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飯田橋の警視庁

火曜日, 7月 4th, 2023

飯田橋の警視庁に行ってきました。
事の経緯は以下のとおりです。

6月24日の土曜日、JR総武線の各駅停車で新小岩から新宿に行き、埼京線に乗り換えようと思って下りた所で何となく違和感を感じ、何だろうと思ったら眼鏡を忘れたことに気がつきました。

持っていた袋の中にもポケットの中にも見当たらず、またその眼鏡をかけていない事も確認し、さては電車の中に置き忘れたに違いないと思いました。
眼鏡については掛けてないのに掛けていると思って外そうとしたり、掛けているのに掛けてないと思って探し回ったり、ということが何度もありますので、そのあたりはちゃんと確認しています。

白内障の手術をして、手元の書類を見たりi-padやパソコンの画面をみるには眼鏡は不要なのですが、駅の時刻表の案内などを見る時は眼鏡がないと見づらいので眼鏡をかける事にしています。

で、家に帰れば白内障の手術が終わってから作った新しい眼鏡もあるので、失くした眼鏡はそのままでも良いか、と思ってそのままにしていました。

でも週明けの水曜日になって、帰宅時に大宮駅に行った時、やはり忘れ物として探してもらった方が良いかなと思い直し、駅の改札口の駅員さんに問い合わせてみました。

もし誰かがみつけて駅に届け出ていたとすると、届けた人の落とし物を拾った手続きとか、それを預かった駅員さんの預かる手続き、それを別の所に送る手続きなどいろいろ手間をかけている事になるので、こちらで何もしないとその手間を全て無駄にしてしまうので、それも失礼なものだなと思ったわけです。

で、改札口の駅員さんがいろいろ問い合わせてくれた結果、それらしき眼鏡が高円寺の駅で届けられ、その後東京駅に送られて、その後警視庁に送られているようだということで、画像で確認することはできないので直接警視庁に行って確認してください、という事でした。

そこで出てきたのが、『飯田橋の警視庁』に行って下さいという話です。

刑事もののドラマなどで『警視庁』が出てくると、良く出てくる警視庁のビルはたしか霞が関とか桜田門とかの地名で、飯田橋じゃあないよな、と思ったのですが、駅員さんがあまりにも当然のことのように『飯田橋の警視庁』と言っているので、これは帰ってネットで調べてみようと思って帰ってきました。
家で調べてみると『飯田橋の警視庁』というのは正式には『警視庁遺失物センター』という場所のようだということが分かりました。

翌日の木曜日は晴れでかなり暑くなる予想だったのですが、外に出てみると思ったより空気が涼しく、これだったら大丈夫かなと思って飯田橋に出かけました。
飯田橋にはハローワークがあって、アカラックスの会社をやっていた時に何度か行ったことがあるんですが、飯田橋の駅を出てバカでかい交差点の歩道橋を渡って、そのハローワークに行くちょっと手前の小道を左に入ると、すぐにこの『遺失物センター』の建物があります。

たとえば本などであればタイトルで特定したり、あるいは電子機器等であればメーカーや機種名を指定したりすればよいのですが、眼鏡ではそのような特定の指定の仕方ができないので、例えば眼鏡のツルのメッキが剥げているとか、レンズのコーティングがかなり剥げてまだらになっているなんて説明をし、また写真はないかと言われて、マイナンバーカードと期限切れの免許証を出したりしてその写真で、『ここで掛けている眼鏡です』と話したりして、最終的に無事懐かしい眼鏡が出てきました。

もう20年も使っていて、ほかの人にはほぼゴミと同じような物ですが、私にとってはかなり便利なメガネです。白内障の手術が終わってからこの眼鏡をかけてみると、ちょっと遠い距離を見るのにちょうど良い塩梅です。

白内障の手術は水晶体の中を空っぽにしてその中に人工のレンズを入れるんですが、そのレンズの焦点をどうするか選ぶことができます。二焦点レンズや多焦点レンズもありますが、私の手術をしてくれた先生は余程の理由がなければ単純な単焦点レンズを入れ、あとは眼鏡で調整するのが良いという考えで、私も同様に考えていたのでそのように手術して貰いました。

この古いメガネは本屋で背表紙を見たりコンビニで商品を探したりテレビを見たり、の時にちょうどいい塩梅です。手術が終わってから新しく作った眼鏡は、もっと遠い、遠くのビルを見たり月を見たりするのにちょうど良い塩梅です。

で、無事に眼鏡が戻って大宮のオフィスに帰ったのですが、途中昼食に入ったてんぷら屋さんのおねえさんの『今日は地獄の暑さだ』という言葉通りの暑さで往生しました。暑さにふらふらになりながらもなんとかオフィスに戻ってやれやれ一安心です。

とまれ、昔懐かしいメガネが戻って、まああと10年くらいは使えるか、と思うとメデタシメデタシでした。

ブログ再開

火曜日, 1月 18th, 2022

ここしばらくブログの更新、あるいは新規投稿ができませんでした。

気が付いたのは昨年の年末で、久しぶりに新しい投稿をしようとしたら、できませんでした。
で、最後の投稿の日付を見たら、去年の10月26日に投稿していますので、約2ヵ月の間に何かがあったに違いありません。

私のブログはWordPressというシステムで動かしているので、ネットで『WordPressで新規投稿が出来ない』として検索してみると、これこれこうやったら直ったとか、そうやっても直らなかったとか色々な記事があって、良く分かりません。WordPressをいじくるとなると、まずはインターネットサービスのサーバーに入れるようにしなくてはならないし、WordPressに手を入れるとなるとそのプログラムをダウンロードできるようにしなければならないし、WordPressで使っているデータベースをいじらなければならないということで、その都度それぞれパスワードが必要になります。

