Archive for 11月, 2018

『漫画 君たちはどう生きるか』 羽賀 翔一

月曜日, 11月 26th, 2018

先週『君たちはどう生きるか』の読書感想文を投稿しましたが、それを書くときネットで検索して、あらすじを紹介しているページを見付けました。読んでみると私の読んだ『君たちはどう生きるか』とはちょっと違っていました。

このネットのページ
https://toyokeizai.net/articles/-/218524
を見直してみると、これは池上彰さんがテレビでこの本を紹介し解説した番組をまとめたもののようです。

で、そこで紹介されているあらすじは元々の『君たちは・・・』の本の中味ではなく、それを漫画化した『漫画 君たちはどう生きるか』の方のあらすじのようです。で、その漫画も家にあったと思って、早速読んでみました。

漫画化やドラマ化、映画化によって話が原作とは違ってしまうというのは良くある話ですが、この漫画も原作とは大分違っています。

原作者の吉野源三郎が戦後の再版に際してせっかく話を戦後に合わせて修正したのに、漫画ではわざわざ元の旧制中学の話に戻しています。その上で主人公の友人達が上級生に制裁を受ける話が、原作では下級生の軟弱なのに対して上級生が風紀粛清のために何人かの下級生を殴るという話だったのに、この漫画版では主人公の友人が同級生にいじめられているのを、もう一人別の友人がそのいじめっ子に立ち向かっていって取っ組み合いになり、それが先生に見つかっていじめっ子共々叱られたのを根に持ったいじめっ子がその兄である上級生に話をして、主人公の友人に仕返しをするという話になっていて、何ともつまらない話になっています。

原作では上級生が勝手に正義をふりかざして風紀粛清の名の下に暴力をふるうという話で、暗に軍部批判をしているような話なのが、漫画版では単なるいじめっ子の仕返しの暴力というつまらない話になってしまっています。まあ今となってはいじめの問題の方が軍の正義を振りかざす暴力の問題より大きな問題なんだ、ということなのかも知れませんが。

で、池上さんは原作を読んでいるのかどうか分かりませんが、このテレビ番組の主旨もあるのか原作の解説ではなくこの漫画版の解説をしているようです。

というわけで、ついでに漫画版の『君たちはどう生きるか』も読んでしまったわけですが、こちらの方はお勧めしません。

『君たちはどう生きるか』 吉野源三郎

木曜日, 11月 22nd, 2018

この本が評判になっているというので、読んでみました。
それなりに面白かったのですが何となく違和感があり、その原因をしばらく考えていたのですがすっきりしません。著者によるとこの本は昭和12年に発刊され、版を重ねた後、戦争中は出版することができず、戦後再び出版するようになり、現在多くの版で出版されているのは37年に改訂され、さらに昭和42年に改訂されたもののようです。

もしかするとこの改訂作業が違和感の原因かも知れないと思い、昭和12年の最初の版を借りて読んでみました。昭和12年となるとさすがになかなかなく、公立の図書館では国会図書館・京都府立図書館・鳥取県立図書館にあることが分かり、地元の図書館で頼んだら鳥取県立図書館の蔵書を借りることができました。世の中便利になったものです。

昭和12年というのは、昭和10年の天皇機関説事件、昭和11年の2.26事件、昭和12年の盧溝橋事件、『国体の本義』の発行、という時代です。戦後、太平洋戦争の敗戦を受けた空想的反戦平和主義により軍国主義的、愛国主義的、天皇主義的な内容が大幅に書き換えられたのではないか、と予想したのですが大外れでした。

昭和12年というのは上述のいろいろな出来事にもかかわらず、まだこのような本の出版が可能だったということになります。

書き換えは

  • 昭和12年が昭和30年代あるいは40年代になったことにより、物価が200倍になり、カツレツが10銭から20円、コロッケが1個7銭から2つで15円になった。
  • 主人公コペル君の友人のガッチンのお父さんが「予備の陸軍大佐」だったのが「元陸軍大佐」になった。
  • 主人公コペル君の名前が潤一君から純一君になった。
  • 主人公コペル君の友人の水谷君のお父さんが『実業界で一方の勢力を代表するほどの人で方々の大会社や銀行の取締役・監査役・頭取など主な肩書だけでも10本の指では足りない』ような人から単なる『有名な実業家』になった。
  • 主人公コペル君が友人のガッチンや水谷君をもてなすためにやるラジオの野球の実況中継(の真似)が『早慶戦』だったのが『巨人対南海の日本シリーズ』になった。
  • 主人公達は中学1年生でガッチンや水谷君が上級生に殴られる話で、昭和12年版では旧制の中学で、殴った上級生は中学5年生だとなっているのが、新しい版では上級生としか書いてないので、新制中学の3年生に殴られたようになっている。

