マルクスの『資本論』と『経済学批判』

アダムスミスの「国富論」がとても面白かったので、その続きとしてマルクスの「資本論」を読んでみようかと思いました。

ちょっと見てみたのですが、今度は「国富論」の時のように、絵がたくさん入った本がみつかりません。そして翻訳はいろいろあるけれど、基本的にどの訳も岩波から出てる向坂逸郎(サキサカイツロウ)さんの訳を参考にしているとのことです。
であれば、その向坂訳を読んでみようと思いました。岩波文庫版で全部で9冊になります。

国富論のときは一冊目をちょっと読んだだけで、残りの2冊目・3冊目を買ってしまったのですが、今度は9冊読める自信がないので1冊だけ買いました。で、読んでみたのですが、まるで読めません。

序文がとにかく50ページもあるのですが、これはまず後回しにしておいて本文に行くと、こんな調子です(文庫本67頁)。

『資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがってわれわれの研究は商品の分析をもって始まる。』

これ位であれば「成素形態」などという意味不明な言葉を除けば、何とか読むことはできます。しかし読み進むと次第にわけがわからなくなります。
「わけがわからない日本語を無理して読むことはない」と言ってしまえばそれまでなんですが、せっかく読み始めたのにと思っていたら、インターネットの記事で「英訳はわかりやすいよ」という記事がありました。

さすがにインターネットの時代、ネット上に英訳がいくつも公開されています。適当にみつくろって読んでみました。さっきの初めの所、その英訳を私が訳すと

【資本主義的な生産が広く行き渡っている社会では、富は「商品の巨大な集積」として表れます。その構成要素が一つ一つの商品です。そのため我々の検討は商品の分析から始めなければなりません。】

という具合になります。
これならわかりやすいので、日本語がわからなくなったら英訳を見ながら読んでみようと思いました。私もそれほど英語に強くはないので、最初から全部英語で読む覚悟はありません。

そうしていたら10ページほど進んだところで(文庫本78頁)、

『商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に証明したのである。』

といって、「経済学批判」の中でその証明がなされた、と(注)に書いてあります。

この証明の所、英訳では

【この、商品に含まれる労働の二面性を最初に指摘し、批判的に検討したのは私です。】

となっています。「証明した」というのと「指摘した」というのは大分意味が違うような気もします。ともかく、そうであれば、ちゃんと理解するには「経済学批判」の方をまず読まなくちゃなりません。
そういえばチラッと眺めた「資本論」の最初の序文にも(なにしろこの本には6個もの序文があります)、

『この著作は、1859年に公けにした私の著書「経済学批判」の続きであって・・・。右の旧著の内容は、この第1巻の第1章に要約されている。・・・』

とあります。であれば、そんな要約ではなく元々のものを読んでみようと思って、「経済学批判」のほうも買いました。これも岩波文庫から出ていて、これは1冊だけですから、これくらいは何とか読めそうです。

この本は面白いことに第1部・第1編・第1章と第2章だけで、あとは付録です。第2編もなければ第2部もないのに、第1編とか第1部となっているという不思議なものです。
実は、「資本論」という本、正式なタイトルは、「資本論:経済学批判」というものですから、実は、「経済学批判」はもともとは「資本論」の内容が全部入るはずだったのかもしれません。それで、第2部、第3部、あるいは第2編、第3編が追加されるはずだったのが、途中でストップしたのかもしれません。

この本もやはり日本語はかなり理解不能なので、これもインターネットで英訳をみつけて、それを参考に読んでいます。

昔、英語の勉強のために原文を読む時に日本語訳を参考にしながら読んだという経験がありますが、日本語を理解するのに英訳を参考にするというのは面白いことです。でも先日書いたように、漢文や古文の参考書でも日本語の説明をするのに英語を使っているんですから、これも特に不思議なことでもないのかも知れません。

で、この「経済学批判」の書き出しですが(文庫本21頁)

『一見するところブルジョア的富は、ひとつの巨大は商品集積としてあらわれ、個々の商品はこの富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおのの商品は、使用価値と交換価値という二重の視点のもとに自己をあらわしている。』

となっています。「資本論」の書き出しに似ています。ここでも『原基的定在』とか『自己を現している』とか、良くわかりませんが、私が使った英訳によると、

【ブルジョア社会の富は、一見したところ、商品の巨大な集積として姿を現します。その集積の構成要素は個々の商品です。それぞれの商品にはしかしながら使用価値と交換価値という二つの側面があります。】

となっています。これなら何の問題もなく、良くわかります。

で、20ページほど行った所で、こんな文章が出てきました(文庫本43頁の終わりの部分)。

『それゆえ、商品が使用価値になることによってうける唯一の形態転換は、その所有者にとっては非使用価値で、非所有者にとっては使用価値であったというその形態上の定在の止揚である。』

この『定在』という言葉、この訳者は好きなようで良く使われるのですが、イマイチ意味は良くわかりません。それよりこの『止揚(しよう)』という言葉、懐かしい言葉です。ドイツ語の「アウフヘーベン」という言葉の訳で、哲学的な呪文のようなものです。その昔、高校や大学でマルクスかぶれの連中が「止揚だ」「アウフヘーベンだ」とうわ言のようなことを言っていたのを思い出します。

その言葉の意味は何度聞いてもちっともわからなかったのですが、今度こそ分るかもしれないと思って、英訳の方を見てみます。この部分、英訳では

【それゆえ商品が使用価値になる過程で経験する唯一の変形は、それがそれまでその所有者だった者にとっては使用価値でなかった、として所有者でないなかった者にとっては使用価値であった、という形式的な存在の仕方が、そうでなくなるというだけのものです。】

となっています。
すなわちここでは使用価値でなかったものが使用価値になる、使用価値だったものが使用価値でなくなる、という、「でなくなる」が止揚という言葉の意味のようです。

なあんだ、てなもんです。

そんなわけで、とてものんびり読み進んでいます。まずは「経済的批判」。それが終わってまた「資本論」に戻るつもりです。9冊目にたどりつけるのはいつになることやら。

でも学生時代にこの本を教科書として読むことにならなくて本当に良かったと思います。「定在」だ「止揚」だなどという言葉に振り回されないですむんですから。

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