Archive for 7月, 2014

戦争

火曜日, 7月 29th, 2014

今年は日清戦争がはじまってから120年、日露戦争が始まってから110年、第一次大戦がはじまってから100年の記念の年です。

第一次大戦については、以前『世界恐慌』という本でも読んだし、第一次大戦中のドイツの飢餓については『カブラの冬』という本でも読んでいます。

安倍内閣が集団的自衛権の行使容認の閣議決定をし、国会の閉会中審議で2日にわたって衆参両院で審議が行われ、その様子がテレビで実況中継されていたので会社でもテレビを付けっぱなしにして見ていました(とは言えまじめに聞くほどのものではないので他のことをしながら時々見ていた、位のものですが)。

で、そうしながら戦争についていろいろ考えたことを書いてみます。

まず第一にこの集団的自衛権の行使に反対する人達の意見で良く見られるものが、集団的自衛権の行使容認は即座に日本が戦争できる国になり、日本が戦争する国になり、すぐにでも戦争が始まってしまうかのような意見です。

戦争というのはそんなに単純なものではなく、戦争をしようと思ったからと言って戦争になるわけのものでもなく、戦争をしないようにしようと思っても戦争をしないわけにいかなくなったりするものです。

戦争というのは軍隊がするもので、戦争が始まると真っ先に死ぬのは軍人ですから軍人というのは基本的に戦争に反対です。軍人でない人がいくら戦争をしたがっても、軍人が動かなければ戦争にはなりません。

また逆に、日本が戦争ができない国であれば戦争にならない、というのもまるで無茶な話です。どこかの国が本気で日本と戦争をするつもりで爆弾を打ち込んでくれば、当然戦争になってしまいます。

次に、日本の存在感についての無感覚にもあきれ果ててしまいます。第二次大戦後丸焼け丸裸になった日本列島と無条件降伏させられた日本軍が、そのまま続いているかのような感覚しかないというのは驚くべきことです。

戦後60数年、今や日本は経済大国であると同時に軍事大国でもあり、世界でも有数の強い軍隊を持っているという感覚がまるでない、ということには驚いてしまいます。日本という国を仮に外から見たとすれば、次のように見えるのではないでしょうか。すなわち、その昔ヤクザの出入りで何人か人を殺してしまった男が刑務所から出てきて、『自分はもう改心したから人殺しなど絶対にしません』等と言いながら、気がついたらいつの間にか拳銃とか日本刀とか機関銃とかまで持っていじくり回している。そんな男がいくら『もう絶対に人殺しなどしません』なんて言っても、かえって恐ろしい。それだけの武器を持ってるんだったら『いざとなったら受けて立つぞ』位のことを言った方がよっぽど安心できる。・・・というようなものじゃないでしょうか。

自分は武器を持っていて、必要になったら使うよ、と言えば、周りの国も『じゃ、仲良くしよう』と言うことができますが、武器をいじくり回しながら『絶対に使わない』なんて言っていたら危なっかしくて仲良くしようということができない、ということです。

軍事力を持つ国がそれ相応の存在感を自覚し、周囲にそれを認識させておくことが戦争を回避するのに大いに役立ちます。

第一次大戦でドイツが負けたのは、ロシアとイギリスの出方を見誤ったからです。ロシアとイギリスがあんなに早く戦争に参加するとは思っていなかったので、その前にさっさとフランスを負かして戦争を終わらせてしまえる、とドイツは思ってしまったわけです。

第二次大戦でもドイツはイギリスとアメリカの反応を見誤っています。ドイツが思っていたのより早くイギリスが反ドイツで戦争に参加してしまい、それに引きずられて(日米戦争が始まったこともありますが)アメリカも本気で戦争に参加してしまったので、ドイツは負けてしまったということです。戦争が始まって、チャーチルが一番熱心にやったことが、アメリカを戦争に引っ張り出すことだったようですから。

戦争が始まる前にロシアにしてもイギリス・アメリカにしても、ドイツが戦争を始めたら自分達はどう動くかということを明確にしていたらドイツも負ける戦争を始めることはなかったでしょう。

戦争というのは大きな損害をもたらすものですから、負ける戦争、負けるかもしれない戦争は絶対にしてはならないものです。絶対に勝てるという確信があって初めて戦争を始めることになります。

ドイツの場合は戦争の相手の出方を見誤って、絶対勝てると思って戦争を始めたのですが、例外的に絶対に勝てるわけがないのに戦争を始めてしまう、珍しい国があります。それが第二次大戦の日本です。イギリスやアメリカを相手に戦争を始めてしまったのには訳があります。すなわちその前に2度も、絶対に勝てない戦争に勝ってしまったという経験があるからです。

