Archive for 2月, 2018

『新聞の嘘を見抜く』 徳山 喜雄 -(2)

水曜日, 2月 21st, 2018

さて前回は『プロローグ』の所のコメントで終わってしまいましたが、今回はいよいよ本文に入ります。
第一章は『「ポスト真実」時代の新聞』というタイトルです。まずはpost-truthという言葉の説明から入ります。

2016年のオックスフォード大学の出版局によるWord of the Yearになったこの言葉の意味を
 『世論形成において客観的事実の説明よりも、感情に訴える力が影響する状況』(15頁)とか、
『世界は客観的な事実や真実が重視されない時代、換言すれば「自ら望んでいるストーリー」だけを読みたいという時代に踏み込んだかのようである。』(16ページ)と説明しています。

このような意味づけは確かに良く見かけるものですが、これもどちらかと言えばマスコミやジャーナリズムの世界で使われている説明だと思います。

私の考えではこの言葉は、『もはや新聞が報道する「真実」も専門家と称する人達が主張する「真実」も殆ど信用されなくなり、本当の「真実」を求めて他のメディア、他の人達の言うことに耳を傾ける人が多い』ということだろうと思います。

新聞人からすると『自分達が報道しているのが真実だ』というスタンスを変えるわけにはいかないので、新聞の報道する真実が信頼されなくなっていることを、読者が真実を求めなくなっている、とすり替えて説明しているもののようです。
まぁ長期間マスコミにいると、自らの存在を否定するような話を簡単には受け入れられないんでしょうが。

で、この言葉を軸に、イギリスのEU離脱の国民投票と、アメリカ大統領選のトランプ氏当選の報道についてコメントしています。

EU離脱の国民投票では、多分離脱反対の結果になるだろうと(欧米のメディアを含めて)誰でもが思っていたことも『「日本のメディア」に流れる空気はEU残留派の勝利であった』(17頁)などと、わざわざ「日本のメディア」と限定し、日本のメディアだけがダメだったかのように書いてあります。

そして結果として離脱賛成派の勝利について、『EU離脱報道には欠陥があり、世論をミスリードした』(18頁)と書いています。ここで著者お得意の新聞各紙読み比べをやっているんですが、『毎日新聞が「離脱だ」と言い切っているのは間違いだ。読売新聞が「英国の脱退方針が決まった」と書いてあるのは冷静で正確だ』(18頁)と書いてあるのにはあきれ果てますね。法的拘束力のない国民投票でもちろん離脱が決まったわけでもないですが、脱退方針が決まったわけでもないんですから、毎日新聞も読売新聞も同じようなものです。やはり朝日新聞に長くいたため論理的思考能力が欠けているんでしょうね。

次はアメリカ大統領選のトランプ勝利ですが、『当初は泡沫候補扱いでまともに相手にされていなかった不動産王のトランプ氏が共和党の大統領候補になり、その果てに大統領になってしまった。殆どの既存メディアはこれを予測できず、産経が言うようにまさに「敗北」した。換言すれば、嘘を報じてきたのである、ひどい誤報である。』(21頁)

『嘘』と言いながらすぐに『誤報』と言い換えて、嘘の印象をやわらげる、というのも一つのテクニックかも知れません。
で、トランプさんの選挙運動中のマスコミとのやりとりについて、『メキシコ不法移民を「麻薬密売人」「強姦犯」と決めつけ、国境に壁を築き、この建設費はメキシコに払わせるとするトランプ氏をメディアは厳しく批判したにも関わらず、その効果はなく、酷評した相手に逆手に取られ逆襲されることになった。批判した相手を結果として応援するような報道ならしない方が良いということになる。』(23頁)

この最後の文章、ここではからずも本音が出てしまいましたね。ネットの世界で良く言われる『報道しない自由』というものです。安倍さんに都合の良いこと、自民党にとって都合の良いことは無視して報道しない。安倍さんに不利なこと、自民党にとって不利なことは針小棒大に膨らませて大きな記事にする。日本では憲法で言論の自由が保証されていて、その中には嘘をつく自由も含まれると解釈されていますから、この『報道しない自由』も憲法で保証されているんでしょうか。これをこのようにあからさまにしてしまっては、報道の自殺のようなものです。新聞の報道は新聞社にとって都合のいいことのみの報道だ、と言っているようなものですから。
まさかこんなことを、これほど明確に書いてしまうとは、何ともはやビックリです。

