参院選

7月 22nd, 2013

参院選、終わりましたね。
例によって、8時の開票開始と同時に大勢が判明してしまい、当選確実が続々と出てくるとなると、ドキドキもワクワクもないですね。

で、案の定、自民・公明・共産の勝ちでしたが、野党の負け方がちょっと中途半端ですね。

民主党は惨敗にもかかわらず、ここまで負けると代表を交代させるにも候補も見当たらないようで、このまま海江田さんが代表を続けることになりそうです。

とはいえ、みんなや維新もひどい状況で、どちらと比べても民主党は2倍近い議席を取ってます。みんなも維新もえばれたものじゃありません。さらに、野党がこんな状況になった原因の一つ、大きな要因が橋下さんの逆噴射だということになると、皆で一緒になろうという話もなかなか進みそうもありません。

みどりと生活は一議席も取れず、社民も一議席だけということで、いずれにしても政党の数は減るんでしょうが、どんな具合に減るんでしょうね。

とりあえずは、現実になった負けを野党各党がそれぞれ自ら消化して、気を取り直してからの話になるので、ちょっと時間がかかるでしょうね。

当面はアベノミックスと消費税引上げの決定が注目でしょうか。

東京では山本太郎さんなどが当選したりして当分様々な話題をふりまいてくれそうで、マスコミは嬉しいでしょうね。でも6年間もつでしょうか。

お陰で東京では5議席もあるのに、民主もみんなも維新も議席が取れませんでした。

元都知事の石原さんは、東京で議席が取れなかったことについて責任は感じてないようですね。

これだけの負けなのに、議席を失ってしまったみどりの谷岡さんを除いて、誰も責任を取って党首をやめるという人がいないのも面白いですね。

ケインズ・・・19回目(最終回)

7月 17th, 2013

さて、前回まででケインズ一般理論の本文は終わりです。でも私が読んだ岩波文庫の間宮さんの訳には、間宮さんの先生にあたる宇沢弘文さんという高名な経済学者による「解題」と、訳者自身による「『一般理論』に関する若干の覚書 - 「あとがき」に代えて』というものがあります。またついでに買って途中まで読んだ、講談社学術文庫の山形さんの訳にはさらに
 ・ 日本版への序
 ・ ドイツ語版への序
 ・ フランス語版への序
というケインズ自身の書いたものと、特別付録として
 ・ ヒックスの書いた「ケインズ氏と古典派たち : 解釈の一示唆」
というものと、
 ・ クルーグマンの書いた「イントロダクション」
さらに訳者自身による
 ・ 「ケインズ 一般理論 訳者解説」
が付いています。

とりあえず「一般理論」が一段落した所で、これからいろいろな解説書(日本では版権の関係で翻訳がなかなかできなかった分、多くの解説書が出ているようです)を読んで、経済学者の先生方の理解と私の理解がどれくらい違っていてどれ位同じか確かめてみようと思っているのですが、とりあえずはまず小手調べとしてこれらの付録を読みました。

ケインズ自身による序はごく簡単な概要になっていて、特にフランス語版の序はフランス人向けにモンテスキューについてかなり好意的に書いて、「一般理論に近い」というようなことを言っています。

宇沢さんというのは見るからに大学者ですが、この解題はちょっとアレッ?という所があります。この先生は別に岩波文庫で一般理論の解説をしていますので、これも読んでみようと思います。

ヒックスというのはケインズの一般理論を「IS-LM分析」という形に整理した人で、それがサムエルソンの教科書に取り入れられたりして、「一般理論=IS-LM分析」ということになっています。この山形さんの訳に付いていた論文は、このIS-LM分析を書いたものです。

山形さんの一般理論の訳は途中まで読んだのですが、あまりにも訳が乱暴なので(訳した文章が乱暴だということではなく、訳し方が乱暴だということです)、だいたい1/5位の所までしか読んでません。で、ケインズの序は特に違和感もないのですが、このヒックスの論文の訳もちょっと乱暴なので、分量もそれほど多くないので、結局全部原文の英語で読み直しました。

