遊遊漢字学『すばらしきかな「令」』阿辻哲次

4月 9th, 2019

日経新聞の毎週日曜日の朝刊、最後の頁に『遊遊漢字学』というコラムがあり、毎回楽しみに読んでいるのですが、一昨日の分のタイトルは『すばらしきかな「令」』というもので、新元号として話題の『令和』の『令』の字について解説されています。

まずは台湾のスーパーで売っている『魔術霊』という家庭用洗剤が、日本でいう『マッジクリン』だという発見から始まって、『霊』という漢字の説明があります。

『壺坂霊験記』の話とか、『霊峰』とか『霊薬』の例を出して、『霊』という字が『はかりしれないほど不思議な』『神々しい』『とってもすてきな』という意味を持つ言葉だという説明です。で、今はこの字も新字体になっていますが、元々の旧字体(靈)では24画もあるので、その旧字体の俗字として、同じ音の『令』の字を使うことがはるか昔からあったということです。そのため『霊』の意味が『令』の意味にもなり、『令嬢』とか『令夫人』とかの言葉になり、また『令月』にもなった、ということです。

これで『命令』の『令』とは別系統の『令』の意味が良く分かります。

最後に結婚披露宴に招かれた友人夫婦が、奥さんの席に置かれていた『令夫人』と書かれたカードを見て、『いつもおれに命令ばかりしているから女房を「令夫人」というのか』とさとった話など、楽しいコラムです。

毎勤統計の特別監察委員会の1月の報告書

3月 6th, 2019

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_03321.html?fbclid=IwAR1pz49rueHM4kbXlA7m9oN1UsR2lzBzfnFV58T_mcVwifZuwReOrXI-EJw
毎勤統計の特別監察委員会の1月の報告書です。呆れ果てるほどよくできた報告書で、ほとほと感服します。
何が起きたのか、そうなった周辺の状況、関係者はどう思っていたのか、その起きたことを統計の立場からどのように評価するか、また、法律的にどのように評価するか、どのようにしたら不適切な事態の再発を防ぐことができるか、等について、関係者の具体的な証言に基づいて非常に論理的に整理されている報告書です。
東京都で500人以上の事業所の調査が全数調査でなかったことについても、抽出調査をしていたことが法律違反、ということではない、と明確に説明されています。統計の報告書では全数調査と書きながら、具体的に調査をするための事務連絡には抽出調査だ、と明確に書いてあり、その事務連絡は厚労省の担当者だけでなく、全都道府県の担当者も目にするものだったし、抽出率も1より小さい数値が明確に表になってついていて、その両者で整合性が取れていない、そのことに気が付いている人がいてもそれを是正しようとする人がいなかった、ということが問題なんだ、と明確にしています。
この、整合性が取れていない、という事態はこれ以外にもいくつもあり、抽出調査をしているのに復元処理をしなかった、あるいは復元のための復元率として使っている数値が違っていた、等々様々なところで不整合があり、また、その不整合について気が付いている人がいたにもかかわらず、そのまま放置され、不整合を是正しようとしていない、等の実態が明らかになっています。
統計の実際の計算はCOBOLプログラムで行われているけれど、厚労省にはCOBOLを扱える担当者が少なく、プログラムの修正が十分検証されない、とか、一旦修正されたプログラムはその後、特段の理由がない限り検証されることなくそのまま使われ続ける、とか、様々な問題が指摘されています。
いずれにしてもこの報告書の明晰さ、わかりやすさは驚くばかりです。
これを書いたのが、特別監察委員会の委員長の樋口さん本人だ、とすると、樋口さんはホントに論理的な思考をする人であり、非論理的な質問を連発する野党の国会議員には我慢ならないのも十分理解できます。
興味ある人は一読をお勧めします。

『君たちはどう生きるか』 吉野源三郎(2)

2月 7th, 2019

岩波文庫版の『君たちはどう生きるか』が、ようやく図書館で借りられたので見てみました。

驚いたことに、この本文は改訂前の昭和12年の版を、漢字を旧字体から新字体に、仮名遣いを現代仮名遣いに直したものになっていました。

この昭和12年のオリジナル版を以前わざわざ島根県の図書館から借りて読んだのですが、そんな苦労はしなくても良かったということになります。

面白いことに本文のあとに、後書きとして『作品について』と題して著者の吉野源三郎の解説のようなものが付いていますが、これは戦後2回の改訂をした後の版に付けられたものですから、いきなり本文とこの後書きを読むとわけの分からないことになるのかも知れません。

