Archive for 9月, 2013

芦部さんの憲法 その8

月曜日, 9月 30th, 2013

さて日本国憲法、いよいよ本文に入りますが、前回書いたように本文には「国民主権」の規定がありませんので、まずは「天皇」から始まります。

この天皇については、憲法の本など読むずっと以前から一つ疑問がありました。それは「天皇は日本国民なんだろうか」「日本国民じゃないんだろうか」、ということです。

芦部さんは基本的人権の所の最初に、いとも簡単に「天皇も皇族も日本国民だ」と書いていますが、もちろん何を根拠にこういう結論が出るのかなんてことは書いてありません。

私には、天皇には基本的人権がないと思われるので、日本国民全員に与えられているはずの基本的人権が与えられていない以上、それは日本国民じゃないということじゃないかと考えていたわけです。

「基本的人権がない」というのは、たとえば天皇には選挙権も被選挙権もなさそうです。もし被選挙権があるとすれば、是非立候補してくれと頼みに来る政党はいくらでもありそうです。選挙権があるなら、投票日になって「天皇陛下も投票に行きました」なんてニュースが流れないわけありません。まぁこれについては憲法4条に「天皇はこの憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」という所に関連するのかも知れません。
天皇には言論の自由も思想・信条の自由もなさそうです。巨人軍が好きか嫌いかとか相撲の贔屓の力士は誰か、なんてことも言ってはいけないことになっているようです。

天皇が日本国民だとして、その天皇の基本的人権が侵害されているのは憲法違反だ、なんてことにもなりそうもありません。日本では実際その人権侵害されている人が裁判を起こさない限り、裁判所は違憲判決を出さないことになっているようですし、天皇が自ら自分は日本国憲法で保障されているはずの基本的人権を侵害されている、なんて裁判を起こすとも思えません。結果的に天皇の基本的人権が侵害されているのは憲法違反だ、などという判決が出る気遣いはありません。

憲法では第10条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と規定しています。でその法律に「天皇も皇族も日本国民である」なんて書いていてくれると嬉しいんですが、そうはなっていません。どうもその法律というのは「国籍法」という法律のようで、第1条に「日本国民たる要件は、この法律の定める所による。」と、憲法の規定と同じようになっています。

この法律は面白い法律で、第2条で日本国民の子として生まれたら日本国民だ、という規定があるのですが、第3条以下では日本国民という言葉がなくなってしまいます。代りに日本国籍を取得するとか、日本国籍を失うという言葉になってしまいます。日本国籍を取得した者が日本国民で、日本国籍を失った者が日本国民でなくなる、と言おうとしているんでしょうが、一番肝心なその規定はどこにもありません。まあ、このような非論理的ないい加減な書き方の方が法律家にはしっくりくるんでしょうが。

日本国民ということでなく日本国籍ということで考えれば、天皇や皇族に日本以外の国の国籍をもたせるわけにもいかないし、無国籍というわけにもいかないので、日本国籍とするしかないんでしょうが、だからといって日本国籍であれば日本国民だということにはならないような気がします。天皇・皇族以外の日本国籍の人が日本国民だ、としたとしても何の矛盾も生じなさそうですから。

この憲法の勉強の一番最初に読んだ「終戦の詔書」という本には、昭和20年8月15日の終戦の詔書・昭和16年12月8日の開戦の詔書・昭和21年1月1日の年頭の詔書(いわゆる「天皇の人間宣言」と言われているものです)が入っているのですが、これらの詔書で天皇が国民に対して語りかけているその言葉が、開戦の詔書では「汝有衆(ナンジユウシュウ)」(衆は正確には別の字体の字『眾』のようです)、終戦の詔書では「爾臣民(ナンジシンミン)」、年頭の詔書では「爾等國民(ナンジラコクミン)」となっています。全て天皇主権の体制で、天皇から国民に対する呼びかけの言葉です。これがいつの間に天皇も国民のうちということになってしまったのか、何とも不思議です。

憲法の天皇に関しては「象徴というわけのわからない言葉の意味」とか「天皇制の是非」とか、他にも山ほどの議論があるようですが、そんな話は当面どうでも良い話なので(なんて言うと右からも左からも山ほど文句を言われそうですが)、天皇についてはここまでとします。

Under Control

金曜日, 9月 27th, 2013

2020年オリンピック東京招致の安倍さんのスピーチの原発事故のUnder Controlについて、反原発派の人は未だに安倍さんの大嘘だ!と騒いでいるようです。
私にとってはUnder Controlという表現について何の違和感もないのですが、色々考えていたらどうもこのUnder Controlという言葉の解釈の問題が大きいような気がしてきました。

たとえばデコボコ道で自動車を運転して走る時、車輪が穴に入って右に振れたり左に振れたりするのを、ハンドルをしっかり握って何とか進行方向に向けて走らせ続けるという状況を、私はUnder Controlと言うんだと思うのですが、反原発の人の解釈ではそんなふらふらした運転はUnder Controlではない、ということのようです。

あるいは飼犬が何かに興奮して大声で鳴き声を出し、今にも紐を引きちぎって行きそうであっても、しっかり紐を握って犬を放さないというのを私はUnder Controlと言うのだと思うのですが、反原発の人の解釈は、犬に対して「おとなしくしろ」と命じたら鳴くのをやめてお座りをするという状況がUnder Controlということのようです。

Under Controlの反対語はOut of Control、日本語で言えば「制御不能」ということになり、それはデコボコ道の例で言えば車が揺れて運転手が放り出されて誰もハンドルを握っていないとか、犬の話で言えばついに引き綱を振り切って犬がどこかにふっ飛んで行ってしまって、もう呼んでも帰ってこないという状況です。

福島の原発の事故では、一時はもうどうしようもなくなって全員逃げるしかないか、というような話もありましたが、実際は現場の人達が踏ん張って事故対応に当たり、今でも全ての問題が解決したわけではないけれど、また次々に思いがけない事故が出ては来ているものの、その都度十分対応することはできていますから、そういう意味では今までもずっとUnder Controlだったし、事故発生当時と比べると、今は遥かに確実にUnder Controlと言えると思います。

普通話をする時、自分の使っているこの言葉の意味はこれこれだ!なんてことはあまり言わないんですが、だからといってその話を聞く人が、自分にとってはその言葉の意味はこれこれだからあんたの言ってるのは嘘だ、なんて言ってみてもあまり実のある議論にはならないのになあ、と思います。

