Archive for 2月, 2015

『保険会社のERMに関するブログを始めました。』

金曜日, 2月 27th, 2015

このサイトの『練習帳』掲示板に、久々に投稿がありました。

http://acalax.info/bbs/wforum.cgi?no=3608&reno=no&oya=3608&mode=msg_view&page=0

内容は、
『保険会社のERMに関するブログを始めました。ご意見賜わることができれば幸いです。』
というもので、
http://blogs.yahoo.co.jp/erm_insurance

というリンクが張ってあります。
erm_insuranceという人の投稿のようです。

『ERMの実務者であれば誰もが酒の席で語らうような悩みや疑問への回答に踏み込むようなブログにしていきたいと思っています。』
というコメントで始まっています。

なかなか面白い問題提起かもしれません。
保険会社のERMについて、現実的に、実務的に考えるためのヒントあるいはきっかけになるかもしれません。
興味がある人は見てみてください。
また、よかったらコメントしてください。

『一般理論』 再読-その5

水曜日, 2月 25th, 2015

この二つの公準、面白いので、①原文の英文、②私が読んでいる間宮さんの訳、③宇沢さんの参考書の訳、④宮崎・伊東さんの参考書の訳、⑤読みやすいと評判の、山形さんの訳を並べてみます。

<第一の公準>(需要曲線の作り方)

  1. The wage is equal to the marginal product of labour.
  2. 賃金は労働の限界生産物に等しい。
  3. 労働雇用に対する需要は、労働の限界実質生産額が実質賃金に等しい水準に決まってくる。
  4. 賃金は労働の限界生産物に等しい。
  5. 賃金は労働の限界生産に等しい。

<第二の公準>(供給曲線の作り方)

  1. The utility of the wage when a given volume of labour is employed is equal to the marginal disutility of that amount of employment.
  2. 労働雇用量が与えられた時、その賃金の効用はその雇用量の限界不効用に等しい。
  3. 労働の雇用に伴う限界非効用と実質賃金とが等しくなるような水準に、労働の供給が決まってくる。
  4. 一定の労働量が雇用されている場合、賃金の効用はその雇用量の負の限界効用に等しい。
  5. ある量の労働が雇用された時の賃金の効用は、その量の雇用による限界的な負の効用と等しい。

どうでしょう。かなり違いますね。
間宮さんの訳は一番原文に近い忠実な訳になっています。

宇沢さんの訳は、かなり自由に足したり引いたりして書いているような気がします。
第一の公準では勝手に『実質』という言葉を入れてしまったり、第二の公準では『労働雇用量が与えられた時』『when a given volume of labour is employed』の部分を削ったりしています。

宮崎さん・伊東さんの訳は間宮さんの訳に近い忠実な訳です。

読みやすいと評判の山形さんの訳は、何とかして間宮さんの訳と違うものにしようとしたのか、かえってわかりにくい訳です。

第一の公準では他の訳が『限界生産物』とか『限界生産額』とか言っているのを、『限界生産』と言うというのは、これでは意味不明です。ここでは生産物の価値のことを言っているのに、『生産』だけでは意味が取れません。

第二の公準の方は、『限界効用』とか『限界不効用』とか言うものを勝手に『限界的な』という言葉に直してしまっています。限界○○というのは、経済学では決まりきった言葉使いで、これを『限界的な』などと言い換えると、まるで意味が分からなくなってしまいます。

一般理論を読み始める時、山形さんの訳を選ばずに間宮さんの訳を選んで、正解だったなと思います。

で、この、どちらかといえば原文に忠実に訳していた宮崎さん・伊東さんの本なんですが、何と驚いたことに次にやっているのは、この二つの公準の証明です。

『公準』というのは数学の言葉で、それ自体明らかなので証明することはできず、それを使っていろいろな定理などを証明するものです。それを証明する、と言うんですから、何を考えているんだろうと思ってしまうんですが、次にその証明の所を見ると、最初に前提となる仮定が列挙してあります。これもまるで順序が逆です。

証明するというのは、最初に『これこれの条件がある時にこれこれが成立する』ということを証明するんであって、『これこれが成立するということを証明するために、そのための条件を列挙する』なんてことはあり得ません。