ここでなぜか清沢洌が登場し、そのジャーナリズム批判が紹介されています。ここで著者が書いてあるのも何となくおかしな話なのですが、コメントは実際に清沢洌の書いたものを読んでからにしたいと思います。

いろんな人を引き合いに出して、自分の言いたいことはこんな人もこんな人も言っている、という言い方をするのは良くあるやり方ですが、ここでキッシンジャーが登場して、読売新聞のインタビューに答えて『(インターネットによって情報を記憶する必要がなくなった。)記憶しなければ人は考えなくなる。その結果知識を受容する能力が著しく損なわれ、何もかも感情に左右されるようになり、物事を近視眼的にしか見られなくなってしまった』(30頁)なんて文章が引用されていたりします。これは電子メディアと民主主義の関係を語ったという注がついていますが、著者がITやインターネットが嫌いだ、というだけのことのようです。

このキッシンジャーの言葉については、それじゃぁ紙や字がない方が良かった(紙や文字がない時代には、口承で覚えるしかなかったんですから)ということなのか、新聞などない方が良いと言いたいのか、とツッコミを入れたくなります。どうもこの本の著者は、気が付かないまま自己否定するのが好きなようです。

ということで、今回はこのへんまで。

『新聞の嘘を見抜く』 徳山 喜雄

月曜日, 2月 19th, 2018

この本は新聞がフェイクニュースを量産し、新聞が信用されないようになっており、インターネットがマスコミに代わって様々なニュースを提供するようになっている状況を踏まえ、インターネットには新聞以上にフェイクニュースが溢れており、やはり新聞の方が信頼できるメディアだ、ただし新聞のニュースも正しく理解するためにはそれなりの新聞の読み方があるので、その新聞の読み方を説明し、インターネットに溢れる嘘に惑わされる事なく、また新聞にも登場するフェイクニュースもきちんと見極めることができるようにする為にはどうしたら良いか、というようなことを宣伝文句にする本です。

著者は長く朝日新聞に所属し、AERAにも所属していた人という人ですから、最初からこんな本を読むつもりはなかったのですが、先日かなり久しぶりにたまたま本を買うために本屋さんに行った所この本を見つけ、パラパラめくってみた所、この本の著者の意図とは全く違う視点で読んでみると面白いかも知れないなと思いました。

朝日新聞の記事など紙面で読むことは殆どありませんし、ネットで読むような時も日々様々なニュース記事に紛れて一過性の読み飛ばしになってしまいますが、このように印刷されて本になっているとじっくり読むことができますし、本に赤字で書き込みしてツッコミを入れることもできます。この本を材料に、朝日新聞流のフェイクニュースの作り方を分析してみようと思いました。

もちろんこんな読み方は著者の意図とはまるで違った話になってしまうんですが、本が印刷されて販売されてしまった以上、その本を買ってどう料理するかというのはこっちの勝手です。

ということで、買うつもりのなかったこの本を買って読んでみることにしました。

で、まずは『プロローグ』から順番に読んでいくんですが、その2ページ目(本の8ページ)に
『日本において現代の新聞の原型ができたのは明治初めで、150年ほどにわたってほぼ同様のビジネスモデルで貫かれてきた。この過程で出来上がった報道スタイルは作為あるいは不作為の嘘をつき、社会や読者を翻弄してきたという歴史もある。』

なんと、日本の新聞の歴史は嘘・フェイクニュースの歴史だ、と真正面から言っています。これには本当にびっくりしたんですが、この部分についてコメントしている記事は見たことがありません。本の前書きの部分なので、ちゃんと読んでいる人はあまりいないのかも知れません。

