Archive for 1月, 2022

福沢諭吉『帳合之法』 その1

金曜日, 1月 28th, 2022

先に報告したように、ブログのサーバーがパンクし、お正月休みにちょっと時間が取れそうなので、取りためてあった資料の中からこの本のコピーを取り出して読んでみました。予想以上に素晴らしい本で感激しました。

元々アメリカの商業学校(原文では商売学校となっています)の簿記の教科書を福沢諭吉が翻訳した、ということになっているので、福沢諭吉は単なる訳者ということになるのですが、現実には翻訳というより翻案と言った方が良いような本です。

なにしろ西洋流の簿記など初めての人に西洋流の簿記を説明するのですから、福沢諭吉はかなりの工夫を凝らしています。
日本語の本をいきなり横書きにすることはできなかったようで、横書きの英語の原文を縦書きの日本語に翻訳しています。数字が大量に出て来る帳簿の例でも、横書き、アラビア数字の原文を縦書き、漢数字の帳簿に変えています。
簿記の本ですから大量に金額が出てきます。これを日本流の漢字の書き方で、たとえば二拾八万四百三円六銭と書く代わりに、二八◯、四◯三、◯六というように縦書きに書く事にしています。日本語の縦書きはそのままにして、数字の位取り記法を導入し、一から九までの漢数字に◯を追加して◯から九までの漢数字で位取り記法ができるようにして、原著の横書きの教科書を縦書きにして簿記の説明をしています。
この位取り記法、和算の世界では17世紀位からあったようですがまだ一般にはなっていなかったもののようです。とはいえ、実は算盤(ソロバン)というのは、紙に書くのではなく算盤に置くという形ですが、実質的に位取り表記ですから算盤を使い慣れている人にはあまり抵抗がなかったかも知れません。

まだ個人商店が主流の時代ですから、商売相手の名前も英語の原文では外人の名前ばかり出てきます。これをこのままカタカナの名前にしたんでは読んでいられないだろうということで、この商売人の名前をみんな日本の屋号に変えてしまいます。廃藩置県前律令制以来の国郡里制の国の名前に屋号を付けた、三河屋とか駿河屋とか伊勢屋、越後屋とかいった具合です。
商品の名前も欧米の商品を持ってきても良くわからないので、全て日本の商品に置き替え、ついでに度量衡の単位も日本の単位に置き替え

男物くつ足袋 6足 単価25銭で 1円50銭 とか
太織ふとん地 2丈 単価12銭で 2円40銭 とか
お茶 10斤 単価12銭で 1円20銭 とか
白砂糖 3箱分50斤入り 単価6銭で 90円 とか

という具合です。

で、この単式簿記と複式簿記の両方を説明しているのですが、前半の単式簿記(Single Entry)の方を『略式』と訳し、後半の複式簿記(Double Entry)の方を『本式』と訳しています。

『この本は単式簿記だからちゃんとした簿記の本ではない』なんてコメントも時々みかけますが、実際の所単式簿記も複式簿記もちゃんと説明してあります。

で、英語の原文では単式簿記を4例、複式簿記も4例説明しているようですが、この訳の方では単式簿記の4例を略式第一式から略式第四式という形で紹介しています。また複式簿記の例、最初の2例を本式第一式、本式第二式という形で紹介し、3例目4例目は省略しています。
原文のテキストの本式第三式・本式第四式の2つについて福沢諭吉は、第二式までで説明は十分で、それ以上ページ数を増やして読者の負担(本を買う負担・読む負担)をかけてもしょうがないということで、この部分を省略しています。その意味でもこの本は真っ当な翻訳ではありません。もちろんそれでこの本の価値が棄損されるわけでありませんが。

単式簿記というのは実は『複式簿記でない』ということで、その中味についてはいろいろなケースがありますが、この本では、商人間の取引のうち掛(買掛あるいは売掛)の取引について、売掛金を取りっぱぐれないように、また買掛金の支払を忘れないように記録を取っていくことを主たる目的とする帳簿簿記のシステムのこととして説明しています。

この本の6つの例を読むと、単式簿記であれ複式簿記であれ、具体的な目的があって、その目的のための帳簿の体系があって、それぞれの帳簿の使い方、記録方法が決まっていて、それぞれの例では使う帳簿が異なったり同じ帳簿でも使い方が違ったり、その意味合いが違うということがわかります。