で、どう読んでみてもこれが一般理論とはとても思えません。せいぜい一般理論の大雑把な応用問題の一つという位のものだと思いますが、一般にはこれが一般理論そのものだと思われていて、大抵の大学の経済学の教科書には一般理論そのものでなくこのIS-LM分析が紹介されていて、次にコメントするクルーグマンの「イントロダクション」によると、
 【そのために多くの経済学者が一般理論を攻撃したけれど、その人達はヒックスの論文は読んだとしても一般理論自体は読んでないに違いない】
ということになります。

このヒックスの論文だけなら文庫版で20ページ位、式や図もちゃんと入っていて、しかも数式の扱い方もかなりいい加減ですから、経済学者の先生方にはわかりやすいかも知れません。後日これを書いたヒックス自身、「ケインズの一般理論をIS-LM分析と同じだと言ったのは間違いだった」と言うようになっているんですが、その後このIS-LM分析でヒックスがノーベル経済学賞を取った、などという皮肉な話もあります。

最後のクルーグマンのイントロダクションは理論的な話ではなく、一般理論を巡るお話といったものですから、山形さんの訳でも殆ど抵抗なく読めました。ケインズの一般理論は素晴らしいけれど、多くの経済学者は読んでいない。クルーグマン自身、学生の時に読んだきりで、次に読んだのは数十年後だった、なんてことを書いています。

一般理論の面白さがわかるのは、そんなに難しいんでしょうか。専門の経済学者は新しい本や論文を読んで自分も論文を書かなきゃならないので昔の本を読んでる暇はない、なんてことも書いてあります。「最も高い評価を与えられる経済学の業績は、アダムスミスの国富論とケインズの一般理論だけだ」と言っている所は同感です。

ケインズは一般理論の最後に「25ないし30を超えた人で新しい理論の影響を受ける人はそれ程いない」と書いています。ケインズは経済学と政治哲学についてこう言っているのですが、同様なことは相対性理論でも素粒子論でも言われたことがあります。もちろん言ったのは超一流の物理学者です。新しい考え方は、若い頃その新しい考え方に触れた人にだけ受け入れられて、その後、若い頃古い考え方に触れてしまったために新しい考え方を受け入れることができなかった古い考え方の人が死に絶えると、ようやく新しい考え方が主流になる、ということです。

私がケインズの一般理論に感激したのは、25ないし30までに経済学をちゃんと勉強しなかったからなのかなと思うと、若い頃あまり勉強しない、というのも悪いことじゃないかも知れません。

ここまででちょっと回数は切りが悪いですが、半年にわたったケインズのシリーズは終りです。
機会があったらまたしばらくして、いろんな一般理論の解説書を読んだ後にその結果を報告するかも知れません。

長々とお付き合い頂き、有難うございました。

ケインズ・・・18回目

7月 16th, 2013

さて、一般理論もあと2章残すだけです。

最後の前の章は今までの古典派批判の締めくくりとして、古典派に否定されてしまった重商主義についてこれを復活させ、またゲゼルという一風変った人の経済学の紹介、「蜂の寓話」の話、反古典派のホブソンとマムマリーの理論の紹介になっています。

古典派が登場する前、経済学は重商主義という考え方が主流でしたが、古典派により完膚なきまでに否定されてしまったということです。それをケインズは「古典派よりよっぽどまし」と言って、復活させています。ケインズの解説を読む限り、重商主義にそれほど問題があったとも思えませんし、ケインズの「重商主義者は問題の存在は察知していたが問題を解決するところまで分析を押し進めることができなかった。しかるに古典派は問題を無視した。問題の非存在を含んだ諸条件を彼らの前提に導入したからである。」という言葉を読むと、古典派というのは何の役にも立たない頭でっかちのような気がしますが、それが一世を風靡したということと何となくしっくりきませんし、いずれ機会があれば古典派の経済学とその前の重商主義についてちょっと勉強してみましょう。

古典派について最後にケインズが言っている
 【思うに古典派経済理論は影響力の点である種の宗教に似た所がある。人々の常識的なものの考え方に深遠なものを吹き込むよりは自明なものを追い払ってしまう方が、はるかに大きな観念の力を行使できるからである。】
というのは考えさせられます。

