こども保険の元本割れについて、裁判で和解が成立した、というニュースが出ています。これについて、久しぶりに掲示板の『アクチュアリーの練習帳』に投稿がありました。
私もコメントを追加しています。
http://www.acalax.info/bbs/wforum.cgi?mode=all_read&no=3557&page=0
もしよかったら見てみてください。
こども保険の元本割れについて、裁判で和解が成立した、というニュースが出ています。これについて、久しぶりに掲示板の『アクチュアリーの練習帳』に投稿がありました。
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WordPressには、スパムコメントを見つけてスパムコメントとして分類してくれるプラグイン(小道具のようなものです)があります。
今まではこれでスパムコメントとして分類されたコメントを一つ一つ確認して削除していたのですが、最近ちょっとスパムコメントが増えていて、一つ一つ確認して削除するのが苦痛になってきました。
その為、数日前からスパムコメントとして分類されたコメントを一括して無条件で削除するようにしてしまいました。
こうすると、まともなコメントで間違ってスパムコメントとして分類されたものもそのまま削除されてしまいます。
その為、お手数ですがコメントを入れていただいて、いつまでたってもそれがコメントとして表示されない場合にはメールでお知らせください。
アドレスは
sakamoto.y@acalax.info
にお願いします。
いよいよ憲法も基本的人権に入ります。
この「基本的人権」は「日本国憲法」では全103条中、10条から40条までの31条。全体の3割を占め、芦部さんの教科書でも本分389ページのうち73ページから274ページまでの202ページ、半分強を占めています。
で、この基本的人権、「人類共通の」とか言うわりには実は必ずしも共通ではないように思います。たとえば日本では基本的人権のうちの生存権にもとづいて健康保険制度が国民全体に適用されるのに対して、アメリカでは自由権にもとづいて国民皆保険に反対する意見がまだかなり強いようですし、日本では誰も自衛のために銃を持とうとはしないのに、アメリカでは自衛のために銃を持つことは基本的人権の一つだ、という考えのようです。
で、議論を始めると際限がなさそうなので簡単に済ませようと思ったのですが、芦部さんの教科書を読むとちょっとそういうわけにはいかなそうです。基本的人権の本筋から離れる話も多いのですが、ちょっとコメントします。
まず基本的人権をいろいろ分類している中で、「社会権」というものが登場します。これは社会的・経済的弱者が人間に値する生活を営むことができるように、国家の積極的な配慮を求めることができる権利だ、と言うんですが、これについて【憲法の規定だけを根拠として権利の実現を裁判所に請求することのできる具体的権利ではない(即ち、その為の法律がないとその権利を求めて裁判することができない、ということ)】(84ページ)と、この部分、わざわざ傍点までつけて書いてあるのですが、その次のページには何と【社会権にも具体的権利制が認められる】などという文章があり、こんなんで勉強する人は大変だなと思ってしまいます。
また「制度的保障」という言葉が登場します。これは何かというと、たとえば言論の自由を守るため大学という制度に保護を加え、その制度を守ることによって基本的人権である言論の自由を守る、というようなことのようです。この芦部さんの本では(多分他の法律の本でもそうだろうと思うのですが)「保障」という言葉を「保護する」という意味で使っているようです。
そんなわけでこの制度的保障というのは、制度を保障(保護)すること、という意味のようです。「的」と言う言葉を「を」の代わりに使うというのは、普通の日本語にはないと思います。中国語では「的」というのは日本語の「の」のように使います。私の本とかあなたの恋人とかの「の」です。その意味で制度を保障(保護)することを制度の保障と言い換えて、これを制度的保障と言うのかも知れませんが、このような「的」の使い方は中国語の話であって、日本語の話じゃないと思います。
また、「前国家的」とか「前憲法的」とかの言葉が登場します。これは一体何だろうと思って読んでいくと、どうやらこれらは「国家ができる前からの」とか「憲法ができる前からの」という意味のようです。「前」という言葉は「前近代的」のように「○○になる前(から)の」という意味で使うのはよく見ますが、「○○ができる前(から)の」という意味で使うのは今まで見たことがありません。多分、勝手に自分流の日本語を作ったんじゃないかなと思います。
