Archive for 5月, 2013

何もできなかった北朝鮮

火曜日, 5月 28th, 2013

ニュースというのは何か起こったことを取上げるので、起こらなかったことはなかなか報道されないですね。

これを改めて感じたのは、飯島さんが北朝鮮に行ったというニュースの時です。

日本中が(というより外国でも)大騒ぎになりましたが、その前にあれだけ大騒ぎをしてすぐにでも戦争をするようなふりをしていた北朝鮮が、あれだけアメリカ・韓国から挑発されたにもかかわらず結局何もできず、仕方なく短距離のミサイルを5、6発発射しただけで終わってしまいました。それも北東に向けてということですから、韓国や日本には向けないようにしたようです。

要するに、この「何もできなかった」というのが大きなニュースなのですが、「何も起きなかった」というのは、ニュースにしずらいんでしょうね。

飯島さんの訪朝も行ったときは大騒ぎで国賓待遇で迎え、ニュースで大騒ぎしましたが、帰りは見送りの映像はなかったような気がします。その分中国でも日本でも日本のマスコミが大騒ぎしていたようですが。

結局飯島さんを招待したのがあまりうまく行かなかったので、仕方なく金正恩は特使を中国に行かせて、今度は中国に泣きついて何とか6カ国協議の再開のために動いてもらおうとしたようですが、うまく行くでしょうか。

ここしばらくアメリカと韓国は協力して、軍事演習やら大統領の訪米などとことん北朝鮮を挑発したのに、北朝鮮は何もできず醜態を晒してしまいました。こうなったらもう誰も北朝鮮を恐がりません。それこそ水に落ちた犬は叩けとばかりに北朝鮮をトコトンいじめ抜くというのが、政治・外交の常道です。日本人はあまりこういうのは得意じゃありませんが、韓国・アメリカ・中国はこういうのが得意ですから、今後どこまで北朝鮮がいじめられるか、それに対して北朝鮮がどう対応するか、注目ですね。

読書感想文

火曜日, 5月 28th, 2013

私は子供の頃から本を読むのが好きでした。とはいえ、小学生の頃はお話とか物語の本ばかりですが時々病気になって学校を休むことになると、一日中好きなだけ本を読めるぞ!と嬉しかったものです。

で、一番イヤだったのが、読書感想文というやつです。

ハラハラドキドキしながらようやく読み終わり、あぁ面白かったと余韻に浸ってる時に感想文を書け・・なんて言われてもどう書いたら良いかもわからないし、もしこの感動を文章にするんだったら元の本を一語一句書き写すしかないじゃないか、と思っていたものです。

というわけで、小中高と国語の成績は5段階評価で2かせいぜい3くらいだったと思います。

中学になって小説を読むようになりましたが、それ以外の本も少しずつ読むようになりました。

最初に読んだのが中学の先生にもらった岡潔と小林秀雄の対談の新書です。岡潔というのは有名な数学者ですが、当時真宗系の新興宗教にはまっていたようで、その話が対談に出ていたのでそれをきっかけに仏教関係の本をいろいろ読むようになりました。

小林秀雄の方は当時すでに文庫で何冊もエッセイや評論が出ていたので、それを読むようになりました。その延長線上でその後同じスタイル(と私には思える)の山本七平や塩野七生など、かなり読みました。

小林秀雄というのは文芸評論家ということになっていますが、文芸評論というのはある意味読書感想文みたいなもので、それ以外でも絵を見たり音楽を聞いたり焼き物を見たりしての感想文がいろいろなエッセイになっています。要するに、このあたりで一級品の読書感想文を山程読んだということなのかも知れません。

読む方はかなり読みましたが、書くことはほとんどなかったように思います。

学校を卒業し就職し転職して、今のING生命に移ったあたりから、ようやく折に触れ文章を書くようになりました。

新設の生命保険会社でアクチュアリーという仕事をしている以上、いろんな人にいろんなことを説明しなきゃならないということで、その説明をするための文章をいろいろ書きました。これは今でも続いていて、業界紙の連載等仕事の一部にもなっています。また本を書いて出版したのも、ホームページで掲示板を作ったのも、この延長線上のことです。