重商主義の復活の後は、古典派の世界の中で古典派に反対する立場をとった経済学(というか経済思想)を紹介しています。

まずはゲゼルという人の話があります。
 「この書物全体の目的は反マルクス主義の社会主義を打ち立てることにあると言っても良いかも知れない」とか、
 「将来、人々はマルクスよりもゲゼルの精神からより多くのものを学ぶだろう。そう私は信じている」
なんて書かれてると、ちょっと興味がわきますね。
ちなみに一般理論でマルクスが引き合いに出されているのは古典派という言葉をマルクスが言いだした、というところとこのゲゼルのところだけです。
ただしこのゲゼルというのは、ケインズは「理論が不完全だったためにアカデミズムの世界から無視されたんだろう」と言っていますが、このゲゼルの著作の日本語訳は(間宮さんの訳の文献一覧によると)なさそうなので、読むのは難しいかも知れません。日本の長期にわたるデフレ脱却の手段として時折「スタンプ付き」貨幣というアイデアが紹介されますが、このアイデアはゲゼルのもののようです。

その後、マンデヴィルの「蜂の寓話」の紹介とか、ホブソン・マムマリーの「産業の生理学」の紹介とかがあります。これは不完全ではあるけれど、古典派の欠陥をついた主張として、ケインズはあくまで古典派の攻撃にこだわっているようです。

ケインズ一般理論最後の章は「一般理論の誘う社会哲学 ― 結語的覚書」というタイトルで、総まとめの章です。冒頭、「我々が生活している経済社会の際立った欠陥は、それが完全雇用を与えることができないこと、そして富の所得の分配が恣意的で不公平なことである」と書いてあります。

この完全雇用については一般理論で論じたものですが、富と所得の分配についても、大きな不平等は問題だけれど、ある程度はあっても良いと考えているようです。
 「人間は危なっかしい性癖を持っているが、この性癖は蓄財や私的な富の機会があればこそ、比較的無害な方向に捌けさせてやることができる。」
 「人間が同胞市民に対して専制的権力を振るうよりは、彼の銀行残高に対して専制的権力を振るう方がまだましである。」
というあたり、やはりケインズはあくまで現実的に問題をとらえ、経済学の枠にとらわれない考え方のできる人です。

この章の最後にケインズは「問題を正しく分析することによって、効率性と自由を保ったまま病を治癒することもあるいは可能かも知れない。」と言ってあるべき未来についての希望を述べています。
 「このような思想を実現することは夢物語なのだろうか。」 
 「だが思想というものはもしそれが正しいとしたら、時代を超えた力を持つ、間違いなく持つと私は予言する。」
 「早晩、よくも悪くも危険になるのは既得権益ではなく、思想である。」
として、いずれ将来、一般理論により多くの問題が解決される時が来る期待を表明しています。

今の所まだそのような未来は来ていないようですが、やはりケインズは学者の枠には収まりきれない人のようです。

韓国の稲作

7月 11th, 2013

韓国の歴史の教科書を読んで、韓国では17世紀頃稲作で田植え法が主力となり収穫が急増したという記述をみつけ、日本では弥生時代から田植えをやっていたはずなのに、どういうことだろうと思いました。

で、この前の記事に書いた「両班」という本にその答がみつかりました。

韓国ではその昔中国から農業の教科書を輸入していたのですが、気候・風土の違いからなかなかそのまま適用するのが難しかったようです。そして世宗(セジョン)という王様が韓国の実際の農業を調査して、韓国用の農業の教科書「農事直説」という本を1430年に刊行したということです。

この中に稲作については水耕法・乾耕法・挿種法の3通りのやり方が書いてあります。水耕法というのは、水田直播き法、乾耕法というのは乾田直播き法で、挿種法というのが田植え方式だということです。

で、この三つの方法があるけれど、水耕法が基本で挿種法は農家にとって危険きわまりない方法なのでやってはいけないと書いてあるようです。
 「この方法は除草には便利であるが、万一日照りの年であれば手のほどこしようがない」ということのようですが、要は苗代を作っていざ田植えという時に田んぼに水がなかったら田植えのしようがない、ということのようです。

日本の稲作でも田の草取りというのは一番大変な作業だったんですが、それが「便利」ということだと韓国の水田播き法の草取りはどんだけ大変だったんだろうと思います。

それにしても日本では田植えというのは梅雨の季節とも重なり、「田んぼに水がない」なんてことは思いもつかないんですが、韓国では確かに田植えの頃の降水量はそんなに多くありません。

