Archive for 1月, 2016

『相対的貧困率』その2

月曜日, 1月 25th, 2016

『相対的貧困率に関する調査分析結果について』というレポートがあります。
http://www.stat.go.jp/data/zensho/2009/pdf/hinkonritsu.pdf 

平成27年12月18日付で内閣府・総務省・厚労省が連名で出したものです。

国の統計としての相対的貧困率は、総務省の『全国消費実態調査』にもとづくものと、厚労省の『国民生活基礎調査』にもとづくものと、2つあります。
で、『国民生活基礎調査』にもとづくものの、直近(2012年)の国民全体の相対的貧困率は16.1%(6人に一人が貧困)、一方全国消費実態調査にもとづくものの、直近(2009年)の国民全体の相対的貧困率は10.1%(10人に一人が貧困)となっています。

16.1%と10.1%とどちらが正しいのか、ここまで大きな差異が生じている原因は何か、等々について調査分析した結果がこのレポートです。

調査のやり方やサンプルの対象の違いなど、いろいろ考えて専門家の意見を聞いたりして分析していますが、まとめてしまうと、要するに「良くわからない」ということになるようです。

野党はこの国民生活基礎調査の方を使って『6人に一人が貧困だというのをどうするんだ』と安倍さんを責めたて、安倍さんは全国消費実態調査を引き合いに、『10人に一人という統計もあるんだ』と返答しているわけです。

で、このレポートを読んでみると、確かに『良く分からない』という結論が正しそうです。

すなわち、『相対的貧困率』というのはこの程度の(やり方によっては16%になったり、別のやり方では10%になったりする)指標なんだ、と理解するのが良さそうです。

調査年によって多少の変動はありますが、1999年以降、国民生活基礎調査の方の相対的貧困率(3年ごとの調査)はほぼ15~16%程度で安定しており、また全国消費実態調査の方(5年ごとの調査)は、ほぼ9~10%で安定しています。

全国消費実態調査の方は、単身所帯の学生を調査対象としていない(国民生活基礎調査の方は調査対象としている)という違いはあっても、それで相対的貧困率が6%も変わるとはとても思えません。

で、このレポートには、貧困率の基準となる貧困線の額が、それぞれの統計について出ています。全国消費実態調査の方は135万円、国民生活基礎調査の方は122万円です。

この2つの調査の結果を総合すると、国民のうち等価可処分所得が135万円を下回る人の割合が10.1%で、122万円を下回る人の割合は16.1%だ、ということになります。

言い換えれば6%の人は等価可処分所得が135万円より多くて122万円より少ない、という、まったくあり得ない話です。

なお、また別の調査ですが、全国大学生活協同組合連合会の行なっている『学生生活実態調査』というものがあります。この2014年の調査によると、下宿生の1ヵ月の収入の平均は122,170円ということです。年収にして140万円位です。

通常、中央値が平均値より小さくなることを考慮すると、一人暮らしの学生の半分は貧困線の122万円ないし135万円を下回る収入しかないんだろうと思われます。すなわち、『一人暮らしの学生の半分は貧困だ』ということです。

これが感覚的に受け入れられる話かどうか、ということですが、子供の6人に一人が貧困だという話は良く出てきますが、一人暮らしの学生の2人に一人は貧困だというような話はあまり聞きません。通常の感覚とはずれているため、説得力がないということでしょうか。

いずれにしても、『相対的貧困率という指標はこのような(この程度の)ものだ』と認識しておく必要がありそうです。

相対的貧困率

水曜日, 1月 20th, 2016

国会でもネットでも『子供の6人に一人が貧困だ』などと野党が騒いでいるので、この元となる『相対的貧困率』についてちょっと調べてみたのでコメントします。

この6人に一人というのは、2012年(相対的貧困率の調査は3年ごとなので、これが直近のデータになります)の国民生活基礎調査にもとづく子供の相対的貧困率が16.3%だということから、それを6分の1と表現しているものです。

実はこの時の国民生活基礎調査による国民全体の相対的貧困率は16.1%ですから、6分の1というのは子供だけの話ではなく大人を含む全体でも同じことなのですが、『国民全体の6人に一人が貧困だ』と言ってしまうといかにも嘘っぽいことがはっきりしてしまうので、実態の良くわからない子供の方だけ取り上げているのかなと思います。