日清戦争では、日本は中国に勝てるわけはなかったのですが、日本は中国と戦うのでなく李鴻章と戦い、李鴻章に勝った所で日本は中国に勝ったことになってしまって、戦争が終わりました。

日露戦争でも日本はロシアに勝てるわけはなかったのですが、日本海軍がバルチック艦隊をやっつけ、満州でロシア軍に勝った所でアメリカをはじめとした諸外国が止めに入って、日本がロシアに勝ったことになってしまったのです。

このような経験があるので、もしかすると途中で誰かが止めに入ってくれるかも知れないから、その前に部分的に勝っておけば戦争に勝ったことになるかもしれないと始めてしまったのが、太平洋戦争です。

もうひとつ、戦争に反対する人が、『自分は人を殺したくないから戦争に反対する』とか『自分は殺されたくないから戦争に反対する』なんて言っているのを見ると、本当に戦争のことがわかってないんだなと思ってしまいます。戦争というのは、自分が人を殺したり殺されたりということではなく、自分にとって大切な人が理不尽に殺されるということです。

戦争は犯罪ではないので、戦争で誰かが殺されたとしても、犯人を処罰することはできません。自分にとって大切な人が理不尽に殺され、これからも殺され続けるかも知れないという時に、『戦争反対』のプラカードを持って行進するだけで我慢できるか、ということです。

凶悪犯罪で人が何人も殺されたり、お酒や覚せい剤や脱法ハーブで酔っぱらって何人もの人を車ではねてしまったり、そんな時遺族は決まって『犯人を極刑にしてもらいたい』と言い、マスコミもそういう雰囲気をあおり立てます。

『極刑』というのはオブラートに包んだ言い方で、普通の言葉で言えば『犯人を殺してくれ』ということです。このように被害者の遺族が『犯人を殺せ』と言い、周りでマスコミも『犯人をぶっ殺せ』とあおりたてる、こんな状況で『これは戦争だから何人殺しても犯罪にならないよ』なんてことになったら、『警察なんかに任しちゃおけない、犯人は俺がぶっ殺す』という人が当然出てきます。マスコミはそれを英雄だと祭り上げます。このようにして、ついさっきまで反戦だ!と叫んでいた人達が今度は『敵をぶっ殺せ、鬼畜米英』と言って大騒ぎをする。これが戦争です。

太平洋戦争に至る過程で朝日新聞や毎日新聞が率先して戦争を煽り立て、国民を戦争に導いたことを忘れてはいけません。

反戦を主張する人は『自分は人を殺したくない』と言うのではなく、『自分は親・子・兄弟・妻・夫・恋人が理不尽に殺されたとしても、その犯人を殺したくない』と言うことができるのでしようか。その覚悟がない反戦は、単なる言葉遊びのようなものです。

『デフレーション』

火曜日, 7月 29th, 2014

権丈先生のホームページで紹介されていた(学生さんに読めと言っていた)、吉川洋『デフレーション』という本を読みました。

まともな経済学者がいわゆるマネタリストのデフレ対処(退治)案に反論しているもののようなのですが、読んでみました。

私はもともとマネタリストの、『お金を増やしさえすればデフレなんか一挙に解決できる』なんて議論は何の根拠もない空論だと思っていたので、いちいちその議論にクビを突っ込む気持もなかったのですが、この本を読んでみてやはり経済学の専門家としては空理空論と分かっていても、それが世の中に蔓延している以上、まじめにそれを空理空論と証明し否定しないといけないようで、学者というのも大変だなと思いました。

で、その貨幣数量説を否定している所なのですが、やはり空理空論をまっとうな論理で否定するのはなかなか難しいようです。とにかく相手は『理論』ではなく『信仰』で、お金を増やせばデフレはなくなる、そうなるに決まっている、などと言って(信じきって)理論的な根拠を示していないんですから、それを論理的に攻めていって反証する、というのはとてつもなく困難です。
せっかくの反論ですが、これで今までマネタリストだった人が本気で改心するとは思えません。

私にとってはその空理空論を否定する所はどうでも良くて、むしろ吉川さんがデフレをどのように理解していて、どのように対処したら良いと考えているのかの方に興味があります。

その部分については、まず『価格の決定』という所でカウツキの考え方が説明されています。これは一次産品の値段は需要と供給のバランスで決まる、消費材の値段は(原料費を含む)費用+α で決まる、というもののようで、この両方の考え方は別々には知っていたのですが、これを商品の性格によって区分してマクロ経済学を組立てるという話は初めて知ったので、この結果どういう話になるのか、興味がわきました。

このカウツキという人はケインズとは独立に、ケインズの一般理論が出るよりよりちょっと前にほぼ同じような議論をした人で、発表した論文がポーランド語で書かれていたので誰にも読んでもらえなかった、という人のようです。その後イギリスに渡ってケインズやその仲間の人達ともかなり交渉があったようです。

