ここでいよいよ日本国憲法に入るところですが、その前にもう少しこの日本国憲法ができた時の話をします。
GHQがやってきて日本の憲法を国民主権の立憲主義の憲法に変えるようにと言ったとき、あの天皇機関説で有名な美濃部達吉という憲法学者は、『明治憲法を一言一句変える必要はない。そのままで国民主権の立憲主義の憲法になる』と言ったようです。これは明治憲法を変えたくないということではなく、明治憲法の解釈次第で、その中味は自由に変えられるということを言ったようです。
前回、八月革命説の所でも書きましたが、この説では実際明治憲法を一言一句変えることなく、その中味が国民主権の立憲主義の憲法に変ったんだと主張しているわけです。美濃部さんの天皇機関説が戦前大きな問題となり、貴族院から追い出されてしまったのも、見るからに立憲君主制の立憲主義とは思えないような明治憲法を、解釈によって立憲主義の憲法にしようとして、それが神権主義的な明治憲法を守ろうとする人達に攻撃されたということのようです。
この解釈というのは非常に強力で、文言としては書いてないことまで「言外に書いてあるんだ。それがわからないのは勉強が足りないからだ」なんて言い方もできるし、明らかに書いてあることでも「これはこう書いてあるけれど、書いてある通りの意味ではない」と言って、憲法の文面に書いてあることまで否定してしまうなんてこともできてしまうんです。
もちろん単にそんな主張をしただけじゃぁ皆を納得させることができないので、あーでもない、こーでもない、そーでもない、どーでもない、と山程の言葉を使い、あっちではこう言ってる、こっちではあー言ってると、憲法自体の文章を読まないで他の文献を山程引用する。そしてそのあげく「だからここはこうでなければならない」などと結論らしきものを持ち出せば、その前後に論理的な関係が存在しなくとも、何となく論理的に立証されたかのように聞く人は思ってしまうようです。
ですから憲法の本を読むときは、見たことのないような言葉が出てきたりいつも使っている言葉をいつもと違う意味で使ったりしていたら、これは怪しいなと思って眉に唾を付けながら読んでいかなければ、簡単に足をすくわれてしまいそうです。
で、芦部さんの本、日本国憲法ができる所の章の最後に「法源」という言葉が出てきます。『法源とは多義的な概念であるが、』と書いてありますが、これは私なんかは「法源というのは非常に曖昧な言葉なので、使い様によっては(相手を言いくるめたりする時に)非常に便利に使える」という風に読んでしまいます。
で、先の言葉の後に芦部さんは続けて『ここに法源とは最も一般的に用いられる「法の存在形式」という意味の法源を言う』と言っています。
「法の存在形式」なんて言っても何のことかわかりませんが、とりあえずそれはそれとして先を読んでみると、法源には成文法源と不文法源があって、日本国憲法の成文法源は「日本憲法」の他「皇室典範」「国籍法」「生活保護法」「国会法」等かなりたくさんの法律が列挙してあり、さらに「議員規則」「最高裁判所規則」などの規則、「日米安保条約」「国連憲章」などのいくつもの条約・公安条例等の条例までが書いてあります。要するにこれらは形式的には法律だったり規則だったり条約だったり条例だったりするんだけれど、その中味は憲法だ、ということです。
こうなると『日本国憲法は』と言ったとき、それは日本国憲法と表題がついて、前文から103条まで規定されている日本国憲法のことを示しているのか、それ以外のこれらの法律・規則・条約等も含んだ日本国憲法のことを言っているのかはっきりしなくなります。
もちろん通常は「どっちの意味で言っているのか」なんてことはいちいち書いてありません。その分、議論が次第にいい加減になってくるわけです。
さてここまでは成文法源なのですが、これ以外にさらに不文法源というものがあります。これについては芦部さんは
『有権解釈(国会・内閣など最高の権威を有する機関が行なった解釈)によって現に国民を拘束している憲法制度から不文法源が形成され、成文法源を補充する役割を果たす。広く憲法慣習または憲法慣習法と呼ばれるものが、それである。』
と書いてあります。
ここでまた意味不明の「憲法制度」という言葉が出てきていますが、何やら憲法制度というものがあって、それが国民を拘束していて、その拘束の根拠となるのが国会や内閣などが行なった解釈だということのようです。
そのような国会や内閣による解釈が行なわれることによって不文法源ができる。すなわちそのような解釈が不文法源として憲法の一部になる、ということです。
言い換えれば国会や内閣(ここには書いてありませんが、多分最高裁判所も)が、そのような解釈をすることによって、正式の憲法改正の手続きを経ることなく憲法を作るあるいは変えることができる、ということです。
で、『このような解釈によって憲法の一部になるものを憲法慣習と言う』ということですが、芦部さんはそれには3つの類型があると言います。
すなわち
① 憲法に基きその本来の意味を発展させる慣習
② 憲法上の明文の規定が存在しない場合にその空白を埋める慣習
③ 憲法規範に明らかに違反する慣習
の3つです。
芦部さん、さすがですね。ちゃんと③の、憲法規範に明らかに違反する慣習というのもしっかり不文法源として憲法の一部となる、としているわけです。
となると、憲法の中に憲法規範の中に書いてある規範と、それに明らかに違反する憲法慣習としての規範が併存するということになります。
芦部さんはその両者の関係について
『③は憲法習律としての法的性格を認めることはできるが、それ以上の、慣習と矛盾する憲法規範を改廃する法的効力を求めることは、硬性憲法の原則に反し、許されないと解すべきであろう。』
としています。
すなわち③の憲法慣習によって既存の憲法の規定が変更されたり廃止されたりすると、憲法改正の手続きによらないで憲法を変えることができることになり、硬性憲法の「できるだけ憲法改正をしにくくする」という考え方に反してしまうので、既存の憲法の規定は変更されたり廃止されたりしないでそのまま残る、ということです。
その結果、一つの憲法の中に相矛盾する規定が並存するということになります。
素晴らしい論理的な解決法ですね(言うまでもなく、これは反語です。「論理的とは正反対だ」と言っているんです。反語の表現をわざわざ反語と言うというのも味気ない話ですが、前回の麻生さんのワイマール憲法の話を、反語を反語としないで解釈して大騒ぎした人達が多かったので、わざわざ「反語だ」と書いてみました。もっとも私が何を書いても大騒ぎする人もいないでしょうが)。
論理学では、矛盾する二つの命題を前提とすれば、どのような命題でも証明することができる、ということが明らかになっています。すなわち矛盾する規範を併存させることにより、法律家はどんな主張も正しいと論証することができるわけです。もちろんその主張の反対も同様に正しいと論証することができるわけで、こうなったら論理的もへったくれもなくなってしまいます。
何ともあきれた話です。まぁそこがまた良いのかも知れませんが。結局、法律家というのは論理によってではなく自分の信仰あるいは信念に従って、自分が正しいと思っている(あるいは正しいとしたいと思っている)結論だけを、いかにも論理的に当然の結論であるかのように主張したい人たちなんですから。