で、この相対的貧困率の計算方法ですが、まずは一人一人の可処分所得を計算します。この計算は所帯単位に行うので、所帯全体の可処分所得を合計して頭割りにするのですが、単純に人数で割るわけではありません。

人数の平方根で割って、それを『等価可処分所得』といいます。人数の平方根ですから、2人だったら2で割る代わりに1.4で割る、3人だったら3で割る代わりに1.7で割る、4人だったら4で割る代わりに2で割る、といった具合です。ですから単純に頭割りにするのに比べて2人なら1.4倍、3人なら1.7倍、4人なら2倍になります。

で、この等価可処分所得の高い人から低い人までずらっと並べておいて、ちょうど真ん中の人の値(中央値といいます)を計算し、その上でその中央値の半分の所を『貧困線』といい、等価可処分所得がその貧困線より低い人が全体に占める割合を『相対的貧困率』と言います。

2012年の調査では、この貧困線が122万円ですから中央値は244万円、すなわち人口の半分は等価可処分所得が244万円より多く、半分は224万円より少ない、ということになります。

で、この等価可処分所得を計算するのに、人数で頭割りしないで人数の平方根で割り算するというのは、いわゆる『一人口は食べられないけど二人口は食える』というやつで、食べるのに必要な費用は人数が増えるほどには増えない、ということを反映したものです。逆に言えば世帯の人数が多いほど可処分所得が水増しされて評価される、ということになります。

ですから一人暮らしの人は可処分所得が122万円より少ないと貧困ということになるのですが、二人暮らしだと二人で172万円・一人あたり80万円より少ないと貧困、三人所帯だと3人で211万円・一人あたり70万円より少ないと貧困、四人所帯だと4人で244万円・一人あたり61万円より少ないと貧困、ということになるわけです。

たとえば夫婦と子供2人の4人所帯で可処分所得が250万円あれば、その4人の等価可処分所得は125万円ですから4人とも貧困の方には入らないのですが、それが離婚して父子家庭・母子家庭になり、それぞれの可処分所得が125万円になると等価可処分所得は88万円になり、4人とも貧困ということになるわけです。この逆であれば、4人の貧困が結婚して同じ所帯になるだけで実際の所得が増えなくても貧困から脱することができる、ということです。

あるいは老人夫婦が老齢基礎年金満額支給の78.1万円に子供からの仕送りが10万円あって88.1万円、二人で所得が176.2万円だとすると、等価可処分所得は124.6万円で貧困ではないけれど、片方が死んで残った方が二人分の仕送り20万円をもらったとしても、合計で98.1万円で『貧困』ということになる、という具合です。

また、『貧困率』といいながら、その基準となるのはあくまで『所得』ですから、どんなに大金持ちでも所得がなく預金の取崩し・財産の切り売りで暮らしている人は当然、貧困ということになるわけです。

離婚して母子家庭で子育てしていて、前の夫が養育費を払わないなんて話は良く聞きますが、仮に養育費が払われていたとしても、それが母子家庭の所得に入っているのかどうかはっきりしません。所得の中には『仕送り』というのもあるんですが、養育費は仕送りに入るのかなあとか、養育費の受取人が元の奥さんではなく子供になっているような場合、それを子供の所得にしてちゃんと計算しているのかなあとも思います。もちろん養育費を払っている方についてはその分所得を減らす、なんて計算はしていませんから可処分所得は減りません。

また夫が単身赴任して、残った家族が夫の銀行口座から生活費を引き出して使っているような場合、この引出した分を仕送りとして所得にするようになっているんですが、口座からわざわざ引き出さないで、その口座から自動的に引き落とされるようになっている、口座振替の料金やクレジットカードの清算金などはこの仕送りとして所得にするようには書いてありません。だとすると夫が単身赴任で妻と子供2人が別に暮らしていて、夫の口座から引き出すのは年に200万円、残りの費用は基本的に全て(家賃にしろ学費にしろその他生活費にしろ)口座から引落されるようにしていると、かなりリッチな生活をしていてもこの3人は貧困ということになります。

そんなわけで、この『相対的貧困率』というのは、かなり危なっかしい率です。人口の高齢化と核家族化で世帯の人数が少なくなるだけで相対的貧困率は大きくなる、ということなのかもしれません。そのあたり、きちんと理解したうえで話をしないととんでもない議論をすることになります。

