Archive for the ‘未分類’ Category

厚労省のレポート

水曜日, 7月 11th, 2012

7月9日に厚労省から「公的年金加入者等の所得に関する実態調査結果の概要について」というレポートが発表されています。

これについてマスコミ各社はいろいろ報道しているのですが、目につくところでNHKのサイトでは
①「国民年金 半数超年収100万円下回る」
というタイトルで
②「国民年金の加入者をみますと、年収がない人と年収50万円以下が合わせて38%と最も多く、50万円以上100万円以下も17%いて、全体の55%が年収100万円を下回っていることが分かりました。」
③「厚生労働省は「国民年金の加入者に所得の低い人が増えているのは推測していたが、今回の調査で、具体的な実態が初めて裏付けられた。将来、低い額の年金しか受け取れない人が増えるとみられ、調査結果を今後の年金制度についての議論に生かしてほしい」と話しています。」
等のコメントをしています。

日経では
④「国民年金加入者、平均年収159万円 受給者下回る」というタイトルで
⑤「自営業者やフリーターなどが入る国民年金の加入者の平均年収が159万円にとどまり、公的年金の受給者の平均年収(189万円)を下回った。」
⑥「国民年金の加入者のうち、54.7%が年収100万円以下の層だった。」
⑦「年金受給者でも年収100万円以下が全体の4割を占めたほか、基礎年金の満額である約80万円を受けとれていない「50万円以下の受給者」も16.5%にのぼった。満足な年金の受給を受けている人は多くない。」
⑧「一方、年収が500万円を超える受給者は5%近くに達した。」
などのコメントをしています。

全体的な印象として、「年金があぶない、頼りにならない」という雰囲気をかもし出す報道になっています。

まず第一にこの調査は全国から6万3千世帯を選び出して、そのうち5万8千世帯の12万4千人のうち7万2千人についての集計だ、ということで、まあ、ざっと言って1,000人に1人くらいの抽出率のサンプリング調査です。

で、NHKは「国民年金の加入者の半分が年収100万円未満だ」ということに注目しているようです(①・②)。ここで『国民年金の加入者』と言っているのは1号被保険者のことを意味しているようです。

国民年金法では1号も2号も3号も皆被保険者なのですが(そのためこの1号・2号・3号というのは国民年金法で定義されています)、世間一般ではこの1号被保険者のみを国民年金の加入者と言っているようです。

もちろん厚労省のレポート自体はそんないい加減な言い方はしないで、きちんと「1号被保険者」と言っていますが、マスコミではNHKも日経も1号被保険者だけが「国民年金加入者」です。

で、この部分の人の半分が年収100万円以下ということですが、これは別にそんなに驚くような話でもありません。

一般に「3号被保険者」いわゆる「サラリーマンの妻」といわれている被保険者ですが、この人達は3号被保険者として1号には入っていないのですが、それ以外のたとえば「自営業者の妻」になる人は3号ではなく1号被保険者です。また同様な言い方で「サラリーマンの息子・娘」すなわち学生や学校を卒業してもサラリーマンになっていないような人も1号被保険者になります。もちろん「自営業者の息子・娘」も同じです。
リストラ等でサラリーマンでなくなってしまった人も再就職できなければ1号被保険者になります。

このように基本的に「サラリーマンの妻」以外の収入がない人、あるいは収入のかなり少ない人は皆1号被保険者になるわけですから、1号被保険者の過半の人の収入が100万円以下であっても不思議なことではありません。

③の厚労省の話というのも本当かどうかわからない、おかしな話です。
国民年金(というより基礎年金)は、収入が多くても少なくても、一定の掛金で一定の年金が給付される仕組になっていて、収入が少ないと年金も少なくなる、というわけではありませんから、今回の調査の結果から「将来、低い額の年金しか受取れない人が増える」なんてことは言えません。