このように言葉のことを問題視するのは、言葉の正しい使い方というのは論理的思考のそもそもの前提となるものだと思うからです。私は日本語というのは、少なくとも私の知っている範囲では、世界で最も論理的な表現・思考ができる言語だと思っています。にもかかわらずこのようないい加減な言葉の使い方をすると、論理的思考ができるわけがないと思うからです。
一般には(憲法を含めて)法律というのは論理的に書かれていて、法律家というのは論理的に考えていると思われているんだと思いますが、このような事情を見るとガッカリしてしまいますね。
さて、基本的人権にはいろんなものがありますから、複数の基本的人権がお互いにぶつかり合った時にどうするか、というのが大きな問題になります。
まず最初に個別の人権ではなく社会全体との関係では、「公共の福祉に反しない限り」という限定付で基本的人権が認められるのが普通です。自民党の改正草案ではこの「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と言い換えているんですが、その言い換えをケシカラン反対している意見があるようです。私には「公共の福祉」などというわけのわからない言葉よりよっぽど良いと思うのですが。
反対する人達は「益」とか「秩序」が嫌なんでしょうか。民法では憲法の「公共の福祉」を「公序良俗」という言葉で表しています。この三つの言葉を並べて比べてみると、「公益及び公の秩序」が一番わかりやすいと思うのですが、どうでしょう。
次に、今度は具体的にある基本的人権と、もう一つの基本的人権がぶつかった時にどうするか、ということになります。これにはいくつかの考え方があるようです。
まず最初に出てくるのが「比較衡量論」というもので、「それを制限することによってもたらされる利益」と「それを制限しない場合に維持される利益」を比較して、制限した時の利益の方が大きい時はその基本的人権を制限しても良い、という考え方です。誰がその「利益」を評価するのかという点を含め、こんなんでいいのかな、こんなんで「侵すことのできない永久の権利」(第11条)と言えるのかな、と思ってしまいます。要するに、基本的人権であってもそれを制限する方が利益が大きいのであれば制限することができる、ということですから。
次に出てくるのが「二重の基準論」というものです。二重の基準と言うと何のことか良くわかりませんが、英語で書くと良くわかります。すなわちdouble standard、ダブルスタンダードのことです。
ダブルスタンダードというのは、普通はそういうことじゃ駄目じゃないか、と非難される対象となるのですが、憲法の議論ではダブルスタンダードにすべきだ、という話になっています。
普通のダブルスタンダードというのは、あっちにはああ言い、こっちにはこう言うというような、相手によって話を変えることなのですが、この憲法のダブルスタンダードというのは、憲法の中のいろんな基本的人権は横並びで皆同じ重みがあるのでなく、重要なものと比較的重要でないものがあって、その重要性の度合いを付けることによって、たとえば二つの基本的人権がぶつかった時、どっちの基本的人権をもう一方の基本的人権より優先するか決める、というような話です。
とは言え、あらかじめ全ての基本的人権に順位を付けるなんて話じゃなくて、実際に基本的人権のぶつかり合いが起こったときに「さてどっちを優先しようか」と考えるというような話ですから、その時その時の都合でどうにでもなるような話でもあります。
こんなんで本当に基本的人権を「人類普遍の原理であり」「侵すことのできない永久の権利」なんて言えるんだろうか、と思ってしまいます。
きっかけは何だったか覚えていないのですが、インターネットでたまたま沖縄県人の奄美大島出身者に対するひどい差別の話を読みました。かなり長い記事だったのですが、読み終わった最後に、これが佐野眞一著「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」という本の一部だということがわかりました。
で、さっそくその本を借りて読みました。
2011年に文庫になったもので、上下それぞれ500ページ弱のかなりのボリュームのある本です。
これが面白く、一気に読んでしまいました。
沖縄の戦後史を構成する多数の人(数十人あるいは3桁になる人数)を取上げ、その人がどのように沖縄の戦後を生きたかを書くため、さらに多数の人に取材して書かれたものです。
