これまでいろいろ2.26事件関係の本を読んで、2.26事件に天皇機関説が大きな影響を与えていることがわかってきました。
この天皇機関説、私は天皇機関説問題ということで、美濃部達吉の天皇機関説と、それに反対する学者との論争という認識だったのですが、『問題』ではなく『事件』すなわち『天皇機関説事件』というのがあるんだ、ということが分かりました。
この事件、昭和10年に天皇主権説の議員が国会で天皇機関説批判の演説をし、その後いろいろあったあげく、その年の秋には天皇機関説は禁止になり、美濃部達吉は貴族院議員をやめることになった、という事件です。
これと同時に2.26事件の黒幕と言われる真崎大将が陸軍の教育総監をやめさせられ、それを受けて相沢中佐が永田鉄山を殺害し、最終的にその翌年の2.26事件につながっていくという状況です。
で、2.26事件についてはまた改めて書きますが、この天皇機関説事件について宮沢俊義著『天皇機関説事件』(上・下)という本があります。この宮沢さんというのは美濃部さんの弟子にあたる人で、芦部憲法の芦部信喜さんはこの宮沢さんの弟子になります。また日本国憲法の制定に関していわゆる『八月革命説』を言い出したのが、この宮沢さんです。
で、この本は、新聞や雑誌その他に書かれている美濃部さんの主張・反対派の主張・関係者の証言等をまとめて、それに宮沢さんがひとつひとつコメントしていて、なかなか面白いものです。
で、この本を読みながら一つ単純な疑問が生じてきてしまったので、忘れないうちに書いておこうと思います。
『天皇機関説』というのは『天皇主権説』と対抗したわけですが、天皇主権説というのは文字通り大日本帝国憲法では主権が天皇にあるという説で、天皇機関説はそれに反対して主権は国にあり、天皇はその国の機関だ、ということで、神様のような天皇陛下を機関とは何事だ、と大問題になったわけです。
で、今のいわゆる立憲主義の憲法学者というのは、皆芦部さんの弟子のようなもので、天皇機関説の美濃部さんからするとひ孫弟子みたいなものになります。
ところが芦部さんの憲法その他の本には、大日本帝国憲法は天皇主権の憲法だったのを日本国憲法では国民主権の憲法になった、と説明してあります。
これは一体どういうことだろう、というのが私の疑問です。先生の先生の先生である美濃部さんが命がけで否定した天皇主権説を、そのひ孫たちが寄ってたかってそのまま認めて天皇機関説を否定している、ということなんでしょうか。それとも美濃部さんが貴族院議員をやめ天皇機関説が禁止された段階で、大日本帝国憲法は天皇主権の憲法になった、ということでしょうか。それとも例によって何かわけの分からない憲法学者特有の屁理屈があるんでしょうか。
このあたり、このブログの読者で何か知っている人がいたら教えてもらえると嬉しいです。
普通の憲法の解説書や教科書では、このように美濃部さんの孫弟子の憲法学者が美濃部さんの天皇機関説とは反対の立場に立ってしまった理由は書いてなさそうですから。
まあ、どうでもいい話ではあるのですが、憲法学者の屁理屈を見てみるのも一興、というところです。