まずはそのパスワードを探す所から始める必要があります。勿論そのパスワードは自分で設定しているものですが、一旦パスワードを設定して一連の作業が無事に終わってしまうともうそのパスワードを使うこともなく、当然忘却のかなたに行ってしまいます。もちろんどこかに記録はとってありますが、それがどこか・・なんてことを覚えているはずもなく、一昨年暮から昨年の年始めにかけての引っ越しで、オフィスに山積みになっているダンボールの中で、どの書類がどのダンボールに眠っているのかも分かりません。

で、作業は年明け落ち着いてからやろうと思って一旦棚上げし、先週の終わり頃からパスワードの探索作業から開始しました。

投稿ができないとなったら、まずはシステムのログを取って何が問題なのか見るのが常道なんですが、ログを見るにはどうやったら良いかというのも調べなければなりません。勿論昔やったことがあるのは覚えていますが、やり方自体は全く覚えていません。

で、ようやく必要なパスワードを全て見つけ出し(あるいはパスワードを再発行し)、ログファイルも見ることができるようになったのでそれを見てみたのですが、何とも分かりません。エラーログで出て来るのは『Updateできません』というメッセージばかりです。

ここまで来ると万策尽きて、私のサイトを管理しているインターネットサービスの会社にメールを送り『WordPressの新規投稿が出来ない』というタスケテクレメールを送りました。先方でもいろいろ調べたりするのに時間がかかるかも知れないので、また1日2日くらいは待つことになるのかなと思ったら、予想より早く3時間ちょっとで返信がありました。その結果は何と『データベースが容量オーバーでパンクしているから、中のファイルを整理して空きを作れ』という事でした。

で、データベースの中味を見ると、何とブログへのアクセスのカウンターのためのデータが膨大に膨れ上がっていました。この際そのカウンターのためのデータを削除しました。それで帰宅してテストでコメントを入力してみたらちゃんと投稿できます。ヤレヤレと一安心して、待てよ、前にも同じようなことがあったなと思ってブログを「パンク」のキーワードで検索してみたら、2014年11月に同じようにデータベースがパンクして同じようにカウンターをゼロクリヤして直した、という記事がありました。ここに来るまでそんな事は全く覚えていなかったという事です。

実はこのブログにはわけのわからない、主に日本語以外のコメントの投稿(これをスパムコメントといいます)が山ほど入ってきます。仕方がないのでそれらの投稿は時々削除していたのですが(と言っても毎回数千件削除するので一度では削除しきれず、何回かに分けて削除します)、カウンターのクリヤの方は全く忘れていました。

ということでWordPressのプログラムには手を入れる必要はなく、データベースの不要なデータを消すということで、何とか問題解決となったようです。

本当にヤレヤレです。

これで年末に投稿しようとしていた記事や年末年始の読書感想文とこの記事と、色々投稿することができます。

わかってしまえば何ということもないみっともない話ですが、とりあえず解決できてチョットほっとしています。

で、これで問題解決かと思ったのですが、実際にカウンターのテーブルを削除し、ついでにカウンターを動かすためのプラグインを削除した所、サイドバーという、本文の記事の右に出ている、カウンター・更新通知の申込・ブログ内検索・カレンダー・カテゴリー・最近の投稿等々、一番下に管理画面へのリンク等が入っている部分がほとんど全部消えてしまいました。投稿の本体は読めるのですが、背景の色が途中から変わってしまったり、かなりみっともないものになってしまいました。

こうなったのはカウンターのプラグインを削除したからだから、これを元に戻せば良いかと思ったのですが、このプラグイン自体セキュイリティの関係か何かでもうインストールできなくなっていました。仕方ないのでこのサイドバーを表示するためのプログラムを眺めていたら、アクセスカウンターを表示する部分で、カウンターのプラグインで設定している変数が使われているんだけれど、プラグインを削除してしまったのでその変数が設定されず、それを表示しようとしてエラーが発生し、その部分から下の表示が全部消えてしまった事がわかりました。で、このサイドバーからカウンターの表示の部分を削除し、そのままではちょっと寂しいので代わりに今まで処理したスパムコメントの数を表示するようにしたら、何とか以前と同じような体裁になりました。

インターネットの関係のプログラムでは、何かエラーが発生した時、普通のプログラムと違って、だまってやめて知らん顔をしているので、それを直すのはなかなか厄介です。

とまれ、本当にヤレヤレです。

e-tax

金曜日, 1月 1st, 2021

令和2年の所得税の申告から、いよいよ青色申告の個人事業主として確定申告しようと準備していたのですが、12月の半ばを過ぎて、『e-taxを使うと青色申告の控除が10万円多くなる(というよりe-taxを使わないと控除額が10万円少なくなる)』と教えてもらって、それじゃあe-taxを使おうか、そのためにicカードリーダーを買おうか、と思うようになりました。
仮に税率が10%だとしても、10万円の10%で1万円、カードリーダーの代金くらいは軽く出そうです。
で、近くのヨドバシカメラに買いに行ったのですが、陳列棚には見当たりません。店員に聞いたら、レジカウンターの後ろに置いてある、ということでした。
レジカウンターで聞いたら3種類ほど出してきました。接触型が2つ、非接触型が1つです。どうせ年に1度くらいしか使わないんだから、一番安いのでいいだろう、と思ってロジック社製の接触型のカードリーダーを2,000円ちょっとで買いました。
大宮のオフィスにはMacのPCしかなく、これでwindowsは動くようになっているのですが、外部との接続はusbのc-typeしかなく、カードリーダーのa-typeのusb を接続するにはusb ハブが必要になります。で、そのusb ハブも買って、これを経由してカードリーダーを接続し、使えるかどうか試してみました。
e-taxの登録手続きは、いろいろ振り回されながらもなんとかなったのですが、マイナンバーカードを読むところでどうもうまく行きません。
その理由として考えられるのは
1.pcがmacのpcで、windowsを動かしているから
2.カードリーダーをつなげるのにusb ハブを経由しているから
3.カードリーダーが安いから
4.マイナンバーカード自体に問題があるから
と、これだけあるとなかなか決めかねますが、多分、3番目か4番目があやしい、と思いました。
しばらくいろいろいじくり回して、夕方またヨドバシカメラに行き、『マイナンバーカードをうまく読めないから』と言ってカードリーダーを別のものに替えてもらいました。
家に帰って、今度は娘のwindows のPCにカードリーダーを直付けして試してみたのですが、やはりカードが読めません。困ったな、と思ってしかたなくいろいろネットで検索していたら、『点字付きのマイナンバーカードは接触型のカードリーダーでは読めないかもしれない』という記載がありました。
私のマイナンバーカードは、ついでのことに点字付きにしているので、『これだ』と思い、もう一度ヨドバシカメラに行き、3種類のカードリーダーのうちの、一番高いソニーの非接触型のものに差額を払って替えてもらいました。差額は700円くらいのものですが、2,000円ちょっとのものが3,000円弱になるんですから比率でいうと4割くらい高くなります。
これを大宮のオフィスに持っていったら今度はすんなりマイナンバーカードを読むことができました。

