今年は日清戦争がはじまってから120年、日露戦争が始まってから110年、第一次大戦がはじまってから100年の記念の年です。
第一次大戦については、以前『世界恐慌』という本でも読んだし、第一次大戦中のドイツの飢餓については『カブラの冬』という本でも読んでいます。
安倍内閣が集団的自衛権の行使容認の閣議決定をし、国会の閉会中審議で2日にわたって衆参両院で審議が行われ、その様子がテレビで実況中継されていたので会社でもテレビを付けっぱなしにして見ていました(とは言えまじめに聞くほどのものではないので他のことをしながら時々見ていた、位のものですが)。
で、そうしながら戦争についていろいろ考えたことを書いてみます。
まず第一にこの集団的自衛権の行使に反対する人達の意見で良く見られるものが、集団的自衛権の行使容認は即座に日本が戦争できる国になり、日本が戦争する国になり、すぐにでも戦争が始まってしまうかのような意見です。
戦争というのはそんなに単純なものではなく、戦争をしようと思ったからと言って戦争になるわけのものでもなく、戦争をしないようにしようと思っても戦争をしないわけにいかなくなったりするものです。
戦争というのは軍隊がするもので、戦争が始まると真っ先に死ぬのは軍人ですから軍人というのは基本的に戦争に反対です。軍人でない人がいくら戦争をしたがっても、軍人が動かなければ戦争にはなりません。
また逆に、日本が戦争ができない国であれば戦争にならない、というのもまるで無茶な話です。どこかの国が本気で日本と戦争をするつもりで爆弾を打ち込んでくれば、当然戦争になってしまいます。
次に、日本の存在感についての無感覚にもあきれ果ててしまいます。第二次大戦後丸焼け丸裸になった日本列島と無条件降伏させられた日本軍が、そのまま続いているかのような感覚しかないというのは驚くべきことです。
戦後60数年、今や日本は経済大国であると同時に軍事大国でもあり、世界でも有数の強い軍隊を持っているという感覚がまるでない、ということには驚いてしまいます。日本という国を仮に外から見たとすれば、次のように見えるのではないでしょうか。すなわち、その昔ヤクザの出入りで何人か人を殺してしまった男が刑務所から出てきて、『自分はもう改心したから人殺しなど絶対にしません』等と言いながら、気がついたらいつの間にか拳銃とか日本刀とか機関銃とかまで持っていじくり回している。そんな男がいくら『もう絶対に人殺しなどしません』なんて言っても、かえって恐ろしい。それだけの武器を持ってるんだったら『いざとなったら受けて立つぞ』位のことを言った方がよっぽど安心できる。・・・というようなものじゃないでしょうか。
自分は武器を持っていて、必要になったら使うよ、と言えば、周りの国も『じゃ、仲良くしよう』と言うことができますが、武器をいじくり回しながら『絶対に使わない』なんて言っていたら危なっかしくて仲良くしようということができない、ということです。
軍事力を持つ国がそれ相応の存在感を自覚し、周囲にそれを認識させておくことが戦争を回避するのに大いに役立ちます。
第一次大戦でドイツが負けたのは、ロシアとイギリスの出方を見誤ったからです。ロシアとイギリスがあんなに早く戦争に参加するとは思っていなかったので、その前にさっさとフランスを負かして戦争を終わらせてしまえる、とドイツは思ってしまったわけです。
第二次大戦でもドイツはイギリスとアメリカの反応を見誤っています。ドイツが思っていたのより早くイギリスが反ドイツで戦争に参加してしまい、それに引きずられて(日米戦争が始まったこともありますが)アメリカも本気で戦争に参加してしまったので、ドイツは負けてしまったということです。戦争が始まって、チャーチルが一番熱心にやったことが、アメリカを戦争に引っ張り出すことだったようですから。
戦争が始まる前にロシアにしてもイギリス・アメリカにしても、ドイツが戦争を始めたら自分達はどう動くかということを明確にしていたらドイツも負ける戦争を始めることはなかったでしょう。
戦争というのは大きな損害をもたらすものですから、負ける戦争、負けるかもしれない戦争は絶対にしてはならないものです。絶対に勝てるという確信があって初めて戦争を始めることになります。
ドイツの場合は戦争の相手の出方を見誤って、絶対勝てると思って戦争を始めたのですが、例外的に絶対に勝てるわけがないのに戦争を始めてしまう、珍しい国があります。それが第二次大戦の日本です。イギリスやアメリカを相手に戦争を始めてしまったのには訳があります。すなわちその前に2度も、絶対に勝てない戦争に勝ってしまったという経験があるからです。
日清戦争では、日本は中国に勝てるわけはなかったのですが、日本は中国と戦うのでなく李鴻章と戦い、李鴻章に勝った所で日本は中国に勝ったことになってしまって、戦争が終わりました。
日露戦争でも日本はロシアに勝てるわけはなかったのですが、日本海軍がバルチック艦隊をやっつけ、満州でロシア軍に勝った所でアメリカをはじめとした諸外国が止めに入って、日本がロシアに勝ったことになってしまったのです。
このような経験があるので、もしかすると途中で誰かが止めに入ってくれるかも知れないから、その前に部分的に勝っておけば戦争に勝ったことになるかもしれないと始めてしまったのが、太平洋戦争です。
もうひとつ、戦争に反対する人が、『自分は人を殺したくないから戦争に反対する』とか『自分は殺されたくないから戦争に反対する』なんて言っているのを見ると、本当に戦争のことがわかってないんだなと思ってしまいます。戦争というのは、自分が人を殺したり殺されたりということではなく、自分にとって大切な人が理不尽に殺されるということです。
戦争は犯罪ではないので、戦争で誰かが殺されたとしても、犯人を処罰することはできません。自分にとって大切な人が理不尽に殺され、これからも殺され続けるかも知れないという時に、『戦争反対』のプラカードを持って行進するだけで我慢できるか、ということです。
凶悪犯罪で人が何人も殺されたり、お酒や覚せい剤や脱法ハーブで酔っぱらって何人もの人を車ではねてしまったり、そんな時遺族は決まって『犯人を極刑にしてもらいたい』と言い、マスコミもそういう雰囲気をあおり立てます。
『極刑』というのはオブラートに包んだ言い方で、普通の言葉で言えば『犯人を殺してくれ』ということです。このように被害者の遺族が『犯人を殺せ』と言い、周りでマスコミも『犯人をぶっ殺せ』とあおりたてる、こんな状況で『これは戦争だから何人殺しても犯罪にならないよ』なんてことになったら、『警察なんかに任しちゃおけない、犯人は俺がぶっ殺す』という人が当然出てきます。マスコミはそれを英雄だと祭り上げます。このようにして、ついさっきまで反戦だ!と叫んでいた人達が今度は『敵をぶっ殺せ、鬼畜米英』と言って大騒ぎをする。これが戦争です。
太平洋戦争に至る過程で朝日新聞や毎日新聞が率先して戦争を煽り立て、国民を戦争に導いたことを忘れてはいけません。
反戦を主張する人は『自分は人を殺したくない』と言うのではなく、『自分は親・子・兄弟・妻・夫・恋人が理不尽に殺されたとしても、その犯人を殺したくない』と言うことができるのでしようか。その覚悟がない反戦は、単なる言葉遊びのようなものです。