もしこの本の主張がこの通りだとすると、私の意図とは違ってしまうので困ったな、と思ったのですが、やはり本文に入ると、その内容は私の想定した通りのもので、インターネットにはファイクニュース・嘘が満ち溢れている、新聞の記事にも時として間違いやミス・誤報はあるけれど嘘をついているわけではない、インターネットの嘘に騙されずに本当の事を知りたければ新聞を読むしかない、という事が書いてあります。

これからじっくりとコメントしていきたいと思いますが、その前にこのプロローグの終りの所に、新聞の読み方に関して『私は複数の新聞を読み比べ、切り口の違い、使っているデータ(事実)の違い、解釈の違いなどを丹念にみていくことを薦めている』(本の10ページ)と言っています。

これはまぁある意味その通りだとは思うのですが、どうしてその対象を新聞に限定してしまうのか、複数の新聞だけでなく他のインターネットの記事も同様に読み比べる方がさらに良いのではないか、と思うのですが、著者は『インターネット=嘘』という前提に立っているので『インターネットの記事も』なんてことは思いもしないんでしょうね。その代わり、新聞の方では朝日・毎日・東京新聞もちゃんとした新聞として取り扱っているようです。

という所で、次からはいよいよ本文に入ります。

まともな本だと思って読むと何の意味もない本ですが、私のように読むつもりになるとかなり面白い本だと思います。そのような人におススメです。

『帳簿の世界史』 ジェイコブ・ソール

木曜日, 2月 1st, 2018

先日、簿記・会計の本を二冊読んだ話をしました。

すると友人が、今、税理士さんの間で話題になっている本がある、と教えてくれたのがこの『帳簿の世界史」という本です。

良く見たら、本のタイトルが誤訳です。

元のタイトルは『The Reckoning – Financial Accountability and the Rise and Fall of Nations』というもので、直訳すれば
『(国の決算の)見積り -(国の)財政の説明責任と国々の盛衰』
というくらいの意味です。

本の中では『複式簿記は大切なもので、簡単ではないけれど、これをちゃんとする国は栄え、できない国は亡びる』というテーマを、いわゆる西洋流の世界史をからめて繰り返し繰り返し唱えています。

とはいえちゃんとした複式簿記の説明があるわけでもなく、具体的な帳簿の説明があるわけでもなく、簿記や会計に関する本だと思って読むとガッカリするかも知れません。元のタイトルにもあるように、国の財政状況を(複式簿記を使って)きちんと把握し、その内容を(国王や国民に対して)きちんと説明できるようにすることがいかに大事なのか、ということを、イタリア→スペイン→オランダ→フランス→イギリス→アメリカと、世界史(西洋史)の流れに沿って説明している本です。様々なトピックスが盛りだくさんに出てくるので、それなりに面白い本ではあります。

この本で、実はアメリカの植民地開発が文字通りベンチャービジネスであり、出資者に会計報告するためにアメリカでは植民の初期の頃から簿記についてはきちんと対応していた人が多かったという話がありましたが、この『ベンチャービジネス』という視点は面白かったです。

本の最後に付録として日本の事情について『帳簿の日本史』というタイトルで編集部の作った6ページばかりの小論が付いています。編集部がまとめているのですが、速水融・山口英男・由井常彦というそうそうたる3氏に協力してもらったということで、この部分はなかなか面白いものでした。律令制が始まった時代からの流れを概説し、江戸時代には日本にもちゃんと複式簿記のシステムがあり、そのため明治になって西洋流の複式簿記が入ってきたとき、それへの移行もあまり困難なく実施できたという話も入っています。

挿絵もかなり多く入っており、私にとっては世界最初のアクチュアリーといわれるオランダのヨハン・デ・ヴィットが、その兄と一緒に国民に私刑で殺され逆さ吊りにされている場面の絵(オランダ、アムステルダムの国立美術館蔵の『デ・ヴィット兄弟の私刑』という絵です)は初めて見るもので、興味深いものでした。

西洋史の流れを国の決算・債務の増減という立場からまとめ直した、といった本です。
なかなか面白い読み物です。