さらにそのあとに『解説』のような形で、「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想―吉野さんの霊にささげる―」というタイトルで丸山真男の文章がついています。

吉野源三郎が1981年に亡くなり、その追悼文として丸山真男が雑誌『世界』に寄稿したものをこの文庫版にもつけたということです。

で、この追悼文で、丸山真男は『君たちはどう生きるか』を昭和12年に出版された段階で読んでおり、追悼文を寄稿するにあたり新旧の版を読み比べてみて、オリジナルの昭和12年の版を古典として初版のままの復刊を希望し、その結果として1982年に岩波文庫からそのオリジナル版により復刊が実現した、ということのようです。

『君たちはどう生きるか』のハイライトのコペル君の仲間が上級生に制裁を受けた時、コペル君は名乗り出ることができなかったというエピソードに関し、著者の吉野源三郎もこれを書く前に治安維持法違反で逮捕され1年半も陸軍刑務所に入っており、また丸山真男も(旧制)高校2年の時に警察に逮捕され豚箱にブチ込まれたのを始め、何度も特高の取り調べを受け、また憲兵隊から召喚されるという経験があり、このエピソードについてそれぞれ自分の経験に照らして思う所がたくさんあったようです。

で、いずれにしても丸山真男は、戦後2回の改訂の前の版が改訂後のものより良いものだと判断しており、新旧の版を比較して2回の改訂で削除された主な箇所のリストも追加しています。

とはいえ、終戦後によく見られた、戦中・戦前の発言について戦後、修正・削除して戦争に加担していた、あるいは戦争に賛成していたという批判を逃れようとした、というような訂正・削除はなかったというのは、私の確認結果と同じです。

前にも書きましたが、どうせ読むのであればこのオリジナルの方を読む方が良いと思いますし、これが今でも新本で千円ちょっとで買えるとなればなおさらだ、と思います。

なお、岩波文庫というのはジャンル別に帯の色で区分されているのですが、この作品は青の『日本思想』の中に入っています。この物語が思想なのかなという気もしますが、とはいえ日本文学というわけにもいかないので、これで良いのかも知れません。

また、『君たちはどう生きるか』とは別の話ですが、吉野源三郎と丸山真男についてチョット調べていた所、日本国憲法ができる時の『八月革命説』という、憲法学者好みのつじつま合わせのトンデモない議論がありますが、これを言い出したのが実は丸山真男であり、それを丸山真男の先生だった宮沢俊義が発表したものだ、という話を知りました。これは初めて聞く話なので、これについてもいずれちょっと調べてみようと思います。

「韓国は一個の哲学である」 小倉紀蔵

1月 28th, 2019

この本は『韓国とは<道徳志向性国家>である』という言葉から始まっています。そしてすぐに道徳志向的な国ではあるが、道徳的だ、ということではない、と言っています。

『道徳』というのは、今ではなかなか分かりにくい言葉ですが、多分、今の言葉に直すと『正義』ということになると思います。すなわち韓国という国は『正義』を大声で主張する国だ、ということです。
このあたりの意味を1冊を使って解説しています。

この本では『韓国』という言葉を、李氏朝鮮から大韓帝国となり大日本帝国と一緒になって、35年後に第二次大戦の終了で大韓民国および北朝鮮人民共和国になった国、の意味で使っています。

言葉としては多分『朝鮮』と言った方が良いんでしょうが、この『韓国』の人達は、自分達が使ったり日本人以外の外人が使う分にはこの言葉に抵抗はないけれど、日本人が『朝鮮』という言葉を使うのは非常に抵抗があるようで、その余計な手間を省くには『韓国』という言葉を使うのが一番良いみたいです。

で、この本の著者が『韓国』と言っているので、私も『韓国』ということにします。

で、この『韓国』は韓国独特の韓国朱子学という理論体系が国の形となっているため、この本もこの韓国朱子学の解説となっています。

朱子学というのは儒教の発展の過程で生まれた哲学で日本にも当然伝えられましたが、後醍醐天皇がこの哲学に夢中になって建武の中興で日本中を混乱させた程度の被害で済んでおり、江戸時代も形式上は徳川政権によって朱子学が国あるいは幕府の正統的な学問ということになってはいてもかなりおとなしいものになっていて、大した害悪をもたらすものにはならなかったようです。

それが韓国では李氏朝鮮500年とそれが韓国になったその後の100年を通して、いまだに大きな混乱を引き起こし続けているというようなことの解説です。

儒教というのはもともと『仁』とか『義』とか『忠』とか『孝』とかいう言葉で語られる世界なのですが、朱子学というのは『理』と『気』という言葉が出てきて、世界の全てはこの理と気で説明される、ということになります。

