マルクスの『資本論』と『経済学批判』-その4

いよいよ「経済学批判」が終わって、「資本論」に戻ってきました。また始めから読み直しです。

「経済学批判」も本文が終わった所でそのあと山程の付録があるのですが、とりあえずそれは無視です。

目次を見ると「資本論」の文庫本1冊目は「経済学批判」とほぼ同じ内容になっています。「経済学批判」のあと、マルクスが大英博物館の図書室にこもって勉強した成果が「資本論」にどのように反映されているかも楽しみです。

ここでは「経済学批判」の最後の方の部分について、コメントします。

前回のコメントから、内容はマルクスの貨幣論になっているんですが、貨幣論については未だに「これだ!」という納得できる理論が見当たりませんから、マルクスの貨幣論にそれほど期待しているわけではありません。
むしろこの難問に対して、マルクスがどのように四苦八苦しているか見てみたいというのが興味の対象です。

読んでいて、途中で「支払手段」という言葉が出てきました。その前に出てきている「流通手段」という言葉に対して使われているようです。その内容は商品を買うのにお金と引き換えに買うような場合、そのお金のことを商品を流通させる手段だということで、「流通手段」と言っているようです。

商売が発達してくると、商品の売買は必ずしも商品とお金の交換ということではなく、商品の引渡しと代金の支払いが別々になっていきます。この段階で、商品の引渡しとは独立した「代金の支払いのために使われるお金」のことを「支払手段」と言っているようです。

代金を「前払いしたり後払いにしたり」というのはごく当たり前の話なので、わざわざ区別しないでもと思うのですが、理論的(あるいは哲学的)には、このように区別した方が扱やすいんでしょうね。

アダムスミスの「国富論」は、どちらかと言うとイギリスを中心とした経済が発展している国の、実際の経済活動を考察しているという内容なんですが、マルクスは経済活動がまだ発展していないドイツの人で、なかなか実際の経済活動を見ることができないので、その代りたくさんの経済学の本を読んで、その本の内容を哲学的に分析し、批判するというのがこの「経済学批判」ということなんだろうなと思います。その対象となる本はイギリス、フランスだけじゃなく、ギリシャ・ローマ時代の本まで入っていますので、大変です。私には哲学的な議論より実際の経済活動の方が面白いので、「国富論」の方が好きです。

この「経済学批判」もそうですが、「資本論」も最後に山ほどの索引が出ています。それも「事項索引」「人名索引」「文献索引」に分れていて、「資本論」の文庫本9冊目はその半分が索引になっています。

大英博物館にこもって本を読みまくった効果か、「経済学批判」に比べて「資本論」の方の文献の数は本当に膨大なものです。
仮に引用するために引用している部分だけを読むとしても、とてつもない時間がかかるだろうなと思わせるような文献の数です。

で、その引用文献の著者の中に、『マルティン・ルター博士』という人が出てきました。あれっ?と思ったのですが、年代その他から、これはやはりあの宗教改革のルターのようです。普通日本ではルターと呼び捨てで、博士なんてタイトルをつけることがないので、なおさらちょっと不思議な気がします。同じドイツの人ということなのでしょうが、私は今までマルクスとルターという組合せについては全く知らなかったので、新しい発見です。

ルターは「経済学批判」では何ヵ所か登場するだけですが、「資本論」の方ではかなりの回数登場してるのが、索引を見るとわかります。

「世界貨幣」という部分で、各国の貨幣は国境を超えては通用しないので、貨幣は金または銀の地金に変えて通用させなければならない。金や銀だけが世界貨幣なんだ・・・なんてことが書いてあります。
今のように、ドル・ユーロ・ポンド・円・元など世界各国のペーパーマネーがそのままで各国で通用する時代を見たら、マルクスは何て言うんでしょうね。

本文の最後の(注)に、

『貨幣の資本への転化は、第3章すなわちこの第1篇の終わりをなす章で考察されるであろう。』

となっているんですが、この本にはその第3章がありません。その代り「資本論」の方にはこの「貨幣の資本への転化」が第2篇となって、文庫本の1冊目にはちょうどそこまでが入っています。

まずは「資本論」文庫本1冊目、「経済学批判」と読み比べてみましょう。楽しみですね。

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