で、今ブログに書いているケインズの何回目かを書こうとしていた時、はたと気が付いたのですが、これは読書感想文じゃぁないか!ということです。

もちろん国語の先生に見せたら「こんなもの感想文でも何でもない」と言われそうですが、私にとってはケインズを読んで本当に面白くて、その面白さについて書いておきたいと思って書いているわけですから、これは読書感想文以外の何物でもありません。

ということで、子供の頃あるいは大人になるまで(なっても)、どうがんばっても書けなかった読書感想文を、60歳を過ぎてようやく書けるようになったというのは、私にとっては感激でしばし感慨にふけっていました。

「60歳過ぎてようやくできるようになることを小学生にやれと言う方が間違っている」と言いたい所ですが、小学生でも立派な読書感想文を書く子供もいますから、この議論はまるで説得力がありません。

要するに、小学校で教えられることを60歳過ぎてようやくできるようになった私の学習スピードが、とてつもなく遅いというだけのことかも知れません。

でも子供の頃からずっとできなかったことが60歳過ぎてようやくできるようになる、ということは、長生きはするもんだ、ということですね。これからも何ができるようになるんだろうか、と考えると、楽しみです。

ライフネット生命・・・再び

金曜日, 5月 17th, 2013

ライフネット生命の社長さんが交代、ということです。
若い社長さんには頑張ってもらいたいと思います。
とはいえ、今まで社長だった出口さんが会長兼CEO、副社長だった岩瀬さんが社長兼COO、ということですからあまり大きな変化はないのかも知れません。

ところでその社長交代の発表と同時に、ライフネット生命の2013年3月期の決算も発表されています。この前ライフネット生命の株主の変更のニュースの時に、第3四半期の報告と決算の見込みについてコメントしたので、それを検証する意味でも決算を見てみました。

まず第一に、第3四半期で黒字になっていたので年度決算も黒字かと思ったのですが、最終的には赤字決算で締めくくったようです。とはいえ、経常損益で23百万円の赤字。ここから税金を差引いて当期純損失で126百万円の赤字ですから、それほど大した赤字ではありません。

この前のコメントで、この決算での113条の利益かさ上げは18億円くらいと見積もったのが、結局1,641百万円とちょっと小さくなりました。

また今後の113条の償却負担を毎年11億円程度と見積もったのが、1,060百万円ということになっています。

今回の決算報告では、この113条の仕組や今後5年間は償却負担だけが続くということがちゃんと説明してあります。そこまで見ればちゃんと分かってもらえるかもしれません。

ところで考えてみれば今期黒字になったりすると来期からまた当分赤字決算が続くので、赤字決算に逆戻りというよりは、ちょっとだけ赤字にしておいた方が好ましいということだったのかも知れませんね。

今まであまりなかった保険金の支払額が急増しているのは今後とも要注意だなと思いながら、いろいろ見ていたらビックリするような記載をみつけました。

責任準備金の計算について「保険数理上、より合理的かつ精緻に見積もることができる」ということで、計算方式を変更したということです。その見積変更による影響額が501百万円ということですから、もしこの変更がなかったら、赤字は5億円多かったということになります。良く確認したら、この変更は第3四半期の時から変更されていたようです。

この変更による影響は一度きりのものですから来期からはこのかさ上げ効果はなくなり、113条の償却負担だけが残ることになります。

今期と比較すると、113条で16億円のプラスだったのが11億円のマイナスになり、計27億円、さらに責準の5億円で、計32億円のマイナス効果がある、ということになりますから、表面的には大幅な赤字決算ということになりますね。この大幅赤字の説明をするのが新しい社長さんの仕事、ということになるのでしょうか。

でもこの113条の影響と責任準備金の変更の影響を除いてみると、経常損益で前期(2012年3月期)2,184百万円の赤字が、今期(2013年3月期)で2,165百万円の赤字となっています。ようやく赤字が底を打ったのかなということです。

事業費も前期3,984百万円が今期4,976百万円と相変わらず順調に増えていますが、今期ようやく収入保険料が事業費を上回るようになりました。入ってくるお金で出て行くお金を賄えるようになった、ということです。