その詳しい内容はこの本を読んでいただくのが一番良いと思いますし、私なんかにはそう簡単に説明できる話ではありません。でも韓国のあれこれについて多くの不思議な(あるいは理解不能の)話はこの本を読むことによって『そういう事か』という位には分かるようになるはずです。

いくつもの疑問が解消されたのですが、面白い発見もいくつかありました。

1つは『恨(はん)』という言葉ですが、これは韓国がどういう国であるかを示す言葉なんですが、これを普通の日本語の訓読みで『うらみ』と理解するのは間違いだ、ということです。この言葉は『あこがれ』という意味なんだという説明です。何かに憧れ、その対象と一体になりたいと切望しながら、それが達成されない悲しさ・辛さ・やるせなさ等々を表すのがこの『恨(はん)』という言葉なんだ、ということで、なるほどなぁと思いました。

もう一つは韓国人の日本人の認識についてですが
1.日本人は非道徳的だ
2.日本人は金の奴隷である
3.日本人は性の奴隷である
4. 日本人は権威に弱い
5. 日本人は義理を知らない
6. 日本人には情がない
7. 日本人には主体性がない
8. 日本人には文化がない
9. 日本には学ぶべきことはない
10. 日本はない

というのが韓国人の日本人に関する認識だ、という指摘です。
『これらに反する日本人像を公式に語ることは、韓国人にとってはひとつの冒険なのである』と説明しています。

この1~10の元となるのが『日本あるいは日本人は邪悪な存在だ』という公理です。『公理』というのはそれが正しいも正しくないもなく、当り前、当然の話で、そこから論理的にいろいろ演繹して議論する、その『元』です。

で、この公理から上の1~10が導かれるのですが、それと同時に邪悪な日本に引換え韓国はいかに正義の存在か、ということも証明される、という具合になっています。

そんなことなら最初から『韓国は正義だ』というのを公理にしてしまえば良いようなものですが、それじゃ当り前過ぎて面白くないので、『日本は邪悪だ』から『韓国は正義だ』を証明する方が説得力がある、ということのようです。

で、この『日本は邪悪だ』という公理ですが、公理ですから証明することはできないのですが確認することはできて、日本がいろんな事でうまく行っている時は『悪いことをやっているからうまく行っているに違いない』という話になり、何かうまく行かないような時は『悪いことばっかりやっているからバチが当たったんだ』という話になり、いずれにしても『やっぱり日本は邪悪な存在だ』という公理を再確認するという話になります。この公理を否定することはできそうにありません。何とも厄介な話です。

最後にこれは同じ著者の別の本『韓国、愛と思想の旅』からの引用ですが、次のようになります。
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たとえば下宿に住んでいた頃(著者は韓国の大学に留学して韓国に住んでいたことがあります)、同室の学生が『韓国ラーメン、ナンバーワン』とうるさく言うのに閉口した。韓国にはラーメン屋というのは皆無も同然なので(この文章は多分20年位前のものなので、今ではラーメン屋もたくさんあるのではないかと思います)、ここで『ラーメン』というのはインスタントラーメンのことなのだが、学生は韓国のインスタントラーメンは世界一なのだ、と主張する。それでは日本のインスタントラーメンを食べたことがあるか、と問うと、いや、ないと答える。それではどうして韓国ラーメンが世界一だとわかるのか、と問えば、日本のラーメンは食べたことがないが、韓国ラーメンの方がうまいに決まってる、なぜなら韓国ラーメンは世界一だからだ、と答える。

こんな理屈にまともに付き合っていられない、と考える人は韓国という国と付き合うことはできないのである。
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ちょっと引用が長くなりましたが、これが韓国流思考法の一例だということです。

この本はこのような韓国を理解しようとして体当たりし、のたうち回って韓国と対決して著者が書いたもので、後書きには
『今でも夜更けなどひとりで机に向かっている時、<韓国>という言葉をひとことつぶやくと、あやうく心乱れ叫び出しそうになる。雪舞うソウルの銀色の夜の底を<理>と<乱>のはざまを、疾駆しようともがくのだ』
とあります。

この本は哲学の本ですから簡単に読める本ではありません。しかし韓国という得体の知れないものを理解する手がかりとして素晴らしい解説書です。中国に生まれた儒教が日本では葬儀に関する部分以外は大した影響を残していないのに、韓国では国を挙げての大混乱を引き起こし、今でも混乱させ続けているのは何故か考えるヒントにもなると思います。

