Archive for 9月, 2015

杉山茂丸 『百魔』

月曜日, 9月 28th, 2015

この本は、facebookのやり取りで頭山満が杉山茂丸に言った言葉を教えてもらい、それがこの本の最初の方に書いてある、ということで、この本を借りて確かめてみました。

せっかく借りたのでこの本の全体を読んでみたのですが、非常に面白かったので紹介します。

この本、もともと正・続それぞれ600頁くらいの本のうち、正の部分だけが講談社学術文庫に上・下に分かれて出版されているもののようで、その文庫版の上下を読みました。

この上・下で全67話あります。で、それだけの数の魔物というか豪傑・怪人・魔人が登場するのかと思うとさにあらず、この67話それぞれの話の主人公になるのは12人だけです。

中でも星一(あのSF作家の星新一の父親で、星製薬の社長・星薬科大学の創立者)が9話、後藤猛太郎(土佐の後藤象二郎の息子)が8話、龍造寺隆邦(杉山茂丸の弟で幼名杉山五百枝(イオキあるいはイオエ)が後に改名して祖先の龍造寺姓になった人)が12話、という具合です。

登場人物はどの人もとんでもない怪人・豪傑ぶりで、こんな人が身近にいなくて本当に良かったなと思うくらいにとんでもないムチャクチャぶりです。

他人の物を勝手に質入れしたり、他人の家を抵当に入れて金を借りたりして平然としている(もちろん質入れされたり抵当に入れられたりした方も平然としているんですが)、なんて話がごく普通のことのように書かれています。

文章は興が乗ってくると突然75調の浪花節だか浄瑠璃だかみたいなものになるかと思うと、いつのまにか普通の文章になったりして、とにかく『である調』の名文です。

この様々な怪人の話をする中で著者の杉山茂丸自身の怪人ぶりも様々に紹介されて、面白い読み物です。

この面白さは直接読んでもらうのが一番です。

53話の『庵主が懐抱せる支那政策案』というタイトルの話の中で、杉山茂丸が弟の龍造寺隆邦に語るという設定で書かれている杉山茂丸の中国論、すなわち『支那は永久に亡びざる強国である。日本は支那の行為によりては直ぐ目前に亡びる弱国である』という指摘は現在でも十分玩味する価値があるものだと思います。

興味があったら読んでみて下さい。

伊藤真さんの『平和安全法制特別委員会参考人意見陳述』

月曜日, 9月 14th, 2015

安保法案の参議院での採決もあと少しですが、先週の9月8日、特別委員会では参考人質疑が行われました。4人の参考人のうち、4人目が伊藤真さんでした。

伊藤さんというのは、司法試験受験者では知らない人がいないほどのカリスマ講師であり、自ら伊藤塾という司法試験受験のための予備校をやっていて、もう一つはいわゆる立憲主義の憲法学者の中でも過激派の論客として名前が通っています。

もともと私が憲法の勉強を始めたのもこの伊藤さんの本を読んで、そのあまりにもトンデモなさにあきれ果ててコメントした所、友人の弁護士が『もっとちゃんとした本を読め』といって芦部さんの『憲法』を持ってきてくれたという経緯があります。

で、この参考人質疑、4人の参考人がそれぞれ20分ずつ意見陳述し、その後特別委員会の委員の参議院議員45人が参考人に対して質問して答えてもらうということになりますので、全部で4時間半にもなるのですが、そのビデオは
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/detail.php?sid=3335&type=recorded

で見ることができます。

この伊藤さんの意見陳述の部分だけであれば
https://www.youtube.com/watch?v=_Gh_peEF2bg
 
で見ることができます。

またこの意見陳述を文字にしたものが、既にこの伊藤さんのサイトに載っています。
http://www.itomakoto.com/news/news150910.html 

