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芦部さんの憲法  その14(最終回)

木曜日, 12月 19th, 2013

芦部さんの憲法、いよいよ最後は「憲法の保障」です。

またもや訳のわからない言葉ですが、これは憲法が何かを保障するというのではなく、憲法を何かから守るという意味です。

【憲法は国の最高法規であるが、この憲法の最高法規性は時として、法律等の下位の法規範や違憲的な権力行使によって脅かされ、ゆがめられるという事態が生じる。そこでこのような憲法の崩壊を招く政治の動きを事前に防止し、また事後に是正するための装置をあらかじめ憲法秩序の中に設けておく必要がある。その装置を通常、憲法保障制度と言う。】

憲法は法律や実際の行動によって侵害される恐れがあるので、それを防ぐ手段を用意しておくということです。

憲法がどのように侵害されるかという実例はヒトラーのナチスによるもので、当時ドイツにはワイマール憲法という立派な憲法があったにもかかわらず、その憲法の規定により憲法を一時停止しヒトラーに全権を委譲するという法律を作ったことにより、憲法はそのままでヒトラーの独裁体制が出来上がった。それを繰返してはならない、ということのようです。

憲法とはそんなにか弱いものなのか、と思いますが、その憲法保障制度について
 【① 憲法自身に定められている保障制度と
② 憲法には定められていないけれども超憲法的な根拠によって認められると考えられる制度がある】
としています。憲法の議論をしているのに、超憲法的な根拠などを持ち出しているのはア然としてしまいます。

①の憲法自身に定められている保障制度というのは、98条(憲法の最高法規性)・99条(公務員等に対する憲法尊重擁護義務)・41条・65条・76条(権力分立制)・96条(硬性憲法の技術)・81条(違憲審査制)などをあげています。
②の超法規的な根拠として挙げられているのは、「抵抗権」と「国家緊急権」の二つです。

抵抗権というのは
 【国家が人間の尊厳を侵す重大な不法を行なった場合に、国民が自らの権利・自由を守り人間の尊厳を確保するため他に合法的な救済手段が不可能となったとき、実定法上の義務を拒否する抵抗行為を一般に抵抗権と言う】
 【抵抗権の本質は、それが非合法的であるところにあり、制度化にはなじまない】
と、ここまで言ったあげく最後に
 【日本国憲法が国民の抵抗権を認めているかどうかは・・・簡単に結論を出すことはできない。】
と、逃げちゃっているのはびっくりですね。

もともと超憲法的なものならば日本国憲法が認めるも認めないもないことだし、憲法に何か書いてあろうと書いてなかろうと、独断と偏見で「・・・でなければならない」と断定するのが芦部さん流だと思っていたんですが、何で結論を言わないんだろうと思います。

もう一つの国家緊急権の方は
 【戦争・内乱・恐慌・大規模な自然災害など、平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において国家の存立を維持するために、国家権力が立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置を取る権限を国家緊急権という】
としています。

日本国がなくなってしまえば日本国憲法なんか何の意味もなくなってしまうんですから、こんなの当然だと思うのですが、芦部さんはそうは考えないようです。国家緊急の時であっても立憲主義を破壊するような国家緊急権は認めることができないようです。
とはいえ、
 【超憲法的に行使される非常措置は法の問題ではなく、事実ないし政治の問題である】
と言って、法的な議論から逃げてしまっています。

憲法の中にはこの国家緊急権の規定を設けているものも多く、自民党の改正案にも『第9章緊急事態』として入っているんですが、ナチスが全権を掌握したワイマール憲法の規定がこの規定(そこでは大統領の非常措置権)だったということもあり、立憲派の学者さん達には抵抗が強いようです。

で、最後に結論として
 【日本国憲法には・・・国家緊急権の規定はない。】
としています。ないことくらい憲法を読めばすぐわかることで、だから何なんだ、規定はないけど権利はあるのか、規定がないから権利もないのか、ここでも芦部さんは逃げてしまっているようです。

ここまでで超憲法的な憲法保障の話は終わりで、あとは憲法に規定する憲法保障の話になるのですが、最初に違憲審査制について書いてあります。

 【かつてヨーロッパ大陸諸国では裁判所による違憲審査制は、民主主義ないし権力分立原理に反すると考えられ、制度化されなかった】
けれどナチスの独裁制を見て深刻に反省し、
 【人権は法律から保障されなければならない(法律が人権侵害することを防がなければならない)】
と考えられるようになり、
 【戦後の新しい憲法によって広く違憲審査制が導入されるに至った】
としています。