しかも『相対的貧困率』をあたかも(相対的を除いて)貧困率だ、と思い込んで、この貧困線より等価可処分所得が少ない人は貧乏で可哀想な人だ、と決めつけてしまうというのはあまり真っ当なやり方ではないですね。

貧困線の122万円、日本では確かにあまり高額ではありませんが、アジア、アフリカ等の国からするとかなり高額です。

貧困問題はもう少し落ち着いて検討することが必要なようです。

マイナンバーカードの申請

水曜日, 1月 20th, 2016

そろそろお正月気分も抜けたので、マイナンバーカードの申請をしてみました。
市役所に問い合わせた所、今申し込めば2月~3月くらいに出来上がるということで、思ったより早い(半年位かかるかと思っていました)ので、申請することにしました。

せっかくですからパソコンでインターネットで申請することにし、写真は先日友人にi-phoneで撮ってもらい、パソコンに送ってもらってありました。

まず申請用のサイトに接続すると、マイナンバー通知カードに記入してある申請書IDと、メール送信用メールアドレスの入力を求められます。その後入力したメールアドレスにメールが送られてきて、そこに記入してあるインターネットのアドレスにアクセスすることにより、申請手続きをネット上で行なうようになっています。このアドレスの有効期間はまる1日で、それを過ぎるともう一度最初からやり直すようです。

で、まずはパソコンから写真のファイルをアップロードしようとしたら、ハネられてしまいました。
写真ファイルは
 形式 : jpeg
 サイズ : 20KB~7MB
 ピクセルサイズ : 幅480~6000ピクセル 高さ480~6000ピクセル
という制限があり、サイズが小さ過ぎるということでした。
仕方がないので別の友人のガラケーで写真を撮り直してもらったら、今度はうまく行きました。

写真がうまく行ったあとは、電子証明書を発行するかどうか、点字表示を付けるかどうか等を選択して、申請終了です。

写真でちょっと手間取りましたが、思ったよりスムースに行きました。

途中でwindows10のパソコンだとうまく行かないかも知れないなどというワーニングが出てきたりしてアレアレと思いました。

さてこれで、マイナンバーカードが出来上がって、市役所から『取りに来るように』という通知がいつ頃来るか、楽しみです。

講談社ブルーバックス『地盤の科学』

水曜日, 1月 20th, 2016

この本を読んでみようと思ったきっかけは、例のマンションのくい打ちの不正の件です。

考えてみれば、建物の基礎工事のことなんか何も知らないなと思って、ちょっと読んでみようと思いました。

で、読んでみると、何とも盛りだくさんの面白い本です。
350頁位の本なんですが、最初の250頁くらいまでは建築の基礎工事の話なんかは何もなく、地殻の話・プレートテクトニクスの話・海面が上がったり下がったりして日本列島ができる話・街道は近くの断層を走る話・地中からの出土品を保存する技術の話・古墳の作りかた・地球の歴史・ゴミの話・地下水の話・地震のメカニズム・液状化の話・神戸地震その他の地震の話・地滑りの話・火砕流、土石流の話・地盤沈下の話・大阪や東京の地下の地層の話・堤防の話・土の固さをどう測るか、地中を探るための人工地震・CTやMRIと同様な方法・身体検査の超音波検査と同様の方法、鉱山跡の陥没の話・人工衛星で空から地中を探る方法、と盛りだくさんです。

その後ようやく地盤の話になるかと思えば、建物の基礎だけでなく橋の基礎をどうするかとか、ダムをどうやって作るかとか、海上の人工島の作り方とかトンネルの掘り方・地下鉄の作り方・地下ダムの作り方・地下に居住空間を作る話など、さらに盛りだくさんです。

で、読んでいて面白かったのは、普通の一戸建ての場合敷地面積当たりの建物の重さは1平方メートルあたり2トンで、これは大人が立った時の足の裏にかかる体重の荷重と同じ位だという話とか、土や砂や粘土やコンクリートの重さは1立法メートルあたりだいたい2トンくらいだ(水は1立法メートルで1トンですから、水の2倍の重さ)ということです(砂が2トン、粘土が1.6トン。良く締め固めた土で2.2トン、コンクリートで2.4トン)。