北越雪譜

金曜日, 9月 27th, 2013

先日高校時代からの友人に誘われて、越後湯沢の、川端康成が「雪国」を書いた宿に泊まってきました。

900年続く宿で、今のおかみさんは53代目ということでへぇ~と思ったのですが、集まったのは高校時代からの友人4人(私を含めて)と奥さん2人。翌日は新潟在の友人の案内で「味噌舐めたかの関興寺」「北越雪譜の牧之記念館」「土踏んだかの雲洞庵」を見物しました。

「味噌舐めたか」は臨済宗のお寺、「土踏んだか」は曹洞宗のお寺で、どちらも見事なものでしたが、鈴木牧之記念館も非常に面白く、そういえば「北越雪譜」はまだちゃんと読んでなかったなと思い、早速図書館で借りてきました。

「北越雪譜」というのは江戸時代の鈴木牧之(スズキボクシ)という人の書いた随筆集のようなもので、雪の結晶の絵が描いてあるので有名です。で、私はてっきりその雪の結晶の絵は牧之が自分で見て描いたものだと思い込んでいたんですが、何とそうではなく他の人の本からその一部を書き写したものだと書いてあり、唖然としてしまいました。

北越雪譜というのはその名の通り牧之の住む越後の国、魚沼郡塩沢のあたりの雪の季節のあれこれを書いた本で、非常に面白い本でした。

越後縮みの話や熊を獲る話、雪崩・吹雪の話・鮭の話等盛りだくさんで、たとえば鹿を獲る時、大雪の中では鹿より人の方が歩くのが早いので追いかけて行けば簡単に捕まえられるとか、羽根つきは子供の遊びではなく、大の大人が雪かき用のシャベルのようなもので力一杯打ち上げ合う遊びだとか、雪の中で時として雪のために洪水が起きて逃げ場がなくて大変だとかいろんな話があるんですが、中に狐を獲る話があり、これが落語に出てくる鴨を獲る話に良く似ているのでちょっと紹介しましょう。

落語の話というのは、寒い国では鴨は田んぼで刈り取って捕まえることができるという話で、餌をあさるために鴨が田んぼに降りている時寒風が吹くと田の水が凍りついてしまい、その氷で鴨の足は動かせなくなってしまうので、そこで稲刈りの鎌で鴨の足を刈っていけば簡単に鴨が何羽でも手に入る、という話です。

「北越雪譜」に出ている狐を捕まえる話は、こんな具合です。
雪が深く積もっている時、杵で(といっても普通良く見る金槌の大きいような棒の柄の付いているものでなく、多分まん中がちょっと細くなっている長い棒のタイプだろうと思いますが)雪の中に適当な大きさ・深さの穴を開けておきます。その近くに狐の好きな油粕を撒いておき、ついでにその穴の中にも撒いておきます。夜になってそこへやって来た狐は雪の上の油粕を食べ、調子に乗って穴の中に入っている油粕も食べようとして穴にもぐり込みます。穴は冬の寒さで凍っているので、ちょっとやそっとでは崩れません。穴はそれ程大きくないので、頭から突っ込んだ狐は身動きができなくなります。夜が明けてから見に来た人は、穴の上から狐の尻尾が動いているので、狐がかかっているのがわかります。そこで水を汲んできて穴の中に入れると、雪が凍っているのでそうすぐには水がもれてはしまいません。狐が溺れて死ぬ最後におならをするので、それをかぶらないように少し離れた所で見ていて、尻尾が動かなくなったら狐は溺れ死んだということなので、あとは大根を抜くように尻尾を持って引っ張れば簡単に狐が手に入るという按配です。

本当かな、という気もしますが、牧之は真面目な話としてこれを書いているようなので本当のことかも知れません。あまり詮索しない方が楽しそうな話です。

これ以外にも雪国ならではの楽しみ・苦労が淡々と書かれています。

江戸時代の漢文調の文語体の文章ですが、それほど難しくもないので、原文でも充分楽しめます。
出版に至るまでの経緯には、十返舎一九だとか山東京伝とかそうそうたる名前が出てくるのも興味深いです。

雪国の宿への小旅行の思いがけないお土産でした。

芦部さんの憲法 その7

木曜日, 9月 19th, 2013

芦部さんの憲法、いよいよ日本国憲法の中味に入ります。

日本国憲法は
前文
第一章 天皇
第二章 戦争の放棄
第三章 国民の権利及び義務
第四章 国会
第五章 内閣
第六章 司法
第七章 財政
第八章 地方自治
第九章 改正
第十章 最高法規
第十一章 補則
という構成になっているので、芦部さんの憲法もこの順に従ってひとつひとつ解説しています。

まずは前文から。

改めて前文をしっかり読んでみると、ビックリすることだらけです。

日本国憲法は、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重が三本柱だ、と良く言われます。前文というのは総まとめみたいなものなので、その一番大事な事だけ書いてあるのかな、と思っていたら、何と国民主権については書いてあるけれど、平和主義と基本的人権については前文に書いてありません。その代り平和主義については本文『第二章 戦争放棄』の所に書いてあり、基本的人権については本文『第三章 国民の権利及び義務』の所にしっかり書いてあります。逆に国民主権については前文には書いてあるものの、本文には書いてありません。

この、本文に書いてないということを確認しようと思ってネットで調べたら、1条に書いてあるとか、96条がそれだ、とかいう解説がみつかりました。

1条というのは、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という文章です。確かに「主権の存する日本国民」という言葉があるので、国民主権を言っているとも言えなくもないですが、この条は天皇についての規定で、その中でついでに国民主権を言っているだけのことです。国民主権が重要なら、こんなついでに言うんじゃなく、正面からきちんと言ってもらいたいものです。

あるいはこの条は、「天皇が象徴だ」と言うことによって「天皇主権でない」と言っているのであって、天皇主権でなければ国民主権に決まっているから、天皇主権を否定することによって国民主権と言っているんだ、という話もあります。
主権者が天皇と国民と二者択一だというならその理屈も成立ちますが、主権者となりうるものは他にもいくらでもいますので、この理屈は成立ちません。

96条は憲法改正の規定で、ここに憲法改正には国民投票が必要だと書いてあるので国民主権なんだ、という話です。でもこの96条で言っているのは、憲法改正の手続きは衆参両院での2/3以上の賛成、さらに国民投票での過半数の賛成ということで、これだけのことで国民主権のことを言っているんだというのは、ちょっと無理があるような気がします。

