言論の自由と信教(信仰)の自由

フランスのシャルリー・エブドという風刺画の雑誌社がテロリストの攻撃を受け10数人が殺されてから、『言論の自由を守れ』というキャンペーンがいろんな所で行われています。

しかしこれは実はすり替えであって、問題となっているのは『言論の自由』ではなく『信教の自由』あるいは『信仰の自由』の問題ではないかと思います。

シャルリー・エブドはイスラム教の預言者マホメッドをバカにする風刺画を描いて、それを出版した、それに対してイスラム教徒は、最高・最後の預言者を冒涜するものだとして怒った、その延長線上でテロリストがシャルリー・エブドを襲い、10数人を殺した、というのが事件のあらましです。

これに対して、風刺画を描いて発表するということは言論の自由に関することであり、その雑誌社を襲って人を殺すというのは言論の自由を侵すことだ、というのが一般に行われている説明です。

このテロが行われたのはフランスで、フランス革命の国です。フランス革命というのは絶対王政を倒して民主政(共和制)にする革命だったのですが、実はキリスト教の支配体制を倒す、反キリスト教の革命でもあって、一時はキリスト教を否定して人工的に神様を作って山車を出してお祭りをした、という話もあります。

その後フランスは帝政になったり王政に戻ったりまた革命を起こして共和制になったりと色々変わっていますが、共和制(今も何回目かの共和制です)である時はフランス革命を引き継いでキリスト教を否定し(明確には言わないものの)、無神論を国の政治の方針としています。

『無神論』というのは日本では『特に宗教に入ってないよ』とか『神も仏もあるものか』とか、『別にどんな神様でも良いんじゃね』とかの感覚で無宗教と混同されることも多いのですが、本来的にはまるで違うものです。

すなわち(キリスト教社会の中)の無神論というのは、むしろ積極的に神を否定するもので、とはいえ存在しない神を否定してもしようがないので、存在しない神を信仰している人に対して、その人が信仰している神は存在しないんだということを分からせて目を覚まさせてあげることを目的としている宗教です。

ですからいろんな神様の神殿を壊したり・焼き払ったり、神様の像をたたき壊したり・教典を破ったり・焼いたりすることが、無神論では正しい宗教活動ということになります。

ヨーロッパのキリスト教国は、キリスト教にはひどい目にあっています。異端だといって迫害したり、新教と旧教に分かれて国民同士が殺し合ったりしたりして、国民の1/3とか1/2とかを殺したりという経験をしています。ドイツなんかは新教・旧教の戦いのために外国の軍隊まで乗り込んできて国土が荒らされ国民が殺されたという経験をしています。

そのため殺し合いが終わった後は、一応『もう殺し合いはやめよう』という合意ができています。

宗教が違う相手の宗教を認めることはできなくても、そのために『相手の宗教を否定して相手の宗教の信者に改宗を迫ったり殺したり、なんてことはやめて、自分の宗教を信じ、それを実践していくだけにしよう』という合意ができています。

これでほとんどの宗教はなんとか収まりがつくんですが、収まりがつかないのが『無神論』という過激な宗教です。この宗教の場合、宗教活動というのは神を殺すことですから、神を信じている他の宗教の信者の所へ行って、その神を壊すことだけが正しい宗教の実践です。それをしないということは正しい宗教活動をしていない、ということになってしまいます。

で、フランスは無神論の国で、政教分離の建前からいろんな宗教は認めてはいるんですが、特定の宗教を優遇したり差別したりはしません。そのため無神論という宗教も同様に認めているわけです。

で、認められている無神論の信者達は、その教義に従って他の宗教の神を殺そうとするのですが、教会やモスクやシナゴーグを焼き打ちしたりすると、これは宗教活動ではなく犯罪だ、ということになってしまいます。

そのためその代わりに、神や教祖や信徒を誹謗あるいは冒涜するような行為をするわけです。それを文書や画像等で行えば、それは『他の宗教に対する誹謗中傷だ、冒涜だ』という批判に対して『表現の自由だ』ということで正当化できるからです。

キリスト教徒が多い社会では、さすがにフランスであっても正面きって無神論者を名乗るのは危険なことです。それは無政府主義者を名乗るようなもので、社会的に危険人物と見なされてしまいます。しかし、風刺画を描いているだけだ、ということであれば、まだ何とか受け入れてもらえるようです。それに反対する人は風刺画のユーモアを解さない朴念仁だ、というわけです。

このようにして『表現の自由』を隠れ蓑に無神論の『信仰の自由』を実践しているのがシャルリー・エブドという雑誌社です。

そういうわけで、今回のシャルリー・エブドのテロは表現の自由の問題というより、無神論とイスラム教の宗教戦争と捉える方が正しいようです。

フランスは政治的には無神論を奉じているわけですから、当然シャルリー・エブドの側に立ちますが、それを正面からそのように言うと、他の国は基本的に無神論には警戒感・嫌悪感を持っていますから、他の国を味方に付けることができなくなります。で、信仰の自由の代わりに表現の自由を持ち出して来るわけです。

他の国も宗教問題となったらできるだけ触らぬ神に祟りなし・・ということになるのですが、表現の自由と言われれば、フランス政府の仲間になってテロリストに抗議するデモに参加することができる、というわけです。

もちろん欧米の人は無神論がいかに危険なものかは分かっていますから、表現の自由なんて言葉に騙されないで、これは無神論の話だとわかっている人も多いと思いますが、日本人はどちらかといえば宗教問題にはあまり感度が良くないし、特に無神論については良くわかってない人も多い、と思います。

その意味で今回の事件が一体何だったのか、もう一度良く考えてみることが必要ではないかと思います。すなわち、無神論の信教の自由(信仰の自由)は、どこまで許されるのか、ということです。

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