とにかく話題盛りだくさんで、ふんだんに楽しめます。
いろんなことに興味のある人におススメします。

『一般理論』 再読 その11

木曜日, 1月 14th, 2016

さて久しぶりに『一般理論』の続きです。
昨年は途中まで行った所で、例の安保法制の大騒ぎで憲法学者があまりにも支離滅裂な話をするのでアキレハテてコメントしていたら、いつのまにかピケティの本を借りる順番が来てしまい、そっちの方を優先してしまいました。

結局思った通りピケティは読むほどの意味はなかったのですが、600頁もの本を2週間で読むというのはそれなりにシンドイ作業で、終わった後はこんな変な本を読んだ口直しに真っ当な経済学の本を読みたくなりました。

ちょっとだけ『共産党宣言』に寄り道しましたが、『一般理論』に戻って、やはりこの本は本物だ、と再確認しました。

で、前回までどこまでコメントしたのか読み直してみると、所得・消費・貯蓄・投資の関係式と、有効需要の話の所で、一般理論の最初の山の所でした。

で、この話のまとめの所から『一般理論』のコメントを再開します。

とりあえず当面登場するのは、企業と労働者+消費者の二つだけです。
企業は他の企業からの仕入れと労働者を使って生産活動をし、他の企業には代金を払い、労働者には労賃を払い、できた製品を他の企業あるいは消費者に販売し、売上げを上げます。

労働者は企業で働いて労賃を得ます。これが労働者の所得です。労働者はその所得の中から買い物をすると、それが消費です。所得から消費を差引いたものが貯蓄です。

企業は売上げから費用を引くと企業の利益となります。これをもう少し詳しく言うと、売上げに設備投資・在庫投資の増分を加えて、労働者に対する支払い・その他企業に対する支払いを差引いたものが企業の利益・企業の所得になります。

設備投資・在庫投資の増分を投資と言います。また企業の所得は企業の貯蓄となります。企業には消費はありません。

このように所得・消費・投資・貯蓄を定義すると、
経済社会全体の合計の所得・消費・投資・貯蓄について
  所得=消費+投資
  貯蓄=所得-消費
  投資=貯蓄
となる、ということがわります。

ここで、
貯蓄=所得-消費
は定義のようなものですから、経済社会全体でなくても個々の経済主体すなわち一人の労働者、一つの企業でも成立するのですが、それ以外の
  所得=消費+投資
  投資=貯蓄
は経済社会全体の合計について成立つ式で、個々の経済主体では成立しないし、労働者全体でも企業全体でも成立しないものです。

で、この式の簡単な例として
ある消費者が100円の消費をした場合、経済社会全体では
所得=30円、消費=100円、貯蓄=-70円、投資=-70円
となる、とか
ある企業が100円の投資をした場合、経済社会全体では
所得=50円、消費=0円、貯蓄=50円、投資=50円
となる、という例を紹介しました。

このような例で説明すると、上記の所得・消費・貯蓄・投資の式もかなり良く分かると思うのですが、経済学ではこのような説明はあまり(あるいは全く)ないようです。

会計の方ではこのような簡単な例で説明するというのは良くある話なのですが、経済学では例の代わりに訳の分からない式を作って訳の分からない議論をすることになっているようです。その結果として自他共に訳の分からない議論をする、ということのようです。

また上記の『貯蓄』というのは定義通り【所得-消費】ということですから、銀行預金とか国債や社債など債券を買うとかとは全く関係のない話です。宇沢弘文さん、宮崎義一さん、伊東光晴さんの本を読むと、どうもここの所、消費者が所得の一部を消費しないでとっておくと、それが銀行預金や債券の購入を通じて企業に流れていって、企業の投資になる。それが【投資=貯蓄】の意味だ、と思っているようです。

これではまるで話が違ってしまいます。ケインズの世界(あるいは現実の世界)では消費者が余ったお金をタンス預金にしてもカメの中に入れて庭に埋めておいても、話は変わりません。また企業の方も余ったお金をすぐに投資に使わないで、そのまま現金で持っていても話は変わりません。それらの場合でも【投資=貯蓄】は成立ちます。

確かに古典派の世界では労働者も企業もトコトン利益を追求するので、せっかく持っているお金を全く活用しないで寝かせておくというのはあり得ない話なんですが、もちろん現実は全く活用しないで寝かせておくお金というのは、労働者・消費者でも企業でもごく当たり前に良くある話です。

