ケインズ『一般理論 第二章 古典派経済学の公準』(古典派の雇用理論)の続きです。
ケインズはこの古典派による労働の需要・供給の法則を否定するのですが、この章で否定するのは、第二の公準の方だけです。第一の公準の方は(実はかなり違ったものになるのですが、似たような姿で)ケインズの雇用理論でも出てきます。これは次の章で古典派の労働の需要・供給の法則に代わって、ケインズによる労働の雇用理論を提示する前置きになっています。
で、現実に失業、すなわち非自発的失業があるのに、古典派の経済学では非自発的失業はあり得ないことになっています。古典派の立場からすると、それはマーケットが間違っているということになるのですが、ケインズの立場は現実のマーケットがそうなっているのであれば、その現実に立った経済学を考えるべきで、現実と合わない経済学は無意味だ、と主張するわけです。
これに付けたりのように、古典派の第二の公準がどうして現実に成り立たないのかということに関して、労働者を雇う側は労働者と賃金交渉するのに失業者と交渉するのでなく、現に雇われている労働者と交渉するんだとか、労働者は名目賃金の引き下げには抵抗するけれど、物価上昇の結果としての実質賃金の引き下げにはそれほど抵抗しないとか、要するに労働者が働くかどうか決める時の行動は、供給曲線の作り方とは違うということをいろいろ言います。
しかしここの所、もう一つの、需要・供給の法則がうまく行くかない原因の一つに、供給者(労働者)側が供給する労働の量が常に一つしかない、ということも考えておいた方が良いと思います。
普通の物の需要供給の法則の場合には、たとえば売り手はある値段では供給曲線の80%しか売ることができないのに、値段をちょっと下げれば供給曲線の100%売ることができる。このような状況があることによってマーケット全体の値段が下がり、需要曲線と供給曲線の交わった所で値段と数量が決まるわけですが、労働の場合、たとえばある失業者が賃金をちょっと下げて働こうと思い、うまく職にありつくことができたとしても、それで仕事を失うのは一人だけで、他の労働者は今まで通りの賃金で働くことができる。これでは他の労働者も賃金を下げてでも働こうという話にはなりません。雇う方もたった一人分の労賃をちょっとだけ下げてみても、大したメリットにはなりません。
しかし昔と違って今では派遣業者というものがあり、多数の労働を一括して供給することができるようになっています。これを使うと何人もまとめて入れ替えることができますから、需要・供給の法則に近いことができるかもしれません。もっとも、いつでも労働者を新規の派遣社員に丸ごと入れ替えるというわけにもいかないし、今は労働者を保護するための法律が色々あってそう簡単には首切りができないので、現実にはなかなか難しいんですが。
今はどうなっているのか良くわかりませんが、昔、山谷や釜ヶ崎のドヤ街では寄せ場という所に日雇い労働者が集まり(立ちんぼう)、手配師が日当を言うと、その日当で働きたい人がトラックに乗り込んで現場に運ばれて行く、なんて風景があったようです。その一日が終わると雇用はすべてチャラになるんですから、これも古典派の世界に近かったのかも知れません。
いずれにしても今は雇う方も雇われる方もいろいろシチメンドクサイことになっているので、なかなか古典派の雇用理論は(もともと非現実的な想定で作られているので、当然といえば当然ですが)成立しません。
宇沢さんの本も宮崎さん・伊東さんの本もいろいろ古典派の雇用理論を説明していますが、ケインズの理論とは別の話なので、まとめて省略します。
で、非現実的な理論の否定ばかりしていても仕方がないので、次はいよいよこれに代わる、ケインズの雇用理論の話になります。