韓国という訳の分からない国を少しでも理解したい、と思う人にお勧めです。

『ギリシア人の物語』 塩野 七生

1月 9th, 2019

ふと思いついて、そろそろ読めるかも知れないと思い調べてみました。で、これが全3巻例によって年1冊の刊行で、3巻目が1年前、おととしの暮に出ていることが分かりました。

さいたま市の市立図書館の蔵書としては3巻とも17冊くらいの蔵書があり、それぞれだいたい7冊くらいは貸し出されないで書架にあることが分かりました。これであれば安心して借りられるし、いくらでも延長できると想定して、3巻まとめて借りました。

だいたい週1冊のペースで4週間で、1月3日に読み終えました。やはり塩野七生は見事なもので、十分堪能しました。

ギリシアのアテネとスパルタを中心とする都市国家がどのようにでき、アテネの民主政とスパルタの寡頭政がどのようなものでどのようにでき、どのように滅んでいったかの盛衰記が見事に書かれています。

アテネの有名な陶片追放というのが、具体的にどのようなものだったかも良く分かりました。

1、2巻で当時の世界帝国だったペルシャと戦った第1次・第2次ペルシャ戦役と、その後アテネとスパルタが戦い、最後にアテネが敗ける経緯が詳しく書かれています。

第3巻では戦争に負けたアテネが亡び、勝ったスパルタもその後を追うように亡びる中で、ソクラテスも死刑で死に、『そして誰もいなくなった』。ギリシアは勝者も敗者もいなくなり、テンデンバラバラの都市国家が残るだけになり、そこでようやく辺境のマケドニアの登場です。

いよいよアレキサンドロスの登場ですが、このアレキサンドロスの世界制覇は実は父親と2代がかりの偉業だったこと、息子が成人するころ丁度父親が暗殺されスムースに王位継承ができたこと、アレキサンドロスがペルシャを破り世界征服を果たした後どうやって死んだか、死んだ後残された帝国はどうなったか、という具合に全3巻が書かれています。

やはり塩野七生は戦争が好きなようで、戦争の描写はいつもながら生き生きとしています。

で、この3巻には1巻目の最初に、なぜ今ギリシャを書くのかという説明があり、3巻目の最後にこの3巻をもって塩野七生のいう『歴史エッセイ』を書くのは終わりにするという宣言が書いてあります。

著者が『調べ、考え、それを基にして歴史を再構成していく』ことと定義する『歴史エッセイ』ですが、ローマ人の物語から、その前に書いていたヴェネツィア(海の都の物語)・マキャベリ(わが友マキャヴェリ)等、ローマ人の物語のあとに書いた十字軍(十字軍物語)・イスラムが地中海を支配した時代(ローマ亡き後の地中海世界)・ルネサンスの先駆けをしたフリードリッヒ(皇帝フリードリッヒ二世の生涯)、最後にこのギリシャ人の物語と、塩野七生の代表作が全て入っています。

10代後半で地中海世界に憧れ、20代後半で地中海にたどりついて2年間地中海沿岸をさまよった後30歳になる所で執筆を始め、最初にペアを組んだ編集者とは『翻訳文化の岩波(書店)に抗してボク達は国産で行こう』と決意し、でも30歳前後のまだ何事もなしとげていない若者2人がそんなことを言ってみても誰からも相手にされないからこれは二人だけの密約とし、15年後にその編集者が若くして病に倒れ亡くなる時も、残された塩野七生が『続けます』と誓って今まで50年にわたって著述を続け、80歳になって、書くほどのものはもうすべて書き尽くした、とでも言うように終筆宣言をする、というのは何とも見事な姿です。

この『十七歳の夏-読者に』と題する塩野七生歴史エッセイ全作品のあと書きの後に、この歴史エッセイの全体像を一覧できる図が付いています。

もうこれで塩野七生の新しい物語には出会えないんだと思うとちょっと寂しい気もしますが、著作というのは有難いことにいつまでも残っているものなので、寂しかったらいつでもどれでも今までに書かれたものを読み返せば何度でも塩野ワールドを堪能できるというのは、なんともぜいたくな話です。

ということで、この年末年始の休みは非常に実りの多い休みとなりました。
もしまだ読んでない人がいたら、今度の(4月~5月の)10連休にでも読んでみてはいかがでしょうか。