そもそも前文に書くのと本文に書くのと、どれ位の違いがあるかというと、芦部さんは
【前文は憲法の一部をなし、本文と同じ法的性質を持つと解される。】
と言っています。と同時にその3行先には
【しかしながら、これは前文に裁判規範としての性格まで認められることを意味しない。】
と言っています。
何ともはや不可解な文章です。
「裁判規範としての性格」は法的性質ではないと言っているんでしょうか。この「性格」と「性質」の言葉を使い分けている意味もよくわかりません。こんなわけのわからない教科書を一生懸命勉強していたら、法律の専門家が論理的思考が不得意になるのも理解できる気がします。

で、平和主義と基本的人権については、前文にはちょっとそれを匂わせているような文言はあるのですがきちんと書いてはないので、上では「前文には書いてない」と書きました。

ここで平和主義というのは「戦争放棄」という意味で使っています。単に平和が望ましいというだけでは、三本柱になるほどのものではないでしょうから。

前文はじっくり読んでみるとなかなか面白く、2番目のパラグラフには
【われらは、平和を維持し、専制と隷従(レイジュウ)、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。】
という文があります。そんな国際社会がどこにあるんだろう、と思ってしまいます。現時点で見ればまるで見当違いの国際社会に対する理解の仕方なのですが、その当時日本国憲法を作ろうとしていた日本側担当者・アメリカの担当者の目には、多分すぐにでもそのような国際社会が実現するだろうという、希望というか期待というか夢というかがあって、そのために9条の戦争放棄がすんなり入ってきた、ということのようですね。

現時点でこんな絵空事のような国際社会に対する認識を憲法に残しているというのは、戦後の憲法改正時の雰囲気を後世に伝えるためなんでしょうか。まさか嫌味で残している、ということでもないでしょうが。

基本的人権については
【われらは全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。】
と言って、日本国民だけじゃなく全世界の国民についての権利を謳っています。これは、シリアの内戦で殺されている市民や、北朝鮮で苦しんでいる人民の生存権をどう考えるのかなあと思ってしまいます。

で、国民主権ですが、明治憲法では天皇主権だったので「天皇」の所で天皇主権を書けば良かったのですが、それを日本国憲法にする時、「天皇」の前に国民主権を定める条を1つ、たとえば「日本国の主権者は国民である」とか入れておけば良かったのに、それをしないで「天皇」の所で「天皇は主権者でない」としただけなので、憲法の本文の中で主権者が誰だか書いてないということになってしまったわけです。

国民主権ということについては今となっては特に反対する人もいなさそうなので、この際その条を追加する憲法改正だけでもすれば良いのにと思うのですが、憲法・法律の専門家はあくまで憲法を改正すること自体が嫌なようです。

自民党の憲法改正案にもこの国民主権の条立てはないのですが、産経新聞の改正案にはこの条が入っています。

で、この国民主権が本文に入っていないことが理由、というわけでもないのでしょうが、どうもこの国民主権という認識は日本では一般的にあまりないようで、どちらかと言うと政権与党が主権者であるとか、政府が主権者であるとか、場合によっては最高裁判所が主権者であるという理解の方が一般的のようです。

そのため何かある度に与党に文句を言ったりおねだりしたり、政府の悪口を言ったり頼んだり、最高裁の判決に一喜一憂したり、基本的に他人依存で、自分で何とかしようという意識が少ないようです。

まあ国民主権といっても、アメリカやフランスのように国民が血を流して死にもの狂いで獲得したものでないから、ということなのかも知れませんが、終戦後半世紀以上経って、もうそろそろ意識改革が必要なのかも知れません。

そのためにも憲法を法律家の玩具にしておかないで、一度自分達の手で何でも良いから憲法改正をしてみれば良いと思うのですが、法律家は憲法が国民のものになってしまうと自分達が自由にいじくりまわすことができなくなってしまうので、嫌がるんでしょうね。

オバマさんのスピーチ

火曜日, 9月 17th, 2013

先週9月10日にアメリカのオバマ大統領はアメリカ国民に向けて、テレビでシリア問題についてスピーチしました。

この中にはロシアによるシリア政府の化学兵器廃棄のための話し合いに乗ることとか、シリアに対する軍事介入に関する議会の決議を延期することとかいろいろな内容があり、多くのマスコミはその方に焦点を当てて報道していましたが、毎日新聞は【米大統領「世界の警察官」否定】というタイトルで、

【オバマ米大統領はシリア問題に関する10日のテレビ演説で、「米国は世界の警察官ではないとの考えに同意する」と述べ、米国の歴代政権が担ってきた世界の安全保障に責任を負う役割は担わない考えを明確にした。】

と報道しました。
このオバマさんの発言について、いくらなんでもそんなことはないだろうと思って、直接そのスピーチを読んでみようと思いました。15分程度のスピーチだったようですがそれを聞いて全部理解するほどの英語力はないので、スピーチを文章に書き直したものを見つけて読んでみました。

私にとってオバマさんの演説を読むというのは、多分2回目のことだと思います。一度目は大統領になってすぐ、例の核兵器削減についてプラハでスピーチしたときのもので、核兵器をなくすためにアメリカ以外の国の核兵器を全部廃棄しアメリカが独占するという内容のもので、何という独善的な演説だろうと思っていたら、何とその内容が全世界的に支持され、ついにはノーベル平和賞まで貰うことになったのにはビックリしました。

で、このスピーチを読んでみると毎日新聞の報道がまるで逆だ、ということはすぐわかったのですが、それがわかった上で改めてもう一度読んでみると、何とも素晴らしいスピーチになっているなと思いました。しかしその後の報道を見ていると、どうも私が読んだのとはまるで違う解釈で報道されているようなので、私の解釈についてちょっとコメントしてみようと思いました。

まずは毎日新聞の間違いについてコメントします。
毎日新聞に書いてある「世界の警察官」という言葉は、このスピーチでは2箇所出てきます。

最初に出てくるのは2/3くらいの所、シリア問題に関していろんな人からいろんな質問や意見が寄せられていて、それに対して1つ1つ回答している所ですが、この「世界の警察官」の所は原文はこんな具合になっています。

 【何人かの人は私に手紙を寄越し、「我々は世界の警察官などになるべきではない」と言ってきた。その通りだ。私は今まで常に平和的な解決を重視してきた。それで過去2年半、私の政府は外交・制裁・警告・交渉を続けてきた。にも拘わらずアサド政権は化学兵器を使った。】

だからもう我慢できない・・・という文脈につながる文章です。世界の警察官なんかもうヤーメタ、なんていうのとはまるで違います。

もう1箇所「世界の警察官」が出てくるのは、スピーチの最後、締めくくりの部分です。この部分はこんな具合になっています。
【アメリカは世界の警察官ではない。世界ではひどいことが起きている。全部の悪を正すなんてことは我々の能力を超える。しかし多少の努力とリスクで子供達を毒ガスで殺されることから救い、それによって長い目で見て我々の子供達をより安全にすることができるのであれば、我々は行動すべきだ、と私は思う。それこそアメリカと他国との違いだ。それでこそアメリカは特別な国なのだ。】

