『ねじとねじ回し』-ヴィトルト リプチンスキ

5月 27th, 2025

今はもう四半世紀も前の話ですが、その頃西暦2000年を迎えミレニアムとう名前で大騒ぎになりました。主として2000年になりコンピュータの誤作動が発生して社会が大混乱になりはしないか、ということで、いろんな組織で2000年問題対策のプロジェクトチームができたりして、私もそのチームの責任者として1999年の年末から2000年の元旦にかけ会社に泊まり込んで2000年の初日の出をオフィスの窓から眺めたなどという得難い経験をしました。

で、結局私のいた会社では2000年になっていくつかコンピュータトラブルが発生したのですが、何のことはない2000年問題でいつもと違う対策をしたことにより発生したトラブルで、何もしなければ何も起こらなかったという、何やってんだという話だったのですが、この本もこのミレニアムにちなんだ本です。

とは言えコンピュータ関係とはまるで違い、2000年を迎えるにあたりこの1000年紀、西暦1000年から1999年までの1000年間の人類最大の発明について記事を書いてくれないかという依頼をニューヨークタイムズ紙から受けた著者が、いろいろ悩んで考え、調べたりする話です。この本の副題が『この千年で最高の発明をめぐる物語』となっています。

で、著者は眼鏡なんかどうだろうと思い、発注元に相談したら発注元が期待していたのはそのような製品ではなく工具のことを期待していたという事が分かり、考え直すことになったとのことです。

著者は自宅を建てた時のことを思い出し、ノコギリとか巻き尺とか水準器とかカンナとかノミとかハンマーとか釘とか様々考えてみて、これというものがみつからず、仕方なく曲り柄錐(錐の頭の部分と先の部分の間がクランクのようになっていて、頭の部分を押しながらクランクの部分を回すことで錐の先端を何回転でも回す事ができるもの)で記事を書こうかと思っていた所に、奥さんが『ねじ回しはどうだろうか』と言い出しました。『どこに住んでいても台所の引き出しにはいつだってねじ回しが入っているわ。ねじ回しはいつだって何かに必要なのよ。』というわけです。著者は、『それがあったか』と思って、それからねじ回しとねじについての調査を開始しました。ねじ回しがあまりにも当たり前の工具なので事典を調べてもなかなか載っていなかったり、ねじ回しの言葉が変わっていたりして(普通スクリュードライバーと言っているものがターンスクリューと言われていたり)、著者が苦労しますが、様々な文献(辞典とか銅版画集とか商品カタログとか)を調べ、いろんな博物館を訪ね、ねじとねじ回しのことが西暦1000年における最大の発明だと確認の上で宿題の記事を書き上げることができたという話なんですが、この確認のためにはこのねじとねじ回しが西暦1000年より後の発明であって、しかもつい最近の発明でもないということを確かめなければならなく、これらに関連した工具についても色々調べていて、なかなか面白い調査レポートになっています。

ねじについて、頭が四角になっていてスパナのようなもので止めるもの、マイナスドライバーでしめるもの、プラスドライバーでしめるもの等々についてもきちんと発明の経緯などを調べて説明されています。

ねじと言えば日本では種子島への鉄砲伝来と、その銃身の底をふさぐためにネジが使われていて、そのネジの秘密を知るために娘を差し出した苦労の話も有名で、また明治期に日本が西洋文明の仲間入りした時『文明国では日本以外は全て右ネジが一般的だが日本だけ例外だ』とマクスウェルの電磁気学の教科書に書いてある話など、興味深い話が色々あります。

この本ではたとえば火縄銃の火縄をつける部分を銃身にネジで止め、弾丸を発射するときの振動で釘で止めていたらすぐに緩んでしまうのをネジで止めることにより緩まないようにした話とか、西洋式の鎧兜で頭にかぶる兜の部分を胸当ての部分にネジで止めている、なんてこともあったようです。

著者は昔の銅版画などもたくさん見て、どこかにネジが使われていないか確認しています。この本にはそのよ銅版画のコピーやねじ回しの商品カタログのコピーなどもいくつも載っており、それを見るだけでも楽しめます。

こんな話、面白いと思う人にお勧めです。

『江戸の風に聞け! 武州磯子村から』-伊藤章治

5月 26th, 2025

この本も図書館の新しく入った本コーナーで見つけたものです。

武州磯子村というのはどこだろうと思ったら、やはり横浜の磯子のことで、京浜東北線で横浜の先大船に向かって6つ目の駅の所です。京浜東北線では磯子行という電車があるので良く聞く名前ですが、『武州』というのにちょっとアレ?と思っていました。

武州、武蔵の国というのは、東京都と埼玉県になり、また一部が神奈川県になっているのですが、ほとんどが東京と埼玉ですから神奈川県の武蔵の国というのはちょっと違和感があったということです。

で、この本はこの磯子村に残されていた江戸時代の古文書を読み解きながら、江戸時代から明治にかけ、世の中が磯子村の住人からはどのように見えていたのかを考えたものです。とは言え、この時代の文書は基本的に行政文書・書簡・日記等ですから、それらを元にして物語の形に構成したものを元に説明しているので読みやすくなっています。

最初に来るのは宝永の富士山大噴火で、村が壊滅的な被害を受けてから何とか復興を遂げるまでの話。

何センチも積もった火山灰を掘り出し、その下の土の層もさらに掘り出し、そのあとの穴に掘り出した火山灰を埋め、その上から掘り出した土を重ねる『天地返し』というやり方も図入りで説明してあります。これを耕地全体で行うというのは何とも気の遠くなるような作業ですが、このようにして耕作可能な土地を作っていった、という話です。もちろんこれは畑の話で、田んぼではこの手は使えませんが。

