『一般理論』 再読-その2

『一般理論』再読を始めるにあたり、その準備段階としていわゆる『需要・供給の法則』をしっかり押さえておく必要がありそうです。で、まずは『一般理論』に入る前に『需要供給の法則』の中味を確認したいと思っています。

というのも、古典派の経済学ではありとあらゆる場面でこの考えが登場し、需要曲線と供給曲線が交わった所で価格と売買される数量が決まる、というのがごく当たり前の話として認められているからです。

『一般理論』の最初に出てくる古典派の雇用理論の二つの公準というのも、労働の需要・供給と価格について需要曲線と供給曲線がどのように決まるか、という議論から始まるわけですから。

で、この需要供給の法則ですが、その中味については普通の経済学の教科書ではほとんどきちんとした説明がされていません。

そのことをまずお話したいと思います。

私が最初に疑問に思ったのは、需要と供給がマッチして値段と売買の数量が決まったとして、その次はどうなるのだろうということです。普通に考えれば需要と供給がうまくマッチしてめでたしめでたし、両方とも消えてしまうとそれでおしまいになってしまう、ということですが、どうもそうではなく、需要曲線も供給曲線もそのまま残るようです。だとすると、この需要供給の法則で言っている需要も供給も一旦マッチして終りということではなく、その後も継続的に発生する需要と供給のことのようです。

そのつもりでいくつか経済学の教科書を読んでみると、そのことがちゃんと書いてある本もありました。サムエルソンの経済学では、本文の中には書いてありませんが、需要曲線や供給曲線のグラフの所で『1年あたりの』需要なり供給なりの数量と書いてありました。
スティグリッツの経済学では、需要曲線や供給曲線の所には単に数量の単位しか書いてありませんが、本文の説明の一部に『週あたりの』という言葉があります。
それ以外ではこの需要・供給が一定期間の需要・供給のことを言っていて、継続的にほぼ同じ位の需要・供給が発生する物について議論しているんだということがまるで書いてありません。

ともかくサムエルソンの教科書で、この需要・供給というのが一定期間の需要・供給を意味するんだということが確認できたので、次に進むことにします。

で、この需要曲線あるいは供給曲線ですが、その意味は、ある商品に関してある値段が決まった時、その値段で買いたいあるいは売りたいという数量を(が)それぞれの買い手あるいは売り手ごとに決め(決まり)、値段を縦軸に、買いあるいは売りの数量を横軸に取ったグラフにし(これを個別の需要曲線あるいは供給曲線といいます)、これを全ての買い手・売り手について集計して値段ごとに市場全体の買いあるいは売りの合計の数量を横軸に取ったグラフを作ります(これが全体の需要曲線あるいは供給曲線になります)。

そこで、需要曲線は左上から右下に向かった曲線(値段が安くなると需要が増える)になり、供給曲線は左下から右上に向かった曲線(値段が高くなると供給が増える)になるので、その二つの曲線が交わった所で需要量と供給量が同じになり、そこの値段でそれだけの数量の売り買いが成立する、というわけです。

この需要曲線・供給曲線の作り方で、需要側が『買いたい』、供給側が『売りたい』数量を集計して、という説明が普通されるのですが、古典派の考えはそんなものとはまるで違います。『買いたい』とか『売りたい』とかいういい加減な話ではありません。『買いたい』ではなく『買います』、『売りたい』ではなく『売ります』ということです。

値段が100円の時1,000個売る、となったらそれだけ(1,000個分)の需要があったら何が何でも1,000個売らなければいけません。売りたいと思ったけどやっぱりやめた、なんてことは許されません。需要の方も同様で、値段が100円の時1,000個買うとなったらそれだけ供給してくれる売り手がいたら何がなんでも1,000個買う、ということです。

これだけでも大変なのに、古典派の経済学というのはもっとすごいものです。すなわち値段100円の時に1,000個売るという時の1,000個というのは、取りあえず1,000個売れると嬉しいなとか、前期が800個位だから今期は1,000個にしておこうか、とかいう話ではありません。1,000個までなら売上原価と販売経費を足して売値100円でしっかり儲かるけれど、1,001個にすると逆にその1,001個目について売上原価と販売経費を足すと売値の100円を上回ってしまい、儲けが少なくなってしまう。そのようなギリギリの数が1,000個だというものです。

買い手の方も、たとえば10個買うというのは、10個分のお金を払ってでも10個買う方が満足度が大きいけれど、11個買うとなると11個買った満足度から11個分のお金を払ってしまった不満感を差し引いたものが10個の場合より小さくなってしまう、というギリギリの個数です。

売り手も買い手もこのようなギリギリの個数をそれぞれの値段ごとに決めることができるとして、それを値段ごとに瞬時に集計してその集計結果にもとづいて値段と売り買いの数量が瞬時に決まる、そしてその値段と数量で売り買いが成立する、というのが、古典派の経済学の需要・供給の法則です。

現実にはもちろん、値段が100円だったらどれだけの数量売るか買うかなんてことは、その時にならなければ分かりません。しかも上に書いたようなギリギリの数量なんてものは普通考えません。考えたとしても、実際にそのギリギリの数量まで売ったり買ったりなんてことはしません。でも古典派の世界では全ての売り買いの参加者全員について、それぞれの値段について売り買いの数量がわかり、それを集計したそれぞれの値段ごとの全体の売りの数量・買いの数量が瞬時に分かり、その需要曲線と供給曲線の交わった所の値段がいくらになるか全員が分かり、その時その値段で自分が売りあるいは買う数量がいくつなのかも自動的にわかり、その値段・数量で売買が成立してめでたしめでたし、という、とても常識では考えられないような話です。

誰がどう考えても非常識な話なんですが、古典派の経済学はこのように考えることになっています。このように考えるのはもちろん理由があります。

すなわち、そのように考えることによって売買の値段と数量がきっちり決まる、ということです。これによって色々な問題が解けることになるからです。

学者にとって、現実的だけれどきちんとした結論を出すことができない(即ち解けない)問題と、現実的じゃないけれど論理的にきちんとした結論を出せる(解ける)問題と、どちらが良いかということになったら、答が出る方が良いのははっきりしています。

たとえ前提とするものがまるで現実的でなくても、論理的にきちっとした答えが出せればそれは業績として評価されます。現実的な問題を設定していくら頑張ってもしっかりした答えを出せなければ、それは業績とは認めてもらえません。

そんなわけで、この古典派の経済学がこれほど現実離れしているにも関わらずずっと正統派の主流の経済学の地位を保っている、ということになるわけです。

需要・供給の話、まだしばらく続きます。

Leave a Reply