外国人労働者の死亡率

12月 14th, 2018

外国人労働者の受け入れ問題に関して、実習生が大勢死亡している等の報道がなされ、今一はっきりしなかったのですが、今朝の日経新聞の社会面(私の取っているものでは、12月14日朝刊13版の35ページ)にまとまった記事があったので紹介します。

この記事、見出しは『外国人実習生ら174人死亡』『法務省集計、10-17年 経緯不明も多く』となっていて、不自然に多くの外国人実習生が死亡しているかのような話になっています。

この記事によると

  1. 13日の野党合同ヒヤリング(野党は相変わらずこんなことをやってるんですね)で法務省は、昨年まで8年間に外国人技能実習生ら174人が事故や病気で死亡した、と言った。①
  2. 厚生労働省は昨年まで10年間で実習生を含む外国人労働者125人が労災で死亡していた、と言った。②
  3. 実習制度推進団体『国際研修協力機構』の集計によると、昨年度までの3年間に実習生88人が死亡した。③
  4. 実習生を巡っては6日に、15年~17年の3年間で69人が死亡していたことが判明。④
  5. 実習生は昨年10月末時点で約25万8千人いる。

ということのようです。

1年あたりの死亡者数は単純に年数で割り算すると
①21.75人 ②12.5人 ③29.33人 ④23人
となっていて、分母の人数が⑤の25万8千人で年々それほど大きく変動していないと考えると、これを分母として死亡率は
① 1万分の0.8 ② 1万分の0.48 ③ 1万分の1.14 ④ 1万分の0.89
になります。

直近の日本人の死亡率は、平成29年の簡易生命表の死亡率で
 15歳 男性 1万分の1.7  女性 1万分の1.0
 20歳 男性 1万分の4.2  女性 1万分の1.8
 25歳 男性 1万分の5.0  女性 1万分の2.2
ですから、これと比べると、特に外国人労働者の死亡率が高いとは言えないようですね。

外国人実習生が劣悪な労働環境で働かされているので死亡者が多い、と言うには、もう少しきちんとした調査が必要のようですね。

『戦国時代の天皇』 末柄 豊

12月 14th, 2018

この本は今年の7月に出た本で、例によって図書館の新しく入った本コーナーでみつけました。

この『戦国時代の天皇』というのは応仁の乱(1467年)から豊臣秀吉による天下統一(1590年)までの間に天皇の位にいた後土御門(ごつちみかど)・後柏原(ごかしはら)・後奈良(ごなら)・正親町(おうぎまち)の4代の天皇のことです。

応仁の乱で室町幕府がほとんど権力を失い、その結果財力も失い、その幕府が最大のスポンサーだった天皇家も財政が窮乏した時から、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げ天皇家のスポンサーになった時までの約百年、天皇は一体何をしていたのか、という話です。

この4代の最後の正親町天皇は子の親王に先立たれながらも70歳の時孫に譲位をすることができたけれど、その前の3代の天皇は譲位することができず、天皇在位のまま死を迎え、もちろん明治天皇以降は基本的に天皇在位のまま死を迎えるのが原則になりますが、この戦国時代の3代以前にこのように3代続けて天皇在位のまま死を迎えたのは7世紀の斉明・天智・天武の3代までさかのぼる、ということです。

天皇が生存中に譲位すると上皇になったり法皇になったりするのですが、この戦国時代はとにかく金がないので譲位できず、結果的に天皇のまま亡くなるということになったようです。

譲位の儀式というのは、践祚(せんそ)・即位礼(そくいのれい)・大嘗会(だいじょうえ)の3つになるわけですが、まず践祚の儀式をします。ですが、この践祚の時にはまだ前の天皇が存命だという建前で行われ、践祚のあとで前の天皇の葬儀が行われるということになっており、即ち、践祚の儀式が終わらないと既に亡くなっている前の天皇の葬儀ができない、ということのようです。

践祚の儀式のための費用が調達できないために前の天皇の葬儀ができず、死後何十日もそのままになっていたというような話があります。

践祚の方はとりあえずこれが終わらないと天皇不在になってしまうので何十日かで何としてでも行なったようですが、即位礼の方は践祚してから何十年も経たないと行われないなんてことにもなったようで、大嘗会の方はさらに大がかりで費用もかさむため、9代にわたって挙行できないなんてことにもなったようです。

このような中、財政逼迫の下で天皇は何をしていたのか、というのがこの本の内容です。
・幕府との関係のありようについて決断する
・官位の任叙について判断する
・裁判を行う
・禁裏の蔵書を整理する
という仕事と
・日記を書く
・手紙をしたためる
・親王を教え導く
・所領を立て直す
という行為について解説しています。