この本では簿記の目的が次第に広くまた高度化するにつれ、帳簿組織と簿記の内容が変わっていくことをわかりやすく例示しています。その結果、(やり方を一方的に)教えられる簿記会計から、自分で考え創意工夫できる簿記会計の教科書になっています。

なおこの本では基本的に個人商店を想定しているわけですが、資本を出し合って経営する合資会社の場合で、利益を出資者にどのように分配するかとか、期の途中で出資者が増えた時の取扱なども例示しています。
面白いことに、福沢屋と丸屋が共同で出資して『福丸商社』を作り、そこに途中から島屋が資本参加して『福丸及び社中』という名前の商店になる、なんて、英語の○○ and Companyという名称までそのまま日本語にしています。こんな会社が本当にあると面白いですね(ちなみに丸屋というのは本屋の丸善のことで、この部分ではほかにも慶應義塾関係のいろんな人の名前が商売相手の名前として出てきます)。

略式・本式というのは原文のSingle Entry(単式簿記)とDouble Entry(複式簿記)を仮に略式・本式と訳したものですが、だからと言って何か省略している、ということではなく、略式であっても本格的な簿記会計の体系であって、これで本格的な決算もできると書いています。福沢諭吉自身、この代わりに単記・複記という直訳も考えていて、迷っているようです。
簿記は、単式簿記が進化して複式簿記になったかのように思われているところもありますが、実際、簿記の歴史の本などを読むと、まず複式簿記の体系が出来上がり、それがヨーロッパを中心にかなり広範囲に普及したところで、それがあまりに厳密で手間がかかるために、それを何とか省力化して簡単にすることができないものか、という工夫が様々に提案され、時にはその名前をsimple entryとすべきところをsingle entryと呼んだ、ということもあるようです。だとすると、single entryというのはsimple entryのことで、それを略式、と訳したのは何かを省略した、ということではなく、簡略化した、ということであれば、本式・略式という訳はもしかするとかえって適切な訳なのかもしれません。

借方・貸方についても、とりあえず原文のDebit、Creditをこのように訳していますが、これについても福沢諭吉も迷った上でこのようにしています。

たとえば日本流の言い方では、自分がA社に商品を掛けで売った場合、A社勘定に売掛金を計上するのですが、これはA社にその代金分貸し付けたことになる。B社から商品を掛けで買った場合、買掛金が計上されますが、これはB社にその代金分借りていることなる。このA社に対する貸しを借方に記載し、B社に対する借りを貸方に記載するのは変じゃないか、と普通に考える所、福沢諭吉は、日本流の自分を主語にする考え方ではなく、西洋では相手方を主語とし、A社に貸しているのは『A社は当社に借りている』ということで借方に記載し、B社に借りているのは『B社が当社に貸している』から貸方に記載することだ、と説明しています。
この借方貸方の整理は非常に納得しやすいものです。

日本の中だけでこの簿記を使うのであれば、貸方借方の表記を(日本流の)自分を主語にして逆にしても良いし、貸し借りの言葉が分かりにくいから、例えば『入』と『出』という形で表現するという考え方もありますが、将来的に欧米との取引が進んでいくとその表現が逆になっていたり別の言葉が使われていたりするのはかえって混乱を招く事になると考えて、あえて原文をそのままに借方・貸方の言葉を使うことにする、と福沢諭吉は訳者注に書いています。
このあたり、明治に西洋から新しいものや考え方を取り入れるとき、どんな言葉を使ったらいいか、という先人の苦労がしのばれます。

ということで、次回以降、もう少し詳しくこの本の中身を紹介してみようと思います。

ブログ再開

火曜日, 1月 18th, 2022

ここしばらくブログの更新、あるいは新規投稿ができませんでした。

気が付いたのは昨年の年末で、久しぶりに新しい投稿をしようとしたら、できませんでした。
で、最後の投稿の日付を見たら、去年の10月26日に投稿していますので、約2ヵ月の間に何かがあったに違いありません。

私のブログはWordPressというシステムで動かしているので、ネットで『WordPressで新規投稿が出来ない』として検索してみると、これこれこうやったら直ったとか、そうやっても直らなかったとか色々な記事があって、良く分かりません。WordPressをいじくるとなると、まずはインターネットサービスのサーバーに入れるようにしなくてはならないし、WordPressに手を入れるとなるとそのプログラムをダウンロードできるようにしなければならないし、WordPressで使っているデータベースをいじらなければならないということで、その都度それぞれパスワードが必要になります。