この人の本は2冊日本語になっているので、まずはそれを読んでみることにしました。ケインズの一般理論はケインズ流のわかりにくい言葉で書かれているので、一般理論を理解するにはカウツキの本を読んだ方がわかりやすいという人もいるようですから、楽しみです。

そのあとでいよいよ吉川さんのデフレーション理論ですが、今の日本のデフレーションは賃金が下がったことが原因だ、ということです。欧米では景気が悪くなると賃金が下がるのでなく雇用が減るんだけれど、日本では雇用を維持して賃金を下げるんだ、ということです。このような視点の議論は初めてなので、じっくり考えてみる必要があるなと思いました。

この本の中で、面白い言葉がいくつか紹介されていました。
ひとつは『ブラック』(金融工学で有名な、オプション価格のブラック・ショールズの式の、あのブラックです)の言った、
  【価格の水準そしてインフレーションは、それを決定するものが文字通りない、と私は考えている。それは人々がそうなるだろうと思う水準に決まるのだ。期待によって決まるのだが、期待に合理的なルールがあるわけではない。】
という言葉です。

もうひとつがこの本の最後に引用されているグルーグマンの言葉ですが、彼は過去30年のマクロ経済について
  【spectacularly useless at best, and positively harmful at worst】 すなわち【良くいえばまったく役に立たない、悪く言えば有害なものだった】(これは吉川さんの訳ですが、学者らしい上品な訳です。私が訳すとしたら、【良く言ったとしてもまるっきり何の役にも立たないものだった、悪く言えば実際有害なものでしかなかった】というくらいになると思います。)
と言ったとのことです。

日本のデフレについて『お札を大量に印刷してヘリコプターでばら撒けば良い』と言って大騒ぎを起こしたその張本人が平然とこういうことを言ってしまうんですから、アメリカ人というのは何ともはや・・・という所です。

いずれにしても、こういった、ケインズをちゃんと勉強したまともな経済学者がここにもいたんだ、と嬉しくなりました。

新書版よりちょっとだけ大きな版の、200ページちょっとの本ですし、それほどがちがち理論的な本でもありませんから、もし興味があったら読んでみてください。

集団的自衛権

月曜日, 7月 7th, 2014

集団的自衛権の閣議決定に関してKENさんといつものようにロクでもない議論をしていたら、この集団的自衛権の閣議決定に関する反対にも、いくつものものがあるのではないか、と思いあたりました。

1つは集団的自衛権が行使できるようになる、そのことに対する反対です。集団的自衛権が行使できるようになると外国の戦争に日本も参加するようになり、日本が戦争することになるから反対だ、というものです。

2つ目は集団的自衛権そのものではなく、憲法解釈の変更に反対だ、というものです。これは憲法が変更してはいけないものだから、なおさら憲法解釈の変更で実質的に憲法を変えるなんてことをしてはいけない、というものです。

これと近いのですが、3つ目は内閣の憲法解釈を内閣が勝手に変えることに反対、というものです。国会の承認や裁判所の承認もなく、内閣が勝手に憲法解釈の変更を閣議決定するのはケシカラン、ということです。中には今回の閣議決定を、国会での可決、あるいは国会での強行採決だと思っている人もいるようです。

4番目は何であれ安倍総理大臣、あるいは自民党のやることは全て良くないことだから、集団的自衛権であろうと何であろうと無条件に反対、というものです。

5番目は2つ目とちょっと重複するのですが、自衛権の問題は憲法改正をするのが正しいやり方なので、憲法改正をしないで憲法解釈を変更するのは反対、というものです。2番目との違いは、2番目の反対は憲法の変更に反対だから憲法解釈の変更にも反対ということで、5番目の反対は、さっさと憲法改正をすべきなのにそれをしないで憲法解釈の変更など中途半端なことをしていることに反対、ということです。

6番目、公明党が言っていた反対というのは、憲法解釈の変更をしなくても個別的自衛権という言葉の解釈を変えれば、集団的自衛権もかなりの部分個別的自衛権に含ませてしまうことができ、個別的自衛権という言葉の解釈を変えるのは憲法解釈を変えるわけではないので、それで済むのであれば憲法解釈の変更に反対、というものです。

現行の憲法解釈で個別的自衛権は認められている。その個別的自衛権の言葉の解釈を変更するというのは憲法解釈の変更になるんじゃないのかなという気もしますが、憲法解釈の文言は変えないんだから憲法解釈の変更ではない、と言い張ることもできるのかも知れません。

普通、今回の集団的自衛の閣議決定に反対する人は、上の1~4の反対なのですが、多分そのうちのどれなのか十分明確には意識されていないでゴッチャになってしまっているような気がします。

