『イスラーム基礎講座』 渥美堅持 著

この本は例によって図書館の『新しく入った本』コーナーにあった本ですが、お勧めします。

今まで何冊かイスラム教やイスラム教徒とアラブの人達の本を読みましたが、この本が一番わかると思います。

特にアラブのイスラム教徒と日本の我々とでは、環境が異なり考え方が異なるので良く分からない所が多いのですが、それを著者が日本人であるだけ、日本人にとってどこがわからないのか、アラブ人・イスラム教徒はどのように考えるのかを日本人が分かるようにきちんと説明してくれています。

全体を5つに分け、最初の部分でその日本人に分かりにくい所を丁寧に説明してくれています。次はイスラム教ができてからいよいよイスラム教が世界に乗り出す所までを書いています。3つ目の部分で、その後世界的に広がったイスラム世界を説明し、4つ目の部分ではイスラム教全体について具体的に生活レベルにまでわたって説明しています。

最後に『今日の中東世界とイスラム教』として、アルカイダのウサマ・ビン・ラデンからいわゆるイスラム国まで、現在問題となっている様々なイスラムの世界の問題がどのような経緯で発生し、発展しているか、説明しています。

イスラム教の世界は、『イスラム教徒は全員、神の奴隷として神の下の平等が保たれ』ていて、その神の奴隷だということは『個々人の各瞬間の一挙手一投足までが全てその時々の神の意志によるんだ』という考え方で、個人の意思などというものは基本的にない世界のようです。

たとえばイスラム教徒にとってはラマダンの断食(日の出から日の入りまで一切の飲み食いが禁止で、唾をのみ込むことも禁止。だけれどその分日の入りから日の出までの時間はいくらでも飲み食いしても良いので、この1ヵ月にわたる断食で痩せちゃう人も多いけれど、却って太ってしまう人もいるようです。)は大事なおつとめなんですが、この断食の途中でイスラム教徒のAさんとBさんが会って話をしたとします。

Aさんが『断食はうまくいっているかい』とBさんに質問し、Bさんが『うまく行っている』と答えると、二人で『アラーの神のお蔭だね』と喜び合います。Bさんが『うまく行ってなくて断食ができないでいる』と答えると、AさんはBさんを慰めて『来年の断食はアラーの神がうまくできるようにしてくれるだろうからガッカリするな』と言います。

万が一AさんがBさんを責めて『断食は大事なおつとめなんだからちゃんとやらなきゃダメじゃないか』などと言おうものなら、すかさずBさんはAさんに対して『お前はアラーの神か』といって、BさんのほうがAさんを非難する、ということのようです。断食がちゃんとできるかどうかもアラーの神のおぼしめし次第なんだから、それができないのもアラーの神の意志で、それを非難するなんてとんでもない、ということのようです。

このような話はいちいち説明を聞けば、そんなものかと何となく納得することができますが、何の説明もなければ、何とも理解不能な世界ということになります。

日本では普通一人一人の行動はその人自身が決めることで、神様に何かをお願いしたりすることはあっても、基本はその本人の問題です。キリスト教などでは信者はどのように行動すべきかということは教えられますが、その通りに行動するかどうかはその本人の問題で、その行動については最後の審判の時に全部まとめて評価されるということになります。

イスラム教では信者はどのように行動すべきかということはもちろん教えられますが、その通りに行動するかどうかもその時の神様の意向次第であり、神様の奴隷である人間には行動の自由なんかなく、また責任もない、ということになるようです。

イスラム教にも最後の審判はありますが、その時『あの時の断食ができなかったのはアラーの神のせいだから許してもらいたい』などと言っても意味はない。人は全て神の奴隷として神の前で平等で、神が天国に行けと言ったら天国に行くし、地獄に落ちろと言ったら地獄に落ちるだけ、ということのようです。例外はジハードと言って、イスラム教世界を守るために戦って戦死した場合だけ、無条件に天国に行ける、ということのようです。

