芦部さんの憲法、いよいよ日本国憲法の中味に入ります。
日本国憲法は
前文
第一章 天皇
第二章 戦争の放棄
第三章 国民の権利及び義務
第四章 国会
第五章 内閣
第六章 司法
第七章 財政
第八章 地方自治
第九章 改正
第十章 最高法規
第十一章 補則
という構成になっているので、芦部さんの憲法もこの順に従ってひとつひとつ解説しています。
まずは前文から。
改めて前文をしっかり読んでみると、ビックリすることだらけです。
日本国憲法は、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重が三本柱だ、と良く言われます。前文というのは総まとめみたいなものなので、その一番大事な事だけ書いてあるのかな、と思っていたら、何と国民主権については書いてあるけれど、平和主義と基本的人権については前文に書いてありません。その代り平和主義については本文『第二章 戦争放棄』の所に書いてあり、基本的人権については本文『第三章 国民の権利及び義務』の所にしっかり書いてあります。逆に国民主権については前文には書いてあるものの、本文には書いてありません。
この、本文に書いてないということを確認しようと思ってネットで調べたら、1条に書いてあるとか、96条がそれだ、とかいう解説がみつかりました。
1条というのは、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という文章です。確かに「主権の存する日本国民」という言葉があるので、国民主権を言っているとも言えなくもないですが、この条は天皇についての規定で、その中でついでに国民主権を言っているだけのことです。国民主権が重要なら、こんなついでに言うんじゃなく、正面からきちんと言ってもらいたいものです。
あるいはこの条は、「天皇が象徴だ」と言うことによって「天皇主権でない」と言っているのであって、天皇主権でなければ国民主権に決まっているから、天皇主権を否定することによって国民主権と言っているんだ、という話もあります。
主権者が天皇と国民と二者択一だというならその理屈も成立ちますが、主権者となりうるものは他にもいくらでもいますので、この理屈は成立ちません。
96条は憲法改正の規定で、ここに憲法改正には国民投票が必要だと書いてあるので国民主権なんだ、という話です。でもこの96条で言っているのは、憲法改正の手続きは衆参両院での2/3以上の賛成、さらに国民投票での過半数の賛成ということで、これだけのことで国民主権のことを言っているんだというのは、ちょっと無理があるような気がします。
そもそも前文に書くのと本文に書くのと、どれ位の違いがあるかというと、芦部さんは
【前文は憲法の一部をなし、本文と同じ法的性質を持つと解される。】
と言っています。と同時にその3行先には
【しかしながら、これは前文に裁判規範としての性格まで認められることを意味しない。】
と言っています。
何ともはや不可解な文章です。
「裁判規範としての性格」は法的性質ではないと言っているんでしょうか。この「性格」と「性質」の言葉を使い分けている意味もよくわかりません。こんなわけのわからない教科書を一生懸命勉強していたら、法律の専門家が論理的思考が不得意になるのも理解できる気がします。
で、平和主義と基本的人権については、前文にはちょっとそれを匂わせているような文言はあるのですがきちんと書いてはないので、上では「前文には書いてない」と書きました。
ここで平和主義というのは「戦争放棄」という意味で使っています。単に平和が望ましいというだけでは、三本柱になるほどのものではないでしょうから。
前文はじっくり読んでみるとなかなか面白く、2番目のパラグラフには
【われらは、平和を維持し、専制と隷従(レイジュウ)、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。】
という文があります。そんな国際社会がどこにあるんだろう、と思ってしまいます。現時点で見ればまるで見当違いの国際社会に対する理解の仕方なのですが、その当時日本国憲法を作ろうとしていた日本側担当者・アメリカの担当者の目には、多分すぐにでもそのような国際社会が実現するだろうという、希望というか期待というか夢というかがあって、そのために9条の戦争放棄がすんなり入ってきた、ということのようですね。
現時点でこんな絵空事のような国際社会に対する認識を憲法に残しているというのは、戦後の憲法改正時の雰囲気を後世に伝えるためなんでしょうか。まさか嫌味で残している、ということでもないでしょうが。
基本的人権については
【われらは全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。】
と言って、日本国民だけじゃなく全世界の国民についての権利を謳っています。これは、シリアの内戦で殺されている市民や、北朝鮮で苦しんでいる人民の生存権をどう考えるのかなあと思ってしまいます。
で、国民主権ですが、明治憲法では天皇主権だったので「天皇」の所で天皇主権を書けば良かったのですが、それを日本国憲法にする時、「天皇」の前に国民主権を定める条を1つ、たとえば「日本国の主権者は国民である」とか入れておけば良かったのに、それをしないで「天皇」の所で「天皇は主権者でない」としただけなので、憲法の本文の中で主権者が誰だか書いてないということになってしまったわけです。
国民主権ということについては今となっては特に反対する人もいなさそうなので、この際その条を追加する憲法改正だけでもすれば良いのにと思うのですが、憲法・法律の専門家はあくまで憲法を改正すること自体が嫌なようです。
自民党の憲法改正案にもこの国民主権の条立てはないのですが、産経新聞の改正案にはこの条が入っています。
で、この国民主権が本文に入っていないことが理由、というわけでもないのでしょうが、どうもこの国民主権という認識は日本では一般的にあまりないようで、どちらかと言うと政権与党が主権者であるとか、政府が主権者であるとか、場合によっては最高裁判所が主権者であるという理解の方が一般的のようです。
そのため何かある度に与党に文句を言ったりおねだりしたり、政府の悪口を言ったり頼んだり、最高裁の判決に一喜一憂したり、基本的に他人依存で、自分で何とかしようという意識が少ないようです。
まあ国民主権といっても、アメリカやフランスのように国民が血を流して死にもの狂いで獲得したものでないから、ということなのかも知れませんが、終戦後半世紀以上経って、もうそろそろ意識改革が必要なのかも知れません。
そのためにも憲法を法律家の玩具にしておかないで、一度自分達の手で何でも良いから憲法改正をしてみれば良いと思うのですが、法律家は憲法が国民のものになってしまうと自分達が自由にいじくりまわすことができなくなってしまうので、嫌がるんでしょうね。