それを宮崎さん・伊東さんの本は大まじめにそんなことをしているんですが、しかし宮崎さん・伊東さんがこのような論法を取った理由も読んでいるとわかります。ここで列挙している仮定を使っていくつもの数式を立て、その数式を使ってその公準を証明する(というより数式に置き換える)ということをしようとしているようです。

数学や数式があまり得意でない人にとっては、このようにして微分方程式まで出されてしまうと、もうそれだけで何にも言えなくなってしまうんでしょうが、数学や数式に抵抗のない人にとっては言葉で言えばすんなりとわかる話を、わざわざこんな大仰な仮定なり数式なりを動員するというのは、何とも大げさな話だなあと思います。

さらにこの宮崎さん・伊東さんの本も宇沢さんの本も、労働の需要曲線・供給曲線を書くとき、横軸の労働の量を『時間』単位に書いています。ケインズは『一般理論』では労働の量については一貫して『人』を単位にしています。すなわち、何人働くかということであって、延べ何時間働くかではない、ということです。

何人働くか、という見方をすれば失業している人が何人かという話になるのですが、何時間という話になると、たとえば1日7時間労働で失業率が20%だったら、1日5.6(7×0.8)時間労働にすれば失業率はゼロになるじゃないか、などというまたまた非現実的なわけの分からない話になってしまいます(とはいえ、ワークシェアリングといって、そのような政策もあるにはあるのですが)。

そんなこんなで参考書として選んだ宇沢さんの本も宮崎さん・伊東さんの本も、ケインズの一般理論のテキストはそっちのけで、かなり好き勝手なことを書いています。

ケインズの本に何が書いてあるのかの参考書としてこれらの本を選んだのですが、どうやらケインズの本に書いてないことを知るのに役立つ参考書のようです。

でもこれらの本が、『高名な経済学者による標準的な解説書』だということになっているんですから、ケインズの『一般理論』が一般にどのように説明されているかを知るには役に立ちそうです。

『一般理論 第二章』の話、もうちょっと続きます。

『一般理論』 再読-その4

金曜日, 2月 20th, 2015

さていよいよ『一般理論』です。

まずはじめの『序文』の所には、この本の読者として想定しているのは経済学者だ、と宣言しています。古典派の経済学者に対して、『これから古典派の経済学は間違いだということを説明しますよ』と宣言しているわけです。

次の『第一章 一般理論』の所では一般理論の『一般』という言葉を使ったわけを説明しています。すなわち古典派の経済学は一般的には現実の世界では成立しないので、その代わりに現実の世界で一般的に成立する経済学をこれから説明します、と宣言します。

さらに、古典派の経済学は非現実的なものなので、それを現実に適用すると悲惨なことになりますよと言って、古典派の経済学者を挑発しています。

それでいよいよ『第二章 古典派の経済学の公準』という所から具体的な議論が始まります。

ケインズの経済学の基本的なテーマの一つは、大恐慌のあとの大量失業の問題ですから、これを踏まえ、この章では労働の需要と供給について古典派はどのように考えているのか、その考えはどのように間違っているのか、という議論をします。これは第三章以下でケインズ自身の労働の需要の理論をする前置きとなっています。

『失業』といっても自発的失業、すなわち『仕事口はあるんだけれど仕事したくない』というような失業は対象とはしません。自分で勝手に失業してるんだから、というような意味です。で、問題にするのは『非自発的失業』、すなわち働きたいのに仕事口がない、という失業がどうして起こるのか、という問題です。

1929年の大恐慌で世界的に失業者が溢れました。これは誰の目にも明らかだったんですが、古典派はこれをどう見たかというと、『労働』というのも他の普通の商品と同じく売り買いされるものだと考え、ここでも需要・供給の法則が成り立っていると考えると、自動的に値段(この場合は労賃)と、売買される数量(ここでは雇用される労働者数)が決まり、そこでは需要と供給が一致しているんだから、失業(すなわち供給過剰・需要不足)は発生するはずがない。にもかかわらず失業者がいるということはマーケットが間違っている、と考えるわけです。