で、ケインズは私が【売上げ総所得】と呼ぶことにした、各企業についてはその企業の所得(利益)とその企業に雇われている労働者の所得(労賃)の合計、経済社会全体ではその中の全企業の売上げ総所得の合計、即ち全企業の所得と全労働者の所得の合計、即ち全ての所得の合計を中心に議論を進めようとしています。

企業はその企業の所得(利益)を増やすことだけを考えます。するとその企業の売上げ総所得(企業の利益とその企業に雇われている労働者の所得の合計)が決まった時、労働者に払う労賃を減らせば企業の利益をもっと増やせるので、その方が有利なように思えます。

しかし、そうなると労働者の所得が減ってしまい、労働者の消費が減ってしまい、結局経済社会全体の所得が減ってしまい、回り回ってその企業の所得も減ってしまう。そのため企業としては労賃を減らすことを考えるのではなく、売上げ総所得を増やすことを考えることが大事だ、と考えるわけです。

労働者の方は自分の所得を増やすことだけを目的とします。すると企業の売上げ総所得が決まった時、企業の取り分を少なくして、その分労働者の取り分を増やすことができればその方が有利のように思えます。

しかしそうすると企業の利益が減ってしまい、投資に回すお金が減って、企業は生産活動を縮小しなければならなくなり、経済社会全体の売上げ総所得が減ってしまうことになり、回り回ってその企業の売上げ総所得も減ってしまい、結局その企業の労働者の労賃も減ってしまうということになります。それより労働者としても企業の売上げ総所得、そして経済社会全体の売上げ総所得を増やす方が良いということになります。

そこで次はどうやって企業の売上げ総所得を増やすのか、あるいは経済社会全体の所得を増やすのか、という話になります。

企業が売上げ総所得を大きくしようとしても、できることは投資を増やし、生産活動を増やすことだけです。ですからまずは企業がどのように投資を決めるのか、考える必要があります。

一方消費者が経済社会全体の総得を大きくしようとしても、できることは消費を増やすことだけです。一般理論はこのため消費者はどれだけ消費するかをどのように決めるのか、企業はどれだけ投資するかをどのように決めるのか、ということをテーマとして議論します。

その前に有効需要について考えておく必要があります。
有効需要というのは『その10』で簡単にコメントしましたが、次のようなものです。

需要曲線(需要関数)を次のように考えます。
ある企業がN人の労働者を雇うとすると、その労働者の生産力で、これだけの売上げ総所得が得られるだろうという、雇用する労働者の数と売上げ総所得の関係を表す曲線(あるいは関数)。
供給曲線(供給関数)は次のように考えます。
ある企業がN人の労働者を雇うんだったら、これだけの売上げ総所得が得られないと困るよな、という、雇用する労働者の数と売上げ総所得の関係を表す曲線(あるいは関数)。

で、この需要曲線と供給曲線の交わる所で、企業の期待する売上総所得は極大になり、その点での雇用する労働者の数と売上げ総所得が決まるという具合です。
その交わった所の売上げ総所得のことをその企業の有効需要といい、全ての企業の有効需要の合計を経済社会全体の有効需要という、ということです。

この有効需要に関して、いくつか重要なポイントがあります。

  1. 有効需要というのは、生産量で量るのでもなく、売上げ高で量るのでもなく、売上げ総所得で計る。
  2. 有効需要を決める需要関数(曲線)・供給関数(曲線)は、いずれも企業あるいは供給者がそれぞれの期待(見通し・希望・見込み)にもとづいて決めたものだ。
  3. 有効需要の売上げ総所得が実現する保証はない。現実の経済社会の所得の合計が、有効需要の合計とは必ずしも一致しない。

ということで、古典派の需要供給の法則とは似ているけれどまるで別のものです。

このあたり、一番大事な確認ポイントだと思うのですが、宇沢弘文さん、宮崎義一さん、伊東光晴さんの本も、あまり明確にはこのへんを解説していません。

上記のうち特に2番目の、全ては企業の期待にもとづくものであり、有効需要とは言っても需要側の考え方も、あくまで供給側の考えを通して間接的に反映されるだけだ(すなわち、買い手の意向(需要)は売り手が、買い手はこう考えているだろう、という期待で決まってしまうということ)、というのははっきりさせておく必要があります。