日本でゼロスタートの生命保険会社では開業5年で赤字が底を打ったというのは、なかなかの好成績です。こうなるとあと2-3年で単年度黒字になることが期待できます。ただし113条の償却負担があと5年間あるので、実際の決算上の黒字はもう少し先になるのかも知れません。

また今の所まだ責任準備金の積み方は5年チルメル式ですがこれをいずれは純保式(平準純保険料式)にすることになるので、その移行のタイミングによっては単年度黒字の時期はさらに先送りされるかも知れません。

責任準備金の計算方法の変更による5億円の利益かさ上げですが、今期末の責任準備金が3,278百万円。うち危険準備金が997百万円ですから、残りが2,281百万円です。計算方式の変更がなかったとしたら、これが501百万円多かったということですから、2,782百万円になるはずだったものを、計算方式の変更で2,281百万円にした(2割ほど減らした)ということになります。

こうしてみるとかなり大幅な変更です。一体どうしてこうなったんだろう、とちょっと不思議ですね。

ケインズ・・・15回目

金曜日, 5月 17th, 2013

さて一般理論もいよいよ「総まとめ」です。
社会全体の経済体制を分析するのに、与えられた条件として
  利用可能な労働の質と量
  利用可能な資本設備の質と量
  技術
  競争の状態
  消費者の嗜好と習慣
  労働環境や所得分配を含む様々な社会構造
を考えます。これはこれらが一定で変わらないということではなく、分析にはこれらの変化を考えない、あるいはこれらが大きく変化しない範囲の期間について考えるということです。

次に独立変数として
  消費性向
  資本の限界効率(投資の予想利回り)
  利子率
の三つを取ります。
独立変数というのは、これらの独立変数が変化することにより、その結果として次の従属変数が変化すると考えるということです。

その従属変数としては
  雇用量
  実質ベースの国民所得
の二つとなります。

すなわち消費性向・投資の予想利回り・利子率がどう変わると、その結果として雇用や国民所得がどう変るか、あるいは雇用や国民所得を増やすには消費性向・投資の予想利回り・利子率をどう変化させればよいかということになります。

この三つの独立変数ですが、
『消費性向』というのは、消費者が所得のうちどれだけを消費しようかという気持のことで、
『投資の予想利回り』というのは、企業家がこの投資をすればどれ位儲かりそうかという気持であり、
『利子率』というのは、持ってるお金をどれだけ手元に置いておきたいか、という流動性選好の結果として決まるものです。

要は三つとも気持の問題、心理的な要因です。

これらの心理的な要因により、消費者がもっと消費をしようとする・企業家がもっと投資をすれば儲かるぞと思う・お金持が現金で持っていてもしようがないから貸付に回そうと考える、そうすると投資が増えて所得が増えて消費が増え、雇用が増える。
これが『一般理論』の要約です(と、ケインズが言っています)。

で、このようにして独立変数を変化させれば、これに従って従属変数も変化して均衡状態に向かうのですが、これが「大した前触れもなく変化しがちであり、しかも相当の変化を被ることも一再ではない」などとケインズは平然と言い放ちます。

『我々の住んでいる経済体系の際立った特徴は、産出量や雇用は激しい変動を被るにも係らず、体系そのものはそれほど不安定ではない』『変動は調子よく始まって、たいした極端に至らないうちに萎えしぼんでしまう。絶望するほどではないが、満足のいくようなものでもない。その中間的状態こそが我々の正常な運命なのである。変動は極端に至る前に減衰し、やがて向きを反転させがちである。』と言ったあとさらに『こうした経験的事実は論理的必然性をもって起こるものではない』などと平然と言い放ちます。
こんなことを言われちゃうとうれしくなっちゃいますね。やはりケインズという人はそんじょそこらの学者の先生方とはわけが違うようです。

これで一般理論の要約は終わってしまうのですが、これは私の読んでいる間宮さんの訳では上下2冊のうち、上の方の最後です。下の方はまだ丸々残っています。章でいえば全部で24章まであるのに、18章まで行った所。まだ6章残っています。本文のページ数でいえば、まだ2/3の所です。この残りの1/3はある意味『応用編』みたいなもので、出来上がった一般理論の立場から改めてもう一度古典派の理論を攻撃したり、古典派のために完全に否定されてしまった古典派の前の経済学の重商主義を再評価して、『古典派によって否定されるようなものでない』と言ったりします。