ということでとりあえずは一件落着、なんですが、実はいまだにe-tax でマイナンバーカードとカードリーダーが本当に必要なのかどうか、よくわかりません。
実際に申告することになればハッキリすると思います。
あと2か月のお楽しみ、です。

会社の解散

金曜日, 1月 1st, 2021

昨日、午前中に会社の臨時株主総会を開き、会社の解散を正式に決議しました。
とはいえ、取締役も株主も私一人ですから、もちろん株主総会も紙の上だけのことです。
これで1月5日には会社解散の登記をし、私が清算人として清算作業を始めます。1月8日頃には官報に公告が出ます。うまくいけば3月中には清算作業を終了し、会社の清算結了の登記をし、清算の確定申告をして会社は正式に終わります。
その間、会社の解散の確定申告をし、個人事業主として最初の所得税の青色申告をすることになりますので、当分は暇にはなりません。4月になるとコンサル先の会社の決算作業が始まるので、まあ、6月くらいまでは何かと暇になりそうもありません。
大宮オフィスが本格的に動き出すのはその後になりそうです。

『はじめてのお盆休み』

木曜日, 9月 3rd, 2020

私の勤めるアカラックス株式会社は2001年の創業ですから、今年はちょうど20年目になります。

今年の夏は暑くて、20年で初めてお盆休みを取りました。

8月10日から14日までまるまる1週間、会社を閉じて涼しい所で過ごしました。

と言っても、GoToキャンペーンでどこかに行ったわけでもなく、会社の近くの順天堂病院に入院していました。

実は1年前くらいから目が見えにくくなり、多分白内障だろうと思っていたのですが、小さな文字がまるで見えなくなり、天眼鏡を使ったり虫メガネを使ったりしていたのですが、文字の上付き・下付きの添字がまるで分からなくなったので、手術することにしました。

駅近の眼科の診療所で診て貰ったら、やはり白内障でかなり生活に不便になっているはずなので、手術をした方が良いと言われました。

昨今はネコもシャクシも白内障手術が大はやりのようなので、それでは評判の良い病院で手術して貰いましょうか、と言った所『それはダメだ。あなたはハラダシ病という大変な病気をしているんだから、白内障の手術をきっかけにそれが再発するかも知れないので、その時に十分な対応ができる病院でないといけない』ということで、順天堂病院に紹介状を書いて貰いました。

この眼科の診療所は10年ちょっと前に私がハラダシ病をやった時、目の中を覗き込んで『網膜剥離のようだけれど、ガラス体の液が網膜の裏側に入るための穴も切れ目も網膜に見当たらないから、もしかするとハラダシ病かも知れない。すぐに順天堂病院に行ってきちんと診てもらうように』と言ってくれた病院で、その後すぐに順天堂病院に行き、月曜・火曜と2日続けて診察のあと、水曜日から緊急入院、最初10日くらいの入院と言われたのが、結局は20日弱の入院をしたきっかけとなった病院です。

20日弱の入院とは言っても、私からすれば毎日1回のステロイドの点滴をするだけで、あとは感染症予防のため病棟の外へ出るのを制限されていただけで特に手術などもなく、本を読んだりパソコンで仕事したり、あるいはお見舞いあるいは面会のお客さん対応だけでのんびり過ごした記憶しかないのですが、やはりハラダシ病というのは大変な病気だったようです。

で、入院したのが10日の月曜日、ようやく夏の暑さが本格化しテレビで「暑い」というニュ―スが満開でしたが、こちらは昼までに入院し、涼しい病室でのんびりしました。

この白内障の手術、近ごろはやりは、片目について日帰りの手術をして、手術後2週間以上あけて様子を見てその後、残った片目を同様に日帰りの手術をするというやり方のようですが、順天堂病院では1週間の入院で両目の手術をしてしまう。月曜に入院し火曜片目の手術、水曜にその結果を確認し木曜もう一方の目の手術、金曜その結果を確認して問題がなければ土曜に退院というようなスケジュールです。

で、『手術するなら入院」というのがいつのまにか『入院したら手術』ということになっているようで、『いつ入院しますか? 大部屋の方なら半年待ち、個室ならちょっとお金がかかるけどいつでも入院して手術できます』と言われ、この状態で半年は待てないので『個室で』と言ったら、あれよあれよという間に10日入院ということになってしまいました。それがたまたまお盆休みの期間になるので、20年目にしてはじめてのお盆休みとなったわけです。

手術の前はさすがにお医者さん、いろいろ脅しをかけてきます。
私の目は瞳孔の開き方がよくないようで、『普通は8割くらい開く所6割くらいしか開かない。8割と6割じゃあまり違いはないと思うかも知れないけれど、面積では8×8=64が6×6=36で半分しか開かないから、手術はかなり難しいよ』と言われたり、『水晶体の中味を超音波で分解しながら取り出して、一番外側の膜だけ残してその中にレンズを入れるんだけれど、うまく膜が綺麗に残らない場合にはレンズを目に縫い付けることになる』とか『運悪く水晶体をガラス体の中に落としてしまうこともあるけれど、その時はそのガラス体の中から水晶体の残骸を拾い上げなければならないので大手術になる』とかいろいろ脅されましたが、このようなケースに陥るようなこともなく無事に手術は済みました。

