さて憲法、天皇の次は「戦争放棄」です。第一章「天皇」は条が8つもあるのに、第二章「戦争の放棄」は、9条1つだけです。
この9条、第1項が戦争放棄、第2項が戦力を保持しない、交戦権を認めないということを書いてあります。日本国憲法の最大の特徴である平和主義が全103条のうち、たった1条だけなので、この9条1つについては山ほど議論がなされています。
まず第1項の戦争放棄ですが、単に「戦争放棄」と書けば良いのに、いろいろ条件を付けるのでわからなくなってしまいます。すなわち
【(国権の発動たる)戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は(国際紛争を解決する手段としては)永久にこれを放棄する。】
という具合です。こうなると何が放棄されている戦争で、何が放棄されていない戦争か、ということになります。
次の第2項は短いけれど、さらにやっかいです。すなわち
【(前項の目的を達するため)陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。】
となっているんですが、この「前項の目的を達するため」というのは、何を意味するのか、またこれは『軍その他の戦力を保持しない」だけにかかるのか、『交戦権』の方にもかかるのかというのがさらに面倒な議論になります。
さらにこの第1項と第2項が憲法案作成の際、途中で順番が逆になり、それがまた元に戻ったなんて事情があるので、なおさらいろんな議論が可能になっています。
1項と2項が逆になっていると、まず最初に「軍隊は持たない」と言って、その結果として戦争を放棄するという、わかりやすい話になるのですが、今のような順番であるため、どのような軍隊は良くてどのような軍隊は駄目なのかという議論になってしまいます。
更にこのような憲法ができた時代背景が、もう一つ重要なファクターとなっているようです。
第二次世界大戦は、連合国側(アメリカ・イギリスなど)と枢軸国側(イタリア・ドイツ・日本など)が戦ったのですが、戦争が終わり、連合国は国連となり(日本語ではまるで違う言葉ですが、英語ではどちらもUnited Nationsのままです)、その頃第一次大戦・第二次大戦であまりにも多くの兵士、非戦闘員が死んだことを踏まえ、世界的に戦争をやめさせるために、軍隊を持つのは今の国連安保理の常任理事国の5ヵ国だけにし、その5カ国の軍隊で国連軍(あるいは連合国軍)を構成し、それ以外の国は全て(第二次大戦に負けた国は当然のこととして、その他の戦争に参加しなかった国も含めて)軍隊を持たないようにしようという崇高な理想があったようです。もちろんその考えは米ソの対立と常任理事国になれなかった国の反対ですぐに撤回されてしまったのですが、日本の平和憲法はその時の理想の名残りが9条にそのまま残っているということのようです。
もちろん日本占領軍のトップとして憲法改正を指示したマッカーサーも最初は完全な戦争放棄を考えていたようですが、日本を離れる時は既に朝鮮戦争を背景に、日本が軍隊を保持することは当然のことだ、という解釈に変わっていたようです。
以前「憲法の法源」という話をしました。憲法は「日本国憲法」というタイトルの文書だけでなく、その他多くの法律・規則・条約等もその憲法の一部をなしているということです。その中には軍隊を保持して必要な場合には戦争することを当然の前提としている国連憲章や、日米安保条約も入っています(国連憲章というのは軍事同盟であった連合国を引き継いで国際連合(国連)としていますから、何かあったら皆で協力して軍事行動しようという、基本的に「軍事同盟」ですし、日米安保条約も日本の近くを対象として限定しているものの、日米の軍事同盟であることは明らかです)。さらに憲法慣習も(憲法規範に明らかに違反する慣習であっても)憲法の一部をなす、ということになっています。
こうなると、国の組織として自衛隊という軍隊が存在する。それももう半世紀上にわたって存在し続けているという事実自体がこの憲法慣習になっている、ということになりそうです。国連に加盟し、日米安保条約を結んで二つの軍事同盟に参加している、ということも同様です。
このような状況では「日本国憲法」の条文からすると自衛隊の存在は違憲であるように判断でき、また自衛隊が半世紀以上存在し続けていることからすると、「日本国憲法」の条文が違憲であるように判断できるということになります。
こんな状況は困るじゃないか、と普通は思うはずなのですが、憲法学者は平気なようです。憲法の中味が相互に矛盾していてもそのままで、矛盾を解消するために憲法を改正しようとは考えないようです。『憲法を改正しない』という重大な目標に比べれば憲法の不備や矛盾なんかどうでも良い、ということのようです。
もちろん憲法の中には、憲法の規定が矛盾している時にそれをどのように調整し、どのように解釈するか、なんてことは書いてありません。ですからAという規定あるいは事象と、Bという規定あるいは事象とが矛盾している時、ある人はAという規定あるいは事象があるのだからBは憲法違反だと主張し、またある人はBという規定あるいは事象があるんだからAは憲法違反だと主張することができるわけです。
さらに憲法学者には「憲法の変遷」という奥の手があって、憲法の文言は変化がないのに解釈が変ることによってその意味が変る、ということを平然と主張します。すなわち「言葉の上ではそう書いてあるけれど、その意味はそうじゃないんだよ」と言うことです。
言ってみれば『ここには鹿って書いてあるけど実はこれは馬のことなんだから、そう読んでね』みたいなものです。ヤレヤレ・・・
なお蛇足ですが、この憲法についての勉強でポツダム宣言を読んだついでに、ミズーリ号で調印された日本の連合国に対する降伏文書を読みました。そこで「大本営」というのがJapanese Imperial General Headquartersと書いてあるのを知ってびっくりしました。
GHQというのは戦後アメリカ占領軍の司令部としてマッカーサーの下に組織されたもので、正式にはGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers(連合国最高司令官総司令部)の頭の部分から来ているのですが、日本の大本営もJapanese Imperial General Headquarters(大日本帝国総司令部)ということになり、これもGHQなんだ!!というわけです。
私はこれまでGHQは日本に命令する占領軍のもの、大本営は第日本帝国陸海軍を指揮するためのもの、とまるで別に考えていたのですが、大本営もGHQなんだ、GHQは占領軍の大本営なんだ、となったら、これは改めて考え直す必要があるかも知れません。
もちろん吉田(茂)さんをはじめ英語に堪能な人たちは大本営はGHQだというのはわかっていたのでしょうが、一般の人はどうだったんでしょう。改めて戦中・戦後のいろんな話を読み返す必要があるかも知れません。
いずれにしても憲法9条はいくらでも議論のあるところですから、私のコメントもこれくらいにしておきます。