この意見陳述で最初にびっくりしたのは、意見陳述のごく最初の部分で、
 『憲法があってこその国家であり、権力の行使であります。』という発言をしています。

以前美濃部達吉の天皇機関説について、天皇機関説というのは、『大日本帝国憲法(明治憲法)は国民主権の憲法であり、国・国民がまずあり、その国・国民のために天皇がいて、政府があり、議会があり、司法制度がある』という解釈なのに対し、それに反対する天皇主権説というのは『主権は天皇にあり、国・国民は天皇のためにあり、また政府・議会も天皇のためにある』という解釈だと説明しました。

この『国・国民は天皇のためにあり』の天皇を憲法に代えれば「国・国民は憲法のためにあり』となり、言い換えれば『憲法あってこその国家であり』という、上の伊藤さんの発言と同じになります。

これを天皇主権説にならって『憲法主権説』と言うことにしましょう。
日本国憲法(現行の憲法)は、主権在民で国民主権の憲法ということになっているんですが、どうも立憲主義の憲法学者にとっては『国民主権ではなくて憲法主権の憲法』だということになるようです。

このように考えると、立憲主義の憲法学者の『憲法は変えてはいけない』という主張も良く分かる気がします。『主権者を変えてはいけない』ということですから。

美濃部さんの弟子筋の人たちのほとんどがいわゆる立憲主義の憲法学者になってしまい、、美濃部さんの天皇機関説を排撃した天皇主権説の人たちと同類になってしまったのですが、まあ、これについては美濃部さんの『不徳の致すところ』というところなのでしょうか。

で、私にとってはこのように『立憲主義の憲法学者の立場が憲法主権説で、昔の天皇主権説の天皇を憲法に置き換えただけのものだ』と明確になったのが一番の成果だったのですが、伊藤さんの意見陳述のこれ以外の部分についてもコメントしてみます。

伊藤さんはまず、今の国会が最高裁により違憲状態とされる選挙によって当選した議員によって成り立っているので、このような国会における立法は無効だから、まずはその違憲状態を解消してから議論する必要があると言います。違憲状態の選挙で当選した議員さんたちの前でこういうことを言う、というのはさすがの受け狙いですね。今の所最高裁判所は選挙について、『違憲状態ではあっても違憲無効ではない』としていますから、この議論は必ずしも妥当ではないですね。

次に国会がこのように正当性を欠く場合、主権者=国民の声を直接聞くことが必要だけれど、『国民がこの法制に反対であることは周知の事実となっています。』と一方的に決めつけます。その根拠は連日の国会前の抗議行動・全国の反対集会・デモ、各種の世論調査の結果だそうです。このような国民のうちのごく一部の反対をあたかも国民の多数が反対であることにして、それを周知の事実に祭り上げてしまうというのは、すごい論理展開です。さすがに優秀な弁護士さんです。

与党が60日ルールを使って法案を成立させてしまうのを防ぐため、『60日ルールを使うのは二院制の議会制民主主義の否定であり、あってはならない』と言っています。もしそうだとすると、60日ルールを定めている国会自体が議会制民主主義を否定しているということになるはずですが、これについてはどう考えているんでしょう。

次に、国会の安保法制で集団的自衛権の行使を限定的に認めることに関して、『日本が武力攻撃されていない段階で、日本から先に相手国に武力攻撃をすることを認めるものです。敵国兵士の殺傷を伴い、日本が攻撃の標的となるでありましょう。』と言っていますが、これは個別的自衛権であろうと集団的自衛権であろうと、どこかの国が攻撃してきて、それに対して自衛権を行使するというのは、自国を守るために戦争するということですから、敵国兵士の殺傷を伴うなんてことは当然のことであり、日本が攻撃の標的となるという以前に、既に標的になっているということです。

次に徴兵制について、政府が『徴兵制は憲法18条に反するから全くあり得ない』と言っていることに関して、『状況が変化したら憲法解釈の変更で徴兵制を導入してしまうんではないか』と言っています。

憲法解釈を変更したからといって徴兵制をすぐに導入することはできません。そのためにはそのための法律を作らなければならないんで、その徴兵法を作る段階で問題となる点を修正するなり徴兵法自体を成立させなければ、問題のないことです。