はじめに出てくるのは警察官とヤクザで、沖縄の暴力団がどのように生まれ、成長し、数次にわたる殺し合いを経験したかを書いています。次に経済界の大物や女性実業家達、そして沖縄出身のアイドル達とそれを育てた人達が登場し、その間に知事の仲井眞さんが登場したり、また琉球王朝の尚氏の、明治維新で琉球が併合されてから、戦後貴族でもなくなり財宝も多く行方不明になってしまった話とか、尖閣諸島がどのようにして個人の所有となり、その後どのように所有者が変ったかなんてことも書いてあります。
それら登場人物が皆精一杯イキイキと生きて、またその後生き残ったり死んだり殺されたり、そういう話がたっぷり入っています。
沖縄というと、とかくありがちな青い空・青い海というような話でもなく、また本土の犠牲となった沖縄に対してスミマセンなどという余計な思い入れもなく、単刀直入に著者が遠慮なしの質問をし、質問された方はあっけらかんと素直に回答する。そのようなインタビューと、その他取材によって集めた材料で登場人物を生き生きと描き出していますが、これだけで何十本ものテレビドラマや映画ができても不思議ではないような気がする、そんな読み物です。
もともと『月間プレイボーイ』に『沖縄コンフィデンシャル』というタイトルで連載していたものを編集し直し、加筆修正して単行本にしたものに、文庫版にするにあたりさらに大幅に書き足し、鳩山さんの『最低でも県外』発言とその後の3.11の大震災なども取り入れて本にしているものです。最近の尖閣諸島国有化までは入っていません。
著者の思い入れは、タイトルの『だれにも書かれたくなかった』の部分に現れているようで、沖縄は一方的に本土から差別されるだけでなく、奄美大島出身者に対する差別する側としての沖縄もしっかり書いてますし、また都道府県別平均所得が一番低く、若者の失業率が日本一高い沖縄がそれでも豊かに見えるのはやはり米軍基地があるためではないか(沖縄の暴力団のルーツの一つは米国基地からの軍需物資の窃盗団だったということも含めて)とか、軍用地主の一番大きな人は地代だけで年間20億円もの収入になり、どうやっても会ってもらえなかったとか、面白い話満載です。
青い空・青い海の沖縄というイメージや、明治以来(あるいはその前薩摩藩に征服されて以来)常に本土の犠牲になって、特に太平洋戦争の沖縄戦でも多くの犠牲を出し、戦後日本とは切り離されて米軍の軍政下で多大な苦労をさせられてきた沖縄に対して申し訳ない、というような定番の沖縄にうんざりしている人にお勧めです。
さて憲法、天皇の次は「戦争放棄」です。第一章「天皇」は条が8つもあるのに、第二章「戦争の放棄」は、9条1つだけです。
この9条、第1項が戦争放棄、第2項が戦力を保持しない、交戦権を認めないということを書いてあります。日本国憲法の最大の特徴である平和主義が全103条のうち、たった1条だけなので、この9条1つについては山ほど議論がなされています。
まず第1項の戦争放棄ですが、単に「戦争放棄」と書けば良いのに、いろいろ条件を付けるのでわからなくなってしまいます。すなわち
【(国権の発動たる)戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は(国際紛争を解決する手段としては)永久にこれを放棄する。】
という具合です。こうなると何が放棄されている戦争で、何が放棄されていない戦争か、ということになります。
次の第2項は短いけれど、さらにやっかいです。すなわち
【(前項の目的を達するため)陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。】
となっているんですが、この「前項の目的を達するため」というのは、何を意味するのか、またこれは『軍その他の戦力を保持しない」だけにかかるのか、『交戦権』の方にもかかるのかというのがさらに面倒な議論になります。
さらにこの第1項と第2項が憲法案作成の際、途中で順番が逆になり、それがまた元に戻ったなんて事情があるので、なおさらいろんな議論が可能になっています。
1項と2項が逆になっていると、まず最初に「軍隊は持たない」と言って、その結果として戦争を放棄するという、わかりやすい話になるのですが、今のような順番であるため、どのような軍隊は良くてどのような軍隊は駄目なのかという議論になってしまいます。
更にこのような憲法ができた時代背景が、もう一つ重要なファクターとなっているようです。