日本では日照りというのはむしろ夏の暑い頃の話で、「水がない」と言ってもまるっきりないわけじゃなくて、水のあるところから田んぼまでどうやって水を引いてくるのか、運んでくるかという話ですが、韓国では「ない」となったらどこにもないんでしょうね。

で、田植え法は世宗(セジョン)大王がダメ、と言っているんですから現実的に禁止されていたのですが、それでも次第に行なわれるようになり、1619年に「農家月令」という本が出て、この本では水田直播き法と田植え法が対等に扱われ、禁止ではなくなり、それを受けて1655年に「農事直説」の改訂版として「農家集成」という本が出て、これに田植え法とそれを可能にする灌漑技術が詳しく紹介され、こっちは公認の本なので今度は安心して田植え法が全国的に広がったということのようです。

韓国ではそれまで灌漑の方法としてはため池を作るという方法で、これは国家の公共事業となるような大工事が必要だったのを、その後川をせき止めて灌漑に使う簡便な方法が開発され、これによって田植え法が可能になったようです。

乾田直播き法では、土の中の水分の蒸発を抑えるためあんまり丁寧に土を耕さず、種を播いたら土をかぶせた後しっかり土を固めるという指導がなされているようです。

日本では「水やり」というのはどうやって水を引っ張ってくるかという話であって、土の中の水分の蒸発をどうやって防ぐかという発想は今まで私は聞いたことがなかったので、これも新鮮な驚きです。
こんな思いもかけない話があるので、本を読むのは楽しいですね。

なお「農事直説」を作らせた世宗という王様は韓国でもとびぬけて立派な王様で、ハングルを作った王様でもあり、また朝鮮から日本へ使節を送るにあたり日本の水車の作り方を調べて来るようにその使節に命じ、日本でその模型まで作ってきたのにその当時の韓国の技術では水車を作ることができなかったなどというエピソードもあるようです。

私が通った高校は普通科なのに農業という科目が必修だったので、あまり勉強した覚えはないのですが、田植えや稲刈りは実際に経験し、ちょっと懐かしい思いがします。

両班(ヤンバン)

7月 11th, 2013

韓国の歴史の教科書を読み終わって、改めてちゃんとした本を読んでみたいと思いました。
普段図書館ではあらかじめネットで検索して、予約した本を借りてくるだけなのですが、久しぶりに本棚の前でタイトルを眺めていたら、
 「両班(ヤンバン) – 李朝社会の特権階層」という宮嶋博史著・中公新書が目に入りました。

両班というのは、韓国の歴史と現在を理解する最大の鍵だ、と以前から思っていたので、早速借りて読みましたが、期待通りの素晴らしい本でした。

著者は韓国の古文書を直接読むという方法で、李朝になって特権階層としての両班、特に地方の特権階層としての両班が出来上がってきて、それが社会の目標となり、誰もが両班になる、あるいは両班的生活様式を取り入れることを目標として今回の韓国社会が出来上がったという経過を族譜(日本でいう家系図の韓国版ですが、はるかに膨大なもので、韓国人の多数がこのどこかの族譜に属しているようで今でも日常的に使われているようです)・遺産相続の書類・日記・戸籍などの統計資料を読みながら解析していきます。

そもそもこの両班という言葉自体いろんな意味がある言葉なんですが、社会的身分をさす語としての両班にしても、一言では言えない意味の言葉のようです。

 【両班というのは法的に決められた階層ではないけれど、だからと言って曖昧なものではなく、誰が見ても両班か両班でないかが明確に見分けることができるようなものだ。】
というんですから、これだけじゃ何のこっちゃと思うのですが、この本を読むとそのあたりが良くわかってきます。

で、その両班というのが儒教の性理学(日本では朱子学と言われているものですが、韓国で独特に発展したものです)に基いて儒教を勉強することが本分ということになりますから、地方の役人の監督をするくらいのことはしますが、実際に身体を動かすようなことはしないことになっています。自分の田畑も自分で農作業するわけにいかないので、奴婢に農作業させてその監督をするだけ、あるいは商売をするにしても奴婢に商売させてその指示をするだけ、ということになります。

この「奴婢」というのが両班の財産として売り買いしたり相続したりの、要は奴隷なのですが、これが自分の田畑を持っていたり財産を持っていて自分で商売したりする、何とも不思議な奴隷制度です。

