『古事記』と『日本書紀』とは日本の神話と神代からの歴史をまとめた書物として説明されているものですが、この本ではこれらの本がどのように日本で読まれ続けてきたのか説明してくれています。
はじめに本居宣長の『古事記伝』の話をして、この本は本居宣長が古事記の説明をするというより、古事記にまとめられるそれ以前の古事記の姿を探し求めるというものだ、ということになるようです。文字になる前の言葉を、文字になった後の古事記や日本書記の中から探しだそうということのようです。そして『もののあわれ』というものがその本質だ、ということが説明されます。
次の章では中世の日本書記の理解について、その当時の中国の文献・仏教の文献を使いながら、神道・仏教・儒教・道教も本質は同じなんだとして理解しようとしていたことが説明されます。
次の章では古事記・日本書紀は日本の神話、というよりむしろ天皇の神話なんだという話があり、次の章では古事記の神話、次の章では日本書紀の神話が紹介されます。
ここで今まで私は古事記と日本書紀、どちらも神話の部分は同じようなことが書かれているものだと思っていましたが、実はかなり違うものだということが説明されます。
イザナキ・イザナミ神話では、火の神を産んだ時イザナミが死んでしまい、黄泉の国へ行ってしまったので、イザナキはそのあとを追っていくんだけれど、イザナミの恐ろしい姿を見て逃げ出したという話は古事記の話で、日本書紀ではイザナミは死なず、その後もイザナキと一緒に国造りをする、とか、高天原(タカマガハラ・タカアマノハラ)に神々が生まれ、イザナキ・イザナミが国作りをするというのは古事記の神話の話で、日本書紀には高天原は登場しない、天の世界が高天原とよばれることはない、というのもビックリする話です。
さらには『アマテラス』というは古事記では神話の世界の主人公的役割を果たす重要な神ですが、日本書紀では『日の神』として登場するだけで大した役割を果たすわけではないという話にもびっくりします。
これほど根本的な違いがあるにもかかわらず古事記の世界と日本書紀の世界を一つの世界として統一し、さらに中国の思想や仏教の世界まで一緒に一つの世界として統一し、さらには天皇家の様々な祭祀とそこで唱えられる祝詞(のりと)の世界まで含めて統一してしまおうと言うのが今までの考え方で、そのために非常に豊かな神話の世界が出来上がったのだけれど、これは改めて別々の神話だという視点で見直す必要があるのではないか、というのが著者の言い分です。
まあ、同じような事柄について二つの異なる説明がある場合、どちらかが正しくてそうでないほうが間違っている、と言えない時に、何とかして両方を立てて統合したくなる、というのはごく自然なことなので、これも仕方のないことなのかもしれませんが。
こう言われてしまうと今まで漠然と日本の神話として考えていたものが古事記の世界なのか、日本書紀の世界なのか、祝詞の世界なのか、一体何だったのか改めて読んでみたいという気持になります。
今まで自分の考えていたこと、知っていたことは一体何だったんだろうと思わせる不思議な本です。またひとつ大きな課題がみつかってしまいました。古事記にしろ日本書紀にしろ、万葉仮名付きの漢文あるいは変体漢文の世界ですから、読むのは結構大変そうです。
さてどうなりますやら。