ただし瞳孔については『単に開きが悪いだけじゃなくて、手術中に瞳孔の開き方が悪くなって瞳孔がどんどん小さくなっていったので、手術中に瞳孔を開かせる薬を追加で目にかけたりして、とにかく大変難しい手術でした』と説明されました。

で、月曜日に入院して火曜日の朝右目の手術、手術があるので朝食は抜き。昼は手術が終わっているので食べることができ、夕方の診察で手術をした方の目にかけていた眼帯(といっても眼の上にガーゼを乗せ、それをテープで顔に貼り付けていたというものですが)を取ってくれて、途端に右目がはっきり見えるようになって感激でした。

水曜は1日休みですが、手術済の目の状態を確認したり次に手術する左目の手術の準備をしたりで、木曜に2回目の手術。この時は午後の手術になったので昼食抜きです。手術後の夕食は食べられました。金曜の朝の診察で、前日に手術した方の目の眼帯も取れ、両目とも良く見えるようになりました。また手術が順調にいっているので、土曜日に退院できることになりました。

白内障の手術では目の中に入れるレンズが色々あって、遠近両用だったり多焦点レンズだったり、中には片目だけで100万円を超えるようなレンズもあるようで、そのことについて先生に聞いてみたのですが、私の場合はそんな特殊なレンズを使う必要はなく、ごく普通の単焦点のレンズを入れ、あとは焦点の合わない距離については眼鏡を作ってかければ良いということでした。単焦点のレンズでどこに焦点を合わせるかについては、本や書類を読んだりパソコンの画面を見たりすることが多いのでちょっと近めのものにして下さいと言っていたのですが、手術後はそれこそ手元がはっきりくっきり見えるようになりました。

実は手術前に会社の決算の確定申告の書類を作っていたのですが(会社は6月末決算ですから、8月末までに申告が必要です)、確定申告書の項目の見出しの細かい字がまるで読めなくなっていて、前の年の申告書を見ながら、この位置にはこの数字を入れれば良いんだろう位のやり方で作っていたものを退院後見直して、見出しの小さな文字をはっきり見ながら確認することができました。

で、一週間の入院を終え土曜日に退院したのですが、その1週間酷暑が続いてそのあとは多少は涼しくなるだろうという予想が狂って、その後も酷暑が続いたというのはちょっと計算違いでしたが、入院中の一週間冷房完備の病室で手術前の時だけ除いて3食完備、入れ替わり立ち代わり美人の看護婦さんに面倒を見てもらって快適なお盆休みは終了しました。

メデタシメデタシ。

感染症モデル

月曜日, 5月 11th, 2020

藤川太さんのフェイスブックの投稿で、5月4日に専門家会議の話が出ています。これに対する野上さんのコメントにこたえる形で、北海道大学医学統計学教室の感染症の数理モデルが紹介されています。

https://biostat-hokudai.jp/seirmodel/?fbclid=IwAR1-geA6BVpzpf1BjdYc_pH6HKN5DuG3G2TS07KxZBT1-bzAjF0cDcSB1qM

実際のモデル自体は

http://3.22.235.181:3838/ec2-user/SEIRmodel/

で、ブラウザ上でパラメータを入力して『submit』すると、シミュレーション結果を表及びグラフの形でブラウザ上に出してくれる、というものです。

これはRという統計関係とグラフ描画を得意とするソフトで作られたものだそうです。

ここでもととなっているモデルは北海道大学の西浦先生、稲葉先生が統計数理という雑誌に過去にレビューした論文
https://www.ism.ac.jp/editsec/toukei/pdf/54-2-461.pdf
のモデルが元となっているようです。

この論文では感染症モデルを微分方程式の形で

SIRモデルでは
dS(t)/dt = −βS(t)I(t),
dI(t)/dt= βS(t)I(t) − γI(t),
dR(t)/dt = γI(t)
.
SEIRモデルでは
dS(t)/dt = −βS(t)I(t),
dE(t)/dt = βS(t)I(t) − εE(t),
dI(t)/dt = εE(t) − γI(t),
dR(t)/dt = γI(t)

としていますが、1日単位の変動のモデル化ですから微分方程式でなくても、差分方程式にしてもほぼ同様の結果が得られます。

そこで例えばSEIRモデルについては

S(t+1)=S(t) −βS(t)I(t),
E(t+1)=E(t)+βS(t)I(t) − εE(t),
I(t+1)=I(t)+εE(t) − γI(t),
R(t+1)=R(t)+γI(t)

という形にして、例えばエクセルかなんかで計算させ、それをグラフにすれば、よく見る感染症モデルの、未感染者、潜伏期の人数、感染者の人数、感染済みの人数のグラフが手に入ります。

北海道大学医学統計学教室の感染症の数理モデルでは、パラメーターとして
基本再生産数(R0)
感染待ち期間(Average incubation period)
感染性期間(Average infectious period)
を与えるところから始まりますが、上の微分方程式あるいは差分方程式のパラメータのβ、ε、γの関係は、
β= R0*γ/ S(0)
ε=1/感染待ち期間
γ=1/感染性期間
となります。

MathJaxのtest

月曜日, 9月 18th, 2017

ブラウザで $\LaTeX$ の出力と同様な出力ができる、MathJaxというものがあることが分かったので、そのテストです。

これで、記事の投稿も、コメントも、数式を使ってもきれいに出力できます。

test
\[I=0.001\times P\times 365=0.365\cdot P\]
\[\frac{1}{3}\]

test

\begin{align}
a=b \cdot P \\
c=d^e
% a = b \cdot P \\
% c = d^e^f \cdot P
\end{align}

\[I=0.001\times P\times 365=0.365\cdot P\]
\[\frac{1}{3}\]

\begin{align}
\overline{x} &= \frac{x_1 + x_2 + \cdots + x_n}{n} \\
&= \frac{1}{n} \sum_{k = 1}^n x_k \\
% a = b \cdot P \\
% c = d^e^f \cdot P
\end{align}