ということで、『一般理論』はまだあと1/3続くので、この稿ももう少し続きます。

宜しかったらお付き合い下さい。

ケインズ・・・14回目

金曜日, 5月 17th, 2013

いよいよケインズは一般理論の結論を出しますが、その前に貨幣理論の章があります。

ケインズは「一般理論」のすぐ前(5年前)に「貨幣論」という本を書いており、「一般理論」の中でも「貨幣論」にはこう書いたけれど・・・とか、「貨幣論」にこう書いたように・・・という具合にしょっちゅう引き合いに出しています。私が本気の学者とか研究者だったら、さっそく「貨幣論」も読まなきゃと思うところですが、とりあえず野次馬の気軽さで、「一般理論」の中でケインズ自身が否定している「貨幣論」を読むこともないだろうと考えています。

で、「一般理論」の中の貨幣論ですが、何とも素晴らしいものです。かなり以前から「貨幣とは何か」というのは私の大きなテーマの一つで、何冊かそのような本を読んだんですが、これまで今イチこれだ!というものには巡り合っていませんでした。

で、ケインズの貨幣論ですが、まずは「利子」から始まります。利子というのは一時的にお金を一定期間手離しておいて、その一定期間経過後にまた受取るものが、元々手離したものより増えた分です。このように考えると、別にお金に限定しなくてもたとえばお米でも牛でも同じように考えることができます。

お金の機能というのは、【財産の価値をその資産の形で保有する】ということと、【必要に応じて他の資産と交換する】ということで、その意味では貨幣でなくて他の資産でも多かれ少なかれそのような機能を果たすことはできるのですが、その中で貨幣が中心的にその役割を果たす理由は何か、ということになります。

ケインズは様々な資産について、収益力(それを持っているとそれだけで財産が増えること)・持越費用(それを持っていると時間が経過するだけで価値が下がったり、維持するためにお金がかかること)・流動性プレミアム(いつでもすぐに他の資産と交換できるメリットのことで、そのための対価として払っても良いと思われる額)の三つの特性を取り出し、これで各資産を特徴付けます。

この中で貨幣というのは、収益力はゼロ(持っているだけじゃちっとも増えない)・持越費用もゼロ(もっているだけなら費用はかからない)・流動性プレミアムは他の資産と比べて極端に高い(自由にいつでもどの資産とも交換できる)ということで特徴付けられます。他の資産では一般に収益力はあるかも知れないし、ないかも知れない。持越費用は多かれ少なかれ、ある。流動性プレミアムは小さいか、ない・・・ということになります。

このように整理した上で貨幣の性質として
その量を増やすことも減らすことも簡単にはできず、量が増えたからといって価値が下がるわけでもない、ということを説明します。普通の資産は値段が高くなればそれをたくさん作る人が現れ、その資産が増えれば安くなり、逆に値段が安くなって誰も作らなくなると放っておいてもだんだん減ってしまって、減って少なくなれば今度は値段が高くなるということになるのですが、貨幣はこれとはまるで違います。

この特徴から(ケインズが言っているわけではないのですが)、インフレを抑えたりデフレから回復したりというのはそう簡単にできる話じゃないというのが良くわかります(インフレというのはお金の価値が安くなることで、デフレというのはお金の価値が高くなることです。お金の量を増やしたり減らしたりすることが簡単にできて、その結果としてお金の価値を上げたり下げたりが簡単にできるなら、インフレもデフレも簡単に対処することができます)。

このことをこんなに明快に説明してくれる貨幣論は初めてです。この部分はさらに熟読玩味する必要がありそうで楽しみです。

ケインズ・・・13回目

木曜日, 5月 9th, 2013

さて、前回「流動性選好」ということが出てきましたが、要するに投資に回すことができるお金があるとして、投資に回すことができるお金が全部投資に回るわけではなく、その一部は投資に回さないでいつでも使える現金で持っていようというのが流動性選好で、このためお金があれば投資が増えるということには必ずしもならないよということです。そして投資に回るお金がたくさんあればそれだけ金利が低くなって、その分その金利を上回る期待利回りの投資が多くなって投資が増えるということです。