この後で自衛権の話になり、『憲法は初めから政府に戦争をする権限などを与えていません。』と明解です。それでは個別的自衛権もないのか、となったところで、『憲法の外にある「国家固有の自衛権」という概念によって、自国が武力攻撃を受けた時に限り個別的自衛権だけを認めることにしてきました。』という、いかにも曖昧な言葉が出てきます。憲法は自衛権を否定しているけれど、憲法の外にある『国家固有の自衛権』というものが憲法より優先され、それで自衛権の行使は憲法違反であるにもかかわらず認められ、しかも個別的自衛権だけを認めることにしてきた、ということです。この『してきた』というのは、一体だれがしてきたんでしょうか。憲法の外にある『国家固有の自衛権』というのは、一体どこに規定されているんでしょうか。それがどのような根拠で憲法に優先する権限を持っているんでしょうか。そしてその自衛権のうち、誰が、どうして個別的自衛権だけを認めることにしたんでしょうか。どうして集団的自衛権は認めてはいけないんでしょうか。何ともはや、支離滅裂な議論です。

これに対し、与党や例の砂川判決の立場ははるかに明解です。すなわち『憲法は自衛権の行使を否定していない』というもので、訳の分からない、憲法に優先する憲法外の自衛権などというものは登場しません。

この砂川判決についても『自衛権について争われた裁判ではないので、その判決の中の自衛権についてのコメントは意味がない』などと言っています。まぁこのように言うしかないんでしょうが。争点ではないとしても、最高裁の裁判官が全員揃って判決し、その判決文の中で自衛権について検討しているという事実をこのように無視してしまうというのは、さすがに憲法主権の原理主義者の発言です。都合の悪いことはバッサリ切り捨ててなかったことにしてしまうんですから。

いずれにしても『憲法上の自衛権』についていろいろ屁理屈を並べているんですが、いよいよとなったら『憲法の外にある自衛権』を持ち出すんだったら、そんな屁理屈は何の意味もないことになります。しかもその『憲法の外にある自衛権』について、誰かが個別的自衛権だけを認めることに『してきた』ということであれば、その誰かが集団的自衛権も認めることに『する』ことにすれば、全ての議論はなくなってしまうのかも知れません。これが『憲法の外にある・・・』なんてものを勝手に持ち出した結果です。

かなり長くなってしまったので、このへんにしておきます。

山口・元最高裁長官のコメント

火曜日, 9月 8th, 2015

この山口・元最高裁長官が安保法制に反対している、という記事は、最初共同通信系の『47ニュース』というサイトでみつけました。
http://www.47news.jp/47topics/e/268766.php

その後毎日新聞でも同様な記事を見つけたのですが(この記事は有料のサイトに移行してしまったようです)、記事の中で記者が元最高裁判長官がこう言ったという発言の片言隻句を取り上げているものでしたので、あまり記事としての価値のないものとしてそのままにしておきました。

その後毎日新聞で「一問一答」という形で、この元最高裁長官の発言が出てきました(この記事も今はもう有料のサイトに移行してしまったようです)。

また日曜日(9月6日)の朝のNHKの政党討論会でも共産党からの参加者がこの発言を取り上げて安保法案を批判していましたので、ちょっとコメントするのも意味があるかも知れません。

ただし、この元最高裁長官の発言、最初に目にしたのは共同通信の記事で、毎日新聞の記事も共同通信からの記事だと書いてありますが、この一問一答については共同通信が作ったものなのか毎日新聞が作ったものなのかも不明ですし、元最高裁長官がこの一問一答を確認しているのかどうかも不明ですからイマイチ信頼性に欠ける材料なのですが、仮にこの一問一答が本当に元最高裁長官が言ったことであり、その内容が元最高裁長官の意見をそのまま反映したものだと仮定して、この一問一答がどんなものなのか、この元最高裁長官がいかに論理的思考ができないか、ということを一つ一つコメントしてみたいと思います。