原 秀男 『二・二六事件軍法会議』

月曜日, 12月 12th, 2016

この本の著者は、昭和11年の2.26事件の時受験勉強で上野の図書館にいて、あとから来た受験生仲間に事件のことを聞かされ、その後昭和15年に今で言えば司法試験に相当する高等文官試験司法科試験に合格し、大学をやめて陸軍の法務官になったという人です。

最初に実習生(今でいう司法修習生)として配属された近衛師団軍法会議・第一師団軍法会議で、以前から興味があった2.26事件関係の資料を見つけ、できるだけ時間を取ってそれを見て、次に本格的に配属された京都の法務部では東京で見ることができなかった、事件の概要と法律の適用をまとめた資料を見せてもらい、見せてくれた法務部長に『判決を非公開にしているのは憲法違反ではないか』と質問し、『フフッ』と笑われて返事をしてもらえなかった、とのことです。

2.26事件の軍法会議は特別の軍法会議として非公開、一審のみ弁護士なし、しかも軍人以外も事件の関係者を一緒に裁判するということで、特別の法律により行われたのですが、そこには判決を非公開にするという規定はなく、これを非公開にするのは帝国憲法に違反するのではないか、といういかにも法律の専門家らしい質問です。これに対して、京都の師団の法務部長(この人も法律の専門家の法務官です)は、憲法違反が分かっていながら軍の意向で何ともできないことを『フフッ』で示したものだと思われます。

その後著者は中国から南方に転戦し、復員後弁護士活動をしながらもずっと2.26事件の軍法会議について考えていたということです。

2.26事件の資料については、空襲で焼かれたとか終戦時に陸軍省が焼き捨てたとかGHQが持って行ったとか様々の噂があったものを、最終的に、一旦GHQに押収されたものがその後返却され、東京地検に渡されたという所まで確認し、以後東京地検の幹部に会うたびに地検にあるはずだから探して公表するように言ってきたということです。

昭和の終り頃ようやく資料が地検にあることが確認され、平成5年にようやく公開され、著者もようやく見ることができたとのことです。

著者は現役の陸軍法務官でしたから、軍の裁判・軍法会議が実際どのように行われるか、良く分かっています。

軍法会議の対象になるのは軍の刑事事件ですから、その手続きは刑事訴訟法に準じたやり方になっており、戦前のことですから戦前の刑事訴訟法の手続きに似たやり方のようです。

この刑事訴訟法、戦前と戦後では大きく変わっており、戦後の裁判については映画やテレビドラマ等で何となくわかったような気になっていますが、戦前の裁判の手続きはこれとはまるで違っていたようです。

たとえば今の刑事裁判では、検察側と弁護側で交互に被告や証人に対し尋問し反対尋問し、というのを延々と繰り返し、裁判官はそれをずっと聞いているというイメージがありますが、戦前の刑事裁判では被告や証人に対する尋問は裁判長が行ない、検察官や弁護士は裁判官の許可がなければ発言することも尋問することもできなかった、なんてことが書いてあります。このことを踏まえるか踏まえないかで、2.26事件の裁判記録に読み方も変わってくるように思います。

この裁判で事件の黒幕と言われた真崎大将と反乱側の磯部浅一の『対決』という話があり、真崎大将の側も磯部浅一の側もそれぞれまるで異なった記録を残していますが、著者によるとどちらも戦前の刑事訴訟法に準じた軍法会議ではあり得ないような話だ、ということで、それが新たに公表された記録により実際どのように裁判が行われたのかが明確になり、真崎大将も磯部浅一もどちらもとんでもない嘘を言っていたことが明らかになりました。

また2.26事件の時戒厳令が出されたと一般に解説され、普通はそんなものかと思っていますが、さすがに著者は専門家ですからそこの所もきちんと解説しています。

帝国憲法には第14条に『天皇は戒厳を宣告す』となっているのですが、それについては『戒厳の要件及び効力は法律を持ってこれを定む』となっていて、じゃぁその法律があるのかと思うと、その法律はないということです。帝国憲法ができてから2.26事件の時まで、誰もその法律を作ろうとしなかったということです。

で、そうなると帝国憲法ができる前の太政官布告の戒厳令が有効になるので、それを使ったのかと思うとそうでもなく、2.26事件の時は2.26事件のためだけに緊急勅令の形で特別の戒厳令を作り(帝国憲法では緊急時には天皇が勅令の形で法律を作り、事後的に国会で承認する手続きが定められています)、これを適用させたんだということです(2.26事件の特別の軍法会議もこれと同様、2.26事件のために特別に作られたものです)。

戒厳令というと、これが出ると戒厳司令官は何でもできる『斬り捨て御免』のようなイメージがあり、軍人達の多くはそう思っていたようですが、実はそうではなく、たとえばこの2.26事件の時の戒厳令は、一定の地域について

    • 地方行政事務と司法事務のうち、軍事に関係のあるものについて戒厳司令官が指揮できる。
      憲法で保障されている居住移転の自由、住居の不可侵、住居の秘密、所有権の不可侵、言論・著作・集合・結社の自由の諸権制を戒厳司令官が停止できる。
  • というだけのことです。

    これ以外のことについては当然憲法や他の法律が適用されるということです。当然『斬り捨てご免』なんてことになったら殺人罪が適用されます。
    2.26事件では、26日の朝、未明に事件が発生し、26日の夜にはこのあたり全てをきちんと整理して緊急勅令を出して、戒厳司令官を任命しているんですから、このあたりの法務官僚の働きは素晴らしいものです。

