Archive for 8月, 2015

安倍首相の70年談話

金曜日, 8月 21st, 2015

この70年談話、本ではありませんが、文章として読むことができるので、『本を読む楽しみ』のカテゴリーの中に入れることにしました。

先週、安倍総理大臣の戦後70年の談話が発表されました。閣議のあと記者会見で、この談話を安倍さんが発表するところはNHKで全て中継され、それを見ていました。

格調の高い声明で、感銘を受けました。その後マスコミ各社の紙面・ホームページにその談話全文が発表され、また記者会見での発表をネットでビデオで見ることができるようになったので、念のために文章になったものと実際の発言とを比較してみました。

文章の方は、
http://www.kantei.go.jp/jp/topics/2015/150814danwa.pdf
で、
ビデオは
https://www.youtube.com/watch?v=adpQU1H3xEA
で、また文章の英語版は
http://japan.kantei.go.jp/97_abe/statement/201508/0814statement.html
で見ることができます。

記者会見での発表は約25分とかなり長いものでしたが、ごく少しの読み間違いを除くと、安倍さんは忠実に文章を読んでいました。しかし文章と発表とが大きく異なる部分が2つありました。

一つは冒頭、文章の方では最初の文、pdf版だと最初の2行にあたる所ですが、声明では約3分にわたり発言があります。

その中で『政治は歴史に謙虚でなければならない』『政治的、外交的意図によって歴史がゆがめられるようなことはあってはならない』『21世紀懇談会で議論してもらい、一定の認識が共有できた』『これを歴史の声と受け止める』と語っています。

もう一つ声明と文章の大きく異なる所は、最後の所で、文章の全部が終わった後、さらに追加で約2分程再び歴史について言及し、『聞き漏らした声があるのではないかと常に歴史を見つめ続ける』態度が必要だとしています。

ここまで言えば、いわゆる歴史認識の問題で中国や韓国が何か言ってきても、これは『政治的・外交的意図によって歴史をゆがめようとする』要求ですから、もはや何の効果もないということがはっきりします。この声明で、そのような動きがなくなってくれると良いのですが。

50年の村山談話、60年の小泉談話が第二次世界大戦とそれに至る経過から始まっているのに対し、この70年安倍談話はもう少し前から始まっています。

すなわち西洋諸国が世界中を植民地にしようと競い合っていた時代から始まり、それに対抗して日本が明治維新で国の近代化をはかり、日露戦争で勝ったことにより、アジアの国も必ずしも西洋諸国の植民地になるわけではないことを実証し、アジア・アフリカの国々を勇気づけたという所から始まります。

第一次大戦の反省を受け、国際社会は戦争を違法化する不戦条約(これは正式には『戦争放棄に関する条約』といい、昭和4年に日本を含む当時の主要国により締結された条約です)を生み出したことを示し、憲法9条の平和主義が必ずしも日本独自のものではないことを明らかにしています。その後世界恐慌とそれに続く、欧米諸国による植民地を含めた経済のブロック化により、日本は第二次大戦に追い込まれたことを明らかにしています。と同時に日本の政治システムが軍国化を止めることのできなかった問題点も明らかにしています。

そして第二次大戦が始まるのですが、その結果として
『そして70年前。日本は、敗戦しました。』
とはっきり言っています。

日本で日本人に対して『日本は負けた』と言うのはかなりハードルが高いようで、普通は『敗戦』の代わりに『終戦』と言い換えたりします。

小泉さんの60年談話は『終戦』という言い方で一貫していますし、村山さんの50年談話でも『敗戦後』とか『敗戦の日』という言い方が『終戦』という言い方と混用されていて、正面切って『敗けた』と言うことを避けているようです。この意味で安倍さんの談話は画期的なものかも知れません。

その次に安倍さんは第二次大戦での我が国の300万人の犠牲者の話に移り、広島・長崎の原爆、東京その他の大空襲、沖縄戦などを具体的に列挙し、軍人以外の市民が多数犠牲となったことを指摘します。もちろん日本側だけでなく、戦った相手の国の若者の犠牲、戦場となってしまった国の市民の犠牲についても触れ、さらに『戦争の陰にいた深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たち』についても言及しています。これはいわゆる従軍慰安婦だけの問題ではなく、戦争によって勝った方にも負けた方にも、戦中だけでなく戦後においても傷つけられた女性たちが大勢いた、という事実の指摘です。

このような多数の犠牲者の存在を挙げた後、『歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。』という言葉が出てきています。この『取り返しのつかない』という部分、英文では『What is done cannot be undone』となっていて、これを日本語に直すと『起こってしまった事は起こらなかったように戻すことはできない』ということです。すなわち『取り返しができない』という言葉がその元々の意味で使われています。