この違憲審査についても憲法裁判所を設け、法律が憲法違反かどうかそれ自体を判断するか、あるいは普通の裁判所で司法手続き(すなわち具体的な事件についての裁判)の中で、その事件について事件の解決に必要な限度で法律が憲法に違反していないか判断するか、という二つのやり方があり、日本はこのあとの方式を採用していることになっています。

そしてその際「憲法判断回避の準則」というのがあり、「憲法判断は事件の解決にとって必要な場合以外は行なわない」「憲法問題が提起されていても、もし事件を処理することができる他の理由が存在する場合には、その憲法問題には判断を下さない」「法律の合憲性について重大な疑いが提起されても、裁判所が憲法問題を避けることができるような法律の解釈が可能かどうかを最初に確かめる」というルールです。このようにして、できるだけ違憲判決を出さないようにするということです。

にもかかわらず違憲判決を出してしまった場合、その判決はどの範囲で有効なのか、とういことになりますが、原則としてある具体的な裁判について違憲判決が出ただけですから、その判決の効力はその裁判限りということになります。とはいえ一旦違憲判決が出ると、その後の裁判ではその違憲判決を参考にしながら判決をするわけですから、当然他の裁判にも影響することになります。もちろん「影響する」というのは、一旦違憲判決が出たらその後はその判決に右へならえしなければならないということではありませんが。

ここで「判例」という言葉が出てきます。私は「判例」というくらいだから裁判の例、いくつもの実際の裁判の実例のことだと思っていたんですが、ここでも芦部さんは独特な言葉使いをします。すなわち
 【「判例」とは広く裁判例(判決例)のことを言う場合もあるが、厳密には判決の結論を導く上で意味のある法的理由づけ、すなわち「判決理由」のことを言う。】
となっています。本当かなあと思います。

さてここで、ついに芦部さんの憲法の教科書の間違いを見つけてしまいました。
芦部さんは381ページに
 【判例を変更するには、大法廷によらなければならない(裁判所法10条参照)】
と書いてあります。

いくらなんでもそんなことはないだろう。地方裁判所の判決は高等裁判所でいくらでもひっくり返るし、高等裁判所の判決も最高裁でひっくり返ります。そのたびに最高裁の裁判官が全員集まって議論することはないだろうと思って、その裁判所法10条を見てみると
第10条(大法廷及び小法廷の審判)、として、最高裁の裁判は大法廷(最高裁の裁判官全員参加の裁判)でやるか小法廷(全員でなく裁判官3人以上でやる裁判)でやるかどちらかで、どっちにするかは最高裁が決めるんだけれど、大法廷でやらなければならないケースというのを3つあげていて、その3番目が
 【憲法その他の法令の解釈適用について、意見が前に最高裁判所のした裁判に反するとき。】
となっています。
すなわち上の芦部さんの「判例を変更するには・・・」というのは、少なくとも「最高裁の判例を変更するには・・・」としなければならないということです。

この芦部さんの憲法、最初に出てからもう20年以上も経っていて、司法試験の受験者はほとんど皆この教科書を勉強しているはずなのに、今まで誰もこの間違いに気が付かなかったんでしょうか。

まあ本文389ページの本の381ページに書いてあることなので、そんな終わりの方までちゃんと勉強した人はあまりいない、ということなのかも知れませんが。

あるいはこの本の著者の芦部さんはもう亡くなっているのでもはや修正できないということかも知れませんが、芦辺さんの死後そのお弟子さんが改訂作業を何回もしているんですから、気がついたら注の形で訂正することもできます。やはり気がついていないということなんでしょうね。

また裁判所法は「意見が前の裁判と違うとき」と言っていて、「判決理由が」、あるいは「判例を」とは言っていません。そういう意味でも芦部さんの言っているのはちょっとおかしいです。

この違憲審査の話が終わると、いよいよ最後に来るのが憲法改正です。例によってわけのわからないことがいろいろ書いてあるのですが、まずは「憲法改正の限界」の所に
 【憲法改正の手続きによりさえすれば、いかなる内容の改正も法的に許されると説く無限界説もある。しかし法的な限界が存するとする説が通説であり、かつそれが妥当と解される。】
とあります。

