『イスラム教の論理』飯山陽

この本の著者の飯山陽(イイヤマアカリ)さんは、ツイッターの投稿や虎ノ門ニュースでの発言を見ていてなかなか面白いなと思っていたのですが、あの2チャンネルを作ったひろゆき氏がネット上でこの飯山さんにいちゃもんをつけ話題になっていたので、この際飯山さんの書いた本を読んでみました。

図書館で在庫のあった6冊に予約を入れ、すぐに借りられた3冊のうち最も早く出版されたのがこの本で、まずはこの本から読んでみました。

読んですぐ『こんなことを書いてしまったのか』とびっくりしました。多分イスラム教を真面目に勉強したらすぐに分かることだけれど、従来、絶対に言ってはいけないとされていたことを平然とあからさまに書いてしまった、ということです。

案の定、飯山さんはイスラム教学者や中東問題の専門家たちからはコテンパンに非難・攻撃されたようです。

専門家たちに総スカンにされて平然と反論し続けてきた人ですから、聞きかじりの知識でいちゃもんをつけてきたひろゆき氏がかなうわけがありません。簡単に反撃され、目隠しにひろゆき氏はさっさと沖縄にわたって反基地運動の座り込みと称している場所に行ってネットを炎上させ、飯山さんに負けたことから見事に逃げおおせています。

で、飯山さんの言っているのは何かというと、イスラム教の前提となるのは『人はすべて神の奴隷であり、すべて神の命じるままに行動しろ』ということで、この神の命令には『人は正否の判断をすることができないので、無条件で従うのみだ』ということです。これまで一般のイスラム教徒にははっきりと示されなかったことがインターネットの発展により、イスラム教徒がコーランやその他の情報に直接アクセスできるようになり、またアラビア語で書かれ多国語に翻訳することが禁止されているコーランを、ネット上で好きなように自国語に翻訳して読むことができ、SNS等で自分の近くにいるイスラム法学者だけでなく他の人の意見も見聞きすることができるようになり、『イスラム国』などはその状況をフルに活用して様々な情報を動画で世界中にバラ撒いているということです。

この本の題名の『イスラム教の論理』に使われている『論理』という言葉も重要です。イスラム教というのは非常に論理的な宗教で、根拠となるのはコーランとムハンマド(マホメット)の言行録であるハディースのみで、あとはすべてこれから論理的に引き出してくるものです。キリスト教のカトリックでは法皇という神の代理人がいて、判断に迷ったときは正しく判断してくれる、ということになっているんですが、イスラム教ではムハンマドが最後の預言者だということになってますから、何が正しくて何が正しくないか判定してくれる人はもはやいないということです。

もちろん『イスラム国』がやっている戦争や自爆テロや女性虐待や異教徒の虐殺など一般的にとんでもないと思われていることも、論理的には正しい、ということになります。すなわち上記の前提となる考え方から論理的に引き出されてくるものだ、ということです。

これは確かに論理的に正しいのですが、感覚的に受け入れられないことを論理的に認めることができる人があまり多くない、ということかもしれません、論理の前提となる考え方が違うだけなんですが、論理だけで考える、というのはなかなか難しいのかもしれません。

例えばこの本には『働く女性は同僚男性に5口の母乳を飲ませよ』という話があります。職場でセクハラを防ぐために擬制的に自分が同僚男性の乳母であるかのようにしてしまうことにより、コーランに従ってセクハラができないようにしてしまう、という話です。こんなところまで論理的に説明してしまうのか、とあきれてしまいます。キリスト教にも『針の上で天使は何人踊れるか』という話があります。こちらは単なる絵空事の議論ですが、イスラム教のほうは現実的な議論です。

この飯山さんの本を読みながら思い出したのが、キリスト教のプロテスタントの宗教改革と新教・旧教の宗教戦争です。

西洋のルネサンスでグーテンベルグの活版印刷の技術が普及・発展し、まず大量に出版されたのが聖書で、それまで教会に独占されていて教会で神父の説教の時に断片的に読み聞かされるだけだった聖書が、ちょっとした金持ちなら自分で買って自宅で自由に読むことができるようになったということ、それによって信者が直接神と結びつくことが可能になったこと、また宗教戦争の時はアジビラを印刷して大量にバラ撒くことが可能になり、もちろんそれほど識字率は高くなかったとしても、居酒屋で字の読める者がそのアジビラを読み上げて他の人が聞くという形で情報が急速に拡散していくことが可能になったという状況、これらは上記の、ネットの発達でイスラム教の原理主義が急速に発展した事と何やら良く似ていると思います。

キリスト教の新教・旧教の戦争ではヨーロッパ中でお互いに殺し合いが何百年か続き、お互いにくたびれ果てて殺し合いは少なくなったようですが、今回のイスラム教とそれ以外の宗教あるいは無宗教との戦いも何百年か殺し合いが続くんでしょうか。やっかいな話ですね。

ということで、イスラム教に関するきちんとした説明です。とはいえ、とことん論理的な思考、というのはなかなか抵抗があるかもしれませんね。

お薦めします。

2 Responses to “『イスラム教の論理』飯山陽”

  1. 匿名 より:

    >イスラム教ではムハンマドが最後の預言者だということになってますから、何が正しく>て何が正しくないか判定してくれる人はもはやいないということです。

    ネット上ではいろんな質問がされていて、こんな日常の些細なことまでイスラム教に則っているかどうか聞くのか?と思うほど質問が溢れていて、例えばモスクのウェブサイトやイスラム教団体?のイマムみたいな人が丁寧に答えておられますが、このような例はどうなりますか?またはイスラムの裁判所?(サウジなど)で争いについて判決が出るのも、裁判官がイスラム的な正否を決めてると思うのですが?

  2. 坂本嘉輝 より:

    確かにいろんな質問に対して判断する人はたくさんいます。イスラム法学者にしてもイスラム裁判所にしても何が正しくて何が正しくないか、判定しています。ただし、それが本当に正しいのか判定する人はいない、ということで、イスラム法学者や裁判所の判定と違う判定をするイスラム法学者もいるようです。
    ということで、イスラム法学者や裁判所の判定に従っていても最後の審判で天国に行ける保証はない、ということです。

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