Archive for 10月, 2022

『エジプトの空の下』飯山陽

水曜日, 10月 26th, 2022

飯山さんの本、5冊目が届いたので早速借りて読みました。予想にたがわず素晴らしい本でした。

これまで読んだ4冊はどちらかというと今、世界各国で起きていることの報告やイスラム教理論の紹介だったので、著者の個人的な事々は極力切り捨てて書いたものを、この本では実体験のレポートのエッセイということで、思いきり個人的な体験や感想が盛り込まれています。

著者は2011年から4年間ダンナさんの転勤の都合でエジプトのカイロに行き、一人娘が1歳から5歳になるまでを一緒にカイロ暮らしをしています。時あたかもアラブの春で、エジプトでも革命が起きムバラク政権が倒され、その後しばらくして選挙でイスラム同胞団のモルシが大統領になって、イスラム教による政治を次々に実行し、こんなはずじゃなかったというエジプト人の不満から1年後に再革命でモルシ政権が倒され、軍政が敷かれ同胞団が倒されたというところを現地エジプトで直接体験しています。

飯山さんひとりだったら始終好奇の目・セクハラの目で見られる所、娘を露払いに立てると、周り中の目が娘に集中し、我勝ちに可愛がろうとする、娘の方はちょうど言葉を覚える時にアラビア語エジプト方言(エジプト語)と英語をシャワーのように浴びて一気にトリリンガルになってしまい、著者がさんざん苦労したエジプト語特有の特殊な発音もなんなくこなし著者を悔しがらせるとか、エジプト人の運転手の友達になり一人でお泊りに行き、一杯お土産を貰って帰ってくるとか、楽しい話もたっぷり入っています。

またエジプトで比較的新鮮な野菜と魚をどうやって手にいれるか、基本的にキロ単位でしか買えない食材をどうやって保存したり分けっこしたりするとか、駐在日本人達でソフトボール大会を開き、著者の入っていたメディア関係者チームが何年かかっても一度も勝てなかったのが、著者がエジプトを去ったらその年に念願の初勝利が実現し『ファラオの呪いだ』なんて話が出ています。

一方マスコミの仕事で、武装闘争派のイスラム教の有名な指導者のテレビインタビューを行い『お前は全身が恥部だ』、『お前はカメラマンの後ろに隠れて下を向いていろ、直接私を見てはいけない』なんて言われたりしています。

アパートの目の前の木が倒れ、それを片付けるためにチェーンソーで切ったら、別の人がその下敷きになって死んだとか、道を歩いていてミシミシ音がするので走って逃げたら、今までいた所に3階のベランダが落ちてきたとか、日本では滅多にないような体験もいくつもあります。

イスラム教では聖戦(ジハード)で死んだ人だけでなく災害で死んだ人も最後の審判を待たずに即時に天国に行けるということで、災害による死というのはそれ程深刻に受け取られないというのも初めて知りました。

著者は滅多に入れないスラムにも入って住人と仲良くなり、スラムの暮らしについても報告してくれます。人口の20%がスラム暮らしで、そこから抜け出す方法がない、というのも大変なことですね。

著者のエジプト滞在は第二革命でモルシ政権が倒れる所までですが、日本では一般に『軍事クーデター』という事になっているものが、実は国民の反政府運動で政権を倒したもので、最後に軍がその革命を完成させた、という事のようです。その意味で本当に国民による革命だったようです。

我々には『イスラム過激派のテロ』というのはヨーロッパ・アメリカで多く起きているというような印象がありますが、実はそれを遥かに上回る頻度でイスラム過激派と世俗的イスラム政府との間で、アラブ・イスラム諸国で起きているんだという事も、言われてみればすぐに納得なんですが、言われるまで気が付かないということも良く分かりました。

とまれ、こんな国に1歳児の娘とダンナさんと一緒に乗り込み、何度も生命の危険にさらされ、またケチョンケチョンに貶められるという経験をした人ですから、日本でノホホンとして暮らしていた人達(ひろゆき氏や日本のイスラム教学者の先生方)が逆立ちしたって敵うわけがありません。

ということで、今まで読んだ飯山さんの本の中で一番面白い本でした。

お勧めします。

『武玉川 とくとく清水』田辺聖子

水曜日, 10月 26th, 2022

開架式の図書館の良い所は思いもかけない本が目に飛び込んでくることで、この本はオクさんのために軽い読み物を借りていってやろうと見ていてたまたま見つけたものです。

武玉川(ムタマガワ)というのは江戸時代、川柳の柳多留(ヤナギダル)が出版される15年ほど前に、俳諧の連句の中から、前句と切り離してその句だけで味があるものを取り出した句集です。

連句というのは五七五の発句から始まって、五七五には七七の句を、七七には五七五の句を付けていき、20句とか100句とかいろいろな数の句を並べた所で、最後のあげ句に至るという言葉遊びですが、その中から面白い句を選び出しているため、五七五の句も七七の句も入っています。

