『太平記』

これは、私の読んだ新潮日本古典集成で、太平記第1巻から第40巻までが、太平記(一)から太平記(五)までの5冊にまとめられています。B6版で本文だけで2,000頁、各冊ごとについている目次・凡例・解説・付録(年表・系図・地図)を併せると2,500頁を超える大作で、とにかく大変でした。

『太平記』というと普通、いわゆる皇国史観のガチガチの物語で、後醍醐天皇という聖人君子の天皇と『七度生まれて朝敵を討つ』と言った忠臣の楠正成の物語だと思われていますが、この元々の太平記はまるで違います。

後醍醐天皇というのは確かに優秀で真面目で努力家だったのですが、一方、聖人君子気取りで実は現実がまるで見えていない人で、近くにいる人の言葉に簡単に振り回され、足利尊氏、新田義貞その他武士達のお蔭で鎌倉幕府を倒し天皇親政の体制を作った(第12巻)までは良いのですが、その体制作りに貢献した武士達に対する恩賞より、自分の近くにいる公家や女官達の縁者に対する恩賞ばかり優先させて、結局武士達の不満から足利尊氏がそのような武士を代表して後醍醐天皇と戦うことになる。これが『建武の乱』という、ということです。『建武の中興』というのは学校でも習う言葉ですが、『建武の乱』というのは初めて知りました。

楠正成というのも、湊川の戦いでいよいよ明日は討ち死にだという時に『本当はこんな事を言うのは罰当たりだけれどもそれを承知で、7回生まれ変わって朝敵の北朝方を滅ぼしたい』と言って(実はそれを言ったのは正成の弟の正季で、正成はそれに完全に同意した、ということになってますが)、念願かなって死んだあと、第六天の魔王の手下となって何度も足利尊氏の弟で、足利側のリーダーだった足利直義の夢に登場し、直義をもうちょっとで殺す所まで行ったけれど、残念ながら7回生まれ変わって・・の回数が終わってしまって念願を果たすことができなかった、ということになっています。

『第六天の魔王』というのは、比叡山の焼き討ちをしたり安土城を作って生きながら自分を神様にしてお賽銭を取ったりした織田信長の呼び名という位しか知らなかったのですが、この太平記では何度も登場し、例えば天照大神が自分の子孫を天皇にして日本を治めさせようとした時も、仏教が盛んになると日本が危うくなってしまう、と言ってそれに反抗し、結局天照大神が『自分は仏法僧の三宝には近づかないから』と約束し、それならということで第六天の魔王は天照大神の子孫をこの国の主として守っていく約束をした、なんて話もでてきます。(第16巻)

いつも武士同士の戦争の話ばかりではもたないので、間に中国の故事や日本の昔話、仏教経由のインドの説話なんかもふんだんに盛り込んでいて、日本では菅原道真が天満の天神様になる経緯なんかも詳しく解説しています。また恋物語もいくつも入っています。

話が戻りますが、後醍醐天皇というのは平気で嘘をつく人で、最初足利氏に京都を追い出された時に比叡山に逃げる振りをして、身代りを立て自分は吉野に逃げ、始めは本物だと思って熱烈に支持した比叡山の僧兵達を騙し、すぐにそれがばれて僧兵達をがっかりさせた、とか、また別の時、足利方に京を追い出されて比叡山に逃げ、味方する武士達も周りに集まっているのに、形勢不利だとなったら、味方をみんな置いてきぼりにして一人でこっそり抜け出して足利方に降参したり、という人のようです。その時も足利方のリーダーの足利直義に『まず三種の神器を渡せ』と言われて、前もって用意していた偽物を渡した、ということです。

