Archive for 6月, 2013

総理大臣の問責決議案

金曜日, 6月 28th, 2013

国会があれよあれよのうちに終わってしまいましたね。
あの、総理大臣の問責決議案、というのは何だったんでしょうね。

社民、生活、みどりの共同提案、ということですが、見るからに小沢さんがバックで糸を引いているような顔ぶれですね。

この問責決議案に対して民主党も乗ってしまった、というのは、今度の参議院選に向けて自民党に格好の攻撃材料を与えてしまった、ということになりますね。もっともさらに鳩山さんがわけのわからないことを言って、なおさら自民党の民主党攻撃に関してはネタは有り余るほどですが。

鳩山さんも6月で民主党をやめる、ということのようですが、今はまだ民主党員じゃないんでしょうか? あの発言に対して細野さんはかなり怒ったそぶりを見せていましたが、民主党としては何の処分もできないんでしょうね。

それにしても今度の参議院選が終わったらそれこそほとんど存在がなくなってしまうような社民、生活、みどりの共同提案にほかの野党がみんな乗ってしまった、というのはどうなんでしょう。

輿石さんにしてみれば、参議院選が終われば参議院でも民主党の出番はなくなるのでこれが最後の見せ場、ということなのかもしれませんが、それを止められない民主党のトップもなんともふがいないですね。

仮に自民党がこの問責決議案の可決を受けて、『民意を問う』なんて言って衆議院を解散して衆参同時選挙、なんてことになったらどうするつもりだったんでしょう。

この前の衆議院選でかろうじて生き残った民主、維新、生活の議員さんたちもほとんど振り落されて衆参両院とも完全に自民党の独り舞台になっていたかもしれませんね。

安倍さんと石破さんのコンビはそんなに乱暴なことはしないでしょうが、これが小泉さんだったらそんなシナリオも十分ありだったかもしれませんね。

いずれにしてももう待ったなしの参議院選、まずは野党がどれくらいの候補を立てることができるのか、というところから、見ものですね。

ケインズ・・・17回目

木曜日, 6月 27th, 2013

さて、雇用関数の章に続くのは「物価の理論」、そして「景気循環に関する覚書」という章です。

「物価の理論」では物価がどのように決まるのか検討するのですが、その中でケインズはいわゆるミクロ経済学とマクロ経済学に分けるという議論をしています。
 『経済学を「価値と分配の理論」と「貨幣の理論」に分けるのは間違っている。
 個々の産業や企業が一定の資源をどのように配分するかという理論(ミクロの理論)と、全体としての産出量と雇用の理論(マクロの理論)に分けるのが正しい。
 というのも、個々の産業や企業を問題にしている間は貨幣のことを考えなくても良いけれど、全体について考える時は貨幣経済についての完全な理論が必要となるからだ。
・・・・
貨幣の重要性は本質的に現在と将来をつなぐ精妙な手段であり、貨幣の言葉に翻訳するのでなければ変化する期待が現在の活動にどのような影響を及ぼすか、議論を始めることさえできない。
・・・・
現実世界の問題というのは、以前の期待(見込み)はともすれば失望を免れず、将来に関する期待は我々の今日の行為に影響を与える(そして多分また失望させられる)、という問題だ。
・・・・
 また二つに分けるとすると、「定常均衡の理論」と「移動均衡の理論」に分けることができるかも知れない。』

というような話のあと、経済学という学問の本質について
 『我々の分析の目的は間違いのない答を出す機械ないし機械的操作方法を提供することではなく、我々の問題を考え抜くための組織的系統的な方法を獲得することだ。
 複雑化要因を一つ一つ孤立させることによって暫定的な結論に達したら、今度は再びおのれに返って考えを巡らし、それら要因間の相互作用をよくよく考えてみなければならない。
 これが経済学的思考というものである。
・・・・
 経済分析を記号を用いて組織的に形式化する擬似数学的方法が持つ大きな欠陥は、それらが関連する要因相互の完全な独立性をはっきりと仮定し、この仮定がないとこれらの方法が持つ説得力と権威がすべて損なわれてしまうところにある。
・・・・
 最近の「数理」経済学の大半は、それらが依拠する出発点におかれた諸仮定と同様単なる絵空事に過ぎず、その著者が仰々しくも無益な記号の迷路の中で現実世界の複雑さと相互依存とを見失ってしまうのも無理からぬことである。』
と言っています。

今の経済学者の先生方に、もう一度これらの言葉を熟読玩味してもらいたいと思うのですが、多分殆どの先生方は「そんなことわかってる。わかった上でちゃんとやってるよ」と答えるんでしょうね。あるいは、「そんなことを言っていたら時間ばかりかかってしまって誰からも評価してもらえないよ」とでも言うんでしょうか?