労働の需要曲線と供給曲線を書けば、その交わった所で値段(労賃)が決まり、需要と供給がマッチする。需要不足が発生するというのは、値段が高止まりしていて本来的に下がるはずなのに下がらない、誰かが下がるのに抵抗しているからだということで、労働者が賃下げに反対して抵抗しているから賃金が下がらず、そのため需要不足で失業者が発生してしまうんだ、という理屈です。

この理屈にケインズは反論するんですが、その前に古典派の経済学による労働の需要曲線・供給曲線がどのように作られるかを説明しています。この需要曲線・供給曲線の作り方のことを、ケインズは『公準』と呼んでいるんですが、それは次のようなものです。

<第一の公準>(需要曲線の作り方)
賃金は労働の限界生産物に等しい。

<第二の公準>(供給曲線の作り方)
労働雇用量が与えられた時、その賃金の効用はその雇用量の限界不効用に等しい。

まず第一の公準は需要の方ですから、労働の買い手、すなわち『雇い主がどのように考えて労働を買う(労働者を雇う)か』ということです。

労賃がwの時、企業がN人雇うというのは、N人までは雇う人数が多ければ多いほど儲かるけれど、N+1人目を雇うとかえって儲けが減ってしまうということです。N+1人目を雇うと、労賃が1人分wだけ増えます。N+1人目を雇うことによって生産量がΔqだけ増えて、売り上げがp・Δqだけ増えるとします。その生産のために労賃以外に一個あたりcだけ費用が増えるとすると、儲けの増え方はp・Δq-c・Δq-wとなります。

これがプラスのうちはN人雇うよりN+1人雇う方が儲かるので、Nは増やす方が良いし、これがマイナスになるとNは増やさない方が良い。すなわちそれぞれのwに対してp・Δq-c・Δq=wとなる所、すなわち(p-c)・Δq=wとなる所のNをつないでできるのが、需要曲線になるということです。

この(p-c)・Δqというのは、N+1人目を雇った時の生産量の増加分Δqに対する、(労賃を除いた)儲けの増分です。これを経済学では労働の限界生産物、すなわち労働者を一人増やした時の生産高(売上から費用分のcを引いた分)の増加分だ、というように表現します。そこでw=(p-c)・Δqを言葉で言うと、『労賃は労働の限界生産物に等しい』ということになるわけです。

次に第二の公準は供給曲線ですから、労働の売り手すなわち『労働者がどのように考えて雇われるか』の問題になります。

労働者がN人働いていて、さらにもう一人N+1人目が働くかどうは、そのN+1人目の人にとって、貰う賃金の効用(満足感)が働くことによるマイナスの効用、すなわち『疲れる』とか『時間が自由にならない』とかの不満感を上回るかどうかで決まるということです。

ここで労働者は皆同じだけの、たとえば週5日・1日7時間働くといった、一定の期間(週)あたり一定の時間(35時間)働くことを前提としています。

労賃wが決まった時、その労賃で労働者が働くかどうかは、それぞれの労働者ごとに違います。それぞれの労賃wごとに、それぞれの人ごとに労賃の効用(満足感)と働くことによる不効用(不満感)を比較し、『働く』という結論の出る人数を数えたものが労働の供給曲線となるという仕組みです。

ここで労賃がwの時、N人目までは労賃の効用が労働の不効用を上回っているけれど、N+1人目を雇った時の、雇われた人全体の労働の不効用の合計の増加分、すなわちN+1人目の人の労働の不効用が賃金と等しくなるということです。一人分の労働者の限界不効用というのを、一人分の労働の限界不効用と言っています。

これで労働の需要曲線・供給曲線ができたので、この曲線の交点を求め、その交わった所の労賃と労働者数で実際に取引される(即ち労働者の雇用が行われる)ということになります。

ケインズによればこれが古典派が考える労働者の雇用の決まり方だ、ということです。

この第二章の話、もう少し続きます。

言論の自由と信教(信仰)の自由

金曜日, 2月 20th, 2015

フランスのシャルリー・エブドという風刺画の雑誌社がテロリストの攻撃を受け10数人が殺されてから、『言論の自由を守れ』というキャンペーンがいろんな所で行われています。