その次は噴火もおさまってようやく復興した村の生活の話。

次に来るのが相給(アイキュウ)の村という話ですが、相給というのは一つの村に領主が、一人ではなく何人もいる状態の事です。

江戸時代、幕府は大名には領地を与え旗本には蔵米を支給するという体制と、旗本にも知行地を与えそこから年貢を取り立てさせるようにするという体制と両方あったのが、元禄10年に御蔵米地方直令という命令で蔵米取りから知行取りに変更する方針が打ち出され、蔵米取りだった多くの旗本が知行取りになった。そのため江戸近郊の村々は次々に細分されて知行地となり、中には1つの村に領主が30人もいる、なんてことにもなったとの事です。で、その領主がそれぞれの代官を置いたり別々の名主・庄屋を置いたりすることもできないので共同で名主を置くとか、土地を分割した結果そこで働く農民も分割されてしまい、1人の農民に領主・殿様が何人もいるとか、五人組も同じ領主で五人組を作ることができずにバラバラの領主で五人組を作るとか、何とも困ったことが多発し、結局の所、村の統治は名主に任せ、その名主が統一的に行政を行い、何人もの領主に報告するという体制ができ、それが地方自治の始まりとなった、ということで、その意味で大きな藩の領地であった所と天領だった所の地方自治のあり方がちょっと違うということになりそうです。

次は古着の話です。明治の文明開化で紡績業・紡織業が一気に工業化し、衣類に困ることは基本的になくなりましたが、それ以前は新しい着物というのはなかなかのぜいたく品で古着のマーケットが圧倒的に大きかったという話と、その古着のマーケットがどのように作られていたかの話です。これは磯子の話というより日本全体の古着マーケットの話です。江戸時代、酒屋と古着屋が金持ちの代表のような商売だった、というような話です。

次の第5章では江戸の下肥えビジネスについて説明されています。
下肥えの利権が長屋のおおやや差配の人たちの利権の大きな部分だったとか、下肥えを江戸市中から近郊の農村に運ぶ流通経路の運河や専用の舟についても説明されています。

次は漁業の話です。磯子の浜の漁獲・漁船等を含む漁具等がどのように魚市場に牛耳られていて、その支配権を巡って市場間で競争が行われていたか、あたりの話です。

時代が進むにつれ漁船等も整備され、魚の運搬以外にも様々に利用されるようになり、たとえば東京湾の周辺の漁港を拠点とする流通ネットワークができ、米以外の商品作物を作り始めていた農民も参加して地域間交易が次第に盛んになった。これは開国後の対外貿易の格好の準備運動になったというような話も出てきます。

一般的には明治の文明開化・産業革命がどうしても脚光を浴びてしまいますが、その前の江戸時代中期以降の日本各地での商品作物作りと、それを江戸・大阪を通さない地域間直接取引の進展をしっかり理解する必要があると思います。

次はオオカミの話。次はお伊勢参りの話です。お伊勢参りで全国から人が集まり、全国各地の事情を互いに交換することにより、各地の地域おこしが一気に進んでいきます。

それまで情報は新聞とテレビが独占していた状況にインターネットが登場し、真偽こきまぜて一気に情報が氾濫した今と同じような状況が、お伊勢参りにより生じていたのかも知れません。

第9章では黒船が登場します。武士たちが黒船との戦いを思って緊張している時に、町民百姓は黒船見物に出かけ、小船で黒船に接近する者も多かったようです。

10章では黒船と一緒に来たコレラと大地震の話です。

11章では戊辰戦争を百姓の立場から見てみます。武州世直し一揆という一揆勢と、それに対抗するために幕府によって作られた農民兵部隊との戦いの経緯について書いています。

12章ではいよいよ明治新時代、横浜製鉄所の話になります。

著者はたまたま地元の古文書を読む会に参加して江戸時代の古文書に触れ、磯子を中心に色々調べているのですが、元々中日新聞の記者をしていた人なので、磯子だけでなく日本全体あるいは世界の、江戸時代だけでなく前後の年代の歴史を通しての視点を持っている人で、そのためその幅広い視野から地元の古文書を読み取り、その意味を広い視野から解説しています。

ということで、楽しめる本です。お勧めします。

『ネトゲ戦記』-暇空 茜(ヒマソラ アカネ)

5月 21st, 2025

1年ほど前になりますが、東京都知事選挙がありました。結果的に小池百合子さんが再度当選してまあ予想通りという結果に終わったのですが、この選挙は非常に話題になりました。まずはこの選挙の前に衆議院東京15区の補欠選挙があり、小池さんが都知事をやめてこの選挙に出て国政復帰を果たし、自民党総裁から総理大臣を目指すのでないか、という話があり、その対抗馬としてイスラム教学者の飯山あかりさんが立候補し、アラビア語対決が行われるか、なんて話題になりましたが、結局小池さんは出馬せず、代わりに乙武さんが立候補して落選し、続いて都知事選に小池さんが出馬してすんなり再選を果たしたのですが、この選挙でも色々話題がありました。小池さんの対抗馬の蓮舫さんは惨敗、広島の安芸高田市の市長をやっていた石丸さんが市長をやめて(やめさせられて)立候補したことも話題になりましたし、この暇空茜さんの立候補も、このネット上の名前で立候補し、選挙中もこの名前のまま顔を出さずに選挙運動し、当選したら本名も出すし顔も出すけれど、それまでは顔出ししないというユニークなやり方で話題になりました。

で、この選挙ではジャーナリストの須田慎一郎さんが多くの特徴的な候補者に単独インタビューをし、その動画をネットで公表していました。この暇空茜さんも、そのインタビュー対象者の一人だったのですが、そのインタビューでは、まずこの『ネトゲ戦記』を読んでいることがインタビューの条件となっていたようで、インタビューのしょっぱなその事を確認され、須田さんは『読みました。読みましたが最初の方は特に良く分からなかった』というような話でした。

須田さんというのは博識で頭の良い人で、本や書類をきちんと読む人ですから、この人が『良く分からなかった』と言うのはどういう本だろうと興味を持ちました。

で早速図書館で借りる予約をし、9ヵ月位待ってようやく読むことができたという事です。

この本は著者である暇空茜さんの生い立ちから、ネットゲームにはまり込み、そのゲームを作る方に回り、新しい会社を作ってゲームを作り、ようやくゲームが完成した所でその会社から追い出され、その後その会社を相手に裁判し、最終的に約6億円を獲得するまでの顛末を語っている本です。