この中に、女官に頼まれて習字の手本にするからと何首か和歌を書いてやるんだけれど、習字の手本というのはどうせウソで、地方の有力者から天皇の直筆が欲しいと頼まれたんだろうと分かった上で騙されたふりをして頼まれてやる話があります。
また、年賀状を書く話なんかがあり、年賀状には現実を書かずひたすら願望を、それがあたかも現実であるかのように書く、なんて話もあります。年賀状の文を活字で本文中に書いてある部分と原文の年賀状の写真を見比べると、元の文がひとかたまりずつ紙の上下左右に散らばして書いてあり、こんなものを貰ったらどうやって順番を判断するんだろう、なんてことも考えました。

来年はいよいよ天皇の代替わりの年です。新天皇の即位の儀式を見る時にも参考になるかも知れません。

100ページちょっとの小さい本ですからすぐ読めます(ただし大名やお公家さんの名前がたくさん出てくるので、適当に端折って読む方が楽です)。

なかなか面白い本でした。
興味のある方は是非どうぞ。

『漫画 君たちはどう生きるか』 羽賀 翔一

11月 26th, 2018

先週『君たちはどう生きるか』の読書感想文を投稿しましたが、それを書くときネットで検索して、あらすじを紹介しているページを見付けました。読んでみると私の読んだ『君たちはどう生きるか』とはちょっと違っていました。

このネットのページ
https://toyokeizai.net/articles/-/218524
を見直してみると、これは池上彰さんがテレビでこの本を紹介し解説した番組をまとめたもののようです。

で、そこで紹介されているあらすじは元々の『君たちは・・・』の本の中味ではなく、それを漫画化した『漫画 君たちはどう生きるか』の方のあらすじのようです。で、その漫画も家にあったと思って、早速読んでみました。

漫画化やドラマ化、映画化によって話が原作とは違ってしまうというのは良くある話ですが、この漫画も原作とは大分違っています。

原作者の吉野源三郎が戦後の再版に際してせっかく話を戦後に合わせて修正したのに、漫画ではわざわざ元の旧制中学の話に戻しています。その上で主人公の友人達が上級生に制裁を受ける話が、原作では下級生の軟弱なのに対して上級生が風紀粛清のために何人かの下級生を殴るという話だったのに、この漫画版では主人公の友人が同級生にいじめられているのを、もう一人別の友人がそのいじめっ子に立ち向かっていって取っ組み合いになり、それが先生に見つかっていじめっ子共々叱られたのを根に持ったいじめっ子がその兄である上級生に話をして、主人公の友人に仕返しをするという話になっていて、何ともつまらない話になっています。

原作では上級生が勝手に正義をふりかざして風紀粛清の名の下に暴力をふるうという話で、暗に軍部批判をしているような話なのが、漫画版では単なるいじめっ子の仕返しの暴力というつまらない話になってしまっています。まあ今となってはいじめの問題の方が軍の正義を振りかざす暴力の問題より大きな問題なんだ、ということなのかも知れませんが。

で、池上さんは原作を読んでいるのかどうか分かりませんが、このテレビ番組の主旨もあるのか原作の解説ではなくこの漫画版の解説をしているようです。

というわけで、ついでに漫画版の『君たちはどう生きるか』も読んでしまったわけですが、こちらの方はお勧めしません。

『君たちはどう生きるか』 吉野源三郎

11月 22nd, 2018

この本が評判になっているというので、読んでみました。
それなりに面白かったのですが何となく違和感があり、その原因をしばらく考えていたのですがすっきりしません。著者によるとこの本は昭和12年に発刊され、版を重ねた後、戦争中は出版することができず、戦後再び出版するようになり、現在多くの版で出版されているのは37年に改訂され、さらに昭和42年に改訂されたもののようです。

もしかするとこの改訂作業が違和感の原因かも知れないと思い、昭和12年の最初の版を借りて読んでみました。昭和12年となるとさすがになかなかなく、公立の図書館では国会図書館・京都府立図書館・鳥取県立図書館にあることが分かり、地元の図書館で頼んだら鳥取県立図書館の蔵書を借りることができました。世の中便利になったものです。

昭和12年というのは、昭和10年の天皇機関説事件、昭和11年の2.26事件、昭和12年の盧溝橋事件、『国体の本義』の発行、という時代です。戦後、太平洋戦争の敗戦を受けた空想的反戦平和主義により軍国主義的、愛国主義的、天皇主義的な内容が大幅に書き換えられたのではないか、と予想したのですが大外れでした。