というわけで、「世界の警察官をやめる」なんてことはまるで逆の「やるときはやるぞ」という、むしろ恫喝のようなスピーチです。

これが毎日新聞の記事に関連して確認した内容です。

ここで改めて、このオバマさんのスピーチ全体を見て、マスコミの記事との違いをコメントします。

まずは、ロシアが化学兵器をシリアに廃棄させると言い出して、アメリカはロシアにイニシアチブを取られた、ということですが、私の理解はまるで違います。ロシアは今まで表舞台には出てこないで安保理の陰に隠れ、必要なら常任理事国として拒否権を使う、という行動を取っていましたが、今回はいつのまにか表舞台に引っ張りだされ、自分がシリアを説得しなければならなくなってしまいました。そう簡単には引っ込みがつかないところに来てしまった、ということです。これでシリア説得に失敗して表舞台から引っ込むときは、ロシアがアサド政権を見捨てたということになりますから、身動きが取れなくなってしまいます。従来アメリカが常に表舞台をリードしてきてロシアや中国の反対で身動きが取れなくなった。それを今度はロシアが身をもって経験することになるわけです。

次に、オバマさんはアメリカ議会の承認を求めたため、賛成が得られそうもなく軍事行動に移れない、という話がありますが、これも私の解釈とは違います。

今回の演説で、オバマさんはアメリカ国民に直接語りかけています。そのアメリカ国民の声によって議会を動かそうとしているようです。演説を聞いた国民の声が国会議員に届いて、国会での議決に反映するまではチョット時間がかかるので、議会の裁決をすこし延期してくれと言ったのだと思います。

オバマさんは国民を動かすための仕掛けをいくつも演説の中に仕込んでいます。

毒ガスについて話すときは、第一次大戦で使われ大勢の兵士が殺されたが、その中にはアメリカの兵士も含まれていること(第一次大戦は主にヨーロッパで戦われたので、改めて「アメリカの兵士も殺された」と言うことに意味がある)、第二次大戦ではナチスによる大量殺戮に使われたこと(これによりユダヤ系のアメリカ人の怒りを喚起している)、子供の犠牲を強調していること、等がそれです。

議会について語る時、オバマさんは『大統領は軍のトップだから議会の承認がなくても戦争を始めることはできる。だけどあえて議会の承認を得ようとした。それは大統領と議会が一体となって戦争した方が有効だからだ』と言い、そこで自分は『世界でもっとも古い立憲的な民主主義国家の大統領だ』と言っています。アメリカはあまり歴史がなく、ヨーロッパの国々に対して劣等感を持っているようですが、確かに人権主義にもとづく憲法を作って民主主義の政治をしている国としては、世界で最初の国です。フランス革命でさえ、アメリカの独立戦争より後のことですから、こういう話を聞くとアメリカ国民は嬉しくなってしまうのかも知れません。

さらにオバマさんは、この10年、戦争をするという重大な決定は大統領に集中し、戦争による負担は実際に戦争をする国民の肩にかかっているにもかかわらず、国会の議員は安全な所で無責任な立場で好き勝手なことを言っている、と言っています。これはかなり効き目がありそうです。

さらに「世界の警察官」の所で、全ての悪人をとっつかまえるようなことはしないけれど極悪人は許さないぞと言い、それでこそアメリカが世界でも特別な国なんだ、ということで、アメリカの正義を強調しています。アメリカ人は『アメリカの正義』が大好きですから、これは効果的だと思います。

一般にはオバマさんが戦争をしようとしたのになかなか戦争を始めることができないでいるとか、かなり小規模な介入しかできないとか、否定的に報道されていることに関しては、オバマさんは次のように言っています。
【アメリカが全面的に前に出て他国の政権を倒した場合、その後の政権作りやその政権が安定するまでのサポートもしなくちゃならなくなる。だからアメリカはもはや政権を倒すような介入はしない(すなわち政権を弱らせる位の介入をして、政権を倒し、新しい体制を作るのはその国の反体制派に任せる、ということ)。】

また介入が遅れることに関しては、それで別に「アメリカが困ることは何もない」と言って、現実的にはアサド政権がロシアと化学兵器の廃棄のために振り回されている間、アメリカは反体制派に武器供与を本格化しているようです。ロシアは今までシリア政府に散々武器供与をしてきていますから、今更アメリカの反体制派に対する武器供与に反対もできないでしょう。アメリカの戦略が、自分でアサド政権を倒すのではなく、単にちょっと弱らせて、後は反体制派に任せる、ということである以上、介入が多少遅れても、また介入の規模があまり大きくなくても、大きな影響はない、ということになります。

さらにアメリカがシリアの外から介入して、シリアが直接アメリカを攻撃できないとなると、代りにアメリカの同盟国が攻撃されることになるかも知れませんが、それに対しては『イスラエルは強いぞ、倍返しされるぞ』、とシリアを脅しています。

要するに、アメリカは安全な所からいつでもシリアに対してダメージを与えることができるのだから、その規模が小さくてもアサドは充分思い知るはずだ、ということのようです。

こんなことを言われると、アサドさんの方はたまったもんじゃないですが、アメリカ人は嬉しいでしょうね。

反体制派を支援することはアルカイダに加担することになるぞ、という指摘に対しては、『確かに反体制派の中にはアルカイダもいるけれど、シリアの人々が毒ガスでやられているのに国際社会が何もしないで放置している、という、より混乱した状況こそ、アルカイダがより強くなる環境だ。シリア人の大半、反体制派の大半はアルカイダなんかじゃない。』といって、むしろ早期に内戦を終わらせ、社会を安定化させることによりアルカイダを排除したい、と言っています。

さて、今後、どうなるんでしょうか。当分の間、注目ですね。

婚外子の相続分の違憲判決

水曜日, 9月 11th, 2013

先日、婚外子の相続分を嫡出子の1/2とする民法の規定が憲法違反だという最高裁の決定が出ました。
「芦部さんの憲法」の番外編として、この裁判についてコメントしてみたいと思います。

ちなみに「決定」というのは「判決」と同じようなものですが、口頭弁論を必ずしも必要としないものを言うようです。
でも決定というと何となく一般的な意味での決定のような気がするので、厳密にはちょっと違いますが、以下この決定のことを「判決」と言うことにします。