この本の特徴として、著者は自身のことを『彼』という言葉で表現しています。すなわち一般には三人称単数の『彼』という言葉を固有名詞のように使っていることです。ですからたとえばAさんの話をしていて、次の行で『彼は』という言葉で始まっている時、普通はAさんのことを指すのですが、この本ではAさんではなく著者自身のことを指すことになります。

この事で時々つまづきそうになりながら読んでいくんですが、その中味は確かに須田さんの言うように『良く分からない』というのが正しい表現だと思います。

第一部でネットゲームの天才プレーヤーとして活躍していた時の話は、それらのゲームにどっぷりつかっていた人にしか分からない言葉が次々に出てきて、ゲームをやったことがない人間には『こんなことかな』と想像をたくましくするしかありません。(もちろんかなり多数の脚注も付いているのですが、何しろアルファベットの頭文字語や3文字や4文字に省略した言葉なんかが山程出てきますので全部は分かりません。たとえば『ブラ三』というのが『ブラウザ三国志』というゲームの名前だとか、ゲーム『FF11』というのが『ファイナルファンタジー11』のことだなんてことは説明がないと私にはチンプンカンプンです。

第二部のゲーム作りの話も同様に、実際にゲーム作りをした人にしか分からない言葉がたくさん出てきます。出てくる言葉がゲームの名前なのかその登場人物なのかゲームのテクニックなのか、なかなかはっきりしません。

第三部ではいよいよ裁判の話になり、多少は分かるようになります。というのも著者の言う通り、裁判というのは『裁判官に自分の主張をいかに分からせるか』というゲームであり、裁判官はゲームの世界の経験者でも何でもないので、その裁判官に分からせるような文書を作る必要があり、その文書が多数引用されているからです。裁判のプロセス自体は私も何度か経験があるので良く分かります。

で、資本金100万円。著者はそのうち8万円だけ出資し、給料ももらわず半年間頑張って、追い出された時の会社の評価額が20億円とか70億円。そこから自分の取り分として約6億円を取り返すまでの7年の裁判記録。この部分がなかなか面白い読み物になっています。

それにしてもこの会社、裁判の途中で会社の評価額が14億円とかに下がってしまい、最終的に倒産してしまいます。倒産に先立ち会社側は会社の切り売りを企てますが、著者の側は取りっぱぐれを防ぐために切り売り阻止の訴訟を起こします。会社側は切り売り阻止の訴訟を回避するため9億円を供託してその訴訟を取り下げてもらいます。結果として著者の側は、勝訴した場合、最大9億円までの範囲内でお金の取りっぱぐれの恐れがなくなったわけです。

私も実際何度か裁判を経験し、この、裁判に勝った結果のお金をどのように取り立てるか色々考えた事があるので、この取りっぱぐれのない状況というのは信じられないような話です。(裁判というのは勝ったからと言ってそのお金を取り立てる保証をしてくれるわけではありません。)

会社の方は裁判の代理人弁護士を次々変え、次々にヘタを打っていって、著者の方は次第に勝利に近づいていくのですが、何しろ判決はゲームの事など何も知らない裁判官が下すことになりますから気が許せません。何しろ『たった8万円出資し、半年働いただけで6億円も払うなんてそんなバカな話があるか』と言われれば確かにその通りですから。とはいえ『資本金100万円の会社がたった半年で評価額70億円の会社になる』という話自体、とんでもない話ではあるんですが。

で、著者の獲得した6億円ですが、たった半年働いただけで6億円というはすごい稼ぎだな、とも思うのですが、一方普通のサラリーマンの生涯年収の合計が退職後の年金も含めて平均4億円程度という数字と比べると、この人は一生のサラリーマンとしての仕事を半年間にやってしまったんだと考えれば、それほどビックリするほどの稼ぎということもないのかも知れないなと感じます。

という事で、まずは須田さんの『良く分からなかった』という言葉が良く理解できたということ、暇空茜さんという人がとんでもない人でとんでもない人生を送ってきた人だということが良く分かった、裁判の記録も波乱万丈で面白かったと思います。
とは言え、裁判の話は暇空茜さん側からの一方的な話しかありませんから、相手の会社側からはどう見えていたのかは分かりません。

また暇空茜さんを応援して会社を作らせ、その会社の社長として暇空茜さんを無給で働かせ、ゲームができた所で金も払わずに会社から追い出し、その後暇空茜さんと裁判で戦った人について暇空さんは、一番恨んでいる人のはずなのに、最後まで「さん」づけで呼んでいるのもちょっと不思議な話です。

あとがきに、
『ネットゲームと裁判を通して思ったことは、人と人とは分かり合えないし、話し合いで解決できない、ということだ。』

『よほどゲームを愛していなければネットゲーム廃人になんかならないほうがいい、ほかにどうしてもやりたいことがあるのでなければ学校は中退しないほうがいい、よほど許せないのでなければ裁判なんてやらないほうがいい、どうしても譲れないのでなければ、信頼できる弁護士がすすめるなら和解して終わらせた方がいい。』というのも、著者がすべてそのようにしなかったことと考え合わせると、なかなか味わい深い言葉ですです。

とまれ不思議な本ですが、何とか読むことができますし、裁判の話はなかなか面白いです。
ゲームの好きな人にはまた別の読み方があるのかもしれません。

興味があったら読んでみて下さい。

『暇と退屈の倫理学』―國分功一郎

5月 21st, 2025

昨年のゴールデンウィーク明けの週末に、学生時代の友人3人と久しぶりに会いました。全員それなりに年をとっていて、とは言えまだまだ元気なのを確認したのですが、その際、その中の一人が紹介したのがこの本です。確か東大生協の本屋さんで一番売れている本だ、とかの話でした。

で、とりあえず図書館で予約して、約半年でようやく順番が回ってきたので借りてみました。

何となく予感していたのですが、やはりマルクスの資本論を読もうとした時、またピケティの本を読んだ時に感じた、いかがわしさを感じました。

資本論については、友人から、読む必要がない本だとアドバイスされて読むのをやめました。ピケティの本は図書館で1年待たされて借りて読んだのですが、資本論についてのアドバイスをもらった後だったので、そのつもりで読みました。今回の本のそのつもりで読みました。