このような犠牲が伴ってしまうので戦争をしてはいけない、『事変・侵略・戦争。いかなる武力の威嚇や行使も国際紛争を解消する手段としてはもう二度と用いてはならない。すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。』と主張しています。

そして今日、日本が国際社会に復帰し、未来をつないでいけるのは戦争で戦った国、戦争に巻き込まれて被害を受けた国々やその人々の寛容の心、善意と支援の手のお蔭だと感謝し、この歴史の教訓を未来へ語り継ぎ、アジアそして世界の平和と繁栄に力を尽くすその責任を表明しています。

しかしこの戦争について、いつまでも謝罪を続けることはできないし、すべきではありません。謝罪はもうやめる。だからといって、何が起こったのか、何をしてしまったのかを忘れてしまっていいわけではない。この戦争をしてしまった過去の歴史に対しては真正面から向き合い、未来へと引き継いでいく責任がある、ということを明らかにしています。

最後にこの談話の結論になるのですが、
『いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも守り、世界の国々にも働きかけてまいります。』
『唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶をめざし、国際社会でその責任を果たしてまいります。』
『21世紀こそ、女性の人格が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。』
『いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。』
『暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。』

と述べ、要するに、今までの『国際社会の一員として皆と協力して仲良くやります』という姿勢を改め、『世界のリーダー国の一つとしてその責任を自覚し、責任を果たしていく』覚悟を表明しています。

日本は戦前、世界のリーダー国の一員でした。リーダー国の一画として世界の平和と繁栄のために努力しました。しかしそのために結局は他のリーダー国と世界を二分する大戦争をすることになってしまいました。
日本はその戦争に負け、リーダーの地位を失いました。その後、戦後の復興、高度成長を経て、日本はすでにリーダー国の一員となる実力を備えるようになっているんですが、敗戦の経験から、今までリーダー国の役割を担うことを躊躇してきました。しかし、力のある国がそれを自覚せず、それにふさわしい行動をしないことは周りの国にとってははた迷惑な話であり、また政治的・軍事的な不安定要素ともなります。

今回の70年談話でようやく日本も自国の置かれた立場を認識し、リーダー国の一員であるだけの国力を備えた責任を自覚し、それにふさわしい行動をする覚悟を明らかにした、ということは、まさに画期的なことです。

ここまでの覚悟をするのであれば、もはやお詫びとか謝罪とかのレベルの話ではありません。

このような覚悟の表明の総まとめとして、安倍さんは『積極的平和主義の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。』と高らかに宣言しています。

この積極的平和主義、というのは、日本国憲法の前文にある
『われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。』
という部分を踏まえた言葉で、日本国憲法のもっとも重要なポイントの一つです。残念ながらいわゆる護憲派の人たちは憲法のこの部分が目に入らないようです。

もちろん宣言したからと言ってすぐに世界が変わるわけではなく、世界中いたる所でいまだに戦争が続行中です。また安倍さんがいずれ総理大臣をやめた後、次の人がこの宣言を引き継いでいくかどうかも分かりません。安倍さん自身にした所で、今後国際的、国内的な情勢の変化で自分の言葉通りに行動できるかどうか、分かりません。

しかし一旦このような宣言をしてしまったことにより、今後の政府はいずれにしてもこの言葉に縛られることになるでしょうし、国際社会もこの言葉によって日本の行動を評価していくことになるでしょう。

そのような意味で、戦後70年、画期的な総理大臣談話だと思います。

21世紀懇談会の報告書

金曜日, 8月 7th, 2015

『20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会』が、8月6日に報告書を出しました(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/pdf/report.pdf)。

本文だけでA4で38ページのものですが、非常に良くできています。

日本をとりまく近・現代史について、自分の認識を確認するために非常に参考になる報告書です。

全体が6つの部分に分かれています。
最初が『20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私達が20世紀の経験から汲むべき教訓は何か。』というタイトルで、全体の歴史の概観です。ヨーロッパ、後にアメリカも含む全体的な帝国主義的な侵略から始まっていて、アヘン戦争もアメリカがスペインから植民地としてフィリピンを奪ったこともちゃんと書いています。

日本が中心になっているため、ヨーロッパによるアフリカ・中東の植民地化、アメリカによる中南米の植民地化については書いていませんが、それはこの報告書の目的には必要ないということでしょうか。

2番目が『日本は、戦後70年間、20世紀の教訓を踏まえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか。』というタイトルで、戦後70年の日本の歩みを総括しています。戦後の復興から次第に経済大国になり、国際貢献を求められるようになって、それにどう応えてきたか、のまとめです。