お金の量を自由に増やすことができるんなら、現金で持っていようという額を上回ってどんどんお金を増やしていけば、投資に回るお金が増えるんじゃないかと単純に考えてしまいそうですが、ケインズはそう甘くはありません。お金を増やせば増やすほど、現金を持っていようという額も同じだけ増えて、投資の方にはちっとも回らないかも知れないよ、ということを、すでにこの一般理論で言っています。

特に金利がある程度以下に下がってしまうと、そのお金を投資のために貸し付けたとしても大して儲かりません。かえって貸し付けたお金が返ってこなかったり、債券の値段が下がって損してしまったりするリスクが高くなります。そうするとちっぽけな利息を稼ぐより余計なことをしないで現金で持っていた方が良いかな、ということになるかも知れません。こうなると
 【流動性選好が事実上無制限になる可能性がある。
 このような事態に陥ると通貨当局は利子率を有効に制御する手立てを失ったも同然である】
と、日本の姿を見てきたかのようなことを書いています。

ケインズはこのようになってしまう金利の下限を2%から2.5%くらいと書いていますから、今の日本(EUも日本にならってそうなりそうですが)の0%とか0.5%とかの金利を見たらビックリするんでしょうか。IMFもこれからEUのゼロ金利を実際に経験すれば、今まで自分達がいかに多くの間違いをしてきたかようやく反省するんでしょうか、それともしないんでしょうか。

【もっともこの極限的な場合は、将来ならいざ知らず―将来には現実にも重要になるかも知れない―これまでのところはそのような例を聞いたことがない】と言うんですから、日本の経験は本当に未知の領域のことで、ケインズは経験もしないでよくこんなことが考えられたなと思ってしまいます。

【実際、たいていの通貨当局は長期債権の売買になかなか踏みきれないから、この極限の場合を実地に検証する機会はあまりなかった】ということで、日銀の黒田さんの『中長期の国債を買ってマネーを増やすんだ』という異次元の対応がいかに前例のない異常な手段かが良くわかります。

で、ケインズは今の日本のような事態は見ていないのですが、その代り同じように異常な事態を目のあたりにしていると書いてあります。
 【第一次大戦後、ロシアと中央ヨーロッパでは通貨危機すなわち通貨からの逃避が起こり、人々は貨幣や債権を金輪際持とうとしなくなった】というのと、【一方合衆国では1932年のある時期、これとは逆の種類の危機―金融危機すなわち清算の危機が起こり、いくら好条件が提示されても保有している現金を手離そうとする者はほとんどいないという有様であった。】

このように異常な事態を目のあたりにして考えているんですから、ケインズはヘリコプターマネーのような単純な思いつきに飛びつくようなことにはなりません。またせっかく目のあたりにした異常な事態をじっくり検証すればもっといろんなことがわかるんだろうにと思ってしまいますが、多分そう簡単にはいかないということなんでしょうね。

いずれにしてもこの流動性選好で、経済分析のための新たな要素として貨幣というものが登場し、貨幣の量はある程度増やしたり減らしたりコントロールできるものとして、それが金利をどのように変化させることができるのかできないのか、その結果として投資をどうやって増やすことができるのか。投資が増えれば雇用が増え所得が増えて、最終的に消費も増える。『消費を増やす』という最終の目標に向かっての検討が始まります。「一般理論」の正式名称「雇用・利子および貨幣の一般理論」に登場する役者がようやく揃った、ということになります。ここから改めて「貨幣とは何か」「雇用を変化させる要因は何か」という検討が始まります。

北朝鮮とシリア

火曜日, 5月 7th, 2013

北朝鮮、いよいよ動きが取れなくなってしまったようですね。

ケソンの工業団地から韓国人が引上げてしまってこれで外貨収入が得られなくなってしまい、アメリカ人を捕まえて懲役刑にしても助けに来るアメリカの政治家も現れないし、戦争をするぞ!と脅していたのに、韓国の大統領は平気な顔で外遊で出かけて国を空けてしまうんですから、何とも格好がつかないですね。仕方がないのでサッカーの試合を見物しているようですが、国内に説明がつかないですね。