で、文庫本ですが、かなり頁数がある本なのですが、読み終わった後に、そういえば暇にしても退屈にしても、私は日本語として捉えていますが、著者が引き合いに出しているのはヨーロッパの哲学者の言葉ばかりです。ヨーロッパの哲学者が私と同じ言葉で理解していたのだろうか、と思いました。本のカバーを見ると何やら英文のタイトルのようなものが見えます。良く見ると『Ethics of Leisure and boredom』 となっています。この英文は著者が用意したものか出版社が勝手につけたものか分かりませんが、とりあえず著者も了解の上の英文だと考えて、暇はLeisure、退屈はBoredomということだと考えました。

Boredomというのはいかにも飽き飽きしてやってらんない…という感じがしますが、Leisureというのが『暇』なのか、と思いました。ネットで見るとLeisureというのは日本語のレジャーとは違っていて、もともと『働いていない時間、働かなくても良い時間』というような意味のようです。

このLeisureについてパスカルが『人間の不幸は、暇な時に用もないのに部屋にじっとしていられないことが原因だ』と言っているようで、これがこの本の前半の暇についての考察に繋がっています。

パスカルという人は修道院に入るような、ある意味原理主義的なキリスト教徒ですから、もちろん人間は原罪を背負っており、苦しい思いをして働くことが運命づけられている、と考えていた人ですから、労働しないでノンビリ暇を楽しむなんて許されないことだと考えている人です。こんな人の言葉をもとにして暇について考察されても困ってしまいます。

退屈についてはこの本の後半のテーマになっていますが、この言葉の定義として、たとえば田舎の駅で列車に乗り遅れ、次の列車まで何時間も待たなければならない。仕方がないので暇つぶしに駅の近くを歩き回ってみても、時計を見ると殆ど時間が経過していない、なんて状況だと言っているのですが、この説明は何とも納得いきません。基本的にこんな状況、暇ではありますが、退屈することなくいくらでも暇つぶしのネタはありますし、いよいよとなったら日本人の得意な『居眠りをする』という手があります。

時間に余裕があればその時はのんびり暇と楽しむし、時間に余裕がない時は焦るという事はありますが、退屈するということはありません。

ということで、この退屈についても著者が引き合いに出しているヨーロッパの哲学者の言っている退屈と、私の感じている退屈は違うものなのかも知れません。

私にとっての退屈というのは、たとえばマルチチョイス式の試験問題の解答を、正解の表を見ながら採点するという作業を何百人分も手作業でやる、とか、生命保険会社の30社分のP/L・B/Sを表を見ながら全てエクセルに手入力する、なんて時で、基本結構忙しい時で、暇な時に退屈を感じることはまずありません。ヨーロッパの上流階層の暇つぶしの一つに『兎狩り』というものがありますが、この『兎狩りは、その目的は兎だ』と書いてある部分もあり、これは明らかな嘘だ、と思いました。釣りバカのハマちゃんやスーさんに『釣りは、その目的は魚だ』と言うようなもので、ここらへんいわゆる左翼の人たちの伝統的な嘘を垣間見たように思いました。

私はここまで生きてきて今更こんな嘘には騙されませんが、中学・高校と、学校と先生の言う事しか聞いていないで、自分が今後どのような生き方をし何を考えるのか分からない若者にとっては、このような本もある意味通過儀礼のようなものかも知れないなと思いました。

若い人がこのような本をさっさと卒業して、もっとちゃんとした本に早く出会えるようになることを期待します。

『独裁者の学校』―エンリッヒ・ケストナー

12月 18th, 2024

トランプ氏が撃たれたという衝撃的なニュースでびっくりしてその後のニュースをチェックしていて、その翌日に図書館に行った所、『新しく出た本』のコーナーにこの本がありました。

珍しく岩波文庫の赤帯の本で、どうして今更、岩波文庫が新しく出た本なんだろうと思い、手に取ってみました。

著者のエーリッヒ・ケストナーは、ドイツの児童文学者として有名な人です。

私が高校生の頃(ですから今から半世紀以上前のことですが) 、岩波書店が児童文学にかなり力を入れ、ドリトル先生のシリーズとかアーサー・ランサム全集とかを続々と出版していました。その中にケストナーの児童文学の全集もありました。

私の行っていた高校は中高一貫の学校で、図書室は中高共通でした。この図書室が、多分中学生向けに購入したと思われるこれらの児童文学のシリーズを高校生が横取りしてしまい、何人かの高校生の仲間で次々に回し読みしてなかなか中学生には順番が回らないようでした。私もこの中の一人としていろんな児童文学を読み、ケストナーであれば『二人のロッテ』とか『飛ぶ教室』とか読みました。その後児童文学以外の作品もあることが分かり『雪の中の三人男』とか『一杯のコーヒー』とか読んで、どちらかというと好きな作家です。

とは言え、たしかかなり前に死んだ人のはずですから、何で今更新しく出た本なんだろうと思って奥付を見てみると、2024年2月15日第一刷発行となっているので、新刊であることは確かです。

読み終わって『あと書き』を読むと、この本は日本では1959年にみすず書房から翻訳出版されており、この岩波文庫版はエーリッヒ・ケストナー没後50年を期して新訳として出版されたということです。

この作品は戯曲、すなわち舞台劇の台本です。戯曲というのはあまり読んだ事がないのですが、読んでみました。

全9場の舞台で、第1場は大統領宮殿の広間。今まさに(多分憲法改正により)大統領が終身大統領になろうとしていて、大統領本人の最後の1票を除いて全国民がすでにその終身大統領に賛成しており、宮殿前の広場、あるいはラジオを通して全国民が最後の大統領の受諾演説を待っているという所です。