この本にはイスラム教の礼拝の時に礼拝の前に身を清める手順、礼拝の時の具体的な手順も具体的に図で丁寧に説明しています。これも面白いものです。

イスラム教は『神と人が直接結びついていて中間に立つ人はいない』ということで、信仰にしても礼拝にしても神と本人だけの問題で、他人が口を挟むことではないということです。礼拝所も単に『安心して礼拝できる場所』というだけで別に神聖な場所ということではないので、誰かが礼拝しているすぐ脇で誰かが本を読んでいても居眠りしていても、誰も問題にしないということです。

お金を持っていないのは何も悪いことではなく、イスラム教徒には喜捨(お金をあげる)という義務があるので、お金のない人がお金を持っていそうな人に向かって『自分に幾分かのお金を喜捨しろ』と要求することはごくあたり前の話のようです。実際、この本の著者自身、そうやって喜捨を請求してお金をもらったことがあるとのことです。

で、このイスラム教は部族対立でバラバラになっていたアラブ人をイスラム教徒という形でまとめることに成功したのですが、だからと言って部族意識が消えてしまったわけではありません。そこに第一次大戦でオスマン・トルコ帝国が敗け、イギリス・フランスが中東の地域の領土をバラバラにして植民地とし『国』という枠組を作ってしまいました。それから約100年、その結果アラブのイスラム教徒達は『部族』というアイデンティティ、『イスラム教徒』というアイデンティティ、『○○国民』というアイデンティティという3つの異なる自己規定を抱えて四苦八苦するようになってしまった、ということのようです。

○○国民というナショナリズムも定着しつつあるものの、それよりイスラム教徒というアイデンティティの方がまだまだ強い、ともすると部族意識もしっかり生き残っている、ということで、まとまったりバラバラになったりを繰り返しているのが現状だということです。

アラブの世界は本当に大変な時代には、新しい預言者が現れ新しい戒律を明らかにするということを繰り返してきた世界なのですが、イスラム教ではモハメット(マホメット)が最後の預言者だということになっているので、世界がどんなに大変になってももはや新しい預言者は登場しない。となるとできることは今直面している問題がなかったモハメットの時代に逆戻りするしかない、ということになるようです。これが『イスラーム運動』だということです。

で、このイスラーム運動について、サウジアラビアのワッハーブ派の話から始まって、アルカイダのビン・ラデンの話からいわゆるイスラム国の話まで、それぞれがどのように成立し発展してきたか説明されています。

イスラム教では『教徒は神の奴隷として平等だ』というのは一つのキーワードなのですが、そのため信徒と神との間に立つ、たとえばキリスト教であれば神父とか牧師とかいう存在がありません。高名なイスラム神学者が何だかんだ言ったとしても、そのイスラム神学者も神の前ではごく普通のイスラム教徒と同じ神の奴隷でしかなく、その神学者の言い分を聞くかどうかは個々のイスラム教徒の勝手、ということのようです。

さはさりながら、昔は『カリフ』という『預言者の代理人』とよばれる人がいて、イスラム教の法解釈のどれが正しくてどれが間違っているのか、多数のイスラム法学者の意見を聞いて最終的に取りまとめる、という役割を果たしていました。このカリフも第一次大戦のオスマントルコの滅亡と共にいなくなってしまい、今では誰もいない状況です。誰の言っていることが正しいのか判定してくれる人がいなくなってしまったので、とんでもない人の言うことでもはっきり『間違っている』と断言することができません。

このような混乱した状況で、いわゆるイスラム国が『新しいカリフがここにいる』『正しいイスラム教徒はこのカリフの下に集まれ』と一方的に宣言してしまったので、イスラム世界はびっくりしてしまったようです。

どこの馬の骨が分からないのがいきなり『我こそはカリフなり』と名乗ったとしても、そんな話には乗らない、という人もいるでしょうし、とはいえカリフを名乗るということはそれなりの何かがあるのかも知れないと思う人もいるようです。

やはり普通の人にとって常に神と一対一で向き合っていなければならないというのは辛いことで、誰かが間に入ってくれて、自分はその間に入ってくれた人の言うことだけ聞いていれば安心だ、その方が遥かに楽チンで暮らしやすい、ということでしょうか。

そんなこんなでこの本をお勧めします。

この本、もともと1999年に『イスラーム教を知る事典』というタイトルで出版されたものを、直近の状況も踏まえて大幅に加筆・訂正して2015年7月に出版された、ごく新しい本です。

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