2.26事件と天皇機関説の関係、だいたい分かったのでまとめておきます。
元となった本はかなりたくさんになるので紹介するのは省略します。
天皇機関説は、明治の終りから大正の初めにかけて問題になった時、それは憲法学者同士の、憲法の解釈に関する議論でした。で、負けた方が『負けました』と宣言するなどという話ではありませんから、はっきりどっちが勝った、という訳にはいきませんが、その後の経緯からすると『天皇機関説の完勝』ということで、昭和の頃には殆ど誰でもが天皇機関説は当然の標準的な憲法解釈になっていたようです。
そのような状況で、昭和10年の少し前になって、この天皇機関説が再度問題になりました。今度は憲法学説の議論ではなく政治的な動きの小道具として天皇機関説が使われたということになりました。そのため表面的には憲法の議論のように見えますが、実質的には憲法の解釈とは無関係の『政争の具としての議論だ』ということを押さえておく必要があります。
昭和10年当時、国会では(いつものことですが)政党は内閣を倒し、あわよくば自分達が内閣を作る立場に立ちたいと思っていました。枢密院では副議長の平沼騏一郎が議長の一木喜徳郎を追い落として、自分が議長になろうとしていました。陸軍では、いわゆる皇道派が統制派を排除しようとしていました。また皇道派も統制派もどちらも、軍の行動の自由のために元老・重臣・政府・議会を自分達の言いなりにしたいと思っていました。
このような状況下、攻める方からすると、相手のほとんどは天皇機関説の支持者あるいは少なくとも天皇機関説を容認する立場でした。そこで天皇機関説の問題を口実に美濃部達吉を攻めたて、天皇機関説の違法性・違憲性を政府および国民全般に認めさせ、これをベースに今度はその天皇機関説の支持者あるいはシンパである政府・一木枢密院議長・陸軍の統制派、その他元老・重臣・財界その他を排除しようとした、というわけです。
特に陸軍では在郷軍人会を利用して騒ぎを大きくし、その騒ぎが抑えきれない、世論を抑えきれないということで、次第に政府および美濃部達吉を追い詰めて行ったわけです。
結局、美濃部達吉は著書を発禁処分にされ、貴族院議員を辞職させられ、大学の講義もやめさせられ、政府は二度にわたり国体明徴の声明をさせられることになったわけです。この『国体の明徴』というのは、国体について云々しているものではなく、『天皇機関説は日本の国体にはそぐわないもので違法・違憲なものだ』という宣言です。
このような宣言を裁判所がするのでもなく議会がするのでもなく、政府がするというのもある意味おかしなものですが、とにかく攻撃側はそこまで政府を追い詰めて完全な勝利を得たことになります。あとはこの声明をバックに、天皇機関説支持者あるいは容認派である自分達の攻撃相手をじわりじわり攻め立てていけば、いずれ辞めざるを得なくなる、というシナリオです。
昭和11年に入ると永田鉄山を殺した相沢中佐の軍法会議も始まり、この軍法会議は憲法に従って公開で行われたため、何のことはない、天皇主義者たちの格好の宣伝の場となってしまったようです。そこでのスローガンは、国体の真姿顕現とか昭和維新とか、2.26の時の青年将校の行っているのと同じです。
この動きを裏で煽っていた真崎大将は、昭和10年に教育総監をやめさせられ負けたように見えたものの、この天皇機関説問題で陸軍その他を動かし、黙って待っていればいずれは政府がニッチもサッチも行かなくなって天皇の組閣の大命が自分の所に来るに決まっている、と待っていたようです。
そこで2.26事件が起こってしまいました。事件を起こした青年将校達にしてみれば、自分達の側の勝利は間違いない。しかしこのままいけば、それが現実にはっきりして陸軍主体政権ができ昭和維新が行われ、国民が大喜びしている時自分達はその中にはいられず、遠く満州から指をくわえてそれを眺めているしかないということで、多分寂しかったんでしょうね。
ほんのちょっとフライングだけれど、自分達の手で天皇機関説の元老・重臣たちを殺害し、昭和維新が始まる所に立ち会い、国民的な歓呼の声に参加した後で満州に行きたい、と思ってしまったようです。事件の経過を見る限り、自分達の行動が失敗する可能性はほとんどない、と思っていたようです。
結局青年将校達のクーデターは、最後まで天皇機関説を守り続けた天皇によって失敗となりましたが、その結果は実質的にクーデターに成功したのと同じことになりました。陸軍では青年将校達の支持した皇軍派は完全に排除され相手側の統制派の天下となりましたが、皇軍派の代わりに統制派が軍主導政権を作ることになり、最終的に軍独裁政権ができる所まで行きました。
軍は天皇主権説と天皇機関説の両方を手に入れ、国民や政府に対しては天皇主権説で天皇に対する一切の反対を封じ、天皇に対しては天皇機関説で自分達に対する反対を封じることになりました。2.26事件の殺戮は、元老・重臣・政界・財界を震え上がらせ、軍に反抗する勢力はなくなってしまいました。国民のほとんど全てが天皇主権説になってしまった中、最後までガンとして天皇機関説を持ち続けたのが天皇ですが、天皇の自己規定は『現人神としての天皇』というよりも、『明治天皇の指示としての帝国憲法に従うのが天皇の役割』と考えていたようです。
で、軍が天皇主権説と天皇機関説の両方を手に入れてしまったので、もはやだれも軍の暴走を止めることができなくなりました。この状況を合法的に変えることができるのは、軍が自らこの二つのオールマイティーのカードを放り投げる時しかない、ということになりました。そこで昭和20年8月、軍人内閣の総理大臣の鈴木貫太郎と天皇との協力で、御前会議でそのような『軍(を代表する総理大臣)がオールマイティーのカードを投げ捨てる』というパフォーマンスを演じ、天皇直裁でポツダム宣言受諾に辿り着いたということです。
軍主導で天皇機関説が排撃され、国体明徴の声明で政府も天皇機関説を否定し、ほぼ全ての国民がそれに従っても、最後まで『天皇機関説の天皇』であり続けた天皇は立派といえば立派ですが、ちょっと柔軟性に欠けるのかも知れませんね。とは言え『機関』としての天皇は、それ位がちょうど良いのかも知れません。
2.26事件の青年将校が望んでいた天皇親政は、結局陸軍統制派による軍事独裁政権になったわけですが、それを見ることなく処刑された青年将校達は、自分達が望んでいたことが実現不可能な夢物語だったと知ることなく、自分達を罪人にした人達、自分達を裏切った人達を恨んで死んでいったというのは、かえって幸福なことだったのかも知れません。
その分、生き残ってしまった青年将校達は辛かったでしょうね。