実はもう最初の大統領は死んでおり、今はもう3人目位の替え玉が大統領を演じていて、それをコントロールしているのが陸軍大臣・首相・主治医・首都防衛司令官・監察官のチームで、もともとの大統領の夫人と息子は信ぴょう性を増すためそのまま生かされて、大統領を本物であるかのように見せるために使われています。

替え玉第3号は終身大統領の受諾を宣言し、広場の国民の歓呼の声にこたえる為広間からバルコニーに出ます。そこに銃弾が撃ち込まれます。大統領は顔に軽いけがをし、暗殺未遂犯はすぐに射殺され、第3号は身の安全を示すために再びバルコニーに姿を現し、終身大統領就任と暗殺未遂失敗を祝って政治犯千人を釈放すると発表します。

第2場では、大統領執務室に戻った大統領替え玉第3号、はシナリオにない政治犯千人の釈放を勝手に発表した事を責められ、主治医に感染予防だと言われて注射され、殺されてしまいます。

第3場はいよいよ表題の『独裁者の学校』で、次の替え玉になる大統領達が4号から12号まで大統領宮殿とは別の宮殿で暮らしています。そこを仕切っているのが教授と呼ばれる人、というわけです。替え玉たちは大統領の身振り手振り立居振舞い、演説の口調を本物と同じにするように訓練を受けながら自分の出番を待っています。

この替え玉のうち7号は実は反政府運動のリーダーで、政府によりロンドンでホテルから落とされて死んだことになっているけれど、実は別人が殺されその死んだ人になり替わっていつの間にか替え玉の一人になっていて、有能なので教授の助手のような立場で替え玉達を仕切っていました。

で、6号が次の大統領替え玉として連れて行かれてしばらくしてついにクーデターが起こり、政権が転覆します。

替え玉7号はクーデターのリーダーとして勝利宣言し、大統領宮殿の広間に入ってきます。そこで改めて全国民に勝利宣言しようとして、軍がクーデターを乗っ取ろうとしていることを知ります。軍が要求する軍人中心の内閣人事を拒否しようとする7号は宮殿のバルコニーに出て国民に語りかけようとしますが、そこに集まっているはずの国民は誰一人いません。スピーカーから大勢がいるような声が流されているだけです。第7号はバルコニーから身を投げ、代わって首都防衛司令官が大統領就任を宣言します。反革命のテロリストにより背後から撃たれて死んでしまった救国の英雄第7号を悼んで盛大に国葬を執り行うことを命じ、7号が途中まで演説していた勝利宣言のテープを処分することを命じて、新たに大統領となった首都防衛司令官は広間を出ていきます。

ケストナーはこの戯曲をナチスがドイツを支配し始めた1936年に構想を始め、途中ナチスの隆盛により一時中断し、ヒトラーが死んだ1945年に再開し1955年に完成したということです。

支配者の国民煽動のツールとしてはラジオ・テープレコーダー・拡声器くらいだけですが、民衆の歓喜の声をテープレコーダーから拡声器で再生して場を盛り上げたり不都合な部分を消してからラジオに流すなど、情報操作のやり方がいろいろ披露されています。今のようなテレビやネットを使った情報操作はないものの十分効果的な操作が可能です。

現在、世界各国で独裁者が国民を蹂躙して政権を維持しています。そのうち何人かは近いうちに引きずり降ろされることになりそうですが、その後また代わりの独裁者が出て来て独裁体制は続くというシナリオは十分考えられます。

ケストナーは前書きで『この本は脚本であり、二枚目も登場しなければ機知に富んだ会話なども入る余地はない。偉大さと罪深さ、苦悩と浄化といった崇高な作劇の物差しなど無視するしかない』と言っています。実際読んでみると、ただただ暗然と、救いようのなさに途方に暮れるしかありません。

しかし今のような時代だからこそ、この本を、ヒトラーの死によって完成された新しい本として読んでみる価値があると思います。

楽しい読書を期待する人にはお勧めしません。
気の弱い人にもお勧めしません。

『弱者の帝国』-ジェイソン・C・シャーマン

12月 17th, 2024

この本でいう『弱者』というのはヨーロッパ諸国のことです。
いわゆる軍事革命論と言うそうですが、『ヨーロッパがアメリカ・アジア・アフリカを制覇し、世界全体を支配するに至ったのは高性能の兵器、それを用いた優れた組織、それを用いて海外の敵と戦って勝ったためだ。ヨーロッパ人はヨーロッパの中で互いに戦争し、その競争を生き延びる過程で学んだ戦争の技術を持っていたため、ヨーロッパ外の国でもそれを用いて世界を制覇したんだ』というような、一般に受け入れられている議論を、これは全く誤りで、歴史的事実とも異なるということを実証している本です。

確かにヨーロッパ諸国は互いに戦争し合い、その過程で軍事技術を高度化し、大軍を使ってする戦争という方法を開発してきましたが、それはヨーロッパ外でのヨーロッパ勢の戦争あるいはその地球の征服とは全く関係がないという話を、アメリカ・アジア・アフリカ・中近東(オスマン帝国)のそれぞれについて実証的に解説してくれている本です。

ヨーロッパは戦争に強かったわけではなく、武器(大砲や機関銃)の優位もあっという間に追いつかれてしまい、ヨーロッパの外では大軍を使った戦争をしたわけでもなく、ヨーロッパ外の地域に進出できたのは、まずヨーロッパ人が現地人に臣従する形で関係を構築し(イギリスの中国進出の際、イギリスは中国皇帝に臣下の礼をとった、というのはよく知られています。)、現地勢力間の争いに乗じて勢力を強めていった、とか、現地勢力は内陸の支配に関心を持っていて、もっぱら海運・港湾等にしか関心を持たない西洋諸国には無関心だった、とか、武器も西洋諸国が大砲等を持っていてもすぐに真似されたり、現地勢力が西洋人を傭兵として使ったりして、優位性はすぐになくなってしまった、とか、そんな話ばかりで、たとえばオスマン帝国が負けたのは、クリミアでロシアに負け、また第一次大戦でドイツ側についたために英仏に負けた位の話だ、とか、一つ一つもっともな話です。

