これはあの角福戦争をやった、福田さんの回顧録です。ふだんは図書館の本棚でもこんな本は見ないのですが、先日たまたまリサイクルコーナー(ご自由にお持ち下さいコーナー)にあったのでちょっと見てみました。
目次を見ると最初の方に2.26事件、と書いてあるので、その前後を読んでみました。
この福田さんという人はたいした人で、大学を出て高文試験に合格し、昭和4年に大蔵省に入っています。その翌年にはロンドンに行き、大恐慌後のアメリカ・ヨーロッパを直接見ています。昭和8年に帰国し、税務署長を2つやって昭和9年には陸軍省担当の、今でいう主計官すなわち大蔵省で『陸軍の予算をどうするか』という担当者になっています。その立場で昭和10年の相沢中佐が永田鉄山少将を殺した時も陸軍省に駆けつけ、昭和11年の2.26事件の時も上司の大蔵大臣を殺されています。
で、目に留まったのが相沢事件の所の
【私はすぐ今の憲政記念館のあたりにあった陸軍省に駆けつけたが、部屋はもうきれいに整理されていた。永田局長の遺体はテーブルの上に安置され、顔にはガーゼのような白い布がかけられている。犯人は皇道派の相沢三郎中佐だった。統制派と皇道派との対立が頂点に達した結果の惨劇であった。】
とあった後に、
【かくして、軍内部では皇道派の立場が強化され、対ソ強硬論、従って軍事予算獲得に積極的な主張がにわかに強まった。】
とある所です。
2.26事件は、正義感溢れる純粋な青年将校が政府の要人を殺し正義を実現しようとしたのに、統制派の軍人達によって死刑にされてしまったというような話ですが、判官びいきというか、若い人が殺されてかわいそうにというか、青年将校の理想主義というか、何となく皇道派が統制派に圧倒され苦し紛れに蜂起した、みたいに思っていたのですが、ここに書いてあるのは相沢事件のあと、少なくとも陸軍の中では皇道派の天下になっていた、ということです。
だとすると、2.26事件の青年将校の蜂起も、やぶれかぶれで一発逆転を狙った一か八かの企てではなく、皇道派が有利な状況を利用してそれを決定的な状況まで持って行ってしまおうというイケイケドンドン的な、一方的な勝ち試合のダメ押しのホームラン狙い、みたいな話になります。もしそういうことだとすると、2.26事件の青年将校達の行動にしても皇道派の将軍達の行動にしてもいろいろ納得できる話もあります。
ということで、とりあえず福田さんの話はお預けで、この一言をもとにもう一度2.26事件を読み直してみようと思います。