Q 安全保障関連法案をどう考えるか。

A 集団的自衛権の行使を認める立法は憲法違反と言わざるを得ない。政府は許されないとの解釈で一貫してきた。従来の解釈が国民に支持され、9条の意味内容に含まれると意識されてきた。その事実は非常に重い。それを変えるなら、憲法を改正するのが正攻法だ。


この部分、要するに『憲法解釈を変えるのであれば憲法を改正しろ』と言っているわけです。これには唖然としてしまいます。憲法解釈の変更というのは、憲法の文字は変えないけれどその解釈を変えるということです。これをどのように憲法改正にするのでしょうか。憲法の文言は変更前後で同じ憲法改正案を出して国民投票するということでしょうか。

さらに最高裁判所をはじめとして、各地の裁判所が日常的に憲法解釈の変更を含む判決を出しているという事実をどのように考えているんでしょうか。裁判所が憲法解釈の変更を含む判決をするたびに憲法改正の国民投票をしろ、とでも言うんでしょうか。

あるいは裁判所の憲法解釈の変更はそのままで良くて、立法府や行政府の憲法解釈の変更は憲法改正の手続きをしろと言うんでしょうか。何ともあきれはてた発言です。


Q 政府は憲法解釈変更には論理的整合性があるとしている。

A 1972年の政府見解で行使できるのは個別的自衛権に限られると言っている。自衛の措置は必要最小限度の範囲に限られる、という72年見解の論理的枠組みを維持しながら、集団的自衛権の行使も許されるとするのは、相矛盾する解釈の両立を認めるものでナンセンスだ。72年見解が誤りだったと位置付けなければ、論理的整合性は取れない。


これは要するに、昔の見解と新しい見解が違うということは、昔の見解が誤りだったといういうことだから、その誤りを認めなければ論理的整合性が取れない、ということのようです。憲法はともかく、法律は日常的に改正が行われていますが、法律が改正されてるということは改正前の法律は誤っていたとでも言いたいのでしょうか。今ある法律も将来改正されるとしたら、今の法律は誤っていると言うんでしょうか。


Q 立憲主義や法治主義の観点から疑問を呈する声もある。

A 今回のように、これまで駄目だと言っていたものを解釈で変更してしまえば、なし崩しになっていく。立憲主義や法治主義の建前が揺らぎ、憲法や法律によって権力行使を抑制したり、恣意(しい)的な政治から国民を保護したりすることができなくなってしまう。


立憲主義という言葉をいわゆる立憲主義の憲法学者のように『憲法は変えてはいけない』という意味で使っているのか、それとも本来的なごく真っ当な『憲法を基にして立法・行政・司法が行われなければならない』という意味で使っているのかわかりませんが、憲法に従って法律を制定し、その法律で政治を行うのであれば、立憲主義や法治主義にたがうことにはなりません。憲法に規定のない(従来からの(過去のある時期から以降の))憲法解釈を一方的に押し付けて憲法や法律を制約し、変更の余地を認めないで立法や行政を制約しようとすることこそ、立憲主義や法治主義に反することになると思います。


Q 砂川事件最高裁判決は法案が合憲だとする根拠になるのか。

A 旧日米安全保障条約を扱った事件だが、そもそも米国は旧条約で日本による集団的自衛権の行使を考えていなかった。集団的自衛権を意識して判決が書かれたとは到底考えられない。憲法で集団的自衛権、個別的自衛権の行使が認められるかを判断する必要もなかった。


この砂川判決に関するコメントは驚きましたね。
『そもそも米国は旧条約で日本による集団的自衛権の行使を考えていなかった。』というのは、『米国は日本による集団的自衛権の行使を考えていなかったから日本には集団的自衛権がないのであって、もし米国が日本による集団的自衛権の行使を考えていたなら日本には集団的自衛権があった』ということでしょうか。日本の憲法解釈は米国の考え方次第と言いたいのでしょうか。
『集団的自衛権を意識して判決が書かれたとは到底考えられない。』というのは、本当に判決を読んだ上での判断でしょうか。
確かに判決の本文には単に『自衛権』と書いてあり、個別的自衛権とも集団的自衛権とも書いていません。しかしこの裁判はある意味日米安保条約に関する裁判であり、裁判官が日米安保条約について意識しないで判決したとは考えられません。日米安保条約(旧条約)では条文の中では『個別的自衛権』『集団的自衛権』という言葉は使われていませんが、その前文の部分で国連憲章を引いて、明確に『個別的および集団的自衛の権利』と言っています。これを意識しないで判決を下すというのは、あまりにもその当時の最高裁の裁判官達をバカにした話ではないでしょうか。