また3番目についても古典派の需要供給の法則では値段と数量が明確に決まってしまって、市場の関係者全員にそれが即時にはっきりわかる、ということになるのですが、ここではそれぞれの企業がどのような期待を持っているか明確には分かりませんから、有効需要は概念的にははっきりしていますが、それがいくらになるかについては明確にはならない、という性格のものです。

もちろん何もなければ日々の企業の期待の見直し、あるいは実際の生産活動の修正の結果、現実の経済社会全体の所得の合計は有効需要の合計に近くなっていくのでしょうが、その過程で状況の変化、環境の変化でどちらも変化を余儀なくされるため、いつまでたっても不一致のままということになります(とはいえ、現実には経済社会全体の所得の合計というのも計算するのはそう簡単ではありませんし、有効需要の方はなおさら集計の方法がありませんから、一致も不一致も確認のしようがないことなんですが)。

で、このように有効需要が決まり、それと合わせて雇用される労働者の数が決まると、経済社会全体で雇用される労働者の数(の期待値)も決まります。その数が労働者の総数より小さければ必然的に失業者が出て来るというあんばいです。

何らかの形で有効需要を増やすことができれば、それに対応する雇用される労働者の数も増やすことができ、社会全体の所得も増やすことができますから、メデタシメデタシとなるわけです。

これで一般理論の議論は、この有効需要を増やすために消費者についてはどうやって消費を増やすことができるのか、そもそも消費者がどれだけ消費するかというのはどのように決めているのか。企業についてはどうやって投資を増やすことができるのか、そもそも企業がどれだけ投資するかということをどのように決めているのか、という議論になるのですが、その話をする前に、ここで説明したあたりを宮崎さん・伊東さんの本や宇沢さんの本がどんな紹介の仕方をしているのか、次回ちょっとコメントしましょう。

『共産党宣言』

火曜日, 1月 5th, 2016

ピケティの『21世紀の資本』の中でピケティは、『マルクスは若くして共産党宣言を書き、その後生涯をかけてそれを正当化するために資本論を書き続けた』と書いてあります。

マルクスの資本論は何度か読もうとしたことがありますが、あまりにも非論理的・非科学的な内容で読み続けることができなかったのですが、このピケティのコメントを読んでシメタ!と思いました。

すなわちピケティの言っていることが正しいとすれば、マルクスが資本論で正当化しようとしていた共産党宣言を読んで、その内容が間違いだと確認することができれば、それで自動的に資本論の中味が間違いだということになりますので、資本論自体を読む必要がなくなるこということですから(どんなに立派な証明でも、結論が間違っていれば自動的にその証明も間違っているということです)。

資本論は岩波文庫で9冊になり、全部で3,600頁にもなりますが、共産党宣言の方はせいぜい文庫本で50ページ位のものですから、簡単に読めます。

実は資本論を読み始めた頃、友人から『資本論というのは経済学の本というより政治的文書だ』と教えてもらったことがあり、その時はその意味があまり良くわからなかったのですが、上記のピケティの言葉でその意味が良く分かりました。

で、共産党宣言ですが、歴史に関するコメントであれ、経済に関するコメントであれ、明らかに間違っていることのオンパレードですから、ごく簡単に目的を達してしまったということです。
マルクスが最初に共産党宣言を書いたのが1848年、その後の170年の歴史の知識の蓄積やその後の世界の変化を見るだけで、この共産党宣言の間違いは明らかです。

もうこれで、いつか時間をみつけて資本論を読んでみようなんてことは考えないで済みます。その意味でピケティの600頁もの本を読んだ価値は十分にあったなと思います。

この『共産党宣言』というタイトルですが、実は直訳すると『共産主義者の集まりのマニフェスト』、1872年に再販した時のタイトルが『共産主義者のマニフェスト』というものです。マニフェストというのは例の民主党が大好きな、あのマニフェストです。このタイトルを『共産党宣言』と訳したのは確かに格調高いと言えば言えそうですが、むしろコケオドシと言った方が良いのかも知れません。

いずれにしてもこれだけ間違いだらけのちっぽけな本が歴史的にあれだけ大きな影響を与えた、ということでも一読の価値はあると思います。

たかだか文庫本50ページくらいのもので、いたるところ間違い(独断と偏見)だらけの本ですが、その間違いを数え上げるのも面白いかも知れません。

お勧めはしませんが、興味があったら読んでみてもいいかも知れません。