この「法的」というのは一体何なんでしょうか。憲法が改正できる範囲が憲法に書いてないからと言って、法律になどなおさら書いていないのですが、だとするとこの「法的」というのは一体何なのか、何の説明もありません。こういういい加減な言い方が芦部さんの憲法の特徴だと言ってしまえばそれまでの話なんですが。

で、芦部さんの言う「法的な限界が存する」という説にもおかしなことが書いてあります。一つの説は 「権力の段階構造」という説ですが、これは
 【民主主義に基く憲法は、国民の憲法制定権力(制憲権)によって制定される法である。この制憲権は憲法の外にあって憲法を作る力であるから、実定法上の権力ではない。】
 【このように改正権(憲法を改正する権利)の生みの親は制憲権であるから、改正権が自己の存立の基盤とも言うべき制憲権の所在(国民主権)を変更することはいわば自殺行為であって、理論的には許されない、と言わなければならない。】
となっています。生みの親とか自殺行為とか、とても理論的な議論をしているとは思えませんが、そのあげくが「許されない」です。理論的にできる・できないではなく、許される・許されないというのは、もう信仰の世界です。

もう一つの説は「人権の根本規範性」というもので、
 【近代憲法は本来「人間は生まれながらにして自由であり平和である」という自然権の思想を、国民に「憲法を作る力」(制憲権)が存するという考え方に基づいて成文化した法律である】
したがって
 【憲法改正権はこのような憲法中の根本規範とも言うべき人権宣言の基本原則を改変することは許されない】
ここでも同様に「許されない」になっています。こうなってはもはや何を言わんや、という話です。

さらに
 【憲法96条の憲法改正国民投票制は、国民の制憲権の思想を端的に具体化したものであり、これを廃止することは国民主権の原理をゆるがす意味を持つので、改正は許されないと一般に考えられている。】
と書いてあります。

「一般に」とは一体何なんだ。「考えられている」なんて、自分の考えはどっちなんだ、とツッコミを入れたい所です。

現在自民党の改正案は、まずこの96条の改正から始めようとしているんですが、国民投票制を変えようとしているわけではなく、その前段の国会の発議の所の条件をちょっと緩くしようとしているわけですが、この「一般に考えられている」の「一般」は、国民投票制が変わらないんだから自民党の案はOKと考えるんでしょうか。それとも96条を変えるんだから、それは許されないということなんでしょうか。もう芦部さんは亡くなってしまっていますので、今更聞くこともできないんですが。

と、このへんで芦部さんの憲法、オシマイです。

ごく気楽な気持でやさしい憲法の本を読むつもりだったのが、大変なことになってしまいました。ここまでお付き合い下さった方の中には「単にムカッパラ立ててイチャモンをつけてただけじゃないか」と思う方もいると思います。私も実はそう思わないでもないんですが、ムカッパラ立ててイチャモンつけるのがこんなに大変なことだとは思いませんでした。

多分芦部さんの憲法とは大分違うと思われる清宮さんの憲法も、この前のブログ記事(「この国のかたち」-憲法とは何か)のコメントにあるように、白根さんが「くれる」と言っています。少し休んでから読んでみようと思います。この本についてもコメントしたくなったら、またコメントするかも知れません。

最後に憲法を実際に読んでみて発見したことを1つ。
普通法律を読むと最後の方に「罰則」という部分があり、その法律に違反したらどんな罰が待っているかが書いてあり、ここの所を読むのがえらくメンドクサイのですが、憲法には何とこの罰則がありません。

もちろん憲法のいろんな部分は具体的に法律にも規定してあり、その法律には罰則があるのですが、憲法それ自体には罰則がありません。法律にならずに憲法だけに規定している部分については、罰則がないままです。罰則がないということは、それに違反したからといって「だからどうした?」と言われてしまえばそれまでということです。

憲法というのはせいぜいその程度のものでしかないということ、違反したからといって、別に何も起こらないということ、だから憲法を大切にしようと思ったら、罰則とは別の所で「国民の不断の努力」が必要なんだということ、なのかなと思います。このあたりもう少し考えてみる必要がありそうです。