『憲法で集団的自衛権・個別的自衛権の行使が認められるかを判断する必要もなかった。』というコメントがあります。確かにこの裁判のためにはそのような判断は必ずしも必要ではなかったのですが、にも拘わらず判決文では『わが国が立憲国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備・無抵抗を定めたものでは無いのである。』と明確に書いてあります。判断する必要のなかったことをわざわざ判断して判決文に書き込んだ、ということです。この山口さんという人は本当にこの判決を読んだ上でコメントしているんだろうか、と疑問に思います。


Q 国会での論戦をどう見るか。

A なぜ安保条約の改定の話が議論されてないのか疑問だ。今の条約では米国のみが集団的自衛権を行使する義務がある。(法案を成立させるなら)米国が攻撃を受けた場合にも、共同の軍事行動に出るという趣旨の規定を設けないといけない。ただ条約改定となると、基地や日米地位協定なども絡み、大問題になるだろう。


日本の安保法制の話がいつのまにか安保条約の改定の話になってしまっています。今国会で議論している安保法制は、集団的自衛権を無制限で認めるというものではなく、ごく限定された範囲で認めるということですし、それをアメリカに対して日本に義務づけるという話でもありません。こんなコメントを見ると、この山口さんは安保法制も理解しないでコメントをしているのではないか、と思わざるを得ません。



以上、この一問一答、いずれをとっても何とも問題にならないようなレベルのコメントなのですが、安保法制に反対している野党の方は、最高裁の元長官の意見だからと言って鬼の首を取ったかのようにはしゃいでいます。これも安保法案に反対する人達が憲法を理解していないことを示しています。

憲法では法律が憲法に違反しているかどうかの最終的な判断を、最高裁判所に委ねています。最高裁判所の長官に委ねているわけではありません。仮に今回の一問一答が最高裁判所の元長官ではなく、現役の長官の発言だとしてもそれは何の意味もありません。最高裁の長官が勝手に最高裁の判決を定めたりひっくり返したりすることは認められていません。

もし長官がそうしたいのであれば、改めて最高裁で裁判をして判決を出す必要があります。

憲法では裁判官は相手が最高裁判所の長官であろうと誰であろうと、他人の意見に従う必要はない、と明確に規定しています。『すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される。』(憲法76条3項)という規定です。最高裁の長官とはいえ、勝手に最高裁の判決を決めるわけにはいかない、ということです。

まして今回のコメントは現役の長官ではなく『元』長官です。単なる元法律家の一人というくらいの意味しかありません。このあたり憲法に従うことが義務付けられている野党の議員さん達はわかっているんでしょうか。もちろん共産党の議員さん達は分かった上で知らん顔して騒いでいるんだろうと思います。

どうも法律家が相手だと私のコメントもちょっと辛辣になりがちです。今回もそうなってしまったので、仮にこの記事の一問一答が山口元最高裁長官の意図したものとは違っていたとしたら申し訳ないことになってしまいます。しかしいずれにしても第一義的な責任は共同通信なり毎日新聞ということになると思います。
ネットで調べたら同様の一問一答が朝日新聞にもあるようです。もしかするとすべてのネタ元は朝日新聞、ということなのかもしれません。

『イスラーム基礎講座』 渥美堅持 著

金曜日, 9月 4th, 2015

この本は例によって図書館の『新しく入った本』コーナーにあった本ですが、お勧めします。

今まで何冊かイスラム教やイスラム教徒とアラブの人達の本を読みましたが、この本が一番わかると思います。

特にアラブのイスラム教徒と日本の我々とでは、環境が異なり考え方が異なるので良く分からない所が多いのですが、それを著者が日本人であるだけ、日本人にとってどこがわからないのか、アラブ人・イスラム教徒はどのように考えるのかを日本人が分かるようにきちんと説明してくれています。

