Archive for 5月, 2022

『モーセと一神教』 フロイト著

月曜日, 5月 30th, 2022

この著者のフロイト、というのは、あの精神分析のフロイトです。フロイトがユダヤ人としてオーストリアのウィーンに住み、ナチスドイツがオーストリアを占領した年に書き始め、オーストリアを脱出してイギリスのロンドンに逃げ、その翌年癌で83歳で死亡する直前に出版した本です。

この本は
第一論文  『モーセ、一人のエジプト人』
第二論文  『もしモーセがエジプト人であったなら』
第三論文  『モーセ、その民族、一神教』
の三つの論文から成っています。

このモーセというのは旧約聖書の『出エジプト記』の、『十戒』の、あのモーセです。
ユダヤ教というのは『モーセの教え』と言われるほどのもので、ユダヤ民族のシンボルのような人ですが、この人が実はユダヤ人ではなくエジプト人で、その当時エジプトにいたユダヤ人たちを率いてエジプトを逃げ出し、文明的にまだ未開であった人々を指導し教育し、一神教を強制しユダヤ教を作り上げ、ユダヤ人を作り上げた、という話です。

ユダヤ人には『選民思想』といって、『自分達は神に選ばれた民族なんだ』という考えがあるのですが、これは実はモーセに選ばれたということで、ユダヤ教の神というのはモーセにより押し付けられた神で、実質モーセこそユダヤ教の神だったという話です。

第一論文は文庫本で約25頁、モーセが実はユダヤ人ではなくエジプト人だったんだ、という話をしているのですが、第二論文は約100ページ、さらにユダヤ教を作りユダヤ人を作ったのがこのモーセだったんだという話をし、第三論文は約200ページ、何故そのようになったのかということを、フロイト流の精神分析の考え方で解明しようとしています。

エジプトというのは多神教の世界なのですが、その歴史の中で一度、一神教だったことがあり、その時の王が死んだあとその一神教の痕跡は徹底的に抹消され、王の名前までツタンクアトン王がツタンクアメン(ツタンカーメン)王と変えてしまったくらいなのだけれど、その結果、その一神教の信者であったモーセはエジプトとにとどまることができず、自分の信じる一神教の教えを受け入れる民族を探し、まだ未開だったユダヤ人を引き連れてエジプトを出、シナイ半島に渡ったという話です。

このモーセの一神教はエジプトのものよりさらに厳格なものだったようで、さすがのユダヤ人も耐えきれなくなってついにはモーセを殺し、殺してしまってから自分たちをエジプトから連れ出し、今まで指導してくれた人を殺してしまった、というその罪に恐れおののいて、その痕跡を消し、その事実を民族の記憶からも消してしまいます。その後、残忍な火の神・火山の神であるヤハウェ神を神とする同族と一体化し、その力でカナンの地を征服しますが、その後何世代か経つ頃、忘れていたはずのモーセの記憶が預言者の言葉となってよみがえり、次第にヤハウェ神をモーセの神に変えていってユダヤ教・ユダヤ人が出来上がったという話です。

この『神殺し』の話には続きがあり、ナザレのイエスが殺された後、パウロがこのイエス殺しを『神殺し』と位置づけ、キリスト教徒はその神殺しの罪を認めたので宥されているけれど、ユダヤ人はこの神殺しの罪を認めていないので救われないんだという話、このイエスの死は実はアダムの原罪を贖うために必要だったんだということ、このイエスが殺された事により神の子イエスは父の神に代わって本当の神になった、ということ等が話されます。

この神殺し・父親殺しの話、また一旦完全に抹殺したはずのモーセ殺しがどのようにして復活したのかなどの話が、精神分析の立場から、個人の無意識が表面に出てくるプロセスを民族の集団的無意識に拡張していろいろ説明されています。

私は今まで聖書関係の本はいろいろ読んでいますが、聖書自体を全体通して読むということはしたことがなく、まとまった時間が取れるようになったら、と思って友人のお母さんの聖書をすでに譲って貰っています。これまでは単に全体を読んでみようというだけの事だったのですが、これで聖書を読むための方向性というか、一つの視点のようなものができたと思います。これでなおさら読むのが楽しみになります。

フロイトは、ユダヤ人としてナチスに殺されるのではないかという恐怖の中、この論文を発表することによりユダヤ人に殺されるかも知れないという恐怖が加わり、さらに自身の癌でいつ死ぬかも知れないということもあり、ある意味鬼気迫る書となっています。第1論文、第2論文は専門誌に寄稿したものですが、第3論文はあまりにも危険なので彼自身、発表しないでおこうかと思っていたのを、思いかけず、ナチスを逃れてロンドンに亡命してしまったので、がんで死亡する直前にこの第3論文を含めてロンドンで出版した、ということです。