『この国のかたち』-憲法とは何か

水曜日, 12月 11th, 2013

このブログで憲法の話を始める前後から、KENさんからは何度も「憲法とは何か」という質問を受けています。

芦部さんの憲法ももうすぐ終わりそうになり、ようやくこの質問に答える準備ができたように思います。

で、その答えですが、憲法とは『この国のかたち』です。

『この国のかたち』というのは司馬遼太郎さんが使った言葉ですが、その場合は日本の伝統・文化の面からの国のかたちという意味です。

文化の他にも、地理的な意味での国のかたち、地勢学的な意味での国のかたち、経済的な意味での国のかたち、等々いろいろありますが、憲法というのは法律・制度の意味での国のかたちを定めたものだと思います。

憲法という言葉は聖徳太子の十七条の憲法とか、宮本武蔵にやっつけられた吉岡憲法なんて人の名前もありますが、国の基本法としての憲法はこれらの言葉とは別のものです。

「憲法」という言葉は大日本帝国憲法を定める時、外国から輸入された言葉の訳語として採用されたものですから、その元となった言葉の意味を考えてみようと思いました。

憲法は英語ではConstitutionsといいます。この言葉の動詞はconstituteという言葉で、これは構成する、形づくるというような意味です。ドイツ語のVerfassungというのも、どうやら同様の意味のようです。そんなことを調べていたら、ごく自然に「国のかたち」という言葉が浮かんできました。制度的・法律的に、この国がどのようにできていてどのように機能するか、その設計図が憲法だということです。

この答をみつけてうれしくなって、さてどうやって書こうかと思っていた時、図書館でウロウロしていて三浦朱門の「そうか。憲法とはこういうものだったのか」という本を見つけました。

三浦朱門というのは作家で文化庁長官なんかもやって、同じく作家の曽野綾子さんを奥さんにしている人です。で、この本がまた面白い本で「七人の侍」から始まって、モーセの十戒・ハムラビ法典・ベニスの商人の話をしながら、ローマ法・マグナ・カルタに至り、日本の話では五箇条のご誓文から大日本帝国憲法・日本国憲法と、憲法とは何かについて考えていきます。そして最後に
【日本国憲法が今の「この国のかたち」を正しく反映しているか考える時がきた】
というタイトルで締めくくりをしています。

やはりこの本でも憲法とは「この国のかたち」だと言っているのを見て、私の答と同じだと確認することができました。

さらに石破茂さんの書いた「日本を、取り戻す。憲法を、取り戻す。」という本を、図書館で半年待って借りて読んだのですが、石破さんは大学は法学部の卒業で、学生時代に法学部で憲法を勉強した時、清宮さんの本で勉強した、と書いてありました。

私のブログにもフェイスブックで良くコメントしてくれる下郡さんも学生時代に憲法をその清宮さんの憲法の教科書で勉強していて、芦部さんの本だけでなく清宮さんの本も読むように、とアドバイスしてくれていたので、改めて借りて読んでみました。

その本の最初に憲法の意味が説明してあり、ConstitutionsあるいはVerfassungという言葉は、憲法という意味で使われる時もあり、また、現実の国の体制、実力関係、政治状態などを意味することもある、と書いてあります。すなわち、事実的Verfassungと法的Verfassungがあり、この法的Verfassungが日本でいう憲法だということです。

これで決まりです。憲法は、法的な意味での『この国のかたち』です。日本国民が、この国を、このような国にしたい、このような国でありたい、という、国の制度、組織、法律に関する設計図を書いた『この国のかたち』が憲法です。

でもこの清宮さんの本、ちょっと見た限りでは非常にすっきり書いてあって、非論理的なところもなく、突っ込みどころも見当たりません。同じく憲法の教科書なのに、芦部さんのものとはまるで違います。もしかすると芦部さんの本はやはりかなり特殊な本だったのかも知れません。芦部さんの憲法はもうすぐ終わりですが、やはりこの清宮さんの本も読んでみるべきでしょうか。

ちゃんと読むとなったら借りるんじゃなくやっぱり買う必要がありそうです。もう新しい本は出ていないようなので、古本をアマゾンで買うべきでしょうか、神保町の古本屋街に買いに行くべきでしょうか。悩ましい所です。