全体を5つに分け、最初の部分でその日本人に分かりにくい所を丁寧に説明してくれています。次はイスラム教ができてからいよいよイスラム教が世界に乗り出す所までを書いています。3つ目の部分で、その後世界的に広がったイスラム世界を説明し、4つ目の部分ではイスラム教全体について具体的に生活レベルにまでわたって説明しています。

最後に『今日の中東世界とイスラム教』として、アルカイダのウサマ・ビン・ラデンからいわゆるイスラム国まで、現在問題となっている様々なイスラムの世界の問題がどのような経緯で発生し、発展しているか、説明しています。

イスラム教の世界は、『イスラム教徒は全員、神の奴隷として神の下の平等が保たれ』ていて、その神の奴隷だということは『個々人の各瞬間の一挙手一投足までが全てその時々の神の意志によるんだ』という考え方で、個人の意思などというものは基本的にない世界のようです。

たとえばイスラム教徒にとってはラマダンの断食(日の出から日の入りまで一切の飲み食いが禁止で、唾をのみ込むことも禁止。だけれどその分日の入りから日の出までの時間はいくらでも飲み食いしても良いので、この1ヵ月にわたる断食で痩せちゃう人も多いけれど、却って太ってしまう人もいるようです。)は大事なおつとめなんですが、この断食の途中でイスラム教徒のAさんとBさんが会って話をしたとします。

Aさんが『断食はうまくいっているかい』とBさんに質問し、Bさんが『うまく行っている』と答えると、二人で『アラーの神のお蔭だね』と喜び合います。Bさんが『うまく行ってなくて断食ができないでいる』と答えると、AさんはBさんを慰めて『来年の断食はアラーの神がうまくできるようにしてくれるだろうからガッカリするな』と言います。

万が一AさんがBさんを責めて『断食は大事なおつとめなんだからちゃんとやらなきゃダメじゃないか』などと言おうものなら、すかさずBさんはAさんに対して『お前はアラーの神か』といって、BさんのほうがAさんを非難する、ということのようです。断食がちゃんとできるかどうかもアラーの神のおぼしめし次第なんだから、それができないのもアラーの神の意志で、それを非難するなんてとんでもない、ということのようです。

このような話はいちいち説明を聞けば、そんなものかと何となく納得することができますが、何の説明もなければ、何とも理解不能な世界ということになります。

日本では普通一人一人の行動はその人自身が決めることで、神様に何かをお願いしたりすることはあっても、基本はその本人の問題です。キリスト教などでは信者はどのように行動すべきかということは教えられますが、その通りに行動するかどうかはその本人の問題で、その行動については最後の審判の時に全部まとめて評価されるということになります。

イスラム教では信者はどのように行動すべきかということはもちろん教えられますが、その通りに行動するかどうかもその時の神様の意向次第であり、神様の奴隷である人間には行動の自由なんかなく、また責任もない、ということになるようです。

イスラム教にも最後の審判はありますが、その時『あの時の断食ができなかったのはアラーの神のせいだから許してもらいたい』などと言っても意味はない。人は全て神の奴隷として神の前で平等で、神が天国に行けと言ったら天国に行くし、地獄に落ちろと言ったら地獄に落ちるだけ、ということのようです。例外はジハードと言って、イスラム教世界を守るために戦って戦死した場合だけ、無条件に天国に行ける、ということのようです。

この本にはイスラム教の礼拝の時に礼拝の前に身を清める手順、礼拝の時の具体的な手順も具体的に図で丁寧に説明しています。これも面白いものです。

イスラム教は『神と人が直接結びついていて中間に立つ人はいない』ということで、信仰にしても礼拝にしても神と本人だけの問題で、他人が口を挟むことではないということです。礼拝所も単に『安心して礼拝できる場所』というだけで別に神聖な場所ということではないので、誰かが礼拝しているすぐ脇で誰かが本を読んでいても居眠りしていても、誰も問題にしないということです。