ところがこんな話は日本人やアジア人が主張してもヨーロッパ人は聞く耳を持たないでしょうから、ヨーロッパ人のちゃんとした学者が客観的に説明してようやく欧米人の耳にも入るんだろうなと思います。

アメリカの話では、疾病と現地勢力同志の争いがヨーロッパ人の優位の原因だったこと、アジアではヨーロッパ人はもっぱら香辛料貿易にしか関心がなかったこと、オランダとイギリスの東インド会社は主権国家ならぬ主権会社という存在だったとか、どちらの会社も実態は破産状態で、イギリスは仕方なく国家で東インド会社を国有化して破産を回避し、アヘン戦争でようやく収支を立て直したとか、アフリカでも現地勢力の奴隷売買を利用してヨーロッパ人がヨーロッパ・アメリカへ黒人奴隷を輸出したんだとか、具体的な話がきちんと紹介されています。

日本が太平洋戦争に負けて常勝日本の神話から脱却したように、ヨーロッパもようやく最強神話から覚めようとしているのかも知れません。

南北アメリカ・南アジア・アフリカ・中近東にわたってバランスよく何が起こっていたのか、解説してくれる本です。

ヨーロッパの中で帝国主義、『帝国だということが大国の証だ』なんて考えが広まって、小国のベルギーまでアフリカに大植民地を作ろうとしたなんて話もなかなか面白い話です。とはいえ、考えてみればイギリスも、イギリス本土だけなら大して大きな国ではないのにあの大英帝国を作った、と思えば、ベルギーが大帝国になることを夢見たとしても不思議じゃないかもしれません。

この本を読んで、ヨーロッパ各国による大植民地時代というのは本当は何だったのか、考え直してみるのもいいかもしれません。

お勧めします。

『デジタル時代の恐竜学』 河部 壮一郎

12月 11th, 2024

この本も図書館の『新しく入った本』コーナーにあった本で、2024年4月10日に出版されています。

皆んな大好きな恐竜の世界で、CT・スキャナー・MRI・3Dプリンター・フォトグラメトリ・コンピュータシミュレーションなどがどのように使われているかという話を、実際に恐竜の骨をCTスキャナーを使って研究する、日本でも草分けのような著者がその魅力と楽しさを教えてくれます。

著者は恐竜研究をするにあたりテーマを探していて、国立博物館の先生から『飛ぶ鳥と飛ばない鳥で脳の形は違うのだろうか』というテーマを与えられました。

これを面白いと思った著者は、そのため生物の勉強から始め、脳に関する勉強を始めます。で、ある日ダチョウの生首を手に入れた著者は、これをCTスキャンにかけて脳の形を調べたいと言って、医学部のCT装置を使わせてもらうことになります。

もちろん化石になってしまうと骨しか残っていないので脳自体は残っていないけれど、脳が入っていた骨があればそこに入っていた脳の形や大きさはわかります。でも脳は骨で囲まれてしまっているので、細かい所は骨を割って開いてみなければ分かりません。しかしCTスキャナーで断面図を作ることができれば貴重な化石を壊さないで骨で囲まれた脳のスペースを細かく調べる事ができるし、そのデータを元に3Dプリンタ―で脳を作ることができれば、さらにいろんな研究ができるということです。

さらには化石は重く、壊さないように慎重に運ばなければならないのに、CTスキャンでデジタルデータにしてしまえば実物は動かさなくても自由にどこにでも運べるし、必要であれば縮小したり拡大したりしながら3Dプリンターで立体模型も簡単に作ることができます。

武漢コロナが大流行した時、海外旅行はおろか国内旅行もなかなか思い通りにできない時代、筆者は化石のCTスキャナ画像あるいは脳のMRI画像と格闘します。CTにしろMRIにしろ普段我々が目にするのは綺麗に色付けされた立体画像ですが、元々は白黒の画像が何千枚も重なったものです。これを白黒の濃淡や他の手掛かりで一つ一つ組織を区別していき、それに色を付けていきます。すなわち気の遠くなるような塗り絵の世界です。

多分病院などで取るCTやMRIはあらかじめ人体の構造やいろんな組織の画像のサンプルがあるのでそれを作ってコンピュータでこの色付け作業をしてくれるんでしょうが、化石の世界ではあらかじめどのような骨がどのように配置されているか分からないので、基本的に全て手作業でこの塗り絵を行ったようです。

この塗り絵の作業が全て終わってそのデータをコンピュータで処理すると、ようやく綺麗に色付けされた画像を見ることができ、どの方向からどのように切った断面図でも、表にある余分なものに隠されている内部の姿も自由に見ることができる。インターネットを使ってデータを送れば世界中のどこにいる人とも同じ画像を見ながら会話することができる。あるいは砂に埋もれ、あるいは岩に押しつぶされ骨以外のものと一体となってしまっている化石から骨の部分だけデータとして取り出し、現物を壊すことなく骨の部分だけの模型を自由に作ることができる、というわけです。何十メートルもの大きさの恐竜も縮小してしまえば手の上に載せることができる模型にすることができます。

武漢コロナもこう考えると著者たちを足止めして塗り絵に専念せざるを得なくしたということで、あながち悪いことばかりでもなかったかも知れません。

いろんな最新の技術が大昔の恐竜の研究にどのように生かされているか、ワクワクするような本です。お勧めします。

『ウイルスとは何か』『進化38億年の偶然と必然』 長谷川政美

12月 10th, 2024

この本は武漢コロナが世界的に大流行した時に、そもそもウイルスとは何かについて解説するために書かれたものです。

この長谷川政美さんについては、前に書いた『敗者の歴史』を読んでいる時に副読本として『進化の歴史』というネット上で公開されている本のようなものを読み、そこから芋づる式に検索してこの本に出合ったものです。

この『進化の歴史』というサイトは全51話を1つづつ1つのサイトのページとして「進化」について説明しているもので、1話あたりA4縦で印刷すると大体5ページ位のものです。

全部印刷してほぼ読み終わった所で、これだけのものだから本になっているに違いないと思って調べてみると、確かに『進化38億年の偶然と必然』というタイトルで本になっていました。