3は『日本は、戦後70年、米国、豪州、欧州の国々とどのような和解の道を歩んできたか。』というタイトルで、第二次大戦で日本が戦ったアメリカ・オーストラリア・ヨーロッパの国々(イギリス・フランス・オランダ)に対して、日本がどのように和解のプロセスを進めたかということを、アメリカと、オーストラリア・ヨーロッパの2つに分けてまとめています。

4は『日本は戦後70年、中国、韓国をはじめとするアジアの国々とどのような和解の道を歩んできたか。』で、中国、韓国、東南アジアの3つに分けてまとめています。特に中国、韓国については、和解がなかなかうまく進まない状況をうまくまとめています。

5は『20世紀の教訓をふまえて21世紀のアジアと世界のビジョンをどう描くか。日本はどのような貢献をするべきか。』というタイトルで、今後の日本が世界に対してどのように貢献すべきか、考え方をまとめています。

最後の6『戦後70周年に当たって我が国が取るべき具体的施策はどのようなものか。』では、以上を踏まえて具体的なアクションプラン16項目を4つの区分に分けてまとめています。

非常にバランスのとれた、素晴らしい報告書だと思います。

ちょっと不思議なのは、ソ連あるいはロシアに関する言及が殆どなかったことです。これは戦後70年間、日本はソ連あるいはロシアとは直接の交渉があまりなかったからなのかも知れませんが、ちょっと残念です。

特に第二次大戦で、開戦前日本(特に陸軍)が一番気にしていたのがソ連であり、終戦直前から戦後の何年にもわたって苦しめられたのがソ連なのを考えるとちょっと不思議ですが、この報告書が将来に向けてのビジョンを主体としていることを考えると、こうなるのかも知れません。

この報告書は安倍さんの『戦後70年談話』の参考資料として使われることになるわけですが、基本的なスタンスは第二次大戦のことというより、むしろ『戦後70年の歩み』に重点が置かれているので、戦争あるいは敗戦に対する謝罪を求める人には不満なものになるでしょう。

また世界全体に対する視野で書かれているため、中国や特に韓国などは、自分達に関する言及が不十分だ、ウェイトが小さ過ぎると不満だろうな、と感じます。

これだけの様々な分野にわたる十数人が集まって作られた報告書です。このテーマに関心がある人にとっては、読まないと損な報告書だと思います。

お勧めします。

2.26事件と天皇機関説

水曜日, 8月 5th, 2015

2.26事件と天皇機関説の関係、だいたい分かったのでまとめておきます。

元となった本はかなりたくさんになるので紹介するのは省略します。

天皇機関説は、明治の終りから大正の初めにかけて問題になった時、それは憲法学者同士の、憲法の解釈に関する議論でした。で、負けた方が『負けました』と宣言するなどという話ではありませんから、はっきりどっちが勝った、という訳にはいきませんが、その後の経緯からすると『天皇機関説の完勝』ということで、昭和の頃には殆ど誰でもが天皇機関説は当然の標準的な憲法解釈になっていたようです。

そのような状況で、昭和10年の少し前になって、この天皇機関説が再度問題になりました。今度は憲法学説の議論ではなく政治的な動きの小道具として天皇機関説が使われたということになりました。そのため表面的には憲法の議論のように見えますが、実質的には憲法の解釈とは無関係の『政争の具としての議論だ』ということを押さえておく必要があります。

昭和10年当時、国会では(いつものことですが)政党は内閣を倒し、あわよくば自分達が内閣を作る立場に立ちたいと思っていました。枢密院では副議長の平沼騏一郎が議長の一木喜徳郎を追い落として、自分が議長になろうとしていました。陸軍では、いわゆる皇道派が統制派を排除しようとしていました。また皇道派も統制派もどちらも、軍の行動の自由のために元老・重臣・政府・議会を自分達の言いなりにしたいと思っていました。

このような状況下、攻める方からすると、相手のほとんどは天皇機関説の支持者あるいは少なくとも天皇機関説を容認する立場でした。そこで天皇機関説の問題を口実に美濃部達吉を攻めたて、天皇機関説の違法性・違憲性を政府および国民全般に認めさせ、これをベースに今度はその天皇機関説の支持者あるいはシンパである政府・一木枢密院議長・陸軍の統制派、その他元老・重臣・財界その他を排除しようとした、というわけです。