お金を持っていないのは何も悪いことではなく、イスラム教徒には喜捨(お金をあげる)という義務があるので、お金のない人がお金を持っていそうな人に向かって『自分に幾分かのお金を喜捨しろ』と要求することはごくあたり前の話のようです。実際、この本の著者自身、そうやって喜捨を請求してお金をもらったことがあるとのことです。

で、このイスラム教は部族対立でバラバラになっていたアラブ人をイスラム教徒という形でまとめることに成功したのですが、だからと言って部族意識が消えてしまったわけではありません。そこに第一次大戦でオスマン・トルコ帝国が敗け、イギリス・フランスが中東の地域の領土をバラバラにして植民地とし『国』という枠組を作ってしまいました。それから約100年、その結果アラブのイスラム教徒達は『部族』というアイデンティティ、『イスラム教徒』というアイデンティティ、『○○国民』というアイデンティティという3つの異なる自己規定を抱えて四苦八苦するようになってしまった、ということのようです。

○○国民というナショナリズムも定着しつつあるものの、それよりイスラム教徒というアイデンティティの方がまだまだ強い、ともすると部族意識もしっかり生き残っている、ということで、まとまったりバラバラになったりを繰り返しているのが現状だということです。

アラブの世界は本当に大変な時代には、新しい預言者が現れ新しい戒律を明らかにするということを繰り返してきた世界なのですが、イスラム教ではモハメット(マホメット)が最後の預言者だということになっているので、世界がどんなに大変になってももはや新しい預言者は登場しない。となるとできることは今直面している問題がなかったモハメットの時代に逆戻りするしかない、ということになるようです。これが『イスラーム運動』だということです。

で、このイスラーム運動について、サウジアラビアのワッハーブ派の話から始まって、アルカイダのビン・ラデンの話からいわゆるイスラム国の話まで、それぞれがどのように成立し発展してきたか説明されています。

イスラム教では『教徒は神の奴隷として平等だ』というのは一つのキーワードなのですが、そのため信徒と神との間に立つ、たとえばキリスト教であれば神父とか牧師とかいう存在がありません。高名なイスラム神学者が何だかんだ言ったとしても、そのイスラム神学者も神の前ではごく普通のイスラム教徒と同じ神の奴隷でしかなく、その神学者の言い分を聞くかどうかは個々のイスラム教徒の勝手、ということのようです。

さはさりながら、昔は『カリフ』という『預言者の代理人』とよばれる人がいて、イスラム教の法解釈のどれが正しくてどれが間違っているのか、多数のイスラム法学者の意見を聞いて最終的に取りまとめる、という役割を果たしていました。このカリフも第一次大戦のオスマントルコの滅亡と共にいなくなってしまい、今では誰もいない状況です。誰の言っていることが正しいのか判定してくれる人がいなくなってしまったので、とんでもない人の言うことでもはっきり『間違っている』と断言することができません。

このような混乱した状況で、いわゆるイスラム国が『新しいカリフがここにいる』『正しいイスラム教徒はこのカリフの下に集まれ』と一方的に宣言してしまったので、イスラム世界はびっくりしてしまったようです。

どこの馬の骨が分からないのがいきなり『我こそはカリフなり』と名乗ったとしても、そんな話には乗らない、という人もいるでしょうし、とはいえカリフを名乗るということはそれなりの何かがあるのかも知れないと思う人もいるようです。

やはり普通の人にとって常に神と一対一で向き合っていなければならないというのは辛いことで、誰かが間に入ってくれて、自分はその間に入ってくれた人の言うことだけ聞いていれば安心だ、その方が遥かに楽チンで暮らしやすい、ということでしょうか。

そんなこんなでこの本をお勧めします。

この本、もともと1999年に『イスラーム教を知る事典』というタイトルで出版されたものを、直近の状況も踏まえて大幅に加筆・訂正して2015年7月に出版された、ごく新しい本です。