しかしこれは実はすり替えであって、問題となっているのは『言論の自由』ではなく『信教の自由』あるいは『信仰の自由』の問題ではないかと思います。

シャルリー・エブドはイスラム教の預言者マホメッドをバカにする風刺画を描いて、それを出版した、それに対してイスラム教徒は、最高・最後の預言者を冒涜するものだとして怒った、その延長線上でテロリストがシャルリー・エブドを襲い、10数人を殺した、というのが事件のあらましです。

これに対して、風刺画を描いて発表するということは言論の自由に関することであり、その雑誌社を襲って人を殺すというのは言論の自由を侵すことだ、というのが一般に行われている説明です。

このテロが行われたのはフランスで、フランス革命の国です。フランス革命というのは絶対王政を倒して民主政(共和制)にする革命だったのですが、実はキリスト教の支配体制を倒す、反キリスト教の革命でもあって、一時はキリスト教を否定して人工的に神様を作って山車を出してお祭りをした、という話もあります。

その後フランスは帝政になったり王政に戻ったりまた革命を起こして共和制になったりと色々変わっていますが、共和制(今も何回目かの共和制です)である時はフランス革命を引き継いでキリスト教を否定し(明確には言わないものの)、無神論を国の政治の方針としています。

『無神論』というのは日本では『特に宗教に入ってないよ』とか『神も仏もあるものか』とか、『別にどんな神様でも良いんじゃね』とかの感覚で無宗教と混同されることも多いのですが、本来的にはまるで違うものです。

すなわち(キリスト教社会の中)の無神論というのは、むしろ積極的に神を否定するもので、とはいえ存在しない神を否定してもしようがないので、存在しない神を信仰している人に対して、その人が信仰している神は存在しないんだということを分からせて目を覚まさせてあげることを目的としている宗教です。

ですからいろんな神様の神殿を壊したり・焼き払ったり、神様の像をたたき壊したり・教典を破ったり・焼いたりすることが、無神論では正しい宗教活動ということになります。

ヨーロッパのキリスト教国は、キリスト教にはひどい目にあっています。異端だといって迫害したり、新教と旧教に分かれて国民同士が殺し合ったりしたりして、国民の1/3とか1/2とかを殺したりという経験をしています。ドイツなんかは新教・旧教の戦いのために外国の軍隊まで乗り込んできて国土が荒らされ国民が殺されたという経験をしています。

そのため殺し合いが終わった後は、一応『もう殺し合いはやめよう』という合意ができています。

宗教が違う相手の宗教を認めることはできなくても、そのために『相手の宗教を否定して相手の宗教の信者に改宗を迫ったり殺したり、なんてことはやめて、自分の宗教を信じ、それを実践していくだけにしよう』という合意ができています。

これでほとんどの宗教はなんとか収まりがつくんですが、収まりがつかないのが『無神論』という過激な宗教です。この宗教の場合、宗教活動というのは神を殺すことですから、神を信じている他の宗教の信者の所へ行って、その神を壊すことだけが正しい宗教の実践です。それをしないということは正しい宗教活動をしていない、ということになってしまいます。

で、フランスは無神論の国で、政教分離の建前からいろんな宗教は認めてはいるんですが、特定の宗教を優遇したり差別したりはしません。そのため無神論という宗教も同様に認めているわけです。

で、認められている無神論の信者達は、その教義に従って他の宗教の神を殺そうとするのですが、教会やモスクやシナゴーグを焼き打ちしたりすると、これは宗教活動ではなく犯罪だ、ということになってしまいます。

そのためその代わりに、神や教祖や信徒を誹謗あるいは冒涜するような行為をするわけです。それを文書や画像等で行えば、それは『他の宗教に対する誹謗中傷だ、冒涜だ』という批判に対して『表現の自由だ』ということで正当化できるからです。

キリスト教徒が多い社会では、さすがにフランスであっても正面きって無神論者を名乗るのは危険なことです。それは無政府主義者を名乗るようなもので、社会的に危険人物と見なされてしまいます。しかし、風刺画を描いているだけだ、ということであれば、まだ何とか受け入れてもらえるようです。それに反対する人は風刺画のユーモアを解さない朴念仁だ、というわけです。