でこの判決文は、最高裁のホームページから、
トップ → 最近の裁判例 → 最高裁判所判例集
最高裁判所判例 平成24(ク)984遺産分割審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件
の所にあります。あるいはhttp://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20130904154932.pdf で、pdfファイルが取れます。

この事件は、死亡したAさんの遺産について嫡出子側が婚外子側に遺産の分割を求めて審判の申立てをした事件のようです。
で争点は、民法900条4号ただし書にある、嫡出でない子の相続分を、嫡出子の1/2とする規定が合憲かどうかということになったようです。東京高裁ではこれを憲法14条1項に違反しないと判断し、その規定によって遺産の分割を命じたのですが、最高裁ではその決定(判決)をくつ返し、この民法900条4号ただし書は憲法14条1項に違反しているから無効であるとし、その上でもう一度裁判をやり直すように東京高裁に差し戻すというものです。

ここで憲法14条1項というのは、「法の下の平等」という規定です。すなわち今回の判決が言っているのは、民法900条4号ただし書が、合理的な根拠のない差別的取扱にあたるので、法の下の平等を定めた憲法に違反する。そのためこの規定は無効だ、ということです。

民法900条4号ただし書というのは大昔からある規定ですから、これが憲法違反で無効だということになったら、どうして無効なのか、いつから無効なのかということに当然なります。それについてこの決定では、家族制度・相続制度・諸外国の変化・国連の勧告等、また住民票・戸籍・国籍法の取扱の変化をあげて、最終的にこれらの変化のどれか一つを取って民法900条4号ただし書が不合理だと言うことはできないけれど、全体としての変化からこのAさんが死亡した平成13年7月頃には、もう民法900条4号ただし書は不合理なものになっていたんだ、と言っています。
「いつから」に対しては明確な答えを出さずに、「遅くともAさんが死んだ時には」ということです。

で、こうなると少なくともその平成13年7月以降に死んだ人の相続については全て民法900条4号ただし書が無効になるのかということになるのですが、この決定では、既に決着がついてしまっている相続についてこれをひっくり返してはならず、まだ争いが続いているものについてだけ、民法900条4号ただし書を無効として考え直せと言っています。

言い換えれば、民法900条4号ただし書を法律だからと尊重して相続に決着をつけた婚外子の人は損をして、法律にさからって争いを続けていた婚外子の人は得をするということになったわけです。
これはそれこそ憲法14条1項に定める法の下の平等に違反するということになるのですが、そこの所この判決では「法的安定性の確保」という言葉を持ち出し、既に決着のついたことをひっくり返すと混乱が生じてしまうので、それを避けるために既に決着がついたことを蒸し返さない、ということのようです。

法の下の平等を実現しようとして、かえって新たな法の下の不平等を作り出してしまったということになります。

もちろんこの「法的安定性の確保」というのは憲法にもとづくものでも何でもありません。これを憲法の基本的人権の尊重より重視するというのはどうなんでしょうね。

この判決文には、最後に3人の裁判官による補足意見がついています。このうち最初の金築誠志さんという裁判官の補足意見がなかなか面白いもので、日本の裁判制度について参考になります。そこでは「付随的違憲審査制」という言葉と「個別的効力説」という言葉を使って意見を言っています。

「付随的違憲審査制」というのは、日本には憲法裁判所という制度がなく、法律そのものが違憲がどうかを判断するという制度がなく、あるのは具体的な事件があって、その裁判の中でその個別的事件に関連して法律が違憲かどうかの判断をするだけだということです。
「個別的効力説」というのは、裁判で違憲判決が出たからといってその法律が常に違憲で無効になるわけではなく、あくまで「個別事件についてだけ違憲だ」ということです。もちろん違憲判決は先例としての拘束力は持つけれど、あくまで先例であって、別の事件で同じ法律が違憲かどうかは個々の事件ごとに判断しなければならない、ということです。

とはいえ先例は先例ですから、違憲判決が出れば、通常は同様の裁判では同様の判断がなされることになるので、当然過去にさかのぼって違憲の判断がなされることになります。

今回の判決では過去にさかのぼっての違憲の判断により、既に決着している話をひっくり返してはいけないと言っているのですが、裁判所にそんなことを決めることができるのか、という話になってきます。
特定の日時を決めて、いついつまではこのように取扱う、いつ・いつからはこれとは別にこのように取扱う、というような規定は法律ではごく当たり前の話ですが、憲法や裁判ではそのような決めは普通しません。にも拘わらず今回の判決で、すでに決着している話はひっくり返さないと言っているのは、裁判で法律を作ってしまっていることになります。これは憲法41条 国会の立法権を侵害していることになります。

この金築裁判官の補足意見はそのあたりを意識して、今回の判決は、憲法違反になるかも知れないけれど、とはいえそれを言わないで、決着済みの話が次々にひっくり返されて混乱が起きるのがわかっていながらそれを放置して、単に違憲の判断を出すだけではいけないのではないか、という観点からなされたものだ、と言っています。

いずれにしても今回の違憲判決はあくまで個別事件に関してのものなので、今後どのような形で関連する紛争が生ずるか予測しきれない、とも言っています。確かに違憲判決を出す判決が違憲なんですから、どんな争いが発生しても不思議じゃないですね。

以前、生命保険の死亡保険金の年金受取に対する課税が二重課税にあたって違法だ、という最高裁の判決があり、それに対して私はその判決は憲法違反だという意見を書いたことがあります。その判決では所得税法の規定を違法だと言うだけで、既に決着済みの話も含めて、その税法の規定ができた時から違法だ、という判決だったので、過去何十年にもわたって違法な徴税が行なわれたことになってしまいました。

仕方がないので国税庁は急遽「所得税法施行令」を改正し、過去にさかのぼって税金を取り戻すために、いつまで過去にさかのぼれるか、取り戻せる税金はどのように計算するか、どのように手続きしたら良いかを規定しました。

すなわちこの時は、最高裁の判決は、法律ができた時から違法だから、決着がついたことでも全てひっくり返せということになったわけですが、今回の判決では、民法の規定はいつのまにか違憲になったので、この件については民法の規定を無効として裁判をやり直すけれど、既に決着のついた話は蒸し返さないと言っているわけです。

前回の所得税法の話は、最高裁の三人の裁判官による判決で、たった三人で憲法違反の判決が出せるんだ!と言ったのですが、今回の判決は大法廷の判決ですから、最高裁の裁判官全員(この判決では14人)による憲法違反の判決です。

最高裁の裁判官がたった三人で憲法違反できるというのと、裁判官全員で憲法違反するというのと、どっちが問題が大きいか良くわかりませんが、いずれにしてもビックリですね。