第二次世界大戦は、連合国側(アメリカ・イギリスなど)と枢軸国側(イタリア・ドイツ・日本など)が戦ったのですが、戦争が終わり、連合国は国連となり(日本語ではまるで違う言葉ですが、英語ではどちらもUnited Nationsのままです)、その頃第一次大戦・第二次大戦であまりにも多くの兵士、非戦闘員が死んだことを踏まえ、世界的に戦争をやめさせるために、軍隊を持つのは今の国連安保理の常任理事国の5ヵ国だけにし、その5カ国の軍隊で国連軍(あるいは連合国軍)を構成し、それ以外の国は全て(第二次大戦に負けた国は当然のこととして、その他の戦争に参加しなかった国も含めて)軍隊を持たないようにしようという崇高な理想があったようです。もちろんその考えは米ソの対立と常任理事国になれなかった国の反対ですぐに撤回されてしまったのですが、日本の平和憲法はその時の理想の名残りが9条にそのまま残っているということのようです。
もちろん日本占領軍のトップとして憲法改正を指示したマッカーサーも最初は完全な戦争放棄を考えていたようですが、日本を離れる時は既に朝鮮戦争を背景に、日本が軍隊を保持することは当然のことだ、という解釈に変わっていたようです。
以前「憲法の法源」という話をしました。憲法は「日本国憲法」というタイトルの文書だけでなく、その他多くの法律・規則・条約等もその憲法の一部をなしているということです。その中には軍隊を保持して必要な場合には戦争することを当然の前提としている国連憲章や、日米安保条約も入っています(国連憲章というのは軍事同盟であった連合国を引き継いで国際連合(国連)としていますから、何かあったら皆で協力して軍事行動しようという、基本的に「軍事同盟」ですし、日米安保条約も日本の近くを対象として限定しているものの、日米の軍事同盟であることは明らかです)。さらに憲法慣習も(憲法規範に明らかに違反する慣習であっても)憲法の一部をなす、ということになっています。
こうなると、国の組織として自衛隊という軍隊が存在する。それももう半世紀上にわたって存在し続けているという事実自体がこの憲法慣習になっている、ということになりそうです。国連に加盟し、日米安保条約を結んで二つの軍事同盟に参加している、ということも同様です。
このような状況では「日本国憲法」の条文からすると自衛隊の存在は違憲であるように判断でき、また自衛隊が半世紀以上存在し続けていることからすると、「日本国憲法」の条文が違憲であるように判断できるということになります。
こんな状況は困るじゃないか、と普通は思うはずなのですが、憲法学者は平気なようです。憲法の中味が相互に矛盾していてもそのままで、矛盾を解消するために憲法を改正しようとは考えないようです。『憲法を改正しない』という重大な目標に比べれば憲法の不備や矛盾なんかどうでも良い、ということのようです。
もちろん憲法の中には、憲法の規定が矛盾している時にそれをどのように調整し、どのように解釈するか、なんてことは書いてありません。ですからAという規定あるいは事象と、Bという規定あるいは事象とが矛盾している時、ある人はAという規定あるいは事象があるのだからBは憲法違反だと主張し、またある人はBという規定あるいは事象があるんだからAは憲法違反だと主張することができるわけです。
さらに憲法学者には「憲法の変遷」という奥の手があって、憲法の文言は変化がないのに解釈が変ることによってその意味が変る、ということを平然と主張します。すなわち「言葉の上ではそう書いてあるけれど、その意味はそうじゃないんだよ」と言うことです。
言ってみれば『ここには鹿って書いてあるけど実はこれは馬のことなんだから、そう読んでね』みたいなものです。ヤレヤレ・・・
なお蛇足ですが、この憲法についての勉強でポツダム宣言を読んだついでに、ミズーリ号で調印された日本の連合国に対する降伏文書を読みました。そこで「大本営」というのがJapanese Imperial General Headquartersと書いてあるのを知ってびっくりしました。
GHQというのは戦後アメリカ占領軍の司令部としてマッカーサーの下に組織されたもので、正式にはGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers(連合国最高司令官総司令部)の頭の部分から来ているのですが、日本の大本営もJapanese Imperial General Headquarters(大日本帝国総司令部)ということになり、これもGHQなんだ!!というわけです。
私はこれまでGHQは日本に命令する占領軍のもの、大本営は第日本帝国陸海軍を指揮するためのもの、とまるで別に考えていたのですが、大本営もGHQなんだ、GHQは占領軍の大本営なんだ、となったら、これは改めて考え直す必要があるかも知れません。
もちろん吉田(茂)さんをはじめ英語に堪能な人たちは大本営はGHQだというのはわかっていたのでしょうが、一般の人はどうだったんでしょう。改めて戦中・戦後のいろんな話を読み返す必要があるかも知れません。
いずれにしても憲法9条はいくらでも議論のあるところですから、私のコメントもこれくらいにしておきます。