特に陸軍では在郷軍人会を利用して騒ぎを大きくし、その騒ぎが抑えきれない、世論を抑えきれないということで、次第に政府および美濃部達吉を追い詰めて行ったわけです。

結局、美濃部達吉は著書を発禁処分にされ、貴族院議員を辞職させられ、大学の講義もやめさせられ、政府は二度にわたり国体明徴の声明をさせられることになったわけです。この『国体の明徴』というのは、国体について云々しているものではなく、『天皇機関説は日本の国体にはそぐわないもので違法・違憲なものだ』という宣言です。

このような宣言を裁判所がするのでもなく議会がするのでもなく、政府がするというのもある意味おかしなものですが、とにかく攻撃側はそこまで政府を追い詰めて完全な勝利を得たことになります。あとはこの声明をバックに、天皇機関説支持者あるいは容認派である自分達の攻撃相手をじわりじわり攻め立てていけば、いずれ辞めざるを得なくなる、というシナリオです。

昭和11年に入ると永田鉄山を殺した相沢中佐の軍法会議も始まり、この軍法会議は憲法に従って公開で行われたため、何のことはない、天皇主義者たちの格好の宣伝の場となってしまったようです。そこでのスローガンは、国体の真姿顕現とか昭和維新とか、2.26の時の青年将校の行っているのと同じです。

この動きを裏で煽っていた真崎大将は、昭和10年に教育総監をやめさせられ負けたように見えたものの、この天皇機関説問題で陸軍その他を動かし、黙って待っていればいずれは政府がニッチもサッチも行かなくなって天皇の組閣の大命が自分の所に来るに決まっている、と待っていたようです。

そこで2.26事件が起こってしまいました。事件を起こした青年将校達にしてみれば、自分達の側の勝利は間違いない。しかしこのままいけば、それが現実にはっきりして陸軍主体政権ができ昭和維新が行われ、国民が大喜びしている時自分達はその中にはいられず、遠く満州から指をくわえてそれを眺めているしかないということで、多分寂しかったんでしょうね。

ほんのちょっとフライングだけれど、自分達の手で天皇機関説の元老・重臣たちを殺害し、昭和維新が始まる所に立ち会い、国民的な歓呼の声に参加した後で満州に行きたい、と思ってしまったようです。事件の経過を見る限り、自分達の行動が失敗する可能性はほとんどない、と思っていたようです。

結局青年将校達のクーデターは、最後まで天皇機関説を守り続けた天皇によって失敗となりましたが、その結果は実質的にクーデターに成功したのと同じことになりました。陸軍では青年将校達の支持した皇軍派は完全に排除され相手側の統制派の天下となりましたが、皇軍派の代わりに統制派が軍主導政権を作ることになり、最終的に軍独裁政権ができる所まで行きました。

軍は天皇主権説と天皇機関説の両方を手に入れ、国民や政府に対しては天皇主権説で天皇に対する一切の反対を封じ、天皇に対しては天皇機関説で自分達に対する反対を封じることになりました。2.26事件の殺戮は、元老・重臣・政界・財界を震え上がらせ、軍に反抗する勢力はなくなってしまいました。国民のほとんど全てが天皇主権説になってしまった中、最後までガンとして天皇機関説を持ち続けたのが天皇ですが、天皇の自己規定は『現人神としての天皇』というよりも、『明治天皇の指示としての帝国憲法に従うのが天皇の役割』と考えていたようです。

で、軍が天皇主権説と天皇機関説の両方を手に入れてしまったので、もはやだれも軍の暴走を止めることができなくなりました。この状況を合法的に変えることができるのは、軍が自らこの二つのオールマイティーのカードを放り投げる時しかない、ということになりました。そこで昭和20年8月、軍人内閣の総理大臣の鈴木貫太郎と天皇との協力で、御前会議でそのような『軍(を代表する総理大臣)がオールマイティーのカードを投げ捨てる』というパフォーマンスを演じ、天皇直裁でポツダム宣言受諾に辿り着いたということです。

軍主導で天皇機関説が排撃され、国体明徴の声明で政府も天皇機関説を否定し、ほぼ全ての国民がそれに従っても、最後まで『天皇機関説の天皇』であり続けた天皇は立派といえば立派ですが、ちょっと柔軟性に欠けるのかも知れませんね。とは言え『機関』としての天皇は、それ位がちょうど良いのかも知れません。

2.26事件の青年将校が望んでいた天皇親政は、結局陸軍統制派による軍事独裁政権になったわけですが、それを見ることなく処刑された青年将校達は、自分達が望んでいたことが実現不可能な夢物語だったと知ることなく、自分達を罪人にした人達、自分達を裏切った人達を恨んで死んでいったというのは、かえって幸福なことだったのかも知れません。

その分、生き残ってしまった青年将校達は辛かったでしょうね。