このようにして『表現の自由』を隠れ蓑に無神論の『信仰の自由』を実践しているのがシャルリー・エブドという雑誌社です。

そういうわけで、今回のシャルリー・エブドのテロは表現の自由の問題というより、無神論とイスラム教の宗教戦争と捉える方が正しいようです。

フランスは政治的には無神論を奉じているわけですから、当然シャルリー・エブドの側に立ちますが、それを正面からそのように言うと、他の国は基本的に無神論には警戒感・嫌悪感を持っていますから、他の国を味方に付けることができなくなります。で、信仰の自由の代わりに表現の自由を持ち出して来るわけです。

他の国も宗教問題となったらできるだけ触らぬ神に祟りなし・・ということになるのですが、表現の自由と言われれば、フランス政府の仲間になってテロリストに抗議するデモに参加することができる、というわけです。

もちろん欧米の人は無神論がいかに危険なものかは分かっていますから、表現の自由なんて言葉に騙されないで、これは無神論の話だとわかっている人も多いと思いますが、日本人はどちらかといえば宗教問題にはあまり感度が良くないし、特に無神論については良くわかってない人も多い、と思います。

その意味で今回の事件が一体何だったのか、もう一度良く考えてみることが必要ではないかと思います。すなわち、無神論の信教の自由(信仰の自由)は、どこまで許されるのか、ということです。

「一般理論」 再読-その3

金曜日, 2月 13th, 2015

前回需要曲線と供給曲線の話をした時、供給曲線の決め方として、もう一個売るとかえって儲けが減ってしまうギリギリの数、という話をしました。需要曲線の方はもう一個余分に買うと、買った満足感よりお金を多く使ってしまった不満足感の方が大きくなってしまうギリギリの数、という話です。

このギリギリの基準となる『儲け』とか『満足感』というのを、経済学では『効用』(Utility)と言います。企業の場合は儲けることだけが目的だということになっているので、効用=儲けとなります。

消費者の場合は、お金を使って何かを買って、それで儲かったということではないので、何かを買った満足感と、お金を使った不満足感の差し引き合計の満足感が『効用』です。

で、古典派の経済学では企業も消費者も労働者も、全ての参加者が極大の効用を目指すということになっています。極大というのはもっともっと・・・の行き着く先ということです。

現実的には誰でももっと儲けたい、もっと満足したいと考えるのは普通ですが、もっともっと・・・のトコトンの儲け、トコトンの満足感を求めるというのはあまりありません。適当な所で「この位儲ければ良いや」とか、「この位の満足感で良いや」ということになります。もちろんそうは言っても、その次には更にもっとということになるので最終的にはもっともっともっと・・・ということになるのですが、とはいえ一度にもっともっともっと・・・のトコトンの所までは求めないものです。

古典派の経済学は、最初から全員がその「トコトンのもっともっともっと」を求めてそれを実行に移すという所で、まるで違ってきます。

これがわかった所で、需要・供給の法則の仕組みをもう少し詳しく考えておきましょう。これは今後ケインズの一般理論を理解するのに非常に役に立ちます。

需要・供給の法則の説明図

普通、需要・供給の法則の図は、上の図のように書かれています。

たとえば価格がp1だとすると、買い手はd1までは買えば買うだけ満足感が高くなり、売り手はs1まで売れば売るだけ儲けが大きくなります。結果としてd1までは売り買いが成立するのですが、それ以上は買い手が絶対に買わないので売り手も売ることができない、すなわち供給過剰・需要不足という状況になります。
価格がp2だとすると、買い手はd2までは買えば買うだけ満足感が高くなり、売り手はs2までは売れば売るほど儲けが大きくなりますから、結果としてs2までは売り買いが成立するのですが、それ以上は売り手が絶対に売らないので買い手も買うことができない、すなわち供給不足・需要過剰ということになります。

さてこのp1の所で、売り手がちょっとだけ値段を下げたとします。他の売り手がp1で売る時にその売り手だけちょっと安売りするのですから、買い手はまずその売り手の所に殺到し、その売り手は売りたいだけ売ることができます。ちょっと値段を下げたとはいえ、売りたいだけ売ることができなかったのが今度は売りたいだけ売れるんですから、この方が儲かります。