芦部さんの憲法 その6

木曜日, 9月 5th, 2013

ここでいよいよ日本国憲法に入るところですが、その前にもう少しこの日本国憲法ができた時の話をします。

GHQがやってきて日本の憲法を国民主権の立憲主義の憲法に変えるようにと言ったとき、あの天皇機関説で有名な美濃部達吉という憲法学者は、『明治憲法を一言一句変える必要はない。そのままで国民主権の立憲主義の憲法になる』と言ったようです。これは明治憲法を変えたくないということではなく、明治憲法の解釈次第で、その中味は自由に変えられるということを言ったようです。

前回、八月革命説の所でも書きましたが、この説では実際明治憲法を一言一句変えることなく、その中味が国民主権の立憲主義の憲法に変ったんだと主張しているわけです。美濃部さんの天皇機関説が戦前大きな問題となり、貴族院から追い出されてしまったのも、見るからに立憲君主制の立憲主義とは思えないような明治憲法を、解釈によって立憲主義の憲法にしようとして、それが神権主義的な明治憲法を守ろうとする人達に攻撃されたということのようです。

この解釈というのは非常に強力で、文言としては書いてないことまで「言外に書いてあるんだ。それがわからないのは勉強が足りないからだ」なんて言い方もできるし、明らかに書いてあることでも「これはこう書いてあるけれど、書いてある通りの意味ではない」と言って、憲法の文面に書いてあることまで否定してしまうなんてこともできてしまうんです。

もちろん単にそんな主張をしただけじゃぁ皆を納得させることができないので、あーでもない、こーでもない、そーでもない、どーでもない、と山程の言葉を使い、あっちではこう言ってる、こっちではあー言ってると、憲法自体の文章を読まないで他の文献を山程引用する。そしてそのあげく「だからここはこうでなければならない」などと結論らしきものを持ち出せば、その前後に論理的な関係が存在しなくとも、何となく論理的に立証されたかのように聞く人は思ってしまうようです。

ですから憲法の本を読むときは、見たことのないような言葉が出てきたりいつも使っている言葉をいつもと違う意味で使ったりしていたら、これは怪しいなと思って眉に唾を付けながら読んでいかなければ、簡単に足をすくわれてしまいそうです。

で、芦部さんの本、日本国憲法ができる所の章の最後に「法源」という言葉が出てきます。『法源とは多義的な概念であるが、』と書いてありますが、これは私なんかは「法源というのは非常に曖昧な言葉なので、使い様によっては(相手を言いくるめたりする時に)非常に便利に使える」という風に読んでしまいます。
で、先の言葉の後に芦部さんは続けて『ここに法源とは最も一般的に用いられる「法の存在形式」という意味の法源を言う』と言っています。
「法の存在形式」なんて言っても何のことかわかりませんが、とりあえずそれはそれとして先を読んでみると、法源には成文法源と不文法源があって、日本国憲法の成文法源は「日本憲法」の他「皇室典範」「国籍法」「生活保護法」「国会法」等かなりたくさんの法律が列挙してあり、さらに「議員規則」「最高裁判所規則」などの規則、「日米安保条約」「国連憲章」などのいくつもの条約・公安条例等の条例までが書いてあります。要するにこれらは形式的には法律だったり規則だったり条約だったり条例だったりするんだけれど、その中味は憲法だ、ということです。

こうなると『日本国憲法は』と言ったとき、それは日本国憲法と表題がついて、前文から103条まで規定されている日本国憲法のことを示しているのか、それ以外のこれらの法律・規則・条約等も含んだ日本国憲法のことを言っているのかはっきりしなくなります。
もちろん通常は「どっちの意味で言っているのか」なんてことはいちいち書いてありません。その分、議論が次第にいい加減になってくるわけです。

さてここまでは成文法源なのですが、これ以外にさらに不文法源というものがあります。これについては芦部さんは
『有権解釈(国会・内閣など最高の権威を有する機関が行なった解釈)によって現に国民を拘束している憲法制度から不文法源が形成され、成文法源を補充する役割を果たす。広く憲法慣習または憲法慣習法と呼ばれるものが、それである。』
と書いてあります。

ここでまた意味不明の「憲法制度」という言葉が出てきていますが、何やら憲法制度というものがあって、それが国民を拘束していて、その拘束の根拠となるのが国会や内閣などが行なった解釈だということのようです。

そのような国会や内閣による解釈が行なわれることによって不文法源ができる。すなわちそのような解釈が不文法源として憲法の一部になる、ということです。
言い換えれば国会や内閣(ここには書いてありませんが、多分最高裁判所も)が、そのような解釈をすることによって、正式の憲法改正の手続きを経ることなく憲法を作るあるいは変えることができる、ということです。

で、『このような解釈によって憲法の一部になるものを憲法慣習と言う』ということですが、芦部さんはそれには3つの類型があると言います。
すなわち
① 憲法に基きその本来の意味を発展させる慣習
② 憲法上の明文の規定が存在しない場合にその空白を埋める慣習
③ 憲法規範に明らかに違反する慣習
の3つです。
芦部さん、さすがですね。ちゃんと③の、憲法規範に明らかに違反する慣習というのもしっかり不文法源として憲法の一部となる、としているわけです。

となると、憲法の中に憲法規範の中に書いてある規範と、それに明らかに違反する憲法慣習としての規範が併存するということになります。
芦部さんはその両者の関係について
  『③は憲法習律としての法的性格を認めることはできるが、それ以上の、慣習と矛盾する憲法規範を改廃する法的効力を求めることは、硬性憲法の原則に反し、許されないと解すべきであろう。』
としています。
すなわち③の憲法慣習によって既存の憲法の規定が変更されたり廃止されたりすると、憲法改正の手続きによらないで憲法を変えることができることになり、硬性憲法の「できるだけ憲法改正をしにくくする」という考え方に反してしまうので、既存の憲法の規定は変更されたり廃止されたりしないでそのまま残る、ということです。
その結果、一つの憲法の中に相矛盾する規定が並存するということになります。

素晴らしい論理的な解決法ですね(言うまでもなく、これは反語です。「論理的とは正反対だ」と言っているんです。反語の表現をわざわざ反語と言うというのも味気ない話ですが、前回の麻生さんのワイマール憲法の話を、反語を反語としないで解釈して大騒ぎした人達が多かったので、わざわざ「反語だ」と書いてみました。もっとも私が何を書いても大騒ぎする人もいないでしょうが)。