とんでもない本にぶち当たってしまったな、と思います。でもこのような本に巡り合うことができて良かったなと思います。

ちょっと怖いような本なので、あえてお勧めはしませんが、紹介します。

『楽しい地層図鑑』 小白井亮一著

火曜日, 5月 17th, 2022

この本も図書館の『新しく入った本』コーナーで見つけた、2021年11月4日に発行された本です。
本文200頁ちょっとですが、ふんだんに写真が入っていて、それが全て著者の撮った写真だというので驚きです。

私はNHKの『ブラタモリ』というテレビ番組が好きで大抵見ているのですが、この番組では地層や岩石の話題が良く出てきます。その内容は何とか理解できる程度のものですが、一度きちんとした本で私の理解を整理していたい、と思っていたのでお誂え向きの本です。

著者紹介では『1960年東京都生まれ 1986年3月千葉大学大学院理学研究科(地学専攻)修了 国土地理院にて測量・地図作製や災害対応の業務に携わり、2021年3月退職 趣味で関心を持ち続けてきた“石の世界(地層・化石・岩石・鉱物のこと)“について興味深く分かりやすく伝える執筆活動を始める。』とある、まさにその通りの本です。

第1章では地層がどこにどのようにあるか、地層の見つけ方と、様々な地層を紹介しています。
第2章ではその地層を作る岩石がどのようにでき、地層がどのようにできたか説明があり、第3章ではその地層で化石がどのようにできたかを説明しています。

本文の説明も丁寧で分かりやすいのですが、それに加えて付いている写真や図が非常に綺麗で、この写真を見ているだけでも飽きないで読むことができます。

基本的に自分で撮った写真ですから、ちょっと分かりにくい所は『この写真の左下の部分を拡大したのがこの写真で、ここの左下に○○が良く見えます』とか、『この写真をもっと範囲を拡大するとこの写真になって、全体が良く分かります』なんてことが自由にできます。

写真の大きさの基準として、地層を見に行くときに持って行くハンマーやカメラのレンズなどを写真に写しこんだりして、画面の大きさが分かるようにしています。

第3章では地層がどのようにできるのか、その地層のできた時代の新旧をどう判断するか、時代の前後関係だけでなく、具体的に何万年、何億年前の地層だ、というのをどのように判断するか、説明があります。この中で、話題のチバニアンについても説明があります。

また著者が化石や地層に興味を持ち、とはいえ高校生までは電車に揺られて銚子まで日帰りで行くのがやっとだったのが、大学に入ってもっと長距離長期間遠征ができるようになり、北海道から沖縄まで化石や地層を探して歩き回った時のエピソードも紹介しています。

付録にはプレートテクトニクスで地球の地殻がどのようにできたのか、特に日本ではプレート同士がぶつかり合って沈み込む時、プレートの上に乗っていた陸地が削り取られてグチャッと潰されて反対側のプレートの端に付加体として追加され、それが陸地の隆起地表に現れているのですが、その時に地層がどのように変化するかというあたりも説明しています。

日本はいくつものプレートがぶつかり合ってできていて、その上に乗っている陸地が隆起して浸食を受けたり、溝の中に沈んでいろんなものが積もったり、火山灰や火山礫(レキ)が降り積もったりというようなダイナミックな姿が丁寧に説明されています。

また第3章では地層とそれができた年代の名前と、それが何万年何億年前のものなのかという年代についても、まず地層があってそれに名前がつき、それができた年代もそれに合わせて名前が付いているということも丁寧に説明されています。

著者はもともとは化石から次第に地層に関心を持ち、日本国中の地層を尋ね歩いて写真を撮り、それを整理して本にしている、その過程を本当に楽しんでいることが良くわかる本です。

単なる写真集としても十分楽しめます。
お勧めします。

『論語 - 聖人の虚像と実像』 駒田信二著

火曜日, 5月 10th, 2022

『孔子』というとどうしても論語によって論じられることが多いのですが、孔子というのはとてつもない有名人だったため論語以外の書籍にもその言行録が書いてあります。

この本は論語以外の書籍もひっくるめて、孔子という人が何をして何を言ったかを明らかにしようとしています。

『論語』というのは何といっても儒教のバイブルで、孔子一派の人達が何人もその言行録を書き残し、それを一つの書物にまとめ上げて、不都合な部分を削除し、修正し、都合に合わせて新たに追加したりしたもので、どこまで信用できるものかという問題もありますが、いわゆる儒学者にとっては絶対的なバイブルです。
で、この論語が一応でき上がった後も、これをどう読むかということで、様々な人が様々に違った読み方を主張しています。

もともと漢文というのは単に漢字の羅列でしかないもので、個々の漢字は「読み」と「意味」はあるものの品詞の別はなく、同じ漢字が名詞になったり動詞になったり形容詞になったり、変幻自在なものです。文法もごく簡単なものがあるだけなので、意味を取るのが中々一筋縄にはいきません。