    香椎(かしい)浩平中将というのは、2.26事件の当時、東京警備司令部の司令官で(ですから東京で軍の反乱が起きたらまず最初に鎮圧に動き出さなければならない立場の人です)、戒厳令の発令と同時に戒厳司令官になった人ですが、この時、他の大将達が宮中と陸軍大臣官邸の間を行ったり来たりウロウロしている中、ただ一人反乱軍の青年将校達のために自分の立場を利用して最大限の支援をした人です。この人に対して、反乱軍を支援した、ということで強制捜査をすることに関して、「すべきだ」という結論の報告書と「すべきでない」という結論の報告書の両方を匂坂(さきさか)法務官が作成したということは、澤地久枝さんの『雪は汚れていた』という本に書かれていたのですが、新たに公開された2.26事件資料ではそのどちらも使われず、最後のページが破り取られた所に朱書きで『証拠不十分で不起訴』という意味の結論が書かれていたという、びっくりするような話も報告されています。

    匂坂さんはこの香椎中将の捜査を通して、真崎大将がこの事件の黒幕だったことを証明しようとしたのですが、香椎中将は強制捜査の対象とされず、事態が終息した所で軍から放り出されて終わったのですが、真崎大将の方は軍法会議に拘留され、取り調べを受け裁判を受けることになりました。この裁判の最後の判決文を書く所で、法務官として裁判官の一人だった小川関冶郎さんは有罪を主張し、これ以外の二人の軍人の裁判官は無罪を主張し、最後には裁判長である軍人が、病気を理由に裁判官を降りることによってこの真崎大将の裁判自体をなかったものにしよう、という所まで来たため、結局小川法務官が折れて『真崎大将は反乱軍を有利にするための行動をいろいろしたのは確かだけれど、反乱軍を有利にしようとしてそうしたとは言えないから無罪』という何とも不思議な判決文を書いた、などという話も詳しく説明しています。

    小川法務官の真崎大将関係の資料は、みすず書房の『現代史資料』の23巻『国家主義運動3』の中に、永田鉄山惨殺の相沢事件関係資料と一緒に入っています。
    この中には小川法務官の『2.26事件秘史』というメモも入っており2.26事件の全体像を理解するのに最高のまとめだと思います。

    いずれにしてもこの原秀男さんという人は、中国からフィリピン、オーストラリアの北部まで行って、戦争が終わり収容所に入ってからも軍法会議を続けたというなかなか骨のある本物の法律家です。

    法務官という特殊な立場にいた人の解説は他ではなかなか得られない貴重なものです。

    お勧めします。

    日本国憲法とそのGHQの原案

    火曜日, 4月 19th, 2016

    憲法改正がいよいよ現実的なテーマとなっています。
    国会の質疑でも、まだ改正案が国会に提出されたわけでもないのに、野党はまともな質問もできないため、自民党の憲法改正案をもとに何だかんだ質問しています。

    このような状況で、安倍さんもいよいよ選挙が終わったら本格的に憲法改正に動き出そうとしているようです。

    今の憲法には不磨の大典として一語一句変えてはいけないという意見と、敗戦のドサクサに占領軍に押し付けられた憲法は一日も早く国民の手で作り直さなければならない、という意見とがあります。

    となると、まずは今の憲法が本当に押し付けられたものなのか、あるいはスタートは押し付けられたものであってもその後1年近くかけて国会で議論し手を入れてできたものなのか、確かめておいた方が良さそうです。

    ということで、今の憲法とGHQの原案を見比べてみることにしました。原案の方は国会図書館のサイトにあったものですから、多分間違いはないと思います。

    で、これを見比べてみると、基本的に今の憲法はGHQの原案と大筋同じようなものになっているのは確かですが、と同時に変更したり削除したり追加したりした部分も色々あり、その違いの原因・理由を考えるとなかなか興味深いものがあります。
    もし興味があったら私の作った対比表

    日本国憲法(GHQ原案との対比)

    を見てみて下さい。今の憲法の条文の対応する所にGHQの原案の条文を置いてあります。

    で、まずは憲法前文ですが、この部分は原案の直訳になっているようです。原案は格調高い(すなわち分かりにくい、古風な)英文で、これを直訳しているので憲法前文はなおさら分かりにくい悪文になってしまっています。分かりにくい所は原案の方読めばまだ分かりやすいかも知れません。

    次に『第一章 天皇』の所です。ここは今の憲法と原案がほぼ同じなのですが、一カ所だけ、今の憲法第6条・原案では第5条の所、今の憲法では内閣総理大臣と最高裁判所長官について、『天皇が任命する』となっているんですが、原案では内閣総理大臣の規定だけで、最高裁判所長官についての規定はありません。これは原案の方が書き洩らしたということなのか、原案は司法より行政を上位に置いたのか、それとも何か他の理由があったのか、興味があります。

    次は『戦争放棄』の9条(原案は8条)の規定です。
    ここはなかなか面白いです。
    まず第一項の
    『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』
    ですが、最初の
    『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、』の能書きの部分、原案にはありません。そして
    『国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』
    という部分、原案では戦争については「abolished」と言い、武力による威嚇と武力の行使の所は「renounced」という言葉を使っています。英語というのは同じ言葉を使うより言葉を変える方がカッコイイという感覚があるのでそれだけのことなのかも知れませんが、そうでないかも知れません。ちなみにabolishというのは廃止というくらいの意味で、renounceというのは放棄という位の意味です。

    さらに『国際紛争を解決する手段としては』の部分、憲法では『戦争と武力による威嚇・武力の行使』の全てにかかるのに対し、原案では『武力による威嚇、武力の行使』の部分にだけかかっています。すなわち原案では、戦争放棄(あるいは戦争廃止)の部分にはこの『国際紛争を解決する手段としては』の部分がかかっていないで、無制限での戦争放棄(あるいは廃止)となっています。

