『暇と退屈の倫理学』―國分功一郎

昨年のゴールデンウィーク明けの週末に、学生時代の友人3人と久しぶりに会いました。全員それなりに年をとっていて、とは言えまだまだ元気なのを確認したのですが、その際、その中の一人が紹介したのがこの本です。確か東大生協の本屋さんで一番売れている本だ、とかの話でした。

で、とりあえず図書館で予約して、約半年でようやく順番が回ってきたので借りてみました。

何となく予感していたのですが、やはりマルクスの資本論を読もうとした時、またピケティの本を読んだ時に感じた、いかがわしさを感じました。

資本論については、友人から、読む必要がない本だとアドバイスされて読むのをやめました。ピケティの本は図書館で1年待たされて借りて読んだのですが、資本論についてのアドバイスをもらった後だったので、そのつもりで読みました。今回の本のそのつもりで読みました。

で、文庫本ですが、かなり頁数がある本なのですが、読み終わった後に、そういえば暇にしても退屈にしても、私は日本語として捉えていますが、著者が引き合いに出しているのはヨーロッパの哲学者の言葉ばかりです。ヨーロッパの哲学者が私と同じ言葉で理解していたのだろうか、と思いました。本のカバーを見ると何やら英文のタイトルのようなものが見えます。良く見ると『Ethics of Leisure and boredom』 となっています。この英文は著者が用意したものか出版社が勝手につけたものか分かりませんが、とりあえず著者も了解の上の英文だと考えて、暇はLeisure、退屈はBoredomということだと考えました。

Boredomというのはいかにも飽き飽きしてやってらんない…という感じがしますが、Leisureというのが『暇』なのか、と思いました。ネットで見るとLeisureというのは日本語のレジャーとは違っていて、もともと『働いていない時間、働かなくても良い時間』というような意味のようです。

このLeisureについてパスカルが『人間の不幸は、暇な時に用もないのに部屋にじっとしていられないことが原因だ』と言っているようで、これがこの本の前半の暇についての考察に繋がっています。

パスカルという人は修道院に入るような、ある意味原理主義的なキリスト教徒ですから、もちろん人間は原罪を背負っており、苦しい思いをして働くことが運命づけられている、と考えていた人ですから、労働しないでノンビリ暇を楽しむなんて許されないことだと考えている人です。こんな人の言葉をもとにして暇について考察されても困ってしまいます。

退屈についてはこの本の後半のテーマになっていますが、この言葉の定義として、たとえば田舎の駅で列車に乗り遅れ、次の列車まで何時間も待たなければならない。仕方がないので暇つぶしに駅の近くを歩き回ってみても、時計を見ると殆ど時間が経過していない、なんて状況だと言っているのですが、この説明は何とも納得いきません。基本的にこんな状況、暇ではありますが、退屈することなくいくらでも暇つぶしのネタはありますし、いよいよとなったら日本人の得意な『居眠りをする』という手があります。

時間に余裕があればその時はのんびり暇と楽しむし、時間に余裕がない時は焦るという事はありますが、退屈するということはありません。

ということで、この退屈についても著者が引き合いに出しているヨーロッパの哲学者の言っている退屈と、私の感じている退屈は違うものなのかも知れません。

私にとっての退屈というのは、たとえばマルチチョイス式の試験問題の解答を、正解の表を見ながら採点するという作業を何百人分も手作業でやる、とか、生命保険会社の30社分のP/L・B/Sを表を見ながら全てエクセルに手入力する、なんて時で、基本結構忙しい時で、暇な時に退屈を感じることはまずありません。ヨーロッパの上流階層の暇つぶしの一つに『兎狩り』というものがありますが、この『兎狩りは、その目的は兎だ』と書いてある部分もあり、これは明らかな嘘だ、と思いました。釣りバカのハマちゃんやスーさんに『釣りは、その目的は魚だ』と言うようなもので、ここらへんいわゆる左翼の人たちの伝統的な嘘を垣間見たように思いました。

私はここまで生きてきて今更こんな嘘には騙されませんが、中学・高校と、学校と先生の言う事しか聞いていないで、自分が今後どのような生き方をし何を考えるのか分からない若者にとっては、このような本もある意味通過儀礼のようなものかも知れないなと思いました。

若い人がこのような本をさっさと卒業して、もっとちゃんとした本に早く出会えるようになることを期待します。

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