シリアの方は政府軍・反政府軍ともサリンを使っているなどという噂が出てきて、いよいよ早くケリをつけなければという中、イスラエルがシリアを爆撃するという形でいきなり参入してきました。これで一気に決着がつくんでしょうか。

アメリカやヨーロッパが身動き取れないので、代打で登場したということでしょうか。

いずれにしても早くけりがつくと良いですね。

白川静 「孔子伝」

火曜日, 5月 7th, 2013

白川静という漢字の先生がいます。

以前この白川漢字学を知ったとき、かなりまとめて白川さんの本を読みました。漢字の本とか詩経の本とか、いろいろ読みました。その時「孔子伝」も図書館で借りたのですが、それ以外の本でおなかが一杯になってしまって、結局読まずに返却してしまいました。

しばらく経っておなかもこなれてきたのでまた借りて、今度こそ読みました。期待にたがわず素晴らしい本です。

白川さんには自伝として、日経新聞に連載した「私の履歴書」に加筆した「回思90年」という本があります。でもこの「私の履歴書」というのは、事実や出来事を中心に書かれているものですから、白川さんの気持とか思いとかはあまり書かれていません。

時として誰かが心から敬愛する人の評伝を書く時、その書く相手の人に仮託する形で書き手の思いとか考え方が見事に表現されることがあります。この「孔子伝」もまさにそのような本です。

もちろん孔子の伝記としても画期的な本のようですが、それと同時に白川さんが孔子を心から尊敬し、敬愛していることが良くわかり、と同時に白川さんがどんなことを思い、どんなことを考えて生きてきたかが良くわかる名著です。

孔子というのは大昔の人ですから、伝記といっても良くわからないこともたくさんあります。中心となる文献は、史記の中の孔子に関する記述と論語ですが、これ以外にも様々な人が様々に書いているようです。

中にはかなり信用できない記述も多く、それは史記の記述でも論語の記述でも同様のようです。それを白川さんは一流の緻密な検討で、信用できる記述・信用できない記述に分析し、孔子というのはどういう人だったのか、何を考え何を目指したのか考えています。

孔子という人は革命家を目指したけれど、殆どことごとく失敗し、老年に至るまで中国各地をさまよった人ですが、その結果として孔子の儒教教団が出来上がり、論語という素晴らしい本ができたということのようです。

「孔子伝」というのも孔子が死ぬまでの伝記ではなく、その後いろんな人が様々に孔子についてあることないことを記述して、その集大成として論語という書物が出来上がり、その結果として歴史上の孔子という存在が出来上がる所までを書いています。

白川さんにとっては、孔子の弟子の顔回が死亡し孔子が死んだところで孔子の本流は一旦途絶え、その後荘子がその後継者として復活させ、その延長線上に老子ができたということのようですが、このあたりの白川さんの解釈も興味深いものです。

お勧めの一冊です。

ケインズ・・・12回目

金曜日, 5月 3rd, 2013

さてこれまでで「消費」は限界消費性向により、所得から導き出すことができる。「投資」は資本の限界効率(投資に対する見込み利回り)と金利の大小で決まるということになりましたが、それでは次に「金利」はどのように決まるのかというのがテーマになります。

これに関してケインズの答は「流動性選好」というものです。すなわち手元にあるお金はいつでも自由に使うことができるけれど、それを投資のために貸し付けてしまうとそれが返ってくるまでは使うことができない、ということになります。この「しばらく自由にできない不便の対価が金利だ」ということになります。

これは言われてみれば至極もっともで、むしろ「何を今更」という気がしますが、ケインズによればこの考え方はケインズの前の古典派とはまるで違う考え方だということになります。