    第二項の
    『前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』の方は、最初の『前項の目的を達するため、』の部分、原案にはありません。そして『陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない』の所は(not)authorizedという言葉、『国の交戦権はこれを認めない』の部分は(not)conferredという言葉になっています。conferの方は権利を与えるという意味ですから、(not)conferredというのは権利を認めない、ということと同じです。authorizeの方は公認するとか正当化するということですから、(not)authorizedを『保有しない』というのはちょっと違いそうです。(not)authorizeだと、公認しなければ、日本の軍隊だと言わなければ、非公式の、非公認の軍隊であれば持っても良いと解釈できそうです。この辺自衛隊は軍隊ではないと言い続けて、正式に軍隊だ、と認めなかった自衛隊の存在を何か暗示しているようで、興味深いですね。原案ができたのは第二次大戦が終わったばかりの時で、その戦争では義勇軍など非正規の軍隊がいろいろあったということを反映しているのかもしれませんし、武器の保有は基本的人権の一つだ、というアメリカ流の考え方の反映なのかも知れませんが。
    ちなみにアメリカの合衆国憲法修正第2条は
    『規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。』
    となっています。この民兵のような、正式の(あるいは公式の)軍隊でない軍隊のことを考えていたのかもしれません。

    次の第三章が『国民の権利及び義務』の章です。
    ここのところ、『国民の権利』ではなく『国民の権利及び義務』となっているのは要注意です。この標題を見るだけで、そこらの憲法学者が『憲法は国を規制するためのものだから、国民は憲法を守らなくてもいい』などというのがまるっきり嘘っぱちだ、ということがよくわかります。

    ここでは原案にある条文を全く削除している部分がいくつもあり、その理由を考えるととても面白いです。

    憲法10条の『日本国民たる要件は、法律でこれを定める。』は原案にはありません。まあこれはあってもなくても同じようなもので、大日本帝国憲法にもあるのであえて削除しなくても、ということでしょうか。

    次の11条は原案の9条と10条とを合わせたものです。この原案の10条は、能書きの部分を除いた部分が憲法の11条に書かれ、と同時に能書きの部分を含んだその全体が憲法の97条になっています。その意味で憲法11条と97条は重複した規定になっています。

    自民党の憲法改正案で、この97条にあたる部分を削除したと言って野党(の一部)が大騒ぎをしていますが、もともと原案の10条を憲法11条に入れながら、それを憲法97条にも重複して規定したのを元に戻すだけのことですから、問題にする方がおかしい、ということが良く分かります。

    憲法の12条は『この憲法が国民に保障する自由および権利は…』となっていますが、原案では『・・・自由、権利および機会は…』となっています。この『機会』が何を意味しているのか良く分かりませんが、考えてみると面白そうです。

    また第二のパラグラフの
    『国民はこれ(憲法が国民に保障する自由および権利)を濫用してはならないのであって』の部分、原案は『国民はこれを濫用させないようにする義務を負う。』あるいは『国民はこれを濫用させてはならない。』となっていて、大分意味が違います。

    次の憲法13条ですが、対応する原案12条には、最初に『日本の封建制は終了する。』という文がありますが、これは憲法では削除されています。

    また、『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』の部分、原案では『生命、自由及び公共の福祉に反しない範囲の幸福追求に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』となっています。
    これを同じ意味だ、と考える人もいるかもしれませんが、私はかなり意味が違うと思います。

    憲法15条と対応する原案14条では、原案の最初にある
    『政府と天皇を決める最終的な権威者は国民である。』
    という部分が削除され、代わりに第3項の
    『公務員の選挙については成人者による普通選挙を保障する。』が追加されています。

    原案16条には『外国人は法律により(国民と)同様の保護を受ける。』とありますが、これは憲法では全部削除されています。

    一方憲法17条の『何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。』というのは、対応する原案なしに追加されています。

    憲法24条・原案23条は、婚姻に関する例の『婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し・・・』という規定ですが、原案ではその前に
    『家族は人間社会の基盤であり、その伝統は良かれ悪しかれ国民の全体に行き渡っている。』という前置きがあります。また『(親の強制でなく)両性の合意のみに基づいて成立し』
    『(男性が支配するのでなく)相互の協力により維持されなければならない。』
    という具合に、原案にある(  )の部分を憲法では削除しています。
    原案を作った人は、ここまで具体的に書く必要がある、と思っていたんでしようか。

    何となく家族制度重視は日本的な考えのような気がしますが、実はアメリカ流の原案の方が家族重視だったのかも知れません。

    少し飛んで原案28条と29条の最初の部分は、憲法には入っていません。
    原案28条は
    『土地と自然資源の最終的な所有権は国民の代表としての国にある。土地と自然資源は、それを保全し、開発し、利用し、コントロールするために国は、正当な補償の下にこれを取得する権利がある。』
    となっています

    これは日本では大昔の公地公民を思わせますが、それはもう千年も前に日本ではなくなってしまい、全ての土地は誰かの所有物になっているので、この規定は削除されたのかも知れません。アメリカではちょっと郊外に行けば広大な誰の物でもない土地が広がっている、という開拓時代のアメリカの考え方が原案に反映されているのかも知れません。

    原案29条には
     『財産の所有には義務が伴う。所有する財産は公共の利益のために使わなければならない。』
    と最初に書いてありますが、これも憲法には入っていません。

    原案37条には憲法にはない
     『何人も正当な裁判所以外の所で有罪を宣告されることはない。』
    という文があります。これも住民裁判や人民裁判など、昔のアメリカの西部劇ドラマや黒人差別撤廃の公民権運動などを思い出すと、アメリカというのはこういう国なのかなと思います。

    『第四章 国会』の規定では、原案が一院制だったのが憲法は大日本帝国憲法と同様、二院制を採用しているため、その違いによる規定の変更がいろいろあります。

    『第五章 内閣』の規定では原案では55条の後半に
    『国会は国務大臣のうちの何人かを任命する。』とあり、
    56条の最初には
    『総理大臣は国会の助言と同意にもとづき国務大臣を任命する。』
    とあります。これらに対応する憲法の規定は、68条の
     『内閣総理大臣は国務大臣を任命する。ただしその過半数は国会議員の中から選ばれなければならない。』
    となっています。総理大臣は国会に制約されることなく自由に国務大臣を任命することができるわけです。三権のうちの立法と行政の力関係が微妙に異なっているようです。

