この本の著者は、昭和11年の2.26事件の時受験勉強で上野の図書館にいて、あとから来た受験生仲間に事件のことを聞かされ、その後昭和15年に今で言えば司法試験に相当する高等文官試験司法科試験に合格し、大学をやめて陸軍の法務官になったという人です。
最初に実習生(今でいう司法修習生)として配属された近衛師団軍法会議・第一師団軍法会議で、以前から興味があった2.26事件関係の資料を見つけ、できるだけ時間を取ってそれを見て、次に本格的に配属された京都の法務部では東京で見ることができなかった、事件の概要と法律の適用をまとめた資料を見せてもらい、見せてくれた法務部長に『判決を非公開にしているのは憲法違反ではないか』と質問し、『フフッ』と笑われて返事をしてもらえなかった、とのことです。
2.26事件の軍法会議は特別の軍法会議として非公開、一審のみ弁護士なし、しかも軍人以外も事件の関係者を一緒に裁判するということで、特別の法律により行われたのですが、そこには判決を非公開にするという規定はなく、これを非公開にするのは帝国憲法に違反するのではないか、といういかにも法律の専門家らしい質問です。これに対して、京都の師団の法務部長(この人も法律の専門家の法務官です)は、憲法違反が分かっていながら軍の意向で何ともできないことを『フフッ』で示したものだと思われます。
その後著者は中国から南方に転戦し、復員後弁護士活動をしながらもずっと2.26事件の軍法会議について考えていたということです。
2.26事件の資料については、空襲で焼かれたとか終戦時に陸軍省が焼き捨てたとかGHQが持って行ったとか様々の噂があったものを、最終的に、一旦GHQに押収されたものがその後返却され、東京地検に渡されたという所まで確認し、以後東京地検の幹部に会うたびに地検にあるはずだから探して公表するように言ってきたということです。
昭和の終り頃ようやく資料が地検にあることが確認され、平成5年にようやく公開され、著者もようやく見ることができたとのことです。
著者は現役の陸軍法務官でしたから、軍の裁判・軍法会議が実際どのように行われるか、良く分かっています。
軍法会議の対象になるのは軍の刑事事件ですから、その手続きは刑事訴訟法に準じたやり方になっており、戦前のことですから戦前の刑事訴訟法の手続きに似たやり方のようです。
この刑事訴訟法、戦前と戦後では大きく変わっており、戦後の裁判については映画やテレビドラマ等で何となくわかったような気になっていますが、戦前の裁判の手続きはこれとはまるで違っていたようです。
たとえば今の刑事裁判では、検察側と弁護側で交互に被告や証人に対し尋問し反対尋問し、というのを延々と繰り返し、裁判官はそれをずっと聞いているというイメージがありますが、戦前の刑事裁判では被告や証人に対する尋問は裁判長が行ない、検察官や弁護士は裁判官の許可がなければ発言することも尋問することもできなかった、なんてことが書いてあります。このことを踏まえるか踏まえないかで、2.26事件の裁判記録に読み方も変わってくるように思います。
この裁判で事件の黒幕と言われた真崎大将と反乱側の磯部浅一の『対決』という話があり、真崎大将の側も磯部浅一の側もそれぞれまるで異なった記録を残していますが、著者によるとどちらも戦前の刑事訴訟法に準じた軍法会議ではあり得ないような話だ、ということで、それが新たに公表された記録により実際どのように裁判が行われたのかが明確になり、真崎大将も磯部浅一もどちらもとんでもない嘘を言っていたことが明らかになりました。
また2.26事件の時戒厳令が出されたと一般に解説され、普通はそんなものかと思っていますが、さすがに著者は専門家ですからそこの所もきちんと解説しています。
帝国憲法には第14条に『天皇は戒厳を宣告す』となっているのですが、それについては『戒厳の要件及び効力は法律を持ってこれを定む』となっていて、じゃぁその法律があるのかと思うと、その法律はないということです。帝国憲法ができてから2.26事件の時まで、誰もその法律を作ろうとしなかったということです。