南北朝の戦さでは南朝の天皇が北朝に降参したり、北朝の天皇が南朝に降参したりしています。その時、当然三種の神器を渡せということになるのですが、後醍醐天皇というのは頭が良いだけあってあらかじめそのような事態を想定して三種の神器の偽物をいくつも作っておいて、一組は自分の息子の一人に持たせて北陸の方に逃がし、場合によっては正当な天皇として即位させようとしたり、一組は自分が北朝に捕まった時に渡すように持っていて、さらにもう一組は捕まった後で逃げてもう一度南朝を立て直す時に自分自身の正当性の根拠として使う、なんてこともしたようで、こんな事をしたらどの三種の神器が本物かなんて誰にも分からなくなってしまいますから、結局天皇が『これこそ本物だ』と言って周りがそれを信じたらそれが本物だということになってしまいます。

三種の神器の話はやはり重大な話のようで、源平の戦いで安徳天皇と共に海に沈んだ三種の神器、鏡と玉はその後みつかったけれど見つからなかった剣が、何とこの南北朝の戦いの最中に壇ノ浦からはるばる海を渡って伊勢の海岸に流れ着いたなんて話も書いてあります。これについても本物かどうかという話になり、本物だと主張する公家と偽物だと主張する公家があり、どちらとも決められずに平野神社に預かって貰ったなんて話もあります。(第25巻)
あるいは、北朝の天皇が南朝に降参して三種の神器を渡したら、南朝の方は『こんなにせもの』と言ってそこらの家来用のものにしてしまった、なんて話もあります。

そんなこんなで最初は鎌倉幕府と後醍醐天皇の官軍との戦いだったのが、次に後醍醐天皇の官軍と足利将軍の戦いとなったわけですが、楠正成が死に(第16巻)、官軍方の代表である新田義貞が死に(第20巻)、後醍醐天皇が死に(第21巻)、足利尊氏の弟の足利直義が死に(第30巻)、足利尊氏が死(第31巻)んでしまうと、それでも全国各地で戦さは続いていくんですが、それはもはや南朝対北朝の戦いということではなく、地方の武士団同士の戦いで、その時相手が南朝方だとなったらこっちは北朝方になろう、相手が北朝方だったらこっちは南朝方だといった具合になっていき、もはや何のために南北朝が戦っているのか分からなっていきます。

最後に、後醍醐天皇の次の北朝の天皇である光厳院禅定法皇(光厳天皇)が、京を離れて伏見の奥の方に隠棲していたのですが、思い立ってお伴の僧を一人だけ連れて旅をします。
楠正成によって多数の北朝方の武士が殺された金剛山から高野山、そして南朝の天皇達が逼塞(ヒッソク)していた吉野まで訪ねて行きます。南朝の天皇方と涙の再会を果たした後、京の伏見の奥に帰りますが、そこでは宮中から使者が来たり他にも訪問して来る人も多かったのでめんどくさくなって丹波の山国という田舎に引っ込み、そこで亡くなります。遺体を京まで運ぶわけにもいかないので、天皇や上皇などがその田舎まで行って簡単に葬儀を済ませます。

これで太平記の世界は終わったようなものですが、戦はなかなか完全には終わらずもうしばらく続きます。しかしそれはもう付け足しのようなものです。

そして、二代目の足利義詮将軍も死んで三代目義満の時代になります。
南北朝の話もここで終わります。

何はともあれものすごく長い物語ですが、七五調の文語の文章はなかなかリズミカルで調子に乗ればスムースに読むことができます。

この本は『天皇ご謀反』という言葉がしょっぱなから出てきます。謀反を起こす方も、起こされる方も、これが謀反だ、天皇が時の鎌倉幕府に謀反を起こすんだ、ということを認識しているようです。
この言葉はなかなか新鮮です。

また、このような太平記がいつどのように皇国史観の話になったのか、これも興味のある話なのですが、今はまだ2000ページ読み切っておなか一杯、といったところですので、これについてはいずれ別の機会に、と思っています。

この新潮社の版は『注』の付け方も素晴らしく、楽しく読み進めることができます。

興味がある方は見てみて下さい。楽しめると思います。

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