昭和12年というのは上述のいろいろな出来事にもかかわらず、まだこのような本の出版が可能だったということになります。

書き換えは

  • 昭和12年が昭和30年代あるいは40年代になったことにより、物価が200倍になり、カツレツが10銭から20円、コロッケが1個7銭から2つで15円になった。
  • 主人公コペル君の友人のガッチンのお父さんが「予備の陸軍大佐」だったのが「元陸軍大佐」になった。
  • 主人公コペル君の名前が潤一君から純一君になった。
  • 主人公コペル君の友人の水谷君のお父さんが『実業界で一方の勢力を代表するほどの人で方々の大会社や銀行の取締役・監査役・頭取など主な肩書だけでも10本の指では足りない』ような人から単なる『有名な実業家』になった。
  • 主人公コペル君が友人のガッチンや水谷君をもてなすためにやるラジオの野球の実況中継(の真似)が『早慶戦』だったのが『巨人対南海の日本シリーズ』になった。
  • 主人公達は中学1年生でガッチンや水谷君が上級生に殴られる話で、昭和12年版では旧制の中学で、殴った上級生は中学5年生だとなっているのが、新しい版では上級生としか書いてないので、新制中学の3年生に殴られたようになっている。

ということで、コペル君のお父さんは大きな銀行の重役だった人で2年前に亡くなり、それに伴いコペル君とお母さんは召使いの数を減らし郊外のこじんまりした家に引っ越し、ばあやと女中と4人で暮らしている、という所は変わっていません(女中はお手伝いさんに変わっていますが)。

私の予想した軍国主義的あるいは国家主義的な部分を戦後になって書き直した、あるいは削除したというような形跡は見当たりません。昭和12年版ですでに天皇制については殆ど触れていないし、国体についても何も書いてないし、軍人に対してもあまり遠慮しているような所はありません。戦後の空想的反戦平和主義ではありませんが、世界中の人が仲良くすれば素晴らしい世界ができるという空想的平和主義はしっかり書かれています。昭和12年という時点でまだこのような本を出版することができたんだというのは私にとっては意外でしたが、まだまだ大正から昭和初年にかけての自由主義的な雰囲気が残っていたということでしょうか。

私が感じた違和感というのは、昭和12年の元々の作品の一部だけをむりやり昭和30年代に書き換えたことによるものと、この昭和12年でまだまだ自由主義的な雰囲気が残っていたのに私が勝手に軍国主義的国家主義的な状況が進んでいたに違いない、と思い込んでいたことが原因だったようです。

ということで、なかなか面白い経験ができました。

昭和12年の版を読むのはちょっとメンドクサイかも知れませんが、今手に入る版とほぼ同じ内容のものが昭和12年、日中戦争が始まった後でもまだ書かれ、出版されていたんだという意識で読んでみるのも面白いかも知れません。

『刀の明治維新』 尾脇秀和

11月 7th, 2018

この本も図書館の新しく入った本コーナーでみつけたものですが、面白い本でした。

豊臣秀吉の『刀狩り』は有名なんですが、『豊臣氏に代わった徳川氏は刀狩令における武器の「所持」の禁止政策を全く継承しなかった』という説明で、そうだったのか、とヒックリ返ってしまいました。江戸時代に百姓も町人も、博打打ちもヤクザも皆、刀を持っていたのがこれで良くわかります。それにしても秀吉の『刀狩り』は有名ですが、その後の『全く継承しなかった』というのは、聞いた覚えがないなと思いました。

で、江戸時代に『名字帯刀』という制度が定着し、それが明治の『廃刀令』で終わったのですが、その具体的意味が丁寧に説明されています。

すなわち徳川の世の中になり『刀狩り』が継承されなかった結果、武士も百姓も町人も好き勝手に刀を持つようになった。関ケ原も大阪冬・夏の陣も終わり、大きな戦争もなくなり、刀は武器ではなくファッションの一部になったということです。

で、いわゆる旗本奴(はたもとやっこ)や町奴(まちやっこ)と言われる人達を中心に、ファッションとしての帯刀が大はやりし、見栄えを良くするために『棒のような刀』と称されるように、日本刀の特徴である反りをほとんどなくし、また長さを極端に長くし、鞘の色やその他の装飾も派手にした刀が大流行した、ということのようです。