    次は『第六章 司法』です。原案ではこの章の最初の68条の頭に
    『強力で独立した司法は国民の権利の防波堤であり、・・・』
    という能書きが、対応する憲法76条の『すべての司法権は、最高裁判所及び法律の定める所により設置する下級裁判所に属する』という文章の前についています。

    また原案69条 憲法77条の規定中、検察官について、原案では
    『検察官は裁判所の役人でありその規則に従わなければならない。』
    となっている所が、憲法では
    『検察官は最高裁判所の定める規則に従はなければならない。』
    となっており、実際現状、検察官は行政府(検察庁)の役人であり、司法府(裁判所)の役人ではありません。

    司法に関して一番大事な違憲審査権について、憲法は81条で
    『最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。』
    となっていますが、原案(73条)はかなり違っています。
    すなわち、『最高裁判所が、法律等が憲法に適合するかどうかの終審裁判所であるのは、憲法第3条の人権の部分についてだけだ』、と限定しています。そして『憲法のそれ以外の部分に関する合憲・違憲の最高裁判所の判断は、国会による再審査に付される。』となっています。

    『最高裁判所の違憲判決を国会の再審査で無効にするには、国会議員の3分の2以上の賛成が必要だ』というかなり厳しい条件も付いていますが、いずれにしても最高裁判所の判決が必ずしも最終ではない、さらにその先に国会があるということになっていたとは驚きです。

    このようになっていると司法が立法より下にあるかのようにも思えますが、逆に最終判断は国民の代表者が集まる国会でやって貰える、というわけですから裁判所が違憲判決を出すのはかえってやりやすくなるのかも知れません。

    以上、ざっと目についた所をピックアップしてみました。
    GHQの原案と最終的な日本国憲法、いろいろ違いもありますが、全体としては殆ど同じ、と言っても良さそうです。

    これを押し付けだからと解釈することもできそうですし、日本人がきちんと議論したからだ、と考えることもできそうです。

    むしろ大事なのは、この違いの所についてこの当時の人達がどのように考えて削除したり追加したり修正したのか、そして現時点から見てその差異の部分はどうするのが望ましいか、考えることだと思います。

    とまれ、上にピックアップした差異の所、じっくりと吟味すると面白いと思います。
    参考までに私の作った対比表をネットに上げておきます。

    日本国憲法(GHQ原案との対比)

    興味があったら自分で確かめてみて下さい。

    画面印刷

    月曜日, 10月 15th, 2012

    昔パソコンには「画面印刷」というキーがあり、そこを押すと画面がそのままプリンターから出てきました。

    このキーは今でもあるのですが(「画面印刷」というより「PrintScreen」の方が普通かもしれません)、今ではそのままではプリンターから何も出てきません。画面のイメージ画像がクリップボードに貼り付けられるだけなので、これをプリンターから出すためにはワードとかエクセルとかパワーポイントとかのファイルにそれを貼り付けて印刷する、ということになります。

    今の若い人はいろいろ紙になんか出さないで、画面で見て全ての処理ができるんでしょうが、私はとにかく紙に出さないとじっくり読めないので、何でもかんでも印刷してしまいます。

    たいていのものは印刷できるんですが、時として印刷できない画面のレイアウトとか、わざわざ印刷できないように設定してあるpdfファイルなどにぶつかると、メンドクサイナーと思いながらこの作業を繰り返しています。

    一応エクセルでは、クリップボードに貼り付けたイメージをエクセルに貼り付けて、印刷して、貼り付けたイメージを削除するという作業まではキー一発でできるようにマクロを組んでいるのですが、それでも印刷したい画面を出すソフトとエクセルの間を行ったり来たりするので、結構手間がかかります。

    近頃仕事でかなり大量の画面を印刷する必要があり、何とか我慢して何時間かかけてその手順を実行したのですが、同様の作業をあと何回か繰り返すことになりそうなので、これを何とかすることにしました。

    以前も何か良い手がないかな・・と思っていろいろ探したのですが、良いツールがみつからず、なければ自分で作ろう!と画面を印刷するソフトを作ろうとしてみたのですがなかなかうまく行かず、トライしては失敗するというのを何回か経験しています。

    今回はいよいよどうにもならないので、改めてゼロスタートでプログラム作りをしてみたところ、結構簡単にうまく行きました。多分以前失敗したものよりスリムなプログラムになっていると思います。
    これで画面の印刷はできるようになったわけですが、これにWindowsの「ショートカットの作成」と「ショートカットキーの設定」を組合わせると、それこそ昔「画面印刷」のキーを使っていたのと同じように、何かのプログラムを動かしている最中にいつでも好きな時にキーを押すだけで画面印刷ができるようになりました(とはいえキー一つではなく、Ctrl+Alt+文字とキーを3つ一緒に押すんですが)。

    実際はそのプログラムと画面印刷のプログラムが交互に動いているのですが、使い勝手からすると単に「画面印刷」のキーを押しているのと同じような感じです。

    まあ理屈の上ではできて当然の話が、うまく行かなかったのは私のプログラミング力の不足ということではあるのですが、私にとっては数年来の宿題が思ったより簡単にうまく解決したと嬉しくなって、この記事を書いています。

    私のように何が何でも紙に出さなきゃという人は今ではあまり多くないでしょうが、そのような人で、もしまだうまい解決策が見つかっていない人がいたら、そしてもしご希望だったらプログラムをお送りしますから、お知らせ下さい。
    「ショートカットの作成」と「ショートカットキーの設定」のやり方も一緒にお知らせします。

    私はWindows XPで作成し、使っているのですが、多分他のWindows OSでもうまく動くんじゃないかと思います。

    もしソースを見てみたいという方がいたら、私のソースはdelphiなんですが、ソースもお送りします。C系の言語やVBやjavaのプログラムがわかる方だったら、delphiのソースは簡単に読めると思います。開発の途中のいろんなウゾウムゾウも残ったままですけど。