さて、雇用関数の章に続くのは「物価の理論」、そして「景気循環に関する覚書」という章です。
「物価の理論」では物価がどのように決まるのか検討するのですが、その中でケインズはいわゆるミクロ経済学とマクロ経済学に分けるという議論をしています。
『経済学を「価値と分配の理論」と「貨幣の理論」に分けるのは間違っている。
個々の産業や企業が一定の資源をどのように配分するかという理論(ミクロの理論)と、全体としての産出量と雇用の理論(マクロの理論)に分けるのが正しい。
というのも、個々の産業や企業を問題にしている間は貨幣のことを考えなくても良いけれど、全体について考える時は貨幣経済についての完全な理論が必要となるからだ。
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貨幣の重要性は本質的に現在と将来をつなぐ精妙な手段であり、貨幣の言葉に翻訳するのでなければ変化する期待が現在の活動にどのような影響を及ぼすか、議論を始めることさえできない。
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現実世界の問題というのは、以前の期待(見込み)はともすれば失望を免れず、将来に関する期待は我々の今日の行為に影響を与える(そして多分また失望させられる)、という問題だ。
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また二つに分けるとすると、「定常均衡の理論」と「移動均衡の理論」に分けることができるかも知れない。』
というような話のあと、経済学という学問の本質について
『我々の分析の目的は間違いのない答を出す機械ないし機械的操作方法を提供することではなく、我々の問題を考え抜くための組織的系統的な方法を獲得することだ。
複雑化要因を一つ一つ孤立させることによって暫定的な結論に達したら、今度は再びおのれに返って考えを巡らし、それら要因間の相互作用をよくよく考えてみなければならない。
これが経済学的思考というものである。
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経済分析を記号を用いて組織的に形式化する擬似数学的方法が持つ大きな欠陥は、それらが関連する要因相互の完全な独立性をはっきりと仮定し、この仮定がないとこれらの方法が持つ説得力と権威がすべて損なわれてしまうところにある。
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最近の「数理」経済学の大半は、それらが依拠する出発点におかれた諸仮定と同様単なる絵空事に過ぎず、その著者が仰々しくも無益な記号の迷路の中で現実世界の複雑さと相互依存とを見失ってしまうのも無理からぬことである。』
と言っています。
今の経済学者の先生方に、もう一度これらの言葉を熟読玩味してもらいたいと思うのですが、多分殆どの先生方は「そんなことわかってる。わかった上でちゃんとやってるよ」と答えるんでしょうね。あるいは、「そんなことを言っていたら時間ばかりかかってしまって誰からも評価してもらえないよ」とでも言うんでしょうか?
ケインズは、物価は需要や貨幣量や金利やいろんなものと関連して決まっていくもので、そう簡単に割り切れるものじゃないよ、ということを具体的に細かく説明してくれています。ここもあとでじっくり整理しながら読みなおす必要がありそうです。
次の景気循環の所でケインズは
『景気循環は複雑きわまりない現象であって、それを完全に解き明かすには我々の分析で用いられた諸要素を総動員する必要がある。』
と言っています。とはいえ【総動員すれば解き明かすことができる】などとはもちろん言っていませんが。
ケインズは
『景気循環は資本の限界効率の変化によって引き起こされると見るのが一番だと私は考えている』
と書いていますが、「資本の限界効率」というのは前にも書いたように、「投資の利回りの見込み」のことですから、要するに【いろいろな投資について、皆がどれ位儲かりそうかと考える、その見込みが変化することによって景気循環が起こる】ということです。
ケインズは景気循環のメカニズムについて議論していますが、もちろんそのメカニズムを理解することが目的ではなく、否応なしに起こる景気循環のサイクルの中で下向きになる時に恐慌にならないようにするにはどうしたら良いか、また上向きの好況の時にそれをできるだけ長持ちさせるにはどうしたら良いかという問題意識でこのメカニズムを考えています。これもアメリカ発の世界的な大恐慌を受けての現実的な問題意識です。
いずれにしても景気というのは本当に循環するのか、単に上がったり下がったりするということではないのか【「循環」と「上下」というのは何が違うのか】あたりから、このテーマはじっくり考えて見る必要がありそうです。
それは後のお楽しみにして、「一般理論」残りはあと2章です。