前回『「日本国憲法」まっとうに議論するために』という本を紹介しました。この著者の樋口陽一さんが面白かったのでついでに他の本も読んでみようと思って、図書館で借りてきました。
そのうちの一番読みやすそうな『「日本国憲法」を読み直す』という本を読みました。この本は小説家、劇作家、放送作家の井上ひさしさんとの対談で、憲法について話をするというものです。
井上ひさしさんと樋口陽一さんは、昔仙台一高の同期生だ、ということで、なかなか楽しい対談になっています。
ところがその内容はというと、樋口さんの発言が何とそこらの立憲主義の憲法学者の発言と同じになっています。
ちなみにこの『立憲主義』という言葉、調べてみると憲法を”the Constitution”というのに対する“constitutionalism”という言葉のようです。直訳すると『憲法主義』です。
“constitution”という言葉も『仕組み』とか『構成』とか言う位の普通の言葉で、これに定冠詞の“the”を付けると『憲法』になるというもので、これも直訳するのであれば司馬遼太郎さんの言葉でいう『(国の)かたち』という位の意味です。
ですから『立憲主義』というのは、言い直せば『(国の)かたち主義』ということになります。
これだけじゃ何のことか分からなくなってしまうので、いろいろ意味づけをしていくことになるのですが、それにしても立憲主義などと言う言葉の代りに憲法主義あるいは(国の)かたち主義という言葉を使うようにするだけで、いわゆる立憲主義の憲法学者の先生方の頭の固さがかなり緩和されるんじゃないか、と思います。
日本語は漢字を使って漢語を作ることができるので、いろんな言葉が作れます。それだけ言葉が豊かだというのは素晴らしいことなんですが、一方厄介なことにもつながります。
たとえば『ナショナリズム』という言葉、もともとの意味は『国民主義』という位の意味なのですが、これが『民族主義』とか『国家主義』『愛国主義』『国粋主義』とかいう言葉に翻訳されると、それだけでそれぞれ別々の意味を持ってしまいます。
英語を使っている人は”nationalism”という一つの言葉で議論しているのに、日本語を使う人はそれを訳した『民族主義』とか『国家主義』とか『国粋主義』とかいう言葉で議論するんですから、議論がおかしくなってしまうのも不思議じゃありません。
このあたり、外国語を翻訳した言葉を使うときは要注意です。
で、本題に戻ってこの本に登場する樋口さんの発言が、前に読んだ『「日本国憲法」まっとうに議論するために』の話とあまりにも違うので、その理由は何だろうと考え、次の3つの仮説を立ててみました。
- 『「日本国憲法」まっとうに議論するために』を読んだ時の私の読み方が間違っていて、実は樋口さんはずっとそこらのいわゆる立憲主義の憲法学者と同じ考えの人なんだ。
- この対談をした時、古くからの友人である井上ひさしさんを立てるために(井上ひさしさんというのは、いわゆる赤旗文化人の代表みたいな人ですから)井上さんが喜ぶように、樋口さんはいわゆる立憲主義の憲法学者のような発言をした。
- この対談をした時、樋口さんはまだ60歳になる前の若年で(この本は1993年の対談を本にしたもので、樋口さんはまだ60歳にもなっていません。私も65歳になると60歳位の人を若者よばわりしてしまいます)、その当時はいわゆる立憲主義の憲法学者と同じように考えていたんだけれど、その後20年も経って80歳を超えると、樋口さんもようやく本質がわかってきて、まっとうな憲法学者になった。
仮説1.が正しいとすると、私の本の読み方は何だったんだということになります。私としては仮説3.が正しくて、いわゆる立憲主義の憲法学者もその後勉強を続けていけばいつかは考えを改めて真っ当な憲法学者になるかも知れない、というふうに思いたいのですが、どうなるでしょうか。
そのように考えると何か希望が持てそうな気がしませんか。
うまく答にたどり着けるかどうか分かりませんが、もうしばらくいろいろこの人の本を読んでみるつもりです。