ケインズは、物価は需要や貨幣量や金利やいろんなものと関連して決まっていくもので、そう簡単に割り切れるものじゃないよ、ということを具体的に細かく説明してくれています。ここもあとでじっくり整理しながら読みなおす必要がありそうです。

次の景気循環の所でケインズは
 『景気循環は複雑きわまりない現象であって、それを完全に解き明かすには我々の分析で用いられた諸要素を総動員する必要がある。』

と言っています。とはいえ【総動員すれば解き明かすことができる】などとはもちろん言っていませんが。

ケインズは
 『景気循環は資本の限界効率の変化によって引き起こされると見るのが一番だと私は考えている』
と書いていますが、「資本の限界効率」というのは前にも書いたように、「投資の利回りの見込み」のことですから、要するに【いろいろな投資について、皆がどれ位儲かりそうかと考える、その見込みが変化することによって景気循環が起こる】ということです。

ケインズは景気循環のメカニズムについて議論していますが、もちろんそのメカニズムを理解することが目的ではなく、否応なしに起こる景気循環のサイクルの中で下向きになる時に恐慌にならないようにするにはどうしたら良いか、また上向きの好況の時にそれをできるだけ長持ちさせるにはどうしたら良いかという問題意識でこのメカニズムを考えています。これもアメリカ発の世界的な大恐慌を受けての現実的な問題意識です。

いずれにしても景気というのは本当に循環するのか、単に上がったり下がったりするということではないのか【「循環」と「上下」というのは何が違うのか】あたりから、このテーマはじっくり考えて見る必要がありそうです。

それは後のお楽しみにして、「一般理論」残りはあと2章です。

ケインズ・・・16回目

火曜日, 6月 11th, 2013

さてケインズは「一般理論」のまとめを書いた後、まずは再び古典派の議論をやっつけに行きます。

「一般理論」の頭の所で古典派をやっつけた時はたいした武器も持っていなかったので、賃金と雇用の関係についてだけ議論し、賃金を下げれば雇用は(失業がなくなるまで)いくらでも増やせるというのはおかしいじゃないか、と言っていたのですが、今度はもう「一般理論」の議論の枠組みがあります。

賃金が下がれば消費が下がり、所得も下がって雇用も減ってしまうじゃないかという議論で、改めて古典派の議論をコテンパンにしています。19章の付論の『ピグー教授の「失業の理論」』というところで、
【これまで長々とピグー教授の失業理論を批判してきたが、それは何も彼が他の古典派経済学者以上に批判を受けてしるべきだからではなく、彼の試みが、私の知る限り、古典派の失業理論を正確に記述しようとした唯一の例だと思われるからである。】
と書いてあります。こんなのを読むと、他の古典派の先生方は何をしていたんだろうと思ってしまいます。

そしてケインズは
【要するに古典派理論がその最も強靭な表現を見たこの理論に対して反論を提出しておくことは、私に課せられた責務であったのだ。】
と締めくくっています。

これで終わってしまっては古典派に文句をつけただけになってしまいますので、次の20章「雇用関数」という所で、ケインズはケインズ流の「雇用はどのように決まるか」という理論を展開します。ここはかなり数式(それも差分の式だったり微分の式だったりします)が多いので、面倒くさいかも知れません。

でもいかにもケインズらしく、何らかの原因で需要が増えた時、まずは在庫品がはけ、次に生産設備に余裕がある所で雇用が増え、次に新規の設備投資のために雇用が増え、新しい設備を動かすのに雇用が増えるというダイナミックなプロセスを見ながら、企業や労働者が時に思い違いをしたり、過度な期待をしたり失望したりしながら変化していく様をしっかり捉えています。

最後にインフレとデフレについて、これは単なる逆向きの現象ではなく非対称であることについて
【完全雇用に必要とされる水準以下への有効需要の収縮は、物価とともに雇用を低下させるのに対し、この水準を超える有効需要の拡大は、物価に影響を及ぼすだけだ。】
とか、
【労働者は賃金が低すぎるときは働くことを拒否することができるが、賃金が高いときに雇用を(企業に)強制することはできない。】
とか、面白いことを言っています。

ケータイとスマホ

火曜日, 6月 11th, 2013

図書館の新しく入った本コーナーに、「しくみ図解 通信技術が一番わかる」という本があったので、借りてきました。

この手の、ごく大雑把ではあるけれどちょっと技術的な簡単な説明をしてくれる本はなかなか重宝しています。

で、この本は「通信技術」というより「通信のしくみ」というような感じで、携帯電話・無線通信・有線通信・テレビ放送等がどのような仕組みで行なわれているのか、簡単に解説してあります。

この本でケータイとスマホの何が違うのか、という所が良くわかったので紹介します。

ケータイというのは「携帯電話」という独自のネットワークの中での通話サービスで、日本でとてつもなく高度に発展してしまった結果、他の国はついて来ることができず競争をあきらめてしまったものということです。

その代わりに他の国では、PCの無線LANによるインターネット接続を進化させ「スマホ」というものを作り上げたということのようです。

ですからケータイもスマホも「電話もできるしインターネットもメールもできる」と言いながら、その仕組みはまるで異なっているということです。

ケータイは携帯電話のネットワークにつながって機能し、そのネットワークの中からインターネットのネットワークにつながることにより、インターネットやメールを使うことができます。

これに対してスマホの方は最初からPCのインターネットへの無線LANによる接続を小型化したもので、インターネットもメールも最初からつながっていて、電話はインターネットのIP電話の機能を使っているんだ、ということです。

この話でようやくケータイとスマホの間のギャップが良く理解できました。スマホはケータイの進化形ではなくPCの進化形で、ケータイと同じようなことが色々できるように工夫したものでしかないということです。で、AppleはPCの会社なので、ケータイは作れないけどi-Phoneは作れるということですね。i-Phoneもi-PadもどちらもPCだからよく似てる、ということですね。

私はケータイもほとんど通話専用で、スマホというのは電話もできる高性能ゲーム機だと思っていますから、これでなおさら安心してケータイが使える限りはスマホに移る必要はなさそうだなと考えています。