さらに漢文の世界はいわゆる『当て字あり』の世界なので、論語で使われている漢字は本当はどの漢字でどのような意味なのかを考える必要があります。漢文は基本的に句読点がないので、漢字の続きのどこで切るかで意味が違ってきます。

論語ができた時代は全て筆写の時代なので、誤字脱字は当然あり得る話で、誤字をどのように訂正するのか、脱字部分にどの文字を追加するかで話が変わってきます。さらに反語なんてものまでありますから、こじつけのしようでどのようにでも読むことができます。

それで論語というのはそのような儒学者連のコジツケ解釈のかたまりのようなものなんですが、孔子という人は有名人で、孔子の言行については論語以外にもいろんな本に記載されています。

この本では主には史記ですが、これ以外にも荀子・呂氏春秋・説苑・孟子・韓非子・礼記・荘子・易・春秋・公羊伝・漢書・論語の朱子の注、その他の文献からさまざまな文章を取り出して、孔子がどのような人で何を言い、何を考えていたのかを考えています。

この本は三章に分けて、第一章『徳治と法治―政治家としての孔子』では孔子の主張する徳治と韓非子を中心とする法家の思想『法治』がどのように違うか考察しています。聖人君主のおろし元としてあくまで徳治をめざす孔子が、実際に為政者になると平然として法治、あるいは恐怖政治をした、という話をします。

第二章は『道家的思想との接点―孔子と隠者』として道家的思想、隠者としての生き方に深い共感を覚えながらそのような道を取らずに、あくまで現実世界で為政者となることを目指した孔子の思いを考察します。

第三章『郷原と狂狷―「狂なる者」への期待』では孔子の目指す君子とそれをまねた郷原(エセ聖人君子)とを比較し、そんな偽物よりむしろ勢いはあっても欠点だらけの狂狷を良しとする孔子が、長い歴史の中で郷原的儒学者に乗っ取られ、彼らによって孔子は聖人に祭り上げられ、専制君主は郷原に利用され、郷原は専制君主に媚びへつらい、二千年来人民を苦しめてきたという言葉を紹介しています。

この本はもともと新人物往来社から『聖人の虚像と実像―論語』というタイトルで出版され、その20年後に岩波の同時代ライブラリーに『論語―聖人の虚像と実像』というタイトルで再版されたものですが、その岩波版には最後に『跋―補足的自著解説』というものが付いてます。

第二次大戦のちょっと前、著者は旧制高校の教授となり論語をテキストとして講義し、その内容を狂信的な軍国主義学生に批判され、軍から要注意人物とみなされるようになり、徴兵され中国にわたり捕虜になり、スパイと間違われ殺される寸前で助かったキッカケが書いてあります。

著者は漢学者として大御所の吉川幸次郎を批判したり自分の高校の生徒だった高橋和己が吉川幸次郎の弟子になってしまったりして、殆どの出版者が吉川幸次郎、高橋和己に忖度して著者の真面目な著作の出版を避けるようになり、結果中国の艶笑譚、小話のたぐいの紹介くらいしか出版させてもらえなかったり、面白いエピソードもたくさんある人ですが、その人が論語に書かれていること、書かれていないことを総合的に見渡して、孔子の、論語によるいわゆる聖人君子(著者はこれをデクノボーと呼んでいます)の枠に捕らわれないダイナミックな生き生きとした姿を描きます。

論語その他からの引用だらけの本で漢文の勉強になりますが、漢文にはほとんど現代日本語による訳・説明が付いていますので読みやすい本です。文庫本で200頁強位のボリュームですからすぐに読めます。
また、漢文というものが、読み方を変えるだけで(あるいはこじつけのしようで)、どこまで意味の違うものにしてしまうことができるか、という例示にもなっています。

孔子は、自分の理想の実現のために主君探しをしますが、なかなか雇い主をみつけることができませんでしたが、ようやく魯の国の摂政となりました。そうなって7日目に少正卯という男を殺しました。その理由を聞かれて『この少正卯という男は「物事に通じていて陰険である」「行為が偏っていて頑なである」「言うことは偽りであって雄弁である」「悪いことばかり良く覚えている」「良からぬことをしながら外面を繕っている」この5悪があるから「よからぬ徒党を集めて乱をなす群衆を集める事ができる」「弁舌は邪説を飾って民衆を惑わすことができる」「その勢力は非を行って独立することができる」要するに「民衆を惑わして乱をなす恐れがある」だから殺した。』と答えたということです。この少正卯を殺した結果として、『3ヵ月後には肉を不当に高く売る肉屋はなくなり、男女が道を歩く時には別々に歩き、道に落とし物があってもそれを拾って自分の物にしようとする者もいなくなった。』と話は続きます。少正卯の話は5つの悪い性格・能力があるから次の3つの悪事をするかもしれない、だから殺すということで、徳治どころか法治でもない専制恐怖政治そのものです。