ですから両班が奴婢に種蒔きをさせてもチラホラとしか芽が出てこない、奴婢が種をくすねてあとで自分の畑に撒いているに違いないとか、奴婢が休みをとって布を売りに行くというので両班が自分の布も売ってきてくれと頼んだところ、帰ってきた奴婢に「自分の布は売れたけど、両班の布は売れませんでした」と言われて悔しがる、なんて話が出てきます。

奴隷制というのは経済効率が悪くて、アメリカの南北戦争のリンカーンの奴隷解放も人道的な観点というよりは経済効率の観点から決められた、という話もありますが、韓国でも李朝が終わって大韓帝国になる頃(日本では明治維新の頃)には奴婢がほとんどいなくなったようです。

両班としても種をくすねられることがわかっていて農作業を監督するより、奴婢を解放して小作人にして好き勝手に農作業をさせておいて小作料をしっかり取り立てる方が監督する手間も要らないし有利だ、ということに気がついたんでしょうね。

で、この両班、李朝の初期には人口の10%弱だったのが終わり頃には人口の70%にもなっていて、今では韓国人の殆どが「自分は両班の家系だ」ということになっているようです。

両班というのは両班的生活習慣と両班的価値判断が両班かどうかを決める最重要ポイントですから、韓国人の不思議な礼儀正しさと理屈っぽさ・歴史認識を理解するには、この両班をちゃんと理解する必要がありそうです。その意味でこの本はお勧めです。

参議院選挙

7月 11th, 2013

いよいよ参院選が始まっていますが、何とも盛り上がらないですね。

自民・公明の与党の勝ちが決まってしまっている状況だからでしょうか、ちっとも面白くありません。そんな中、テレビでは9党党首の討論会というのが何度も行なわれているようです。

でも9党というのも何なんでしょうね。参議院を中選挙区制から小選挙区制にする時、小選挙区制にすれば二大政党制になると言っていた人達は、この9党党首揃い踏みをどんな思いで見ているんでしょうね。(ちなみに舛添さんがやめなければ10党党首ということだったんでしょうか、ヤレヤレ)

この参議院選、あるいは3年後の参議院選あたりでもう議員がいなくなってしまいそうな政党の党首がイッチョマエの顔をして安倍さんに訳がわからないイチャモンをつけているというのも、ウンザリですね。

選挙が面白くないのは、野党のどの党首をとってみても安倍さんにまともに太刀打ちできるほどの人がいないというのも原因かもしれません。安倍さんの発言の番になるとそれまでの野党の言い分は鎧袖一触で片付けられてしまっている感があります。

今のままだと自民・公民・共産の3党の勝ちということでしょうから、開票速報の興味は残りの野党がどこまで負けるかということだけになりそうです。

韓国史(と台湾史)の教科書

7月 2nd, 2013

先日、韓国の高校生のうち7割は朝鮮戦争を韓国が北朝鮮を侵略した戦争だと理解している、というニュースがありました。あれだけいわゆる「歴史認識」についてうるさい国が一体どうしたんだろうと思い、今後はいろんな出来事に関して韓国人の反応を理解するためには、韓国人のこのような歴史理解を踏まえて解釈する必要があるなと思い、facebookにコメントしました。

それに対して友人の下郡さんからまずは韓国の歴史教科書を読むように、ついでに比較のために台湾の歴史教科書も読むように勧められました。

韓国の歴史 国定韓国高等学校歴史教科書 世界の教科書シリーズ 大槻 健/訳 明石書店

台湾を知る 台湾国民中学歴史教科書 国立編訳館/主編 雄山閣出版

さっそく図書館で借りて読んだのですが、非常に面白いものでした。

最初韓国の方を読もうと思ったのですが、高校用の教科書のせいか500ページにわたってビッシリ書いてありかなり歯ごたえがありそうなので、台湾の方から読むことにしました。

台湾の方は中学用の教科書だということもあり、また台湾の歴史がさほど長くない(実質的に国姓爺の鄭成功のあたりからですから、日本で言えば江戸時代以降ということになります)ということもあり、また第二次大戦後国民党が台湾に乗り込んだ時から李登輝がトップに立つまでの間はさすがに生々し過ぎるのか、殆ど何も書かれていないということもあるのかも知れません。分量的にもはるかに少なく、簡単に読めました。