で、その後派手な格好を禁止する服装規定として、武士は刀(かたな)と脇差(わきざし)の2つを差していなければいけない、武士以外の人については2本差してはいけない、というルールができたということです。その武士の差す2つの刀のうち、一方を刀(かたな)と呼び、もう一方を脇差と呼び、武士でない者が差す1つの刀を脇差と呼ぶということで、刀(かたな)と脇差とは物としては全く差異がなく、武士以外が差すなら脇差とし、武士が2本差す時、一方を刀(かたな)と呼ぶならもう一方を脇差と呼ぶというだけのことだということです。で、武士以外の人については2本差してはいけないというだけで、1本を差す分には何の規制もないということです。

こうなると武士の2本差しというのがステータスシンボルになり、武士でないけれど、そこらの一般庶民とは別の存在なんだと主張したい(医者とか儒学者・儒医とか大庄屋とか大工の棟梁とか修験道の山伏とか陰陽師・神主とか御用町人・御用商人などの)人が何とかして2本差しで武士に準ずる存在だとみせびらかそうとしたのが、いわゆる『名字帯刀ご免』という制度です。幕府や藩から特別に許可を得て、武士でないのに武士と同様の2本差しをする、ということです。この帯刀御免もケースバイケースで様々な条件がついていて、その内容だけでも面白いものです。

一方武士以外の方は、脇差1本だけであれば好きなように差すことができ、これでヤクザも相撲取りも博打打ちも自由に刀を差すことができたわけです。

正月の挨拶回り・婚礼・葬式・お祭り等では普段刀を差さない人も刀を差すのが正式な礼装となり、男の子の成人の儀式として刀を差すというようにもなり、また旅に出る時は用心のために一本差して、という具合に、武士以外の世界でも脇差1本に関するルールが出来上がっていったようです。

で、この武士に準じる『帯刀御免』が次第に増えていって、ここで明治維新になり廃刀令になるのですが、ここでも面白い話があります。

明治新政府は旧藩の領地はとりあえずそのままにして、旧幕府の直轄地をまず自分で治めることになり、幕府により許可された『帯刀御免』を一旦全て取り消し、武士だけに(2刀の)帯刀を許すようにしました。この旧幕府の直轄地、はじめは鎮台と呼び、次に裁判所とか鎮撫総督府とよび、その後、府とか県とかよぶようになったんだけれど、裁判所といっても今の裁判をする所という意味ではなく、単に役所というくらいの意味で、府・県というのも行政区画としての府県ではなく単なる役所という意味で、これらすべてがその後の廃藩置県で整理され、旧藩の地域も含めて日本全体を整理し直してその行政区画を府県と呼び直した、なんて話も私は始めて知りました。

さてそうなると、明治以前に帯刀を許されていた人達が明治以降も帯刀を許してもらおうと動き出します。一方明治維新の文明開化で服装の洋装化が進み、洋装に2刀の帯刀というのはいかにも不都合なため、武士層を中心とした新政府の役人を中心に『帯刀しないことの許可』を求める動きが出てきて、最終的に全部ひっくるめて『廃刀令』で帯刀が全面的に禁止されるということになったわけです。

この廃刀令は『帯刀を禁ず』という形になっていますが、そこで帯刀とは2本差しのことだけでなく、脇差だけの1刀も帯刀だ、といって脇差だけの1本差しも廃刀令違反ということで、見つかったら脇差を取り上げられ没収されたということのようです。

江戸時代を通じて1本だけの脇差については何の規制もなかったのが、明治になっていきなり初めて全面的な禁止となったのでかなりの混乱が生じ、『先祖伝来の由緒ある脇差』を没収されて『何とかして返してくれ』なんて騒ぎも起こったようです。

で、この廃刀令を決めるにあたって有力な議論となったのが『切捨御免』という言葉で、『江戸時代は武士がえばっていて、百姓町人が武士に無礼なことをしたら武士は相手を即座に切り殺しても何のお咎めもないひどい世の中だった』ということなんですが、著者の調べによるとこの『切捨御免』という言葉は明治6年頃から急速に一般化した言葉で、江戸時代にはなかった言葉だということです。

福沢諭吉の『学問のススメ』でこの言葉が使われ、この本の流行と共にこの言葉も流行したということです。

もちろん江戸時代には『切捨御免』という言葉もなく、また幕末に日本中で志士という名前のテロリスト達が横行した時代を除けばこの『切捨御免』という実態も全くなかったようですから、この『切捨御免』というのはもしかすると福沢諭吉による空前絶後のフェイクだったのかも知れません。

ということで、この本は他にも面白いトピックス満載です。
お勧めします。