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ニ一天作の五(にいちてんさくのご)

2011年10月21日 金曜日

この「ニ一天作の五(にいちてんさくのご)」というのは、時代小説などを読んでいると時々出てくる台詞です。

昔、ソロバンの計算では、掛け算の九九ともう一つ、割算の九九というのがあって、このニ一天作の五がその最初の言葉です。その意味で、掛け算の場合のニニが四(にんがし)と同じような意味で、ソロバンの割算を示す言葉です。

で、このソロバンの割算の九九ですが、九九というと掛け算の九九になってしまうので、九九の代わりに割り声(わりごえ)とか八算(はっさん)とかいう呼ばれ方をしていたようです。

この九九を使う割算は、1桁の数で割る割り算(たとえば123,456,789÷7など)で使うのですが、割る数の方が2桁以上になると、この「ニ一天作の五」のほかに「見一無頭作九一(けんいちむとうさくきゅうのいち)」等という呪文がもう一組必要になります。

これは「見一」から「見九」まで、割る数の頭の数字ごとに9種類あるんですが。

で、これらの割り算は時代小説では時々みかけることはあるものの、私が学校や会社で習ったソロバンの割算は筆算(紙の上に手書きでやる普通の計算)と同じやり方の割算で、掛け算九九は使いますが、割算九九は使いません。

それでこの「ニ一天作」方式の割算は江戸時代までのもので、明治になって西洋式の数学が入ってきた段階で変わってしまったものかと思っていたのですが、何と昭和30年・31年にソロバンの割り算のやり方が今の方式に統一されることになり、それまでは「ニ一天作」方式が標準的だったということがわかりました。

で、この「ニ一天作」方式をやってみたのですが、これがまた素晴らしく良くできています。通常筆算で割算する時は商(割り算の答)を一桁ずつ決めていくんですが、これが大き過ぎたり小さ過ぎたりでなかなか決めるのが厄介です。ところがこの「ニ一天作」「見一無頭」方式だと、ほとんど頭を使わずに自動的に決まっていきます。これは私にとって新鮮な感激でした。

こんな素晴らしい計算方式を昭和30年代に捨ててしまったのは、本当に勿体ないと思います。

「ニ一天作」を使う、割る数1桁の方はいろいろ解説があって、すぐにわかったのですが、「見一無頭」の方はネットで調べてもいろいろ書いてはあるもののきちんとした説明がなく、結局江戸時代のベストセラーの数学の教科書の「塵劫記(じんこうき)」まで行ってしまったのですが、そこまで行って計算例を確かめてみて、十分納得がいきました。

基本的にはソロバンを使う計算ですが、筆算に置き換えることもできます。
いまやケータイにも電卓がセットされていて、筆算で割算するというのも滅多にないかも知れませんが、興味があったら試してみて下さい。十分楽しめると思います。

必要だったら、いくらでも説明します。

コップの中の水の話

2011年3月4日 金曜日

世の中生々しい話ばかりで騒然としていますので、たまにはまるで生々しくない話など一つ。

目の前にコップがあります。コップ1杯の水の量は、だいたい180cc。昔の1合です。これは缶コーヒーの1本分もだいたいその位です。
この水を太平洋に流して、太平洋の水をぐるぐるかき混ぜてよく混ぜ合わせた所で、その中から同じ180ccの海水をコップに戻したとします。
このコップの中には最初のコップの中にあった水の分子が何個くらいあるでしょうか。

これはコップの中の水180ccの分子の数と太平洋の全体の海水の量がわかれば、簡単な比例計算で計算できます。
計算を省略して答だけを言うと、元と同じ水の分子は約1,500個ということになります。ちょっと大きめのグラスで200ccの水で計算すると、1,900個になります。

これはたまたまある本を読んでいてこの計算が書いてあったのでナルホドと感心したんですが、言われるまでこんなことは考えてもいませんでした。
この問題は、コップの水を海に流して海を掻き混ぜてから汲み直すと考えなくても、たとえば水を飲んでしまってその後十分な時間をかけてから海水を汲む。海水を汲まなくても、それが蒸発して雨になって水道水になったものと考えても同じことです。海水をかき混ぜない分、元と同じ水の分子の数は多くなると思います。

このように考えると、たとえば織田信長が本能寺で殺される前の晩に飲んだ1合のお酒の中に入っていた水の分子の1,500個分が、今私が飲んでいる180ccのコップの水の中に入っているとか、クレオパトラがシーザーを誘惑しようとして飲んだ1合(エジプトでは何て言うんでしょうね)のお酒の中に入っていた水の分子1,500個分が、私が缶コーヒーを飲むたび私の中に入ってくると考えることができます。

人間は大体1回に2リットルの水分をとることになっているので、それから考えると、ある日ナポレオンが飲んだ水の分子少なくとも15,000個分が缶コーヒー1個の中に入っているという計算になります。

人が一生の間に飲む水の量は、2リットルの365倍の50から100倍くらいと考えると、今目の前にあるコップの中に秦の始皇帝が飲んだのと同じ水の分子が何千万個、坂本龍馬が飲んだのと同じ分子が何千万個、お釈迦様が飲んだのと同じ分子が何千万個、イエスキリストが飲んだのと同じ分子が何千万個入っているんだということになります。

そう考えると、「皆が皆同じ水の分子を飲み合っている」んだ、とちょっと嬉しくなりませんか?