両班(ヤンバン)

韓国の歴史の教科書を読み終わって、改めてちゃんとした本を読んでみたいと思いました。
普段図書館ではあらかじめネットで検索して、予約した本を借りてくるだけなのですが、久しぶりに本棚の前でタイトルを眺めていたら、
 「両班(ヤンバン) – 李朝社会の特権階層」という宮嶋博史著・中公新書が目に入りました。

両班というのは、韓国の歴史と現在を理解する最大の鍵だ、と以前から思っていたので、早速借りて読みましたが、期待通りの素晴らしい本でした。

著者は韓国の古文書を直接読むという方法で、李朝になって特権階層としての両班、特に地方の特権階層としての両班が出来上がってきて、それが社会の目標となり、誰もが両班になる、あるいは両班的生活様式を取り入れることを目標として今回の韓国社会が出来上がったという経過を族譜(日本でいう家系図の韓国版ですが、はるかに膨大なもので、韓国人の多数がこのどこかの族譜に属しているようで今でも日常的に使われているようです)・遺産相続の書類・日記・戸籍などの統計資料を読みながら解析していきます。

そもそもこの両班という言葉自体いろんな意味がある言葉なんですが、社会的身分をさす語としての両班にしても、一言では言えない意味の言葉のようです。

 【両班というのは法的に決められた階層ではないけれど、だからと言って曖昧なものではなく、誰が見ても両班か両班でないかが明確に見分けることができるようなものだ。】
というんですから、これだけじゃ何のこっちゃと思うのですが、この本を読むとそのあたりが良くわかってきます。

で、その両班というのが儒教の性理学(日本では朱子学と言われているものですが、韓国で独特に発展したものです)に基いて儒教を勉強することが本分ということになりますから、地方の役人の監督をするくらいのことはしますが、実際に身体を動かすようなことはしないことになっています。自分の田畑も自分で農作業するわけにいかないので、奴婢に農作業させてその監督をするだけ、あるいは商売をするにしても奴婢に商売させてその指示をするだけ、ということになります。

この「奴婢」というのが両班の財産として売り買いしたり相続したりの、要は奴隷なのですが、これが自分の田畑を持っていたり財産を持っていて自分で商売したりする、何とも不思議な奴隷制度です。

ですから両班が奴婢に種蒔きをさせてもチラホラとしか芽が出てこない、奴婢が種をくすねてあとで自分の畑に撒いているに違いないとか、奴婢が休みをとって布を売りに行くというので両班が自分の布も売ってきてくれと頼んだところ、帰ってきた奴婢に「自分の布は売れたけど、両班の布は売れませんでした」と言われて悔しがる、なんて話が出てきます。

奴隷制というのは経済効率が悪くて、アメリカの南北戦争のリンカーンの奴隷解放も人道的な観点というよりは経済効率の観点から決められた、という話もありますが、韓国でも李朝が終わって大韓帝国になる頃(日本では明治維新の頃)には奴婢がほとんどいなくなったようです。

両班としても種をくすねられることがわかっていて農作業を監督するより、奴婢を解放して小作人にして好き勝手に農作業をさせておいて小作料をしっかり取り立てる方が監督する手間も要らないし有利だ、ということに気がついたんでしょうね。

で、この両班、李朝の初期には人口の10%弱だったのが終わり頃には人口の70%にもなっていて、今では韓国人の殆どが「自分は両班の家系だ」ということになっているようです。

両班というのは両班的生活習慣と両班的価値判断が両班かどうかを決める最重要ポイントですから、韓国人の不思議な礼儀正しさと理屈っぽさ・歴史認識を理解するには、この両班をちゃんと理解する必要がありそうです。その意味でこの本はお勧めです。

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