Archive for 9月 27th, 2013

Under Control

金曜日, 9月 27th, 2013

2020年オリンピック東京招致の安倍さんのスピーチの原発事故のUnder Controlについて、反原発派の人は未だに安倍さんの大嘘だ!と騒いでいるようです。
私にとってはUnder Controlという表現について何の違和感もないのですが、色々考えていたらどうもこのUnder Controlという言葉の解釈の問題が大きいような気がしてきました。

たとえばデコボコ道で自動車を運転して走る時、車輪が穴に入って右に振れたり左に振れたりするのを、ハンドルをしっかり握って何とか進行方向に向けて走らせ続けるという状況を、私はUnder Controlと言うんだと思うのですが、反原発の人の解釈ではそんなふらふらした運転はUnder Controlではない、ということのようです。

あるいは飼犬が何かに興奮して大声で鳴き声を出し、今にも紐を引きちぎって行きそうであっても、しっかり紐を握って犬を放さないというのを私はUnder Controlと言うのだと思うのですが、反原発の人の解釈は、犬に対して「おとなしくしろ」と命じたら鳴くのをやめてお座りをするという状況がUnder Controlということのようです。

Under Controlの反対語はOut of Control、日本語で言えば「制御不能」ということになり、それはデコボコ道の例で言えば車が揺れて運転手が放り出されて誰もハンドルを握っていないとか、犬の話で言えばついに引き綱を振り切って犬がどこかにふっ飛んで行ってしまって、もう呼んでも帰ってこないという状況です。

福島の原発の事故では、一時はもうどうしようもなくなって全員逃げるしかないか、というような話もありましたが、実際は現場の人達が踏ん張って事故対応に当たり、今でも全ての問題が解決したわけではないけれど、また次々に思いがけない事故が出ては来ているものの、その都度十分対応することはできていますから、そういう意味では今までもずっとUnder Controlだったし、事故発生当時と比べると、今は遥かに確実にUnder Controlと言えると思います。

普通話をする時、自分の使っているこの言葉の意味はこれこれだ!なんてことはあまり言わないんですが、だからといってその話を聞く人が、自分にとってはその言葉の意味はこれこれだからあんたの言ってるのは嘘だ、なんて言ってみてもあまり実のある議論にはならないのになあ、と思います。

北越雪譜

金曜日, 9月 27th, 2013

先日高校時代からの友人に誘われて、越後湯沢の、川端康成が「雪国」を書いた宿に泊まってきました。

900年続く宿で、今のおかみさんは53代目ということでへぇ~と思ったのですが、集まったのは高校時代からの友人4人(私を含めて)と奥さん2人。翌日は新潟在の友人の案内で「味噌舐めたかの関興寺」「北越雪譜の牧之記念館」「土踏んだかの雲洞庵」を見物しました。

「味噌舐めたか」は臨済宗のお寺、「土踏んだか」は曹洞宗のお寺で、どちらも見事なものでしたが、鈴木牧之記念館も非常に面白く、そういえば「北越雪譜」はまだちゃんと読んでなかったなと思い、早速図書館で借りてきました。

「北越雪譜」というのは江戸時代の鈴木牧之(スズキボクシ)という人の書いた随筆集のようなもので、雪の結晶の絵が描いてあるので有名です。で、私はてっきりその雪の結晶の絵は牧之が自分で見て描いたものだと思い込んでいたんですが、何とそうではなく他の人の本からその一部を書き写したものだと書いてあり、唖然としてしまいました。

北越雪譜というのはその名の通り牧之の住む越後の国、魚沼郡塩沢のあたりの雪の季節のあれこれを書いた本で、非常に面白い本でした。

越後縮みの話や熊を獲る話、雪崩・吹雪の話・鮭の話等盛りだくさんで、たとえば鹿を獲る時、大雪の中では鹿より人の方が歩くのが早いので追いかけて行けば簡単に捕まえられるとか、羽根つきは子供の遊びではなく、大の大人が雪かき用のシャベルのようなもので力一杯打ち上げ合う遊びだとか、雪の中で時として雪のために洪水が起きて逃げ場がなくて大変だとかいろんな話があるんですが、中に狐を獲る話があり、これが落語に出てくる鴨を獲る話に良く似ているのでちょっと紹介しましょう。

落語の話というのは、寒い国では鴨は田んぼで刈り取って捕まえることができるという話で、餌をあさるために鴨が田んぼに降りている時寒風が吹くと田の水が凍りついてしまい、その氷で鴨の足は動かせなくなってしまうので、そこで稲刈りの鎌で鴨の足を刈っていけば簡単に鴨が何羽でも手に入る、という話です。

「北越雪譜」に出ている狐を捕まえる話は、こんな具合です。
雪が深く積もっている時、杵で(といっても普通良く見る金槌の大きいような棒の柄の付いているものでなく、多分まん中がちょっと細くなっている長い棒のタイプだろうと思いますが)雪の中に適当な大きさ・深さの穴を開けておきます。その近くに狐の好きな油粕を撒いておき、ついでにその穴の中にも撒いておきます。夜になってそこへやって来た狐は雪の上の油粕を食べ、調子に乗って穴の中に入っている油粕も食べようとして穴にもぐり込みます。穴は冬の寒さで凍っているので、ちょっとやそっとでは崩れません。穴はそれ程大きくないので、頭から突っ込んだ狐は身動きができなくなります。夜が明けてから見に来た人は、穴の上から狐の尻尾が動いているので、狐がかかっているのがわかります。そこで水を汲んできて穴の中に入れると、雪が凍っているのでそうすぐには水がもれてはしまいません。狐が溺れて死ぬ最後におならをするので、それをかぶらないように少し離れた所で見ていて、尻尾が動かなくなったら狐は溺れ死んだということなので、あとは大根を抜くように尻尾を持って引っ張れば簡単に狐が手に入るという按配です。

本当かな、という気もしますが、牧之は真面目な話としてこれを書いているようなので本当のことかも知れません。あまり詮索しない方が楽しそうな話です。

これ以外にも雪国ならではの楽しみ・苦労が淡々と書かれています。

江戸時代の漢文調の文語体の文章ですが、それほど難しくもないので、原文でも充分楽しめます。
出版に至るまでの経緯には、十返舎一九だとか山東京伝とかそうそうたる名前が出てくるのも興味深いです。

雪国の宿への小旅行の思いがけないお土産でした。