ということで、コペル君のお父さんは大きな銀行の重役だった人で2年前に亡くなり、それに伴いコペル君とお母さんは召使いの数を減らし郊外のこじんまりした家に引っ越し、ばあやと女中と4人で暮らしている、という所は変わっていません(女中はお手伝いさんに変わっていますが)。

私の予想した軍国主義的あるいは国家主義的な部分を戦後になって書き直した、あるいは削除したというような形跡は見当たりません。昭和12年版ですでに天皇制については殆ど触れていないし、国体についても何も書いてないし、軍人に対してもあまり遠慮しているような所はありません。戦後の空想的反戦平和主義ではありませんが、世界中の人が仲良くすれば素晴らしい世界ができるという空想的平和主義はしっかり書かれています。昭和12年という時点でまだこのような本を出版することができたんだというのは私にとっては意外でしたが、まだまだ大正から昭和初年にかけての自由主義的な雰囲気が残っていたということでしょうか。

私が感じた違和感というのは、昭和12年の元々の作品の一部だけをむりやり昭和30年代に書き換えたことによるものと、この昭和12年でまだまだ自由主義的な雰囲気が残っていたのに私が勝手に軍国主義的国家主義的な状況が進んでいたに違いない、と思い込んでいたことが原因だったようです。

ということで、なかなか面白い経験ができました。

昭和12年の版を読むのはちょっとメンドクサイかも知れませんが、今手に入る版とほぼ同じ内容のものが昭和12年、日中戦争が始まった後でもまだ書かれ、出版されていたんだという意識で読んでみるのも面白いかも知れません。

『刀の明治維新』 尾脇秀和

水曜日, 11月 7th, 2018

この本も図書館の新しく入った本コーナーでみつけたものですが、面白い本でした。

豊臣秀吉の『刀狩り』は有名なんですが、『豊臣氏に代わった徳川氏は刀狩令における武器の「所持」の禁止政策を全く継承しなかった』という説明で、そうだったのか、とヒックリ返ってしまいました。江戸時代に百姓も町人も、博打打ちもヤクザも皆、刀を持っていたのがこれで良くわかります。それにしても秀吉の『刀狩り』は有名ですが、その後の『全く継承しなかった』というのは、聞いた覚えがないなと思いました。

で、江戸時代に『名字帯刀』という制度が定着し、それが明治の『廃刀令』で終わったのですが、その具体的意味が丁寧に説明されています。

すなわち徳川の世の中になり『刀狩り』が継承されなかった結果、武士も百姓も町人も好き勝手に刀を持つようになった。関ケ原も大阪冬・夏の陣も終わり、大きな戦争もなくなり、刀は武器ではなくファッションの一部になったということです。

で、いわゆる旗本奴(はたもとやっこ)や町奴(まちやっこ)と言われる人達を中心に、ファッションとしての帯刀が大はやりし、見栄えを良くするために『棒のような刀』と称されるように、日本刀の特徴である反りをほとんどなくし、また長さを極端に長くし、鞘の色やその他の装飾も派手にした刀が大流行した、ということのようです。

で、その後派手な格好を禁止する服装規定として、武士は刀(かたな)と脇差(わきざし)の2つを差していなければいけない、武士以外の人については2本差してはいけない、というルールができたということです。その武士の差す2つの刀のうち、一方を刀(かたな)と呼び、もう一方を脇差と呼び、武士でない者が差す1つの刀を脇差と呼ぶということで、刀(かたな)と脇差とは物としては全く差異がなく、武士以外が差すなら脇差とし、武士が2本差す時、一方を刀(かたな)と呼ぶならもう一方を脇差と呼ぶというだけのことだということです。で、武士以外の人については2本差してはいけないというだけで、1本を差す分には何の規制もないということです。

