さてこれまでで「消費」は限界消費性向により、所得から導き出すことができる。「投資」は資本の限界効率(投資に対する見込み利回り)と金利の大小で決まるということになりましたが、それでは次に「金利」はどのように決まるのかというのがテーマになります。
これに関してケインズの答は「流動性選好」というものです。すなわち手元にあるお金はいつでも自由に使うことができるけれど、それを投資のために貸し付けてしまうとそれが返ってくるまでは使うことができない、ということになります。この「しばらく自由にできない不便の対価が金利だ」ということになります。
これは言われてみれば至極もっともで、むしろ「何を今更」という気がしますが、ケインズによればこの考え方はケインズの前の古典派とはまるで違う考え方だということになります。
それではその古典派はどう考えていたのかということになりますが、ケインズによるとこうなります。すなわちお金を持っている人がいて、金利が低ければそのお金を貸そうという気持はあまりないけれど、金利が高くなればなるほどいくらでもお金を貸そうとする。一方でお金を借りて投資したい人がいて、金利が高いとあまり借りられないけれど、金利が低くなればなるほどいくらでもお金を借りたがる。そのお金に対する需要と供給で金利が決まる、ということのようです。
お金を遊ばせておいても何にもならないんだからとりあえず使わないお金はちょっとでも金利を稼ぐために貸し付ける、貸し付けないお金は消費に回してしまう、ということです。
これはこれで確かに理屈に合いますが、だからと言って金利が低ければいくらでも借り手がいるとか、金利が高ければいくらでも貸したい人が出てくるなんてこともなさそうで、古典派というのは本当にそんなことを考えていたのかなと思ってしまいます。
私が学者だったり研究者だったりすると、ケインズが言ってるように古典派の先生方はホントにこんなことを言ってたんだろうかと、それを確かめるために古典派の本かなんか読まなきゃいけないんですが、こちらは単に興味本位で本を読んでいるだけのヤジウマです。ケインズがこう言っているというのは、単に「ケインズはこう言っている」としておけば良いので、気楽なものです。ケインズも「古典派がこう言っているというのをはっきり示す文章はないけれど・・・」なんて言って、何となくそれらしいことを言ってそうな部分をいろんな本から引用するだけなので、本当にその意味かどうかはその引用されてる部分の前後をじっくり読んでみないとわからないな、という位なものです。
で、面白いことにこの「第14章 古典派の利子率理論」の中に「新古典派」という言葉が登場しています。「一般理論」のはじめの方に、「古典派のあとの人もひっくるめて古典派と言う」と言ってたのはどうしちゃったんだろう、と思ったりしました。
で、この章の中にこの「一般理論」の本の唯一の図が出てきます。ところがこの図は古典派の考え方を説明するための図で、「これこれこのように古典派の考え方は役に立たないんだ」と説明するためのものです。ということで、ケインズの考えを説明するための図は「一般理論」の中には一つもない、という何とも情けない話です。
この章の最後にケインズの考え方と(ケインズの言う)古典派の考え方の比較が書いてあります。
私流にまとめると
古典派 :
「消費が減少すると→利子率が低下して→投資が増える」
ケインズ :
「消費が減少すると→雇用が減少し→所得が減少して→投資が減少する」
となるんですが、スタートが同じで最終結果がまるで逆です。
さて、どっちが正しいと思いますか?