論理学では、矛盾する二つの命題を前提とすれば、どのような命題でも証明することができる、ということが明らかになっています。すなわち矛盾する規範を併存させることにより、法律家はどんな主張も正しいと論証することができるわけです。もちろんその主張の反対も同様に正しいと論証することができるわけで、こうなったら論理的もへったくれもなくなってしまいます。

何ともあきれた話です。まぁそこがまた良いのかも知れませんが。結局、法律家というのは論理によってではなく自分の信仰あるいは信念に従って、自分が正しいと思っている(あるいは正しいとしたいと思っている)結論だけを、いかにも論理的に当然の結論であるかのように主張したい人たちなんですから。

両班(ヤンバン) の話-尹学準の本

水曜日, 9月 4th, 2013

先日、中公新書の「両班(ヤンバン) – 李朝社会の特権階層」という本を読んだ話を書きました。

その本を読みながら何となくその昔中公新書で別の両班の本を読んだような気がしていて、図書館でみつけて借りてきました。それが尹学準著「オンドル夜話-現代両班考」という本です。多分昔読んだのは確かだと思いながらほとんど全く覚えてなくて、新しい本を読むように楽しめました。多分以前読んだときは機が熟していなかったということでしょうね。

で、この本があまりに面白かったので、ついでに同じ著者の本をさらに3冊借りて読みました。(ちなみにこの著者の尹学準さん、日本語の音読みではインガクジュン、韓国語のカタカナ表記ではユンハクジュンとなるようです。)

この人は今の韓国のいなか(だけど周り中に両班がいくらでもいる地域)で生まれ育った人で、太平洋戦争の時韓国で国民学校に通い(その当時、韓国は日本ですから日本と同じく国民学校です)、終戦の翌年に中学に進学し、大学に入学した年に朝鮮戦争が始まり、南北両軍にはさまれて右往左往して何度も殺されそうになり、朝鮮戦争が終わるころ徴兵令状が来たのを無視して韓国を密出国し日本に密入国。別の名前の外国人登録証を手に入れて日本で暮らし、法政大学を卒業し、共産主義革命を夢見て朝鮮総連系の組織で働いたけれど北朝鮮の言いなりにならないで勝手なことを言っていたので総連から追い出され、いろんな仕事を転々とし、いろんな大学で語学の教師などしながらいろいろな書き物をしていた人です。

その人が韓国の両班の現実の姿について、自分の幼児からの実体験をベースに語っているのがこの「オンドル夜話-現代両班考」という本です。

彼は一級の両班の家系の宗孫に生まれ、子供の頃から両班とはどのようなものか、どのような生活をするか、身をもって経験しています。にもかかわらず、厳密に言えば自分は両班とは言えない、なんてことを平気で言ってしまう人です。

宗孫というのは何代か前の祖先から長男の長男の長男の・・・という形の子孫のことを言い、一族を率いてその祖先の祭祀をする立場にあるので、両班の中でも特別な存在です。で、その宗孫として子供の頃からある意味特別扱いで育ってきた人で、子供の頃から漢文を読まされて、日本の素読とはちょっと違うやり方を説明してくれたり、両班が大騒ぎする風水の話とか、両班同士の格の上下を巡る壮烈な争いの話とか、韓国のお墓は土葬で一人一基だから山の上はお墓だらけになる話とか、とにかく面白い話満載です。

この人は日本に密入国してから日本で結婚し子供もできて、この本を書くまで30年も日本で生活していますから、韓国の話、両班の話をするにも日本人がわかりやすいように書いてくれます。国民学校で勉強しているので、日本語も子供の頃からしゃべれたようです。

読んだ本は

オンドル夜話 現代両班考 中公新書 尹 学準/著 中央公論社
歴史まみれの韓国 現代両班紀行 尹 学準/著 亜紀書房
タヒャンサリの歌 わたしの中の日韓歳時記 丸善ライブラリー 尹 学準/著 丸善
韓国両班騒動記 ”血統主義”が巻き起こす悲喜劇 尹 学準/著 亜紀書房

の4冊です。
そのうち「オンドル夜話-現代両班考」と「歴史まみれの韓国 現代両班紀行」が韓国でも話題になり、日本語の読める人はコピーを回し読みしているけれど日本語を読めない若い人から頼まれてそれを韓国語に直して出版しようとした所大騒ぎになり、出版を差し止めるため両班の大物がやってきたり親友から絶縁状が送られてきたりという顛末を第1章に書いて、第2章以降に「オンドル夜話-現代両班考」を手直しして含めているのが「韓国両班騒動記 ”血統主義”が巻き起こす悲喜劇」です。
「タヒャンサリの歌 わたしの中の日韓歳時記」は、歳時記ということで前半はそれこそ春や秋の様々な話題について書きながら(歳時記という以上四季折々をバランスよく書く必要があるんでしょうが、この人はバランスよく書くことができないようで春の話題ばかり続いて、気を取り直していきなり秋の話題に飛んだかと思うといつの間にかまた春の話題になってしまう、という具合です)、最後の方はいつのまにか太平洋戦争が終わって(日本では終戦ですが、韓国では開放というようです)国民が左翼と右翼に分かれて血みどろで争う時代が始まり、それが終わってちょっと落着いたと思ったら朝鮮戦争が始まり、北の勢力と南の勢力の間で振り回されながらこの人もムチャクチャをやり、最後は日本に逃げるため命がけで釜山の近くの港まで行くまでの波乱万丈の顛末が書いてあります。

太平洋戦争が終わった時、両班の村は左翼側につき常民の村は反共の右翼になったとか、その前、戦時中に日帝を倒して独立し、韓国を立て直すには共産主義革命をして一気に先進国にキャッチアップするしかない、と両班の若者が革命運動に夢中になったとか、そのような歴史は北朝鮮によって全く抹殺され、反日独立運動、革命運動は全て金日成の祖先がリードしたなどと歴史が書き変えられたとかの話もありました。

これらの本を読んでようやくわかってきたのは、歴史的事実の書き換え、というのは韓国の両班の文化のようなものだということと、家(一族)の格を上げるため(相手の家系より自分の方が格が上だとするため)には、一銭にもならないことで本気になって命がけで争う、そのためには歴史的事実の書き換えも辞さない、ということです。