こうなると武士の2本差しというのがステータスシンボルになり、武士でないけれど、そこらの一般庶民とは別の存在なんだと主張したい(医者とか儒学者・儒医とか大庄屋とか大工の棟梁とか修験道の山伏とか陰陽師・神主とか御用町人・御用商人などの)人が何とかして2本差しで武士に準ずる存在だとみせびらかそうとしたのが、いわゆる『名字帯刀ご免』という制度です。幕府や藩から特別に許可を得て、武士でないのに武士と同様の2本差しをする、ということです。この帯刀御免もケースバイケースで様々な条件がついていて、その内容だけでも面白いものです。

一方武士以外の方は、脇差1本だけであれば好きなように差すことができ、これでヤクザも相撲取りも博打打ちも自由に刀を差すことができたわけです。

正月の挨拶回り・婚礼・葬式・お祭り等では普段刀を差さない人も刀を差すのが正式な礼装となり、男の子の成人の儀式として刀を差すというようにもなり、また旅に出る時は用心のために一本差して、という具合に、武士以外の世界でも脇差1本に関するルールが出来上がっていったようです。

で、この武士に準じる『帯刀御免』が次第に増えていって、ここで明治維新になり廃刀令になるのですが、ここでも面白い話があります。

明治新政府は旧藩の領地はとりあえずそのままにして、旧幕府の直轄地をまず自分で治めることになり、幕府により許可された『帯刀御免』を一旦全て取り消し、武士だけに(2刀の)帯刀を許すようにしました。この旧幕府の直轄地、はじめは鎮台と呼び、次に裁判所とか鎮撫総督府とよび、その後、府とか県とかよぶようになったんだけれど、裁判所といっても今の裁判をする所という意味ではなく、単に役所というくらいの意味で、府・県というのも行政区画としての府県ではなく単なる役所という意味で、これらすべてがその後の廃藩置県で整理され、旧藩の地域も含めて日本全体を整理し直してその行政区画を府県と呼び直した、なんて話も私は始めて知りました。

さてそうなると、明治以前に帯刀を許されていた人達が明治以降も帯刀を許してもらおうと動き出します。一方明治維新の文明開化で服装の洋装化が進み、洋装に2刀の帯刀というのはいかにも不都合なため、武士層を中心とした新政府の役人を中心に『帯刀しないことの許可』を求める動きが出てきて、最終的に全部ひっくるめて『廃刀令』で帯刀が全面的に禁止されるということになったわけです。

この廃刀令は『帯刀を禁ず』という形になっていますが、そこで帯刀とは2本差しのことだけでなく、脇差だけの1刀も帯刀だ、といって脇差だけの1本差しも廃刀令違反ということで、見つかったら脇差を取り上げられ没収されたということのようです。

江戸時代を通じて1本だけの脇差については何の規制もなかったのが、明治になっていきなり初めて全面的な禁止となったのでかなりの混乱が生じ、『先祖伝来の由緒ある脇差』を没収されて『何とかして返してくれ』なんて騒ぎも起こったようです。

で、この廃刀令を決めるにあたって有力な議論となったのが『切捨御免』という言葉で、『江戸時代は武士がえばっていて、百姓町人が武士に無礼なことをしたら武士は相手を即座に切り殺しても何のお咎めもないひどい世の中だった』ということなんですが、著者の調べによるとこの『切捨御免』という言葉は明治6年頃から急速に一般化した言葉で、江戸時代にはなかった言葉だということです。

福沢諭吉の『学問のススメ』でこの言葉が使われ、この本の流行と共にこの言葉も流行したということです。

もちろん江戸時代には『切捨御免』という言葉もなく、また幕末に日本中で志士という名前のテロリスト達が横行した時代を除けばこの『切捨御免』という実態も全くなかったようですから、この『切捨御免』というのはもしかすると福沢諭吉による空前絶後のフェイクだったのかも知れません。

ということで、この本は他にも面白いトピックス満載です。
お勧めします。