他の売り手は買い手をその売り手に奪われてしまうんですから、その分売れる量が減ってしまい儲けが少なくなります。で、他の売り手もそれなら・・ということで値段をちょっとだけ下げて売り出します。こんなことをやっていると、結局値段を下げても需要不足が解消できない所、すなわちp0の所まで値段が下がってしまいます。ここまで来るともうどの売り手も売りたいだけ売っていて、値段を下げると売りたい数量が減ってしまうので、その分損してしまうということになります。

p2の方も同様です。買い手の方がちょっと値段を上げて買おうとすると、売り手はまずその買い手に売ろうとするので、その買い手は買いたいだけ買えるようになり、その分他の買い手はさらに買える量が減ってしまいます。そこで他の買い手もちょっと値段を上げて買う・・ということをやると、結局全体的に値段が上がってきて、p0の所まで値段が上がってしまうということになります。

ここまで来るともう全ての買い手は買いたいだけ買ってしまっていますから、さらに値段を上げると買う数量が減ってしまい、満足感は減ってしまいます。

このようなプロセスは値段が少しずつ下がったり上がったりしながらp0に近づくというものですが、古典派の経済学ではこのプロセスが一瞬のうちに終わってしまって、始まった途端に買い手も売り手も値段はp0、売り買いの数量はd0=s0だということがわかる、ということになります。

これが需要・供給の法則です。
どうでしょう、皆さんが考えていた需要・供給の法則と、この説明の内容は同じだったでしょうか。

私はここまで来るとアキレハテテしまいます。
良くもまぁこんな非現実的な人工的な世界を作ったものだなぁと思います。

で、次はいよいよ一般理論の話に戻ります。一般理論の最初の議論は労働の需要・供給の話です。

これに限らずこの古典派の需要・供給の法則は、常に陰に陽に姿を現します。できるだけその都度コメントしようと思います。

もう一度念を押したい点があるのですが、需要曲線・供給曲線を作る時、まず値段を決めてその値段の時の需要量・供給量を決める、ということです。この逆に需要量・供給量から値段を決めるわけではないことに注意して下さい。

ここの所が時としてかなりいい加減になってしまって、議論が訳が分からなくなってしまうことが良くあるようですから。

『一般理論』 再読-その2

火曜日, 2月 10th, 2015

『一般理論』再読を始めるにあたり、その準備段階としていわゆる『需要・供給の法則』をしっかり押さえておく必要がありそうです。で、まずは『一般理論』に入る前に『需要供給の法則』の中味を確認したいと思っています。

というのも、古典派の経済学ではありとあらゆる場面でこの考えが登場し、需要曲線と供給曲線が交わった所で価格と売買される数量が決まる、というのがごく当たり前の話として認められているからです。

『一般理論』の最初に出てくる古典派の雇用理論の二つの公準というのも、労働の需要・供給と価格について需要曲線と供給曲線がどのように決まるか、という議論から始まるわけですから。

で、この需要供給の法則ですが、その中味については普通の経済学の教科書ではほとんどきちんとした説明がされていません。

そのことをまずお話したいと思います。

私が最初に疑問に思ったのは、需要と供給がマッチして値段と売買の数量が決まったとして、その次はどうなるのだろうということです。普通に考えれば需要と供給がうまくマッチしてめでたしめでたし、両方とも消えてしまうとそれでおしまいになってしまう、ということですが、どうもそうではなく、需要曲線も供給曲線もそのまま残るようです。だとすると、この需要供給の法則で言っている需要も供給も一旦マッチして終りということではなく、その後も継続的に発生する需要と供給のことのようです。

そのつもりでいくつか経済学の教科書を読んでみると、そのことがちゃんと書いてある本もありました。サムエルソンの経済学では、本文の中には書いてありませんが、需要曲線や供給曲線のグラフの所で『1年あたりの』需要なり供給なりの数量と書いてありました。
スティグリッツの経済学では、需要曲線や供給曲線の所には単に数量の単位しか書いてありませんが、本文の説明の一部に『週あたりの』という言葉があります。
それ以外ではこの需要・供給が一定期間の需要・供給のことを言っていて、継続的にほぼ同じ位の需要・供給が発生する物について議論しているんだということがまるで書いてありません。