そういう観点から、最近の歴史的認識の議論を振り返ってみると、新しい発見がありました(とはいえ私が「そうだったのか!」と思った、というだけのことで確認したわけではないのですが)。すなわち従軍慰安婦の問題や日韓併合の話などで韓国は日本に対して常にギクシャクした関係にあるのですが、本当はそれとは違う所に問題があるのではないか。韓国人にとって日本人は未開の野蛮人だったのを、千年二千年にわたって継続的に進歩した中国の文明・韓国の文明を供給し続けてあげた相手で、そのお陰で日本はようやく文明国になることができたにも拘わらず、それに対して一言の感謝の挨拶もなく、自分で勝手に文明国になったような顔をして、日本は明治維新で西洋化にもちょっと早くスタートしただけなのに、スタートに遅れた韓国を併合したりして、それは日本の敗戦で終わったけれど、日本人はアメリカに負けたのは認めたけれど韓国の反日独立運動に負けたなんて考えてもいない、その後の朝鮮戦争では韓国は戦争で全国土が破壊されたのに、日本は朝鮮特需で大儲けしてその後の経済の高度成長の足がかりとしたりして、韓国の犠牲の上に経済発展を享受しており、とにかく日本は韓国よりはるかに格下の国であるにも拘わらずそのことに気付こうともしないでエバリくさっている・・・というような話ではないでしょうか。

とはいえ、千年二千年昔の話を持ち出してみてもヨーロッパやアメリカの人には理解してもらえそうもないので最近の具体的な従軍慰安婦の問題を持ち出している、ということではないでしょうか。

日本が韓国の千年二千年にわたる文明の指導役としての役割に感謝し、日本が韓国よりはるかに格下であることを素直に認めれば、韓国人の気持も少しは柔らぐんでしょうが、日本人というのは忘れっぽい人種ですから、『今更千年二千年前の話をされてもなぁ』てなもんで、韓国の期待するような反応は期待できそうもありません。韓国とくらべて格が上だの下だの、という意識もあまりなさそうです。

従軍慰安婦のことだったら、たかだか70年位前の話ですからもう100年もすれば解決は可能かと思っていたのですが、これが千年二千年の恨み、ということになると、解決にもう少し時間がかかるかも知れませんね。

芦部さんの憲法 その5

水曜日, 9月 4th, 2013

大分寄り道をしてしまいましたが、「芦部さんの憲法」、立憲主義が終わったところでいよいよ具体的に日本の憲法、日本国憲法の話になります。その前に日本国憲法の前の明治憲法(大日本帝国憲法)の話から始まります。

明治憲法は立憲君主制の憲法ですが、フランス革命、アメリカの独立戦争のあとで、人権思想もちゃんと取り入れてあります。芦部さんはこの憲法を立憲主義の憲法だと言っています。

立憲主義の憲法というのは、前にも書いたように、

憲法というのは基本的人権をもとに作られたもので大事なものだから簡単に変更できるようなものであってはならない。特に基本的人権に関する部分は 絶対に変えてはならない。そのためには多数決原理に基く民主主義であっても否定しなければならない。これが「立憲主義」という考え方だ。 そして「立憲主義」に基かない憲法は、たとえ憲法という名前がついていてもそれは憲法ではない。

ということですが、明治憲法がこの立憲主義の定義で立憲主義の憲法だと言えるのかなあ、と思います。

もちろん明治憲法には基本的人権などという言葉はないし、天皇主権だし、基本的人権を中心にした憲法というより天皇を中心とした憲法だという気がします。ただし硬性憲法、すなわち変更しにくいという点では、天皇が変えようとしなければ変えられないということで、硬性憲法といえるのかも知れません。天皇が変更を国会に付議した場合、衆議院と貴族院の両方で2/3以上の賛成がなければならないという点は、今の憲法と同様ですが、その後の国民投票の手続きはありません。

明治憲法を持ってきたのは、今の憲法が明治憲法の改正の手続きによって作られたあたりを議論する必要があるからです。

今の日本国憲法は、日本がポツダム宣言を受諾して戦争に負けたことを受け、GHQから憲法改正を求められたことにより、国民主権・平和主義・基本的人権尊重の新しい憲法案が作られ、それが明治憲法の憲法改正手続きに従って天皇の名前で衆議院・貴族院に付議され、どちらでも圧倒的多数によって可決され成立した、ということです。

とはいえ、今の憲法は前文で「この憲法は国民が作った」と言っています。すなわち国民が作った憲法を天皇が議会にかけ、成立させたということです。また明治憲法は立憲君主制の天皇主権の憲法ですが、日本国憲法は国民主権の憲法です。
私にとっては特にどうということのない「そういうことだ」というだけのことですが、このあたりが憲法の専門家にとっては大問題のようです。

まず日本国憲法が欽定憲法なのか民定憲法なのか、という議論です。天皇が作ったなら欽定憲法、国民が作ったなら民定憲法。では、国民が作ったものを天皇が議会にかけたのはどっちになるのか?ということです。

次に立憲君主制の明治憲法が自らを否定する国民主権の憲法を作ることができるのか、という問題になります。明治憲法の頭の方には「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す。」とか「天皇は神聖にして侵すべからず」などという言葉が並んでいます。これをまるっきり削除して明治憲法そのものを全否定するような改正を、この憲法の改正手続きで行なって良いのか、ということです。

私はそれでも別にいいじゃん、と思うのですが、多くの憲法学者は「それは立憲君主制憲法の自殺のようなものだからそれはできない」という理屈を立てます。そこで無理矢理「八月革命説」というのをデッチ上げます。すなわち日本はポツダム宣言の受諾によって昭和20年8月に革命が起きて、立憲君主制の国から国民主権の国になったんだというものです。その結果明治憲法はその改正の手続きをしたわけでもなく、文言も一字一句変わっていないけれど、その革命によって国民主権の憲法に変更されており、国民主権に反する規定は無効になったんだ、という主張です。

で、この八月革命によって国民主権になった明治憲法により、その改正手続きを踏まえて改正されたのが今の日本国憲法だから、これは民定憲法だということになるという理屈です(この八月革命説のバリエーションとして六月革命という説もあって、これによると昭和20年8月の敗戦時には革命があったわけではないけれど、憲法の改正案が国会に付議されて審議が始まった昭和21年6月に、その国会での審議の過程で革命があった、ということです)。
立憲君主制の明治憲法は八月革命で殺されてしまい、その代わりに文言はそのままだけど国民主権に変身した明治憲法が生まれ、その国民主権の明治憲法の改正手続きによって今の日本国憲法ができた、ということです。

何ともメンドクサイ理屈ですが、憲法学者にしてみれば革命でもない限り憲法は変えられない(変えてはならない)と思っているようで、立憲君主制の憲法を国民主権の憲法に改正するための手続きを明治憲法の規定に従って行ったことを正当化するためにはこのような屁理屈が必要なようです。ご苦労様な話です。

いずれにしても無事、日本国憲法ができました。ようやくこれ以降、その具体的な内容の話になります。