その中からさらに面白そうな句を取り出し、著者の田辺聖子がコメントをつけるというか解説をしているものです。もともとの武玉川は数百の句がずらっと並んでいるだけのものなので、一つ一つじっくり読んでいくならそれも面白いんでしょうが、この田辺聖子の本はそれをされに選りすぐり、好き勝手な感想を述べているもので、読むほうも好き勝手に面白がることができます。

川柳というのはこの俳諧の連句の練習のため、選者が七七の句をお題として出し、それに付ける五七五の句を募集し、その中から面白いものを集めたものです。

武玉川は連句の中から句を抜き取っているので、それぞれの句にはそれを付ける前句があります。もともとはその前句とそれに付ける付け句の付け方の面白さを楽しむものだったのが、付け方より付けた結果の、付け句自体の面白さを楽しむということで、武玉川の句集ができたようです。そのため本来は付け句集としてそれぞれ前句も明らかにして、この前句にこの付け句、とする所、思い切って前句を端折ってしまい、付け句だけを集めて出版したということです。

五七五の世界はそれなりに面白いのですが、さらに短い七七だけでこんな句もありか、という面白さがあります。七七の句はなかなか目にしないので楽しめました。

川柳というのはそれなりにかっしりしているのに対し、この武玉川の方は七七の句も五七五の句もどちらもゆったりと余裕のある面白さでした。

新書で気軽に読めるのでお勧めです。

『イスラームの論理と倫理』中田考・飯山陽

木曜日, 10月 20th, 2022

前回の『イスラム教の論理』に続いて飯山さんの本をさらに3冊読みました。
2冊目は『イスラム2.0』という本、次に『イスラム教再考』、4冊目がこの『イスラームの論理と倫理』という本で、この本だけ飯山さんと中田さんの共著という形になっています。

出版の順番は4番目に読んだ『イスラームの論理と倫理』が3番目で、その後『イスラム教再考』が出版されています。

『イスラム2.0』というのは『イスラム教の論理』でも書いてあった、インターネットの世界になって誰でもコーランやハディース等の原典に直接アクセスできるようになり、またいろんなイスラム法学者の発言にも簡単にアクセスでき、信者どうしもSNSで交流することができるようになった状況をコンピュータのOSになぞらえて、『それ以前のバージョン1.0がバージョン2.0にアップグレードされたんだ』と表現し、その結果世界各地のイスラーム教国家がどのように変化しているのかという報告です。

これに引き続く『イスラームの論理と倫理』では飯山さんと日本のイスラム学界の権威とされる中田考さんの対話という形になっています。

最後の『イスラム教再考』ではこれに引き続き飯山さんが日本のイスラム学界の人々を次々にヤリ玉に上げていきます。イスラム学界の人でなくても、池上彰さんや『現代の知の巨人』の前ライフネット生命の社長・会長の出口さんまで何度も登場してヤリ玉に上がっているのもご愛敬です。

で、この『イスラームの論理と倫理』ですが、本の扉には『妥協を排した書簡による対話』となっていますが、実際のところまるで対話になっていません。

飯山さんがそれぞれのテーマについて真面目に考察し、日本として日本人としてどのように考えたら良いのか検討するのに対し、中田さんは業界の権威であるという立場から飯山さんを徹底的に見下すように自分勝手な議論を展開し、殆ど誰も知らないようなことを書き散らしていかに自分が何でも知っているかみせびらかし、飯山さんのことはあくまで『飯山さん』と言って素人扱いしています。

飯山さんはさすがに中田さんを常に『中田先生』と言ってはいますが、その代わり最後の書簡では『「往復書簡」における中田先生の文章は晦渋さと曖昧さに満ち、冗長で要を得ません』と明確に言ってのけています。念押しに『この中田さんの文章を分かったふりをする必要はありません。・・・曖昧な文章はどこまでいっても曖昧であり、それを分かることなどできないのです。』とまで言っています。

中田さんの方は最後の書簡でもその前の続きのコロナウィルスに関する話を延々と繰り返し、何とかしてそれを反日・反米に結び付けようとしています。

ということで、他に例を見ないような『対話』ですが、中田さんがいかに議論をずらし、捻じ曲げて自分を偉く見せようとしているか、イスラム世界の話をいかに反日・反米につなげるか見てみようと思う人には楽しめると思います。

飯山さんはこの本と、続く『イスラム教再考』でイスラム学界のほとんどの人をヤリ玉にあげるというとんでもない喧嘩をしている人ですから、いろんな人にからんで人気を博しているひろゆき氏がちょっとちょっかいを出したくらいじゃ相手にならないのは当たり前ですね。

あくまで論理的な飯山さんの議論と、山ほど知識はあるものの論理的な思考ができず、その知識をひけらかしながら駄弁を弄し、情緒的に反日・反米をたくらむ中田さんの対比を楽しみたい人にお勧めします。

これで飯山さんの本を4冊読み、残りは2冊。
アラブの春の下でエジプトのカイロで暮らした体験記の『エジプトの空の下』と最新刊の『中東問題再考』です。最新刊の方は順番が回ってくるのに半年以上かかりそうな塩梅ですが、『エジプトの空の下』の方はもうすぐ借りられると思います。楽しみです。