で、そうなると帝国憲法ができる前の太政官布告の戒厳令が有効になるので、それを使ったのかと思うとそうでもなく、2.26事件の時は2.26事件のためだけに緊急勅令の形で特別の戒厳令を作り(帝国憲法では緊急時には天皇が勅令の形で法律を作り、事後的に国会で承認する手続きが定められています)、これを適用させたんだということです(2.26事件の特別の軍法会議もこれと同様、2.26事件のために特別に作られたものです)。
戒厳令というと、これが出ると戒厳司令官は何でもできる『斬り捨て御免』のようなイメージがあり、軍人達の多くはそう思っていたようですが、実はそうではなく、たとえばこの2.26事件の時の戒厳令は、一定の地域について
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地方行政事務と司法事務のうち、軍事に関係のあるものについて戒厳司令官が指揮できる。
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憲法で保障されている居住移転の自由、住居の不可侵、住居の秘密、所有権の不可侵、言論・著作・集合・結社の自由の諸権制を戒厳司令官が停止できる。
というだけのことです。
これ以外のことについては当然憲法や他の法律が適用されるということです。当然『斬り捨てご免』なんてことになったら殺人罪が適用されます。
2.26事件では、26日の朝、未明に事件が発生し、26日の夜にはこのあたり全てをきちんと整理して緊急勅令を出して、戒厳司令官を任命しているんですから、このあたりの法務官僚の働きは素晴らしいものです。
香椎(かしい)浩平中将というのは、2.26事件の当時、東京警備司令部の司令官で(ですから東京で軍の反乱が起きたらまず最初に鎮圧に動き出さなければならない立場の人です)、戒厳令の発令と同時に戒厳司令官になった人ですが、この時、他の大将達が宮中と陸軍大臣官邸の間を行ったり来たりウロウロしている中、ただ一人反乱軍の青年将校達のために自分の立場を利用して最大限の支援をした人です。この人に対して、反乱軍を支援した、ということで強制捜査をすることに関して、「すべきだ」という結論の報告書と「すべきでない」という結論の報告書の両方を匂坂(さきさか)法務官が作成したということは、澤地久枝さんの『雪は汚れていた』という本に書かれていたのですが、新たに公開された2.26事件資料ではそのどちらも使われず、最後のページが破り取られた所に朱書きで『証拠不十分で不起訴』という意味の結論が書かれていたという、びっくりするような話も報告されています。
匂坂さんはこの香椎中将の捜査を通して、真崎大将がこの事件の黒幕だったことを証明しようとしたのですが、香椎中将は強制捜査の対象とされず、事態が終息した所で軍から放り出されて終わったのですが、真崎大将の方は軍法会議に拘留され、取り調べを受け裁判を受けることになりました。この裁判の最後の判決文を書く所で、法務官として裁判官の一人だった小川関冶郎さんは有罪を主張し、これ以外の二人の軍人の裁判官は無罪を主張し、最後には裁判長である軍人が、病気を理由に裁判官を降りることによってこの真崎大将の裁判自体をなかったものにしよう、という所まで来たため、結局小川法務官が折れて『真崎大将は反乱軍を有利にするための行動をいろいろしたのは確かだけれど、反乱軍を有利にしようとしてそうしたとは言えないから無罪』という何とも不思議な判決文を書いた、などという話も詳しく説明しています。
小川法務官の真崎大将関係の資料は、みすず書房の『現代史資料』の23巻『国家主義運動3』の中に、永田鉄山惨殺の相沢事件関係資料と一緒に入っています。
この中には小川法務官の『2.26事件秘史』というメモも入っており2.26事件の全体像を理解するのに最高のまとめだと思います。
いずれにしてもこの原秀男さんという人は、中国からフィリピン、オーストラリアの北部まで行って、戦争が終わり収容所に入ってからも軍法会議を続けたというなかなか骨のある本物の法律家です。
法務官という特殊な立場にいた人の解説は他ではなかなか得られない貴重なものです。
お勧めします。