まずはそのパスワードを探す所から始める必要があります。勿論そのパスワードは自分で設定しているものですが、一旦パスワードを設定して一連の作業が無事に終わってしまうともうそのパスワードを使うこともなく、当然忘却のかなたに行ってしまいます。もちろんどこかに記録はとってありますが、それがどこか・・なんてことを覚えているはずもなく、一昨年暮から昨年の年始めにかけての引っ越しで、オフィスに山積みになっているダンボールの中で、どの書類がどのダンボールに眠っているのかも分かりません。

で、作業は年明け落ち着いてからやろうと思って一旦棚上げし、先週の終わり頃からパスワードの探索作業から開始しました。

投稿ができないとなったら、まずはシステムのログを取って何が問題なのか見るのが常道なんですが、ログを見るにはどうやったら良いかというのも調べなければなりません。勿論昔やったことがあるのは覚えていますが、やり方自体は全く覚えていません。

で、ようやく必要なパスワードを全て見つけ出し(あるいはパスワードを再発行し)、ログファイルも見ることができるようになったのでそれを見てみたのですが、何とも分かりません。エラーログで出て来るのは『Updateできません』というメッセージばかりです。

ここまで来ると万策尽きて、私のサイトを管理しているインターネットサービスの会社にメールを送り『WordPressの新規投稿が出来ない』というタスケテクレメールを送りました。先方でもいろいろ調べたりするのに時間がかかるかも知れないので、また1日2日くらいは待つことになるのかなと思ったら、予想より早く3時間ちょっとで返信がありました。その結果は何と『データベースが容量オーバーでパンクしているから、中のファイルを整理して空きを作れ』という事でした。

で、データベースの中味を見ると、何とブログへのアクセスのカウンターのためのデータが膨大に膨れ上がっていました。この際そのカウンターのためのデータを削除しました。それで帰宅してテストでコメントを入力してみたらちゃんと投稿できます。ヤレヤレと一安心して、待てよ、前にも同じようなことがあったなと思ってブログを「パンク」のキーワードで検索してみたら、2014年11月に同じようにデータベースがパンクして同じようにカウンターをゼロクリヤして直した、という記事がありました。ここに来るまでそんな事は全く覚えていなかったという事です。

実はこのブログにはわけのわからない、主に日本語以外のコメントの投稿(これをスパムコメントといいます)が山ほど入ってきます。仕方がないのでそれらの投稿は時々削除していたのですが(と言っても毎回数千件削除するので一度では削除しきれず、何回かに分けて削除します)、カウンターのクリヤの方は全く忘れていました。

ということでWordPressのプログラムには手を入れる必要はなく、データベースの不要なデータを消すということで、何とか問題解決となったようです。

本当にヤレヤレです。

これで年末に投稿しようとしていた記事や年末年始の読書感想文とこの記事と、色々投稿することができます。

わかってしまえば何ということもないみっともない話ですが、とりあえず解決できてチョットほっとしています。

で、これで問題解決かと思ったのですが、実際にカウンターのテーブルを削除し、ついでにカウンターを動かすためのプラグインを削除した所、サイドバーという、本文の記事の右に出ている、カウンター・更新通知の申込・ブログ内検索・カレンダー・カテゴリー・最近の投稿等々、一番下に管理画面へのリンク等が入っている部分がほとんど全部消えてしまいました。投稿の本体は読めるのですが、背景の色が途中から変わってしまったり、かなりみっともないものになってしまいました。

こうなったのはカウンターのプラグインを削除したからだから、これを元に戻せば良いかと思ったのですが、このプラグイン自体セキュイリティの関係か何かでもうインストールできなくなっていました。仕方ないのでこのサイドバーを表示するためのプログラムを眺めていたら、アクセスカウンターを表示する部分で、カウンターのプラグインで設定している変数が使われているんだけれど、プラグインを削除してしまったのでその変数が設定されず、それを表示しようとしてエラーが発生し、その部分から下の表示が全部消えてしまった事がわかりました。で、このサイドバーからカウンターの表示の部分を削除し、そのままではちょっと寂しいので代わりに今まで処理したスパムコメントの数を表示するようにしたら、何とか以前と同じような体裁になりました。

