『橋本大佐の手記』 中野雅夫

この本はいわゆる昭和維新の、陸軍青年将校の集まり『桜会』の創立者(の一人)であり、昭和6年の三月事件・満州事変・十月事件に深く関わり、戦後東京裁判で終身刑となった橋下欣五郎の『昭和歴史の源泉』と題する手記に、著者の中野雅夫が注釈およびコメントを付けたものです。

この手記自体、橋本欣五郎が手書きのカーボンコピーで5部作製し、それが全て消滅した後、昭和36年になって元の手記の筆写コピーが見つかったと著者が発表したものです。

で、この筆写コピーの一冊しか残っていないのですが、内容からすると多分これは橋本欣五郎の書いたものに違いなさそうです。

この手記の中で橋本欣五郎は上記の三月事件・満州事変・十月事件について、その中心人物の一人として当事者以外には分からないことをいろいろ書いているのですが、だからと言ってそれが真実だ、ということではなく、『橋本欣五郎が思っていた限りの真実』だということになりそうです。

三月事件というのは、陸軍中枢部が東京に騒ぎを起こし、時の内閣を倒して陸軍の宇垣大将を首班とする内閣を作ろうとした事件で、実行の直前になって、騒ぎを起こさなくても内閣が倒れて自分の所に総理大臣が回ってきそうだと考えた宇垣が降りてしまったので、そのまま中止になった事件です。

陸軍の中枢部(陸軍次官・軍務局長・参謀次長・第二部長)という陸軍大臣と参謀本部長に次ぐ人達が事件を起こそうとした張本人の事件ですから、誰が誰を処罰するということもなく、すべては曖昧なまま終わってしまったようです。

次の満州事変については関東軍が事件を起こし、日本国内では陸軍省・参謀本部とも事件の拡大を止めるため次々に命令を出した時、参謀本部のロシア課にいた橋本欣五郎はその都度、その命令は建前上のもので本音は事件の拡大・満州の制圧だからどんどんやれという意味の暗号電報を送り事件を拡大した、という事件です。その後、満州は独立して満州帝国となり、昭和10年には満州帝国皇帝溥儀が来日しているのですが、その最大の功労者である橋本は、その功績が正当に評価されていない、と不満に思っていたようです。これが手記を書いた理由なのかもしれません。

次の十月事件は、当初国外で事を起こす前に国内の体制を整える方が先だと考えていたのに、満州事件の方が先になってしまったので、急遽国内体制を整備するために国内でクーダターを起こし、陸軍主導の政治体制を作ることを目的としたものですが、実行の数日前に計画が明るみに出て、橋下ら首謀者が旅館に軟禁され事件の実行に至らなかった、というものです。

この事件では2.26事件と同様に閣僚や政財界人を殺害し、警察や新聞社を襲撃し、クーデター内閣を作る計画で、そのために飛行機や爆弾、毒ガスまで用意したというものですから、なかなか本格的です。

この一連の事件が翌昭和7年の5.15事件、昭和10年の天皇機関説事件、相澤中佐の永野軍務局長惨殺事件、昭和11年の2.26事件につながっていくわけで、このあたりの歴史を理解するのに貴重な本です。

また、この手記には杉山茂丸や頭山満なども登場しているので、その面からも面白いと思います。

著者の中野雅夫という人のコメントもなかなか面白いです。この人はこのあたりの戦前の昭和史研究を行ったジャーナリストで、何冊もの本を書いています。

この橋本欣五郎の手記によると、10月事件の時のクーデター計画は2.26事件のクーデターもどきよりはるかに徹底していたもののようですが、実現性については疑問です。

全ては橋本欣五郎その他ごく少数の人だけが知っていて、現場の将校達は橋本欣五郎の命令でごく当たり前のように部下の兵士たちを動かして重臣たちを殺害することが前提となっているようですから。
橋本大佐というのは参謀本部にいた人なので、自分が作戦を立てて命令すれば現場の将校はそれに従って行動する、と何の疑問もなく思っていたんでしょうね。

しかしこの昭和6年の一連の動きが2.26事件につながり太平洋戦争につながってしまったことを思うと、この手記およびそれに対する著者のコメントは一読の価値があります。

このあたり、陸軍や青年将校や昭和維新などに興味がある人にはお勧めです。

2 Responses to “『橋本大佐の手記』 中野雅夫”

  1. 白根 毅之介 より:

    この間、トルコで軍事クーデターの未遂事件(やらせ?)がありましたが、イスラム国家で王政を敷いていたトルコを軍事クーデターで倒し、軍主導で世俗主義の導入(政教分離)によってトルコの近代化に尽くし、「トルコ建国の父」と、国内では神格化されている「ケマル アタヂュルク(パシャ)」を取り上げていた報道番組がありましたが、橋本欣五郎はトルコ駐在武官の時に、ケマルというか軍主導で国内改革を進めているトルコの現状に感動して、以降、ケマルの信望者になり、「日本でも同じことを・・・」と考えたようですね。
    このあたりのことは坂本さんも読んで、この欄に感想を寄せられていた末松太平の「私の昭和史」にも出てきますよね。
    それにしても、彼らのクーデター計画はその計画段階からバレバレ(待合で芸者をはべらせて、大酒を飲みながら大声で策を練っていたということらしいいですね)で、彼らにしても軍の上層部にしても、こんなバカな計画が成功するなんて、初めから思っていなかったんじゃないですかね。
    (処分だって、重謹慎20日といったところで、首謀者の橋本にしても、長勇にしても千葉の市川の旅館に監禁はされてはいても、朝から酒が出て、なじみの芸者を呼ぶこともできたということですし・・・)
    橋本と橋本の一の子分を自称していた「長勇」(クーデター後は警視総監に予定されていたようですが)少佐(当時)にしても、みんな福岡の出身ですが、頭山満とか内田良平とか、福岡県にはこういう人たちを輩出する土壌のようなものがあるんですかね。
    あともう一つ。橋本氏は陸軍大学を卒業したエリートで、しかも士官学校では秀才ぞろいの「野戦重砲兵科」の出身で、その後は陸軍砲工学校の高等科に学ぶなど、履歴だけ見ると何となく数学が得意で合理的な考え方をする人のように見えるんですが、なんでこんなふうになってしまったのか不思議ですな。

  2. 坂本嘉輝 より:

    橋本欣五郎は、トルコに行く前に参謀本部のロシア班でロシア革命の勉強をし、その後トルコ革命の勉強をして、革命にあこがれていたようです。
    10月事件のクーデター計画にしても、自分が命令すれば同志の将校は無条件で命令通りに動く、と考えていたようですから、論理的な考え方はしても、現実的、合理的な考え方はできなかったようです。
    パレパレの計画、というのも、バレてもだれにも止められない、と論理的に考えていて、そのために2.26の青年将校たちに愛想を尽かされてしまったようですね。
    バカな計画が、ということであれば2.26も同じようにバカな計画ですが、参加した青年将校たちも、そのクーデターの乗っ取りをはかった将軍たちも成功疑いなしと思っていたんですから、みんな成功疑いなし、と思っていたに違いないと思います。

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