これは『書物』というタイトルで、書物好きの2人の著者が書物にまつわるあれこれについて自由に書いているエッセイ集です。
第二次大戦が始まって紙が不足して出版するのが難しくなった頃の昭和19年に初版が出て、戦争が終わってどんな本でも飛ぶように売れた頃の昭和23年に1編削って16編書き加えた形で再版され、その後それぞれの著者の分がそれぞれの全集に収められていたのを、その後50年経って初版再版に入っていたものを全てまとめて1997年に岩波文庫から出版され、それをさらに25年経ってから私が読んでいる、という何とも気の抜けた話です。
テーマは本にまつわる様々なことで、書名についてとか読む場所とか本の貸し借りとか、自著とか辞書とか貸本屋とか図書館とか、活字本でない木版本・写本とか古本屋とか、とにかく様々です。まだテレビがなくラジオが普通に聞けるようになった頃で、面白い本の著者をラジオの前で何か喋らせたら、とか、空襲で本が焼けてしまった話とか、盛りだくさんです。
登場人物もたくさんいて、私も名前だけ知っている人や名前も知らない人がたくさん出てきます。一方の著者は図書館に勤めたり大きな文庫の整理をしたりした人で、もう一方の著者は俳人としても有名な人で、いずれも自分で著作するより数多い書物を楽しむことを第一とした人のようで、本当に本が好きな人だなということが良くわかります。
この本は図書館のお勧めコーナーにあった本で、手術のための入院で気楽に読める本が良いかなと思っていた時にちょうど見つけて、予定通り気楽に読めました。どこから読んでもどこを読んでも同じように楽しめます。
本にまつわるいろんな人のいろんなエピソードもふんだんに書かれてあり、楽しめました。
1つだけあれ、と思ったのは
『「だれでも作れる俳句」というのは良い本だそうだが、正しくは「作られる俳句」たるべきで「作れるは片言(かたこと)である」』
という部分があり、言葉の使い方に几帳面な人だな、と思ったのですが、私の感覚では『作れる』の方が自然で『作られる』の方が不自然のような気がします。例の『れる-られる』問題なのですが、本当はどうなんでしょうか。
この本では時節がら『事変前』とか『事変後』とか普通に出てきます。これは満州事変の事なのか、支那事変のことなのか、どっちの事なのかなと思ったり、多分今では『終戦後』という所だと思われる所、『停戦後』という言葉を使っています。当時このような言い方があったのかなと思います。
著者自身
『「書物に興味を持って書物と共に暮らしている二人の男のたわごと」ともいうべき見事無用の所が出来上がった。「書物」という書名が漠然としているように、この書の内容も漠然としている。徹頭徹尾たわごとに終始している。とりとめもない事ばかりを述べている。・・・かような書物を作ったことにどう意義があるのかそれは私らにも分からない。始末の悪い書物を拵えてしまったものだと今になって思っている。』
なんて書いているように見事にどうでもよい本で、そのどうでも良い所が本好きには堪らないということで、再版が出てから半世紀もたって岩波文庫に入り、4分の3世紀も経って私が読んでいるという事で、本当に何やってんだかと思ってしまいます。
本好きでとりとめなくどうでもよい本に興味がある人にお勧めです。