さいたま市の図書館にはなかったので、他の市の図書館から借りてみたのですが、内容はネットのものと同じで、すでにネットの方で全て読み終わっていたので本の方はあまり読むこともなく、本になっていることの確認、ということになってしまいました。

ネットのサイトの方は『進化の歴史』
 https://kagakubar.com/evolution/〇〇.html
  〇〇は02~51 最初だけevolution01.html
というもので、第2話から第51話が/evolution/〇〇.html(〇〇は01~51)
第1話だけ/evolution01.html となっています。

それぞれの話には左側にそれ以前の話のサイトへのリンクが張ってあります。
最後の51話のサイトを見れば第1話から第50話のサイトへのリンクが張ってあり、目次のような役割を果たしているという具合です。

この長谷川さんという人は物理を勉強し、その後統計数理研究所という所に入り、生物学の学者は実際の生き物を研究したりせいぜい細胞や細胞内の化学反応を研究する人が殆どで、ゲノムを大量に複製してその大量のデータを統計的に処理して遺伝子を研究するなんてことをする人がまだあまりいなくて、物理の研究でやっていたデータの統計処理の手法がうまく使えて、いつのまにか生物学者の遺伝子分類学の専門家になってしまった、という事でした。

統計数理研究所というのは、高橋洋一さんも入りそこなった所で、どちらかというと人の行動とか寿命・死亡率とか経済学の方の統計の研究をする所かと思っていたので、生物学もやっているんだと初めて知りました。

で、この本ではダーウィンおよびウォレスの進化論とはどういうものかから始まって、いろんな植物の分類の話から最新の遺伝子の働きの仕組みまで、面白い話題が盛りだくさんに書かれています。

興味深かったのが『DNAは生物の設計図ではない。むしろレシピのような物だ』という言葉です。設計図のように厳密なものではなく、むしろレシピのようにかなり大まかな指図であって、細かい所はその時その時の状況によって自由に適当に決まっていけば良い、ということだと思います。

で、この本(というかネットの記事)が面白かったので、例によって芋づる式でこの著者の本を検索してみつけたのがこの『ウイルスとは何か』です。

武漢コロナの世界的なパンデミックを背景に、このコロナウイルスをはじめとしたウイルス全般について遺伝子学の立場から解説したのがこの本です。

普通、生物の進化というのは何十年もかけて生物がどのように変化するか調べるものですが、ウイルスの世界ではそれこそ時々刻々に変化するのを、たとえばこの武漢コロナについては世界中の大学や研究機関が寄ってたかって次々に遺伝子を解析し、その結果を相互に交換し合っているんですから、専門家にとっては面白くてたまらないだろうな、と思います。

この本ではウイルスには実は7種類のウイルスがあって、本体がRNAのもの、DNAのもの、それも一本鎖のもの、二本鎖のもの、そのままタンパク質合成に使えるもの、転写してから使うもの、いったん核のDNAに組み込んでから使うもの、等々の違いがあるという事。コウモリは多数が一ヵ所にまとまって暮らしていて、多くのウイルスが宿主のコウモリに悪さをしないように進化していて、そのウイルスがたまたまほかの生物に感染すると大変なことになる、など、丁寧に解説されています。

ウイルスは細胞に感染しないと生きていけないんですが、ミトコンドリアもそれだけで細胞として、ミトコンドリアに感染するウイルス、というのもあるようです。となると葉緑体に感染するウイルスもいるんでしょうね。

生物の進化がスピードだということからすると、ウイルスこそ進化の最先端ということなのかも知れません。

この2つの本、お勧めです。

『ハマス・パレスチナ・イスラエル-メディアが隠す事実』ー飯山陽

8月 23rd, 2024

これは飯山さんも『ハマス本』と言っているように、ハマスとそれを取り巻くパレスチナ・イスラエル、そしてイラン・アラブ諸国等々の様々な関係を明瞭に説明してくれている本です。

もちろんこれは昨年10月7日のハマスによるイスラエル大規模テロを契機として、それまで飯山さんが書いた物、その後書いたものをまとめたものです。中ではこのテロに関してとんでもない解説をしている中東研究者やジャーナリスト等も実名を挙げてコテンパンに批判しています。

このような中東研究者やジャーナリスト新聞やテレビなどを見聞きしていると殆ど理解できない話が、飯山さんの手にかかると魔法のように明瞭に理解できるというわけです。

この本で飯山さんはハマスとパレスチナを明確に区別することを求めています。飯山さん以外の連中が何とかしてハマスとパレスチナを一緒くたにして話をごまかそうとするのと正反対です。この本を読むとパレスチナ、特にガザに住むパレスチナ人がハマスの人質だということが良く分かります。イスラエルがハマスを攻撃する時、ハマスは人質のパレスチナ人を人間の盾として使い、殺されたパレスチナ人をイスラエルに殺された、残虐なイスラエルだ、と大騒ぎします。一方パレスチナ人に対してはこれで殺されれば『天国への特急指定席券を貰ったようなものでおめでたい』と言う、完全に二重基準だということが良く分かります。

このハマスとパレスチナ人の関係はイランでも同様で、イランの最高指導者をはじめとする革命政権の人達と、一般のイラン国民との関係と全く同じで、革命政権はイラン国民を人質として使っていることが良く分かります。

ここでも多くのイスラム・中東学者・ジャーナリスト・マスコミは、革命政府とイラン人の区別を全くしないで、革命政府の言うことをイラン人全体の総意だという言い方しかしないで、革命政府が恐怖政治でイラン人を支配しているという構造を隠しています。

ガザのパレスチナ人がガザに閉じ込められているということに関しても、閉じ込めているのはイスラエルによってだけでなく、エジプト側の国境ではエジプトによって閉じ込められており、さらに何よりハマスによって閉じ込められているんだという構造も学者やマスコミは全く説明しません。ハマスは国境の検問所という関所で物資を強奪し、通行料を取って大儲けをしています。