ともかくサムエルソンの教科書で、この需要・供給というのが一定期間の需要・供給を意味するんだということが確認できたので、次に進むことにします。

で、この需要曲線あるいは供給曲線ですが、その意味は、ある商品に関してある値段が決まった時、その値段で買いたいあるいは売りたいという数量を(が)それぞれの買い手あるいは売り手ごとに決め(決まり)、値段を縦軸に、買いあるいは売りの数量を横軸に取ったグラフにし(これを個別の需要曲線あるいは供給曲線といいます)、これを全ての買い手・売り手について集計して値段ごとに市場全体の買いあるいは売りの合計の数量を横軸に取ったグラフを作ります(これが全体の需要曲線あるいは供給曲線になります)。

そこで、需要曲線は左上から右下に向かった曲線(値段が安くなると需要が増える)になり、供給曲線は左下から右上に向かった曲線(値段が高くなると供給が増える)になるので、その二つの曲線が交わった所で需要量と供給量が同じになり、そこの値段でそれだけの数量の売り買いが成立する、というわけです。

この需要曲線・供給曲線の作り方で、需要側が『買いたい』、供給側が『売りたい』数量を集計して、という説明が普通されるのですが、古典派の考えはそんなものとはまるで違います。『買いたい』とか『売りたい』とかいういい加減な話ではありません。『買いたい』ではなく『買います』、『売りたい』ではなく『売ります』ということです。

値段が100円の時1,000個売る、となったらそれだけ(1,000個分)の需要があったら何が何でも1,000個売らなければいけません。売りたいと思ったけどやっぱりやめた、なんてことは許されません。需要の方も同様で、値段が100円の時1,000個買うとなったらそれだけ供給してくれる売り手がいたら何がなんでも1,000個買う、ということです。

これだけでも大変なのに、古典派の経済学というのはもっとすごいものです。すなわち値段100円の時に1,000個売るという時の1,000個というのは、取りあえず1,000個売れると嬉しいなとか、前期が800個位だから今期は1,000個にしておこうか、とかいう話ではありません。1,000個までなら売上原価と販売経費を足して売値100円でしっかり儲かるけれど、1,001個にすると逆にその1,001個目について売上原価と販売経費を足すと売値の100円を上回ってしまい、儲けが少なくなってしまう。そのようなギリギリの数が1,000個だというものです。

買い手の方も、たとえば10個買うというのは、10個分のお金を払ってでも10個買う方が満足度が大きいけれど、11個買うとなると11個買った満足度から11個分のお金を払ってしまった不満感を差し引いたものが10個の場合より小さくなってしまう、というギリギリの個数です。

売り手も買い手もこのようなギリギリの個数をそれぞれの値段ごとに決めることができるとして、それを値段ごとに瞬時に集計してその集計結果にもとづいて値段と売り買いの数量が瞬時に決まる、そしてその値段と数量で売り買いが成立する、というのが、古典派の経済学の需要・供給の法則です。

現実にはもちろん、値段が100円だったらどれだけの数量売るか買うかなんてことは、その時にならなければ分かりません。しかも上に書いたようなギリギリの数量なんてものは普通考えません。考えたとしても、実際にそのギリギリの数量まで売ったり買ったりなんてことはしません。でも古典派の世界では全ての売り買いの参加者全員について、それぞれの値段について売り買いの数量がわかり、それを集計したそれぞれの値段ごとの全体の売りの数量・買いの数量が瞬時に分かり、その需要曲線と供給曲線の交わった所の値段がいくらになるか全員が分かり、その時その値段で自分が売りあるいは買う数量がいくつなのかも自動的にわかり、その値段・数量で売買が成立してめでたしめでたし、という、とても常識では考えられないような話です。

誰がどう考えても非常識な話なんですが、古典派の経済学はこのように考えることになっています。このように考えるのはもちろん理由があります。

すなわち、そのように考えることによって売買の値段と数量がきっちり決まる、ということです。これによって色々な問題が解けることになるからです。

学者にとって、現実的だけれどきちんとした結論を出すことができない(即ち解けない)問題と、現実的じゃないけれど論理的にきちんとした結論を出せる(解ける)問題と、どちらが良いかということになったら、答が出る方が良いのははっきりしています。