このような話は儒学者達にしてみれば、聖人孔子がそんな事をするわけがないということで、論語には全く出てきませんが、「史記」「荀子」「呂氏春秋」「説苑」に出てくるくらいなので有名な話だったようです。

この少正卯を殺したという話がなければ、孔子は魯の国の摂政となり数ヵ月で悪い事をする民はなくなった。孔子ほどの人が徳をもって政治をすればこのようにあっという間に平和な良い国になる。メデタシメデタシという話になるわけです。

論語は聖人君子である孔子を描こうとして、それと違う事を除外してしまっているけれど、著者の駒田さんはこの話の中にこそ孔子の偉大さがあるんだと言っています。政治批評家・道徳家・教育者としての孔子は終始一貫、徳治、『上に立つ者が徳をもって治めれば下の者たちはそれになびくように自然に悪いことをしなくなり、平和で豊かな生活ができるようになる』と言いながら、実際に行政官となったらこのような恐怖政治でもなんでも必要なことは断固として実行する。そうしておいて行政官の地位を離れたらまた教育者に戻って徳治を主張・教育する。道学者流の『言ってる事とやってる事が違うじゃないか』なんて批評は歯牙にもかけない、そんなダイナミックな姿こそ孔子の本当の魅力なんだと言っているようです。

第二章の『道家的思想との接点―孔子と隠者』では、孔子が主君を求めて中国各地をさまよっていると、道士というより隠者という、道教を体して世を捨てた人に何度も遭遇します。そんな時孔子の方はその隠者と会って話をしたいと思うのですが、隠者の方は、もう世を捨てているのであえて孔子と会おうとしないで逃げてしまい、『そんなせせこましい世界に生きていないでこっちに来て同類になれば良いのに』というアドバイスを残すというエピソードを紹介し、心情的には孔子は隠者達に非常に近いのだけれど、孔子はあくまで世を捨てるという道を選ばす、困難に遭遇しながら現実世界にとどまり、そこで理想の徳治の国を作ろうとしたその姿を描きます。

最後の第三章『郷原と狂狷―「狂なる者」への期待』では、いかにも君子であるかのように誰からも評価され尊敬されるような郷原という生き方を偽物と決めつけ、「徳の賊」あるいは「徳を損なう者」と呼んで否定し、そんな人達よりむしろ狂狷という、ある意味過激でやり過ぎで欠点も多い人達の方を良しとする孔子の考えを紹介します。皮肉なことに孔子教団が大きくなり、政治的に大勢力になるとこの郷原的な人々が孔子教団を乗っ取ってしまい、自分流に論語を解釈し、講釈するようになる。儒者の中にも折に触れ、『それは孔子の言っている事とは違う』という意見も出て来るのだけれど、大勢は郷原的儒者の世界で、これらの人達は専制君主と結託し孔子を聖人君子(というデクノボー)に祭り上げてしまい、郷原は専制君主に媚びへつらい、専制君主は郷原に利用され、共に二千年来人民を苦しめてきた、ということです。

論語だけを読んで聖人君子としての孔子の姿しか知らないのと、論語以外の文献も併せて読んで”聖人君子”の枠には入りきらない、行動と言動の食い違いなど何も問題しないダイナミックな孔子の姿を見てみるのとで、孔子の姿がまるで違ってきます。

孔子はもともと弟子たちには、『家臣でありながら主君の権力を横取りしているような人には交わってはいけない、そんな人の家臣になってはいけない』と言っていながら、実際孔子に家来にならないかと声をかけてくるのはそんな人ばかりで、孔子の方はそれに対して積極的にそのような人の家臣になろうとします。心配する弟子たちには『私はどんなにすり減らそうとしてもすり減ることはないので大丈夫だよ』、とか『私ならどんなに黒く染めようとしても決して黒くならないから大丈夫だよ』とか、まるっきり屁理屈のような事を言って言い訳にしている、というのも面白い話です。

孔子、というと何となくいつも弟子たちに教え諭している『訓たれ』のイメージですが、本当はむしろ実行の人で、『先行(まず行う、理屈はその後だ)』なんて言葉のあることも知りました。また、孔子といえば『中庸』とふつうに思っているけれど、この言葉は孔子の孫にあたる子思が書いたといわれる『中庸』という本で宣伝されている言葉で、論語の中では1か所に出てくるだけだ、なんて話もありました。(この話は、アダムスミスの国富論の中に『(神の)見えざる手』という言葉は1か所にしか出てこない、という関係と似ているかもしれません。)

とまれ、漢文の自由な読み方を味わってみたい人、聖人君子でない孔子の姿を見てみたい人にはお勧めです。