KENさんは4番目の反対のようで単純明快なのですが、いろいろ理屈を付けたい人は1~4をごっちゃにして反対だ、ということのようです。

落着いて、自分の反対は何番目の反対なんだろうと考えてみると、頭の整理ができるんじゃないかなと思うんですが、残念ながら私の意見など聞く耳持ってくれないでしょうね。

『作物にとって雨とは何か』

月曜日, 7月 7th, 2014

私の良く行く市立の図書館で、本を借りたり返したりするカウンターのすぐ近くに特別の書棚があり新しく入った本が並べられているんですが、その隣に特集コーナーが設けられています。月替わりでテーマを決め、そのテーマに関連する本を本のジャンルにかかわらず何冊か集めて展示するというもので、テーマとしては「太陽」だとか「暦」だとか「江戸時代の生活」だとか、さまざまです。

で、先月のテーマが「雨」だったようで、関連する本が並んでいました。「雨」というテーマですから雨はどうやってできるのかという気象学の本とか、雨をテーマにした詩やエッセイの本が多かったのですが、一冊だけ変わった本を見つけました。
 『作物にとって雨とは何か-「濡れ」の生態学』という本です。要するに雨が降って農作物が濡れることによって何が起きるのか、という話がいろいろ書いてあります。

農学の本ですから、こんなコーナーで見つけない限り自分から農学関係の書棚に行くことはまずないな、と思いながら借りて読みました。

この本はまず雨についてまとめています。大気中にある水蒸気は年に40回回転し(1年間に降る雨の量は大気中にある水の40倍ということ)、地球上に降る雨量は平均して1年に1,000mm、すなわち1mで、日本は比較的雨が多くて平均して1年に2m、これも土地により倍とか半分になるので結局1mから4mくらいの雨や雪が降るということです(この本は昭和62年=1987年に出版されたものですが、今もあまり変わらないと思います)。

次に日本では1mm以上雨の降る日が、これも地方によって違いますが、だいたい年に100日くらい、0.5㎜以上となるとだいたい年に150日位になるので、要するに2日ないし3日に一度は雨(や雪)が降るんだということです。

植物の生育に水分は不可欠なのは分かっているのですが、多くの研究は根から吸収する土の中の水分に注目しているので、このような葉に降る雨、葉が雨にぬれることに関する研究は(少なくともこの当時は)少ないようです。

で、雨に濡れると何が起きるか。まず花の中の栄養分が雨にしみだして流れてしまう。1ヘクタールの畑で作物が1年に10~20トン収穫できるけれど、それに対して雨によって葉から流れ出して地面に落ちる栄養分は1年に1トン位だ、ということです。また葉にはいろんな細菌がついていて、雨に濡れるとそれが1,000倍に増え、乾くとまた1/1,000に減るなど、非常にダイナミックな話です。

さらに雨に濡れるということを、葉が雨に濡れるけれど地面はそのままの場合、葉は濡れないで地面だけ濡れる場合(降った雨が流れてきて地面が濡れる場合)、水浸しになって地面も作物も水の中に入ってしまう場合(水没してしまうくらいの大雨、洪水)などについて、作物(植物)がどう変化するか調べています。

根の所の土地に水分があることは植物にとって大事なことですが、その水分が多過ぎると酸素不足になって根が効率的な有酸素呼吸ができず、非効率な無酸素呼吸をするために根に蓄えた養分の炭水化物やたんぱく質を大量に消費してしまうとか、しばらく雨に濡れたあと雨が止むと、葉の表面を保護していたものが雨で流されてしまって葉の表面から急激に水分がなくなってしまうけれど、根の方が酸素不足で土の中から水分を吸収して葉まで押し上げるエネルギーが不足すると水分が足りなくなって葉がしおれてしまい、ひどい場合には枯れてしまう(長雨のあと、水はたっぷりあるのに葉が枯れる)など、植物のダイナミックな姿が書かれています。

研究書ですから様々に条件を変えて実験し、根・茎・葉の重量を計り、乾燥させた重量を計って栄養分が増えたか減ったか、水分でどこの重さがどれだけ水増しされているか等調べています。多分今ではもっと精緻な研究がいろいろなされているんでしょうが、むしろ原始的な研究な分、素人にはわかりやすく面白いです。作物と雨に関する全体像を見せてくれ、動物と比べてどちらかと言うと静的なイメージのある植物の生態が、実は非常にダイナミックなものなんだと教えてもらいました。

大分古い本ですが、今でも新本で手に入るようです。興味があったら見てみて下さい。

農村漁村文化協会(農文協) 自然と科学技術シリーズ
『作物にとって雨とは何か-「濡れ」の生態学-』
昭和62年7月30日刊 木村和義著