『イスラム教の論理』飯山陽

水曜日, 10月 12th, 2022

この本の著者の飯山陽(イイヤマアカリ)さんは、ツイッターの投稿や虎ノ門ニュースでの発言を見ていてなかなか面白いなと思っていたのですが、あの2チャンネルを作ったひろゆき氏がネット上でこの飯山さんにいちゃもんをつけ話題になっていたので、この際飯山さんの書いた本を読んでみました。

図書館で在庫のあった6冊に予約を入れ、すぐに借りられた3冊のうち最も早く出版されたのがこの本で、まずはこの本から読んでみました。

読んですぐ『こんなことを書いてしまったのか』とびっくりしました。多分イスラム教を真面目に勉強したらすぐに分かることだけれど、従来、絶対に言ってはいけないとされていたことを平然とあからさまに書いてしまった、ということです。

案の定、飯山さんはイスラム教学者や中東問題の専門家たちからはコテンパンに非難・攻撃されたようです。

専門家たちに総スカンにされて平然と反論し続けてきた人ですから、聞きかじりの知識でいちゃもんをつけてきたひろゆき氏がかなうわけがありません。簡単に反撃され、目隠しにひろゆき氏はさっさと沖縄にわたって反基地運動の座り込みと称している場所に行ってネットを炎上させ、飯山さんに負けたことから見事に逃げおおせています。

で、飯山さんの言っているのは何かというと、イスラム教の前提となるのは『人はすべて神の奴隷であり、すべて神の命じるままに行動しろ』ということで、この神の命令には『人は正否の判断をすることができないので、無条件で従うのみだ』ということです。これまで一般のイスラム教徒にははっきりと示されなかったことがインターネットの発展により、イスラム教徒がコーランやその他の情報に直接アクセスできるようになり、またアラビア語で書かれ多国語に翻訳することが禁止されているコーランを、ネット上で好きなように自国語に翻訳して読むことができ、SNS等で自分の近くにいるイスラム法学者だけでなく他の人の意見も見聞きすることができるようになり、『イスラム国』などはその状況をフルに活用して様々な情報を動画で世界中にバラ撒いているということです。

この本の題名の『イスラム教の論理』に使われている『論理』という言葉も重要です。イスラム教というのは非常に論理的な宗教で、根拠となるのはコーランとムハンマド(マホメット)の言行録であるハディースのみで、あとはすべてこれから論理的に引き出してくるものです。キリスト教のカトリックでは法皇という神の代理人がいて、判断に迷ったときは正しく判断してくれる、ということになっているんですが、イスラム教ではムハンマドが最後の預言者だということになってますから、何が正しくて何が正しくないか判定してくれる人はもはやいないということです。

もちろん『イスラム国』がやっている戦争や自爆テロや女性虐待や異教徒の虐殺など一般的にとんでもないと思われていることも、論理的には正しい、ということになります。すなわち上記の前提となる考え方から論理的に引き出されてくるものだ、ということです。

これは確かに論理的に正しいのですが、感覚的に受け入れられないことを論理的に認めることができる人があまり多くない、ということかもしれません、論理の前提となる考え方が違うだけなんですが、論理だけで考える、というのはなかなか難しいのかもしれません。

例えばこの本には『働く女性は同僚男性に5口の母乳を飲ませよ』という話があります。職場でセクハラを防ぐために擬制的に自分が同僚男性の乳母であるかのようにしてしまうことにより、コーランに従ってセクハラができないようにしてしまう、という話です。こんなところまで論理的に説明してしまうのか、とあきれてしまいます。キリスト教にも『針の上で天使は何人踊れるか』という話があります。こちらは単なる絵空事の議論ですが、イスラム教のほうは現実的な議論です。

この飯山さんの本を読みながら思い出したのが、キリスト教のプロテスタントの宗教改革と新教・旧教の宗教戦争です。

西洋のルネサンスでグーテンベルグの活版印刷の技術が普及・発展し、まず大量に出版されたのが聖書で、それまで教会に独占されていて教会で神父の説教の時に断片的に読み聞かされるだけだった聖書が、ちょっとした金持ちなら自分で買って自宅で自由に読むことができるようになったということ、それによって信者が直接神と結びつくことが可能になったこと、また宗教戦争の時はアジビラを印刷して大量にバラ撒くことが可能になり、もちろんそれほど識字率は高くなかったとしても、居酒屋で字の読める者がそのアジビラを読み上げて他の人が聞くという形で情報が急速に拡散していくことが可能になったという状況、これらは上記の、ネットの発達でイスラム教の原理主義が急速に発展した事と何やら良く似ていると思います。

キリスト教の新教・旧教の戦争ではヨーロッパ中でお互いに殺し合いが何百年か続き、お互いにくたびれ果てて殺し合いは少なくなったようですが、今回のイスラム教とそれ以外の宗教あるいは無宗教との戦いも何百年か殺し合いが続くんでしょうか。やっかいな話ですね。

ということで、イスラム教に関するきちんとした説明です。とはいえ、とことん論理的な思考、というのはなかなか抵抗があるかもしれませんね。

お薦めします。