一方日経新聞の方はNHKと違って、「国民年金加入者の収入が老齢年金受給者の年収を下回った」ということに関心があるようです(④・⑤)。これも何を比較したいのか、これを比較して何が言いたいのかわかりません。
老齢年金受給者の年収というのは老齢年金収入ということではないし、ましてや老齢基礎年金の額ということでもありません。

⑥のコメントは①・②と同じことですが、⑦のコメントもおかしなもので「老齢年金受給者の年収」と「年金受給額」が混同されているようですし、「満額」というのは40年間掛金を納めた人だけですから、大学を出てから年金に入った人はそれから40年以上掛金を払わないといけないので、60歳で定年退職しちゃったような人はそのままでは基礎年金を満額貰えないことになっちゃいます。また、かなりお年寄りで最初から満額の基礎年金をもらえない人もいます。

⑧のコメントもちょっとおかしなコメントです。
NHKの記事の方には書いてあって日経新聞の記事には書いてないのですが、実はこのレポートで「被保険者になっている」とか「老齢年金受給者になっている」というのは、平成22年11月末現在での状況で判定しているのに対し、年収は平成21年の収入を使っています。
すなわち平成21年のときにはまだサラリーマンで高給取りだった人が1年後の平成22年11月には老齢年金受給者になっていれば、その(サラリーマン時代の)高い年収が老齢年金受給者の年収ということになります(そのようにこのレポートでは計算しています)。
そうだとすれば、年収が500万円を超える人が5%近くいたと言うのはそれほど驚くような話でもないように思います。

ということで、NHKの記事も日経の記事もかなり問題含みな内容なのですが、それより面白いデータがこのレポートにはあります。

それは(レポートの)9頁目の表5-2で、ここに1号被保険者の就業形態別の構成割合が計算されています。

一般に1号被保険者を『自営業者』で代表させるのですが、実は1号被保険者のうち『自営業者』は14%(7分の1)しかいないということがこの表でわかります。
ではどんな人が1号被保険者なのかというと、『会社員・公務員』が25%、『臨時・不定期(収入)』というのが23%、『非就業者』が28%で、どれも『自営業者』の倍くらいいる、ということです(これらのほかは『家族従事者』という人で、10%ほどいます)。

これを見るとNHKの『自営業者などの国民年金』とか日経の『自営業者やフリーターなどが入る国民年金』という言い方自体が大間違いということになります。

でもこの言い方、あまりにも定着し過ぎていて、訂正するのは骨が折れそうですね。
困ったものです。

ニ一天作の五(にいちてんさくのご)

金曜日, 10月 21st, 2011

この「ニ一天作の五(にいちてんさくのご)」というのは、時代小説などを読んでいると時々出てくる台詞です。

昔、ソロバンの計算では、掛け算の九九ともう一つ、割算の九九というのがあって、このニ一天作の五がその最初の言葉です。その意味で、掛け算の場合のニニが四(にんがし)と同じような意味で、ソロバンの割算を示す言葉です。

で、このソロバンの割算の九九ですが、九九というと掛け算の九九になってしまうので、九九の代わりに割り声(わりごえ)とか八算(はっさん)とかいう呼ばれ方をしていたようです。

この九九を使う割算は、1桁の数で割る割り算(たとえば123,456,789÷7など)で使うのですが、割る数の方が2桁以上になると、この「ニ一天作の五」のほかに「見一無頭作九一(けんいちむとうさくきゅうのいち)」等という呪文がもう一組必要になります。

これは「見一」から「見九」まで、割る数の頭の数字ごとに9種類あるんですが。

で、これらの割り算は時代小説では時々みかけることはあるものの、私が学校や会社で習ったソロバンの割算は筆算(紙の上に手書きでやる普通の計算)と同じやり方の割算で、掛け算九九は使いますが、割算九九は使いません。

それでこの「ニ一天作」方式の割算は江戸時代までのもので、明治になって西洋式の数学が入ってきた段階で変わってしまったものかと思っていたのですが、何と昭和30年・31年にソロバンの割り算のやり方が今の方式に統一されることになり、それまでは「ニ一天作」方式が標準的だったということがわかりました。