このような基本的な構造を知ってか知らずか、岸田外交はハマスと対立している西岸地域のパレスチナ自治政府に対してハマス擁護の発言をしたり、全てのバックで世界征服を目標としているイラン革命政権と仲良くしている姿を見せたりして、イスラエルには不信の念を抱かせ、アラブ諸国には疑念を抱かせ、イランからさげすまれ、アメリカや欧州各国からは疑いの目で見られているという姿を明らかにしています。

ハマスのやっているのは弱者ビジネス、ガザに住むパレスチナ人をイスラエル人にいじめられている可哀そうな人だと全世界に宣伝し、世界中から寄付金や支援金を集め、これをパレスチナ人に渡る前に横取りして、パレスチナ人に渡らないようにする、というビジネスです。横取りするのは、お金を渡してパレスチナ人が可哀そうな人でなくなっては困るからです。可哀そうな人が可哀そうな人であり続ける限り世界中からお金が集まって、それを横取りすることでハマスは贅沢な暮らしができる、というわけです。このような弱者ビジネスは『弱者は正義』のスローガンで正当化しています。

このような弱者ビジネスの仕組み、ハマスとパレスチナ人との関係、イラン人と革命政府の別を踏まえると、中東の本当の姿が見えてきます。今までに見えていたものとは全く別の世界が見えてきます。

お勧めします。

エクセルファイルの保存の仕方

8月 20th, 2024

山の日(8月11日)を挟む3連休、家に籠ってクーラーを効かせ漫然としてツイッターを見ていたら、こんなツイートに出会いました。

『何度でも言うけど、こんなことを気にしている人は仕事できない人として認定です』

その下にはエクセルシートの画像と一緒に、元となったツイートが付いています。そこには・・

『何度も言うけど、エクセルの資料を提出する時に、カーソルをA1セルに置いて保存していない人は仕事ができない人として認定です』と書いてあります。

仕事できる人認定がまるっきり逆なのでちょっと興味があり、このツイートに付いているたくさんのコメントをちょっと見てみました。

幸いなことに私はもう仕事できる人として認定してもらう立場でもなく、また他の人をそのように認定しなければならない立場でもないので気軽なものです。

で、この『カーソルをA1セルに置いて保存する』というプロトコルはどうやらかなり一般的なもののようで、『大昔新入社員の時にそう言われた事がある』とか、『カーソルがA1に置いてないエクセルファイルを開くと一瞬イラッとする』とか、『保存する前に全てのシートでカーソルをA1に置いて、最後に最初のシートを開いてから保存するマクロを作っている』とかのコメントがありました。

逆に『そんな事を気にする方がおかしい』、『場合によっては却って不都合な場合もある』、『そんな事より中味が大事』というようなコメントもあり、『民間どおしのやりとりなら問題ないが、相手がお役所だとこれをしていないと嫌な顔をされる』なんてコメントもありました。

私はエクセルができる前からのユーザーですが、こんな話は初めて聞いたので『へ~~』とあきれ返った次第です。それにしてもこんな話でツイッターがこんなに盛り上がるとは驚きですね。

で、山ほどのコメントの中に『マクロを作れば』というコメントに対して、最初に『A1で保存しないと』と言っている(とみられる)人が、『基本マクロは使いません』と言っているのを見つけました。

マクロを使わない、ということはあまり計算をすることがなく、エクセルを清書用ツールとして使っているんだろうな、と思いました。通常、清書用のツールはワードを使うけれど、ワードはたくさんの表・大きな表を使うのにあまり便利じゃないので、その場合にはエクセルを使うということなのかなと思い、そういえばワードではカーソルはどうなっているんだろうと調べてみました。

ワードでももちろん編集用にカーソルが用意されていますが、カーソルをどこにおいて保存しても、そのファイルを改めて開いてみると通常カーソルはファイルの1頁目の左上に置かれる形で開きます。即ちエクセルを清書用のツールとして使っている人は、ワードと同じ動き方をエクセルにもさせようとしていた、ということのようです。

一方エクセルを計算用のツールとして使っている人にとって、カーソルをA1に置くというのは何の意味もありません。重要なのはどのようなパラメータを使い、どのような計算をして、どのような計算結果が得られたかということですから、そのような部分を表示している所にカーソルを合わせるかも知れません。

となると問題は、清書用のルールと計算用のツール両方に同じエクセルという名前をつけて同じソフトを使っているということなのかも知れません。
 
エクセルでもソフトの仕様としてファイルを開いた時にカーソルが常にA1にくるようにもできたでしょうが、そうしなかったのは計算用ツールとしてのユーザーに配慮した、という事でしょうか。

そう言えばエクセルにはもう一つユニークな使い方があります。『エクセル方眼紙』とも呼ばれますが、エクセルシートをセルの幅・高さを小さくして方眼紙のようにしておいて、そのセルをいくつか結合してそこに見出しや入力フィールド、出力フィールドを配置する、帳票設計用のツールとしての使い方もあります。

私は何度か見たことがあるだけで、このような使い方を活用するまでには至らなかったのですが、この場合でも多分それなりのルールとかプロトコルとかがあったのかなと思います。

私のエクセルの使い方は簡単な表計算用として使うこと以外に、デルファイで計算作業をする際、パラメータの入力や計算結果の出力の為にエクセルを使う、というやり方で使っています。デルファイが今イチ一般的なソフトにはならなかったので、今では徐々にデルファイをパイソンに変換しつつあります。

もう一つ大切な使い方が画面印刷の台紙としての使い方です。昔は画面印刷(PrintScreen)はファンクションキーを押すだけで画面が印刷できたのですが、今では画面イメージがクリップボードにコピーされるだけで印刷はしてくれなくなってしまいました。そのためそれを印刷するために専用のエクセルファイルを作成し、そのエクセルファイルを開くと画面印刷でクリップボードにコピーした画像を自動的にシートにコピーし、印刷してくれるという具合にしました。印刷が終わったらこのエクセルファイルを保存しないで終了させれば、何度でも同じファイルで別々の画面印刷をすることができるという具合です。

これほど多様な使い方のできるエクセルを1つの名前で呼んでいるというのが、そもそもちょっと無理があるのかも知れませんね。