インターネットの関係のプログラムでは、何かエラーが発生した時、普通のプログラムと違って、だまってやめて知らん顔をしているので、それを直すのはなかなか厄介です。

とまれ、本当にヤレヤレです。

『本屋風情』 原 茂雄

金曜日, 1月 14th, 2022

渋沢栄一の大河ドラマもいよいよ終わりましたが、最終回の2回前、12月12日の分を見ながら、その後継者渋沢敬三のことを考えていました。

この人は、戦前から終戦前後に日銀総裁をやったり大蔵大臣をやったりした人ですが、私が知っているのは日本中を歩き回った民俗学者の宮本常一のスポンサーとしての渋沢敬三です。この人は渋沢栄一の後継者だったけれど、血縁はどうなっていたのかなと思ってWikipediaに教えてもらったのは、最終回の前の12月19日の大河でやっていたように、栄一の嫡男篤二の嫡男として生まれ、父親の篤二が栄一に廃嫡されて孫の敬三が後継者となった、というような事が分かりました。

Wikipediaではついでにこの人の動物学や民俗学関係の色々な交流について、参考書としてこの本が紹介されていました。

早速図書館で借りて読んだのですが、全30話のうち28話が『渋沢敬三さんの持ち前とそのある姿』というタイトルになっていました。もちろんそれ以外にもこの本全体に何度も登場します。

第一話が『まえがき』になっていて、ここに『本屋風情』のタイトルの由来が書いてあります。

これまたこの本に何度となく登場する柳田國男が(この人はエリートであった事は事実だけれど、エリートであることを強く自覚し、また他人にも自分をエリート扱いすることを当然のように要求し、それが叶わないとひと悶着起こすというような人のようです)、また何かの件でひと悶着起こしたときに、渋沢敬三が仲直りの席を用意し、ひと悶着の当事者の一人でもある著者の原茂雄さんにも同席するように命じ、その席は無事終了したと思ったら、後で柳田國男が「本屋風情と同席させられた」と文句を言っていたということで、この『本屋風情』という言葉をこの原茂雄が気に入って、この本を作る時に書名にしたということでした。

著者の原茂雄さんというのは、陸軍幼年学校から陸軍士官学校を出て軍人になった人ですから、この人も十分エリートで、陸軍での出世も少なくとも少将くらいまでは約束されていたはずなのに、軍をやめて本屋さんになった人ですから、そう簡単に柳田國男風情にバカにされる人ではありません。

で、この第一話『まえがき』のあと第2話から第9話までは南方熊楠との交流を書いています。出版者として南方熊楠に出版を提案する所から、熊楠の信頼を得て熊楠の著作の管理を全面的に任され、最終的に南方熊楠全集を(平凡社から)出版するに至るまでを書いています。

その後は出版人として本や雑誌を出すことに関連して、主として考古学・民俗学・民族学関連の多くの人との交流が書かれています。話の殆どは大正の半ばから終戦前後までの話なので、私にとっては名前だけは知っているけれど・・とういう人々が具体的な姿で登場してきます。

たとえば貝塚茂樹・湯川秀樹、小川環樹の小川三兄弟の父親である小川琢治という人も、今までは三兄弟の父という形で目にするだけだったのが、地理学の権威として、登場して活き活きとして動きまわっています。学者仲間の濱田耕作と、互いに子供自慢をしあったりもしています。

『ユーカラの研究』の出版に関連して金田一京介と関わったり、広辞苑とその前身の辞苑の出版に関連して新村出と関わりあったり、ファーブル昆虫記の出版に関連してきだみのること山田吉彦が登場したり、いろいろ面白い話が満載です。

第26話で物理学者の中谷宇吉郎の弟の考古学者の中谷治宇ニ郎の話、第27話で同郷の先輩で同業者の、岩波書店の岩波茂雄の話、第28話は前に書いたように渋沢敬三の話、第29話で人類学・考古学・民俗学関係の学者間の交流誌として『ドルメン』という雑誌を出した話があって、最後に第30話『落第本屋の手記』として、陸軍をやめて人類学・民俗学の勉強を始めたけれど、スタートが遅くなった分、学者として研究にあたるより出版人として学者の仕事を助ける方がなすべき仕事だと考え、何も知らない出版の世界に入ったけれど、途中で陸軍から召集をかけられたり徴用されたりしてちゃんとした仕事ができなかった、と書いています。

なかなか面白い本です。

この本をきっかけに、そういえば南方熊楠というのは話を読むだけで、この人の書いたものを読んだことがなかったな、と気づき、今度は熊楠の書いたものを読んでみようかと思いました。

こうやって読みたい本が増えていくと、読む本がなかなか終わりません。

とまれ、興味がある人、お勧めします。