で、この「ニ一天作」方式をやってみたのですが、これがまた素晴らしく良くできています。通常筆算で割算する時は商(割り算の答)を一桁ずつ決めていくんですが、これが大き過ぎたり小さ過ぎたりでなかなか決めるのが厄介です。ところがこの「ニ一天作」「見一無頭」方式だと、ほとんど頭を使わずに自動的に決まっていきます。これは私にとって新鮮な感激でした。

こんな素晴らしい計算方式を昭和30年代に捨ててしまったのは、本当に勿体ないと思います。

「ニ一天作」を使う、割る数1桁の方はいろいろ解説があって、すぐにわかったのですが、「見一無頭」の方はネットで調べてもいろいろ書いてはあるもののきちんとした説明がなく、結局江戸時代のベストセラーの数学の教科書の「塵劫記(じんこうき)」まで行ってしまったのですが、そこまで行って計算例を確かめてみて、十分納得がいきました。

基本的にはソロバンを使う計算ですが、筆算に置き換えることもできます。
いまやケータイにも電卓がセットされていて、筆算で割算するというのも滅多にないかも知れませんが、興味があったら試してみて下さい。十分楽しめると思います。

必要だったら、いくらでも説明します。

コップの中の水の話

金曜日, 3月 4th, 2011

世の中生々しい話ばかりで騒然としていますので、たまにはまるで生々しくない話など一つ。

目の前にコップがあります。コップ1杯の水の量は、だいたい180cc。昔の1合です。これは缶コーヒーの1本分もだいたいその位です。
この水を太平洋に流して、太平洋の水をぐるぐるかき混ぜてよく混ぜ合わせた所で、その中から同じ180ccの海水をコップに戻したとします。
このコップの中には最初のコップの中にあった水の分子が何個くらいあるでしょうか。

これはコップの中の水180ccの分子の数と太平洋の全体の海水の量がわかれば、簡単な比例計算で計算できます。
計算を省略して答だけを言うと、元と同じ水の分子は約1,500個ということになります。ちょっと大きめのグラスで200ccの水で計算すると、1,900個になります。

これはたまたまある本を読んでいてこの計算が書いてあったのでナルホドと感心したんですが、言われるまでこんなことは考えてもいませんでした。
この問題は、コップの水を海に流して海を掻き混ぜてから汲み直すと考えなくても、たとえば水を飲んでしまってその後十分な時間をかけてから海水を汲む。海水を汲まなくても、それが蒸発して雨になって水道水になったものと考えても同じことです。海水をかき混ぜない分、元と同じ水の分子の数は多くなると思います。

このように考えると、たとえば織田信長が本能寺で殺される前の晩に飲んだ1合のお酒の中に入っていた水の分子の1,500個分が、今私が飲んでいる180ccのコップの水の中に入っているとか、クレオパトラがシーザーを誘惑しようとして飲んだ1合(エジプトでは何て言うんでしょうね)のお酒の中に入っていた水の分子1,500個分が、私が缶コーヒーを飲むたび私の中に入ってくると考えることができます。

人間は大体1回に2リットルの水分をとることになっているので、それから考えると、ある日ナポレオンが飲んだ水の分子少なくとも15,000個分が缶コーヒー1個の中に入っているという計算になります。

人が一生の間に飲む水の量は、2リットルの365倍の50から100倍くらいと考えると、今目の前にあるコップの中に秦の始皇帝が飲んだのと同じ水の分子が何千万個、坂本龍馬が飲んだのと同じ分子が何千万個、お釈迦様が飲んだのと同じ分子が何千万個、イエスキリストが飲んだのと同じ分子が何千万個入っているんだということになります。

そう考えると、「皆が皆同じ水の分子を飲み合っている」んだ、とちょっと嬉しくなりませんか?