これらの特徴のいくつかに反したとしても、現実的な目的のためであれば意に介さない。

というくらいのものです。

いずれにしてもファシズムに関して『定義はない』『定義することはできない』ということが明確になって、この本を読んだ価値は十分にあったなと思いました。要するに、ファシズムというのは強いて言うなら『単なる悪口だ』ということです。『おマエのカーチャン、デベソ』というのと同じような言葉だ、ということです。

ということで、こんな本に興味があったら読んでみて下さい。学者の本だけあって読みやすい本ではありませんが、ファシズムとファシズムに近い、あるいは似ている様々なヨーロッパおよびアメリカ大陸の各国の政治運動についての概要がまとまっています。

『リベラルのことはキライでもリベラリズムは嫌いにならないで下さい-井上達夫の法哲学入門』

2017年6月27日 火曜日

『リベラルのことはキライでもリベラリズムは嫌いにならないで下さい-井上達夫の法哲学入門』

プライムニュースの憲法問題の回に時々出てきて、憲法学者をけちょんけちょんにやっつける面白い人がいて、その人は自分は憲法学者じゃない、法哲学者だ、と言いながら憲法改正の話になると9条全部削除などという過激なことを言っているので、ちょっと読んでみようかと思って借りてみました。

この本の続編の『憲法の涙-リベラルのことは嫌いでもリベラリズムは嫌いにならないでください 2』という本も一緒に借りました。

最初の法哲学入門の方は、安保の話や憲法改正の話もありますが、中心となるのはこの井上さんの専門の法哲学の解説になっています。井上さん本人に書かせると時間がかかってとても読みにくい本になるということで、編集者が井上さんに質問をして、その答えを本にするという形式のものになっています。

この本を読んでびっくりしたのが、今どき本気になって『正義』などということを考えている人がいるんだということです。
井上さんによるとリベラリズムの本質は『正義』ということだ、ということです。すなわち、リベラリズムというのは啓蒙思想と寛容の精神がもとになっていて、その根っこにあるのが『正義』だ、ということで、正式に『正義論』という議論があるようです。
寛容、というのは、日本語の漢字を見ると、度量が大きい、とか何でも受け入れる、とかいうようなそんな意味になりますが、元々の意味は、宗教戦争で殺し合いをするのはやめよう、ということのようです。
ヨーロッパでは宗教改革でプロテスタントができて以降、宗教戦争でカトリックとプロテスタントが互いに殺しあう戦争が続き、大量の死人を出しているわけですが、宗教が違っても殺し合いはしないでお互いの宗教を容認しよう、というのが寛容、ということのようです。で、その殺し合いをしないための理論的枠組みが『正義』ということになるようです。

例の白熱教室のサンデル教授というのも井上さんと同じような領域を専門とする人のようで、だから『正義の話をしよう』なんてタイトルにもなるようです。井上さんはサンデルの白熱教室のやり方にはかなり批判的で、それでもアメリカでのやり方はサンデルとの議論の前に学生に十分な準備学習をさせるんですが、それを真似て日本でやっているのは準備もなしにいきなり議論を始めるようなもので、何の意味もない・・・というような話もあります。

で、続編の『憲法の涙』の方は、むしろ最近の安保法制の話や憲法改正の話が中心となっているので、面白く読めます。

この人の改憲論は憲法9条改正なとどいういい加減な話ではなく、憲法9条を全部削除して、日本が軍隊を持つかどうか、自衛隊はどこまでの範囲で認めるのか等は、憲法ではなく普通の法律のレベルで議論する方が良いという主張です。

この人の憲法学者批判は『護憲派の憲法学者が一番ひどいうそつきだ』というもので、タイトルの『憲法の涙』というのも、『護憲派の憲法学者の裏切りで憲法は泣いているぞ』という位の意味です。

法哲学というくらいで哲学的な精緻な(しちめんどくさい)議論を得意としている分、論理的思考力のない憲法学者が束になってかかっても太刀打ちできないのは明らかです。不覚にも相手になってしまった憲法学者は蛇に睨まれた蛙のようなもので、可哀想になる位です。

ということで、正議論に興味がある人は最初の『法哲学入門』の方を、安保や憲法改正に興味のある人は2冊目の『憲法の涙』の方を読んでみてはいかがでしょう。

ただし、『法哲学入門』の方は、著作でなく聞き書き、という形式にしたとはいえ、かなり読みにくい、歯ごたえのある本です。