『明治4年久留米藩難事件』-浦辺登

友人の浦辺さんが新しい本を出したということで図書館に予約し、ようやく借りられるようになったので読んでみました。

書名の通り明治4年に久留米藩で起こった一連の事件を、その事件で殺された人を中心にまとめた本です。

久留米というのは今は福岡県の一つの市ですが、明治の廃藩置県までは福岡県は7つないし8つくらいの藩に分かれていて、その一つが久留米藩、藩主は今も競馬の有馬賞に名をとどめる有馬氏でした。

事件というのは、その藩の政権争いと、薩長を中心とする明治新政府と間の武士どうしの殺し合いです。

幕末、日本中の武士が勤皇・佐幕に分かれて殺し合いをした、というのは良く語られることですが、どうも実際はちょっと違って、尊王は基本的に共通で、それが『尊王佐幕』という親幕府派と『勤皇倒幕』という反幕府派の争いになった、という事のようです。

この対立と、攘夷・開国という対外姿勢に関する対立とが絡み合い、はじめは殆どが佐幕派だったのが次第に倒幕派が勢力を増し、またはじめ殆どが攘夷派だったのがその後幕府が開国派になり、いつの間にか天皇も開国派になってしまい、その立場の違い、いつの段階でどのように立場を変えるか、を巡って対立が激化し、それぞれの主張を藩の主張とすべく、各藩の中で武士階級の権力闘争が繰り広げられた、という事です。

現在日本は47都道府県ということになっていますが、廃藩置県の前の律令以来の分国制では80あまりの国に250くらいの藩があり、そのそれぞれの藩で同様な争いが起こり殺し合いが起きたようです。

この争いは基本的に大政奉還と戊辰戦争、廃藩置県で収まったような印象ですが、実はその後も続き、一部は反政府運動となり明治10年の西南戦争で一段落、反政府運動はその後、自由民権運動に変身していくという流れになります。多くの藩では記録されることもなくいつしか忘り去られてしまう事件も、それを記録する人がいて、殺された人々を追悼する人がいると、後世まで語り継がれる事になります。

この久留米藩では明治の後期になって、明治初期に殺された人々を偲んで石碑が立てられ、また事件に関する本も書かれたことによって、この本を書くだけの材料が揃ったということです。

主人公となるのは、小河真文(筆者は「おごう・まふみ」という読みが正しいと言っていますが、人名辞典等では「おがわ・まさふみ」となっているようです。「おがわまさふみ」を国学者流に読むと「おごうまふみ」になる、ということなのかもしれません。)という秀才で、維新後参政として藩を仕切っていた人で、佐幕派のリーダーの不破美作という人を同じ勤王派の仲間と一緒に襲撃して殺し、藩論を勤皇に統一し、藩政のトップに立った。その後長州の奇兵隊の高杉晋作と並ぶ、正規武士以外の軍を率いていた大楽源太郎が長州の藩政府に追われ、九州に逃げて来ていくつかの所を転々とした後、久留米に逃げ込んだ。これを久留米藩がかくまった事が長州を中心とする明治政府から反政府活動だと問題になり、小河真文たちはこの大楽源太郎を暗殺してしまった。それでも明治政府は追及の手を緩めないで小河真文たちを捕らえ、追及した。大楽源太郎が久留米に逃げてきて、久留米藩主と会った、ということで藩主自身が反政府であるとの嫌疑がかけられ、小河真文は藩主の有馬氏に類が及ぶのを避けるために罪を一身に負って死刑になった、という話です。

長州では戊辰戦争が終わると奇兵隊などならず者の寄せ集め部隊を金も払わずに解散してしまい、その兵士がいろんなところに逃げていき、大楽源太郎もその兵隊たちのリーダーとなっていたようです。久留米藩では、幕末、同じようにならず者部隊を作ったものの、それを戊辰戦争の後まで解散せずにそのままにしており、それも反政府運動を画策している、と疑われた原因となっているようです。

話としては土佐の武市半平太が藩を勤王にするために佐幕派の人々を殺しまくり、その後、山内容堂が藩政にカムバックしたときに捕らえられ、武市にテロ活動の実行部隊として使われていた人切り以蔵こと岡田以蔵ともども殺された、という事件とよく似ています。武市の事件は明治になる前、小河の事件は明治になった後、という違いはありますが、どちらも一時は藩政を仕切る立場にまでなった人が、その後、謀反人として斬首の刑に処せられる、という話は同じです。殺されたとき、小河真文はまだ25歳だった、ということです。

動乱の時代、戦の当事者は力を補強するためにならず者部隊を作って活用しますが、戦が終われば用済みとなったならず者部隊はほとんど殺されてしまいます。漢の劉邦のようにならず者部隊がそのまま皇帝にまで上りつめる、というのは例外中の例外なんでしょうね。

著者はこの事件が明治の反政府運動の始まりだった、と書いていますが、たぶん実態は全国各地でほぼ同時期に同じような反政府運動がおこり、また、勤王と藩主擁護をめぐって様々な混乱あるいは殺し合いが起きた、ということなんだろうと思います。

小河真文らは藩を守るため、藩主を守るため、とはいえ、勤王の同志である大楽源太郎をだまし討ちのようにして殺してしまった、ということを考えると、勤王とか佐幕とか言っても武士にとっては天皇や将軍ははるかに遠い存在で、それよりも身近な自分の藩の殿様が一番大切だった、ということなんだろうなと思います。

明治になる前に脱藩して浪人になってしまった人々はまだ藩主に対して多少とも客観的に見ることができますが、藩にとどまった人々にとっては藩とか藩主の殿様とかは勤王の大義よりはるかに重要なものだった、ということなんだろうと思います。

『門閥制度は親の仇』とまで言った福沢諭吉ですらその後、『やせ我慢の説』を書いて、徳川将軍家に対する恩義に報いるより明治新政府での栄達を優先させた(と思われた)勝海舟や榎本武揚を批判したことなど考えると、やはり主君とか父祖代々の恩義とかいうのはなかなか重いものだったんでしょうね。

この事件はその後、様々の反政府運動、明治士族の乱につながっていき、西南戦争の後、民権運動に変身し、日清日露戦争を経てようやく日本国民としての一体化が成し遂げられた、ということになるんでしょうが、「わしの殿様」という意識がこれほどまでに強い、ということは明治大正の様々の出来事を理解するために忘れてはならないことだな、と改めて思わされました。

お薦めします。

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