芦部さんの憲法 その13

火曜日, 12月 10th, 2013

芦部さんの憲法、統治機構の所についてはあまり問題がないだろうと思っていたら、しょっぱなから問題のコメントがありました。

まず
 【民主主義ないし民主政(国民主権)は人権の保障を終極の目的とする原理ないし制度と解すべきであるから・・・】
という文章があります。「民主主義は人権を守るためのものだ」ということです。政治学をやっている人が聞いたら泣いて喜ぶだろうような話です。
この芦部さんを初めとする立憲派の憲法学者さんというのは、本当に人権が好きなんですね。民主主義というのも人権を守るための単なる道具になってしまいます。

統治機構の所で最初に議論するのは三権分立の話ですが、これも世界共通ということではなく、国によって三権分立の形が違うという話は初めて知りました。すなわち、アメリカでは立法権不信の思想が強く、そのため三権は平等だけれど、フランスでは司法不信で三権の中でも立法権が中心的地位にあるということで、同じ三権分立がフランスでは裁判所の違憲審査権を否定するための理論的根拠であり、アメリカではそれを支えるための根拠だというんですが、何のこっちゃという感じです。

で、「国会」ですが、憲法では「国会は国権の最高機関である」としているのですが、これについて芦部さんは「最高機関とは政治的美称である」と言って、何となく司法より立法が上になるのは嬉しくないようです。もう一つ「国会は国の唯一の立法機関である」という条もあります。ともすると司法の裁判所が立法したがるのを防止しているようです。

次は内閣ですが、
 【行政権は、内閣に属する】という行政権は、【すべての国家作用のうちから立法作用と司法作用を除いた残り(すべて)の作用である。】と言っています。
このように言いながら、内閣から独立して活動する独立行政委員会について
 【内閣から独立した行政作用であっても特に政治的な中立性の要求される行政については、例外的に内閣の指揮監督から独立している機関が担当するのは、最終的にそれに対して国会のコントロールが直接に及ぶのであれば合憲であると解して良い】
と言っています。

一体憲法のどこからこんな理屈が出てくるのかさっぱりわかりません。別にこのような制度に異論があるわけではないんですが、憲法に何も書いてないことを「合憲とする」というくらいなら、憲法にそのように書き加えれば良いのに・・と思うのですが。

内閣に関しては
 【日本国憲法には内閣の解散権を明示した規定はない】
という説明があります。天皇の所で、天皇の国事行為としてはっきり「衆議院の解散」と書いてあり、「国事行為は内閣の助言と承認により、また内閣がその責任を負う」と書いてあるので、私はこれで十分だと思うのですが、芦部さんは「書いてない」と言い、だからと言って憲法を直そうともしないで
 【現在では7条によって内閣に実質的な解散決定権が存するという慣習が成立している。】
としています。芦部さんは何を考えているんだろうと思います。

さらに芦部さんは、注として「解散権の限界」として、解散できるのはいくつかの限定されたケースだけだと言っています。もちろん憲法にはそんな限定等どこにもないですから(芦部さんによると解散権自体が書いてないわけですし)、芦部さんが勝手に考えたことを「自分の考え」と言わないで断定してしまっています。何ともはやです。

で、次にくるのが裁判所です。
 【すべて司法権は最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する】
で、この「司法」という言葉ですが、私は法律の適用あるいは解釈に関する争いの全てを対象とすると思っていたのですが、どうも違うようです。

芦部さんによると、司法とは
 【具体的な争訟について、法を適用し宣言することによってこれを裁定する国家の作用】
と言い、さらに細かく
 【当事者間に具体的事件に関する紛争がある場合において、当事者からの訴訟の提起を前提として独立の裁判所が統治権にもとづき一定の争訟手続きによって紛争解決のために、何が法であるかの判断をなし、正しい法の適用を保障する作用】
と言っています。

要するに、何か具体的に事件があって、当事者間の争いがあり、裁判になって、はじめて司法が動き出すということのようです。
裁判所ができるのはこの司法だけですから、違憲判決もこの司法の範囲内でしかできないことになりますね。
すなわち具体的な事件があり争いがあって、裁判になって初めて違憲審査が始まるということですね。

だとすると、こんなしばりなしで法律を作ることができ、憲法改正の発議もできる国会の方がやはり上に来るのも当然ですね。

このあと財政・地方自治がありますが、そこもスッ飛ばして、次回はいよいよ憲法改正の議論です。