それではその古典派はどう考えていたのかということになりますが、ケインズによるとこうなります。すなわちお金を持っている人がいて、金利が低ければそのお金を貸そうという気持はあまりないけれど、金利が高くなればなるほどいくらでもお金を貸そうとする。一方でお金を借りて投資したい人がいて、金利が高いとあまり借りられないけれど、金利が低くなればなるほどいくらでもお金を借りたがる。そのお金に対する需要と供給で金利が決まる、ということのようです。
お金を遊ばせておいても何にもならないんだからとりあえず使わないお金はちょっとでも金利を稼ぐために貸し付ける、貸し付けないお金は消費に回してしまう、ということです。

これはこれで確かに理屈に合いますが、だからと言って金利が低ければいくらでも借り手がいるとか、金利が高ければいくらでも貸したい人が出てくるなんてこともなさそうで、古典派というのは本当にそんなことを考えていたのかなと思ってしまいます。

私が学者だったり研究者だったりすると、ケインズが言ってるように古典派の先生方はホントにこんなことを言ってたんだろうかと、それを確かめるために古典派の本かなんか読まなきゃいけないんですが、こちらは単に興味本位で本を読んでいるだけのヤジウマです。ケインズがこう言っているというのは、単に「ケインズはこう言っている」としておけば良いので、気楽なものです。ケインズも「古典派がこう言っているというのをはっきり示す文章はないけれど・・・」なんて言って、何となくそれらしいことを言ってそうな部分をいろんな本から引用するだけなので、本当にその意味かどうかはその引用されてる部分の前後をじっくり読んでみないとわからないな、という位なものです。

で、面白いことにこの「第14章 古典派の利子率理論」の中に「新古典派」という言葉が登場しています。「一般理論」のはじめの方に、「古典派のあとの人もひっくるめて古典派と言う」と言ってたのはどうしちゃったんだろう、と思ったりしました。

で、この章の中にこの「一般理論」の本の唯一の図が出てきます。ところがこの図は古典派の考え方を説明するための図で、「これこれこのように古典派の考え方は役に立たないんだ」と説明するためのものです。ということで、ケインズの考えを説明するための図は「一般理論」の中には一つもない、という何とも情けない話です。

この章の最後にケインズの考え方と(ケインズの言う)古典派の考え方の比較が書いてあります。
私流にまとめると
古典派 : 
「消費が減少すると→利子率が低下して→投資が増える」
ケインズ : 
「消費が減少すると→雇用が減少し→所得が減少して→投資が減少する」
となるんですが、スタートが同じで最終結果がまるで逆です。
さて、どっちが正しいと思いますか?

ちょっと寄り道-SNA

金曜日, 5月 3rd, 2013

ケインズの「一般理論」をしっくり読みながら、例の『所得=消費+投資』のあたりで、何となくどこかでこんなことを読んだような気がしていました。

しばらくしてこれはSNA(System of National Accounts)― 日本では通常【国民経済計算】という訳になっていますが、内容を正しく表現しようとしたら、【国民会計システム】と言ったほうが良さそうです。例のGDPを計算するシステムのことです。― のことじゃないかと思いあたり、それを確認するためSNA関係の本を調べていました。

結論から言うと、まさにその通りというか、SNA自体ケインズの「一般理論」の延長線上というか、ケインズの「一般理論」がマクロ経済学のスタートであれば、そのマクロ経済を具体的に計算する仕組がSNAというような関係になっています。

ケインズの「一般理論」ではまだ企業と消費者しか登場していないのですがこれに、政府だとか銀行だとかいろんなものが追加的に登場して、いずれにしても現実の国の経済の全体を数字できちんと計算するのですから、かなりいろいろ修正とか調整がなされているのですが、本質は「一般理論」と同じです。にもかかわらず、この「同じだ」ということを確認するのにえらく時間がかかってしまったのには、それなりの訳があります。

企業の会計では売上高にしても売上総利益、純利益にしても具体的なイメージがあります。
これに対してSNAでは「産出」「生産」から始まって、「所得」・「消費」・「投資」・「貯蓄」が出てきます。このスタートとなる産出・生産と売上高等との関係をきちんと説明してくれれば、それで何の問題もないのですが、SNAの教科書や解説書ではそこの所がイマイチはっきりしません。『産出』とか『生産』とか言えば、それだけで充分意味が明らかだ、とでも言うような書き方がしてあります。