たとえ前提とするものがまるで現実的でなくても、論理的にきちっとした答えが出せればそれは業績として評価されます。現実的な問題を設定していくら頑張ってもしっかりした答えを出せなければ、それは業績とは認めてもらえません。

そんなわけで、この古典派の経済学がこれほど現実離れしているにも関わらずずっと正統派の主流の経済学の地位を保っている、ということになるわけです。

需要・供給の話、まだしばらく続きます。

ピケティ 『21世紀の資本』その2

月曜日, 2月 2nd, 2015

毎週、土曜日の朝は予定が入っていなければBSでNHKの朝の連ドラの1週間分の再放送を見ているのですが、それが始まるまでの時間、NHKの地デジで『ニュース深読み』という小野フミエさんがやっている番組を見ています。いろんな問題について模型を使ってやさしく説明してくれる、なかなか面白い番組です。
おとといの土曜日はこの番組で、ピケティの資本論の話をしていたので、ぼんやり見ていました。この番組のまとめによると、ピケティの資本論というのは、資本収益率が経済成長率より大きいので、金持ちがより儲けが大きくなり、格差が拡大する、ということのようです。
その説明のために、資本収益率と経済成長率の推移を示すグラフが出てきました。
そのグラフ、すぐには気が付かなかったんですが、あとで考えてみたら横軸の年が0年から始まっていたような気がしました。今が2015年、というベースの0年です。
大昔の資本収益率や経済成長率をどうやって計算するんだろう、と思って、気になったので夕方、家の近くの本屋さんに行ってピケティの本を確認してきました。
グラフは横軸に年、縦軸に、資本収益率や経済成長率がプロットされている折れ線グラフです。横軸の期間は、0-1000, 1000-1500, 1500-1700, 1700-1820, 1820-1913, 1913-1950, 1950-2012, 2012-2050, 2050-2100という9つの期間です。
この中でまともに資本収益率や経済成長率が計算できると思われるのはせいぜい1913-1950, 1950-2012の2期間、無理したとしてもそれに1820-1913を加えた3つだけです。
残りは、どうやって計算したのかわからない昔の率と、どうやって予測するのか、予測が当たるのかどうかもわからない未来の率です。
更にその、多分実際の率が計算できると思われる期間について、『たまたま例外的に資本収益率より経済成長率の方が大きかった』けれど、グラフ全体を通して見ると、ほとんどの期間で資本収益率の方が経済成長率より大きい、ということのようです。
何というむちゃくちゃな議論の仕方なんだろう、とアキレハテテしまいました。
よく考えれば、つまらない話ですが、このグラフのスタートのところの0-1000年、というのもおかしな話です。
我々が使っている西暦の年には、0年、というのは存在しません。西暦1年の前の年は紀元前1年であって、0年という年はありません。(天文学の方ではそれでは不便なので0年を入れていて、そのために紀元前の年が一般の数え方と1年ずれている(紀元前100年が天文学では紀元前99年になる)ようですが。)
このグラフを見ながら、これはもしかするとこのピケティの本というのはかなりいい加減な、いかがわしい本なのかもしれないな、と思いました。
まともな本はまともな読み方で楽しめますが、いかがわしい本はいかがわしい本でそれなりの楽しみ方ができます。どこがどういかがわしいか、確認しながら読み進める、というのも面白いものです。
3週間前にこのブログでピケティの本について書いた時、さいたま市図書館のこの本の蔵書は1冊で、私の予約の順番は325番でした。3週間たって蔵書は8冊に増え、私の順番は305番にまで繰り上がりました。順番が20番も繰り上がったのは、待ちきれずに本を買ってしまって予約を取り消した人や、700ページもの大部の本を見て借りた途端に返してしまった人がいるんだろうな、と思います。この調子でいくと、3週間前に順番が回ってくるのに15年くらいかかりそうだ、とした計算は2年くらいにまで短縮されそうです。

2年後にこの本が真っ当な本なのか、いかがわしい本なのか、確認するのが楽しみです。