結局何冊もの教科書・解説書を読んではっきりしたのは、【一定の期間内の企業の生産活動の結果の全体を『産出』という】ということになります。その産出のうち多くのものは期中に販売され売上になっていますが、そうでないものは製品の在庫・仕掛品の在庫・原材料の在庫となり、あるいは将来の生産活動のための設備投資となっています。このうち期始における在庫や設備投資は前期までの生産活動の結果ですから、これを除くことにすれば
 産出=売上高+在庫の増+設備投資の増
ということになります。これさえはっきりすれば後はすんなりわかります。

A社の商品をB社が購入して生産活動に使用し、その結果のB社の商品をC社が購入して生産活動に使用すると、C社の産出にはA社の産出活動の結果・B社の生産活動の結果が重複して加算されていることになります。そのためその重複を除いて、産出のうちから他の企業の生産活動の結果を除いたものを『生産』といい、
 生産=産出-産出のために他の企業から購入したもの
ということにします。
この『産出のために他の企業から購入したもの』のことを「中間投入」とよびます。
それで
 産出=売上高+在庫の増+設備投資の増
 生産=産出-中間投入
ということになります。

さて、企業が産出したものはその後どうなるか、というと、一部は他の企業に購入されて、その企業の生産活動に使われ、一部は消費者に購入され使用され、残りはその企業に残り在庫あるいは設備投資になりますから
 産出=他の企業に購入される分+消費者に購入され使用される分+在庫の増+設備投資の増

ここで「他の企業に購入される分」を『中間消費』とよび、「消費者に購入され使用される分」を『最終消費』とよんで
 産出=中間消費+最終消費+在庫の増+設備投資の増
となります。

ここで中間投入と中間消費は、購入する企業の側から見ると中間投入となるものが、販売する企業の方から見ると中間消費になりますから、社会全体で見ると、額は等しくなります。
そこで
 生産=産出-中間投入
    =産出-中間消費=最終消費+在庫の増+設備投資の増
 在庫の増+設備投資の増を『投資』とよぶと、
 生産=最終消費+投資
ということになります。

一方、生産活動の対価はどうなるかと言うと、中間投入に対してはそれを供給してくれる企業に代金を払います。また生産活動で働いてくれる人には雇用者報酬を払います。残りは企業の利益になりますから、
 産出=中間投入に対する支払+雇用者報酬の支払+企業利益
 生産=産出-中間投入=雇用者報酬+企業利益=所得
ということになります。まとめると、

 生産=産出-中間投入
    =最終消費+投資
    =雇用者報酬+企業利益=所得
ということになります。

これだけのことなんですが、困ったことに経済学の先生方は

  • 産出と生産をはっきり区別しないで、混合して使うことがある。
  • 中間投入と中間消費は社会全体で額は同じになるけれどまったく別物なのに、ごっちゃにして使われることがよくある。

ということで、さらには
生産の定義は『産出-中間投入』で、それが額として最終消費+投資に等しくなるだけなのに、日本ではこっちの計算式でも理論的には同じ額になるし、こっちの方が信頼性が高い値になる、ということで、
 生産=最終消費+投資
の式で計算しているようです。その結果いつのまにかこれが定義であるかのような説明になってしまっているので、『産出』は一体何なのか、<生産=最終消費+投資>は定義なのか等式なのか、はっきりしない、というような状況になってしまっています。

中間消費と中間投入は額は同じだけれど、まるで別のものです。たとえばお金の貸し借りで考えれば、貸した方から見れば貸付金、借りた方から見れば借入金ですから、社会全体で見れば額として【貸付金=借入金】になるのですが、だからと言って「貸付金と借入金は同じもの」だなんて言ったらとんでもないことになってしまいます。

ということで改めて、「経済学者の言葉の使い方はかなりいい加減なので要注意!」で、いずれにしてもSNAとケインズの一般理論が同じものだとわかってメデタシメデタシです。

ケインズの一般理論の方は概念的・理論的な話だけなのですが、SNAの方は具体的な膨大な数の数字の体系が何十年分もたまっています。それこそ本当に宝の山みたいなものです。この数字をあれこれ眺めてみるのも新しい楽しみです。