日清戦争後の日本の統治の時代についても、それまで中国本土から殆ど放置されていた土地が、日本によってしっかり建設されたあたりがちゃんと書いてあります。

これを読み終えてその勢いで韓国史にかかったのですが、さすがに分量も多く(中国五千年に匹敵するような歴史です)、また高校用の為かそれぞれの時代区分ごとに政治・経済・社会・文化のそれぞれについて記述してあるので、読みごたえがありました(とはいえ、わからない所はそのまま読み飛ばしですが)。

もうひとつ感じたのが、基調として「・・・でなければならない」とか「・・・しなければならない」とかの、いわゆる説教調が強いので、まぁこれは韓国の国民性なんでしょうが、そんなことを言われ続けるのも大変だなと思いました。

韓国の歴史では、外国としてはやはり中国と日本が良く登場します。
中国は文明の進んだ国としてその文明を取り込んだり、その文明を凌駕するような業績を韓国人が挙げたりというような記述です。日本は一貫して文明の遅れた国であり、長年にわたり韓国から文明を教えてやった相手ということです。

韓国人は大昔からずっと朝鮮半島とその北の満洲の地域に住んでいる単一民族だということで、その中がいくつかの国に分かれたりまた統一されたりしたけれど、一貫して一つの民族・一つの国土・一つの国という意識が強いようです。元に攻め込まれたり清に攻め込まれたりして、それらに従属させられ酷い目に遭ってはいるものの、国としての独立性は保っていた、というのが誇りのようです。

これは豊臣秀吉の朝鮮征伐も同じで、国を攻められ大変な被害を蒙ったけれど、最終的に国を保ったまま相手を追い出した、ということのようです。徳川時代になって日本に通信使を送るようになったのも、大変な被害を蒙って山ほどの恨みはあるものの、文明の遅れた国から是非来てくれ・教えてくれと頼まれたので、進んだ文明を教えてやるために使節を派遣したということです。

で、その数千年の歴史の中で唯一残念なのが日韓併合で、一時的に国がなくなってしまった、ということのようです。あの(後に元になる)モンゴルも、(後に清になる)女真族もやらなかった「国を失くす」という暴挙を、自分達よりはるかに文明の遅れていて、後に中国になるわけでもない日本にやられてしまったというのは何とも我慢ならないようです。

その後日本が太平洋戦争に負けて韓国はまた国として復活するのですが、そんな棚ボタで独立を回復したなんてことを言うわけには行きません。日本に対する独立戦争の所は他の部分とくらべてもやけに詳しく、いつ・どこで・どんな戦争をしたか、ということが延々と書かれています。

日本では太平洋戦争や日中戦争についてはある程度知っていますが、韓国の日本に対する独立戦争のことなど殆ど、または全く知らないと思います。少なくとも私はこの教科書を読むまで安重根アン・ジュングン)の伊藤博文暗殺は知っていましたが、日本に対する独立戦争などはまるで知りませんでした。

相手が死ぬ覚悟で戦争をやったのにこっちは何も知らない、では話になりませんね。韓国人はプライドが高いので自分達の独立戦争の結果「日本を追い出した」と思いたいのに対して、日本人はアメリカに負けたから朝鮮から「引上げた」と思っているんですから、韓国人としては収まらないでしょうね。

で、日本の統治時代のことも、何もかもうまく行かないことは全て日本の統治のせいにする、という書きぶりです。まぁ悪者がはっきりしているのでわかりやすいと言えばわかりやすいですけれど、はっきりし過ぎているのもあまり面白くはないですね。

で、独立戦争の結果ようやく日本を追い出したと思ったら、今度は急に北朝鮮が(同じ民族でありながら)悪者になって韓国に攻めて来たというのも、わかりにくいんでしょうね。それまでは「韓国人は正義」、「日本人は悪」という切り分けだったんですから。

で、最後に一つ面白い発見をしました。
この韓国史の教科書では、韓国では17~18世紀に稲作で田植えをするようになり、稲作が効率化して収量が急増した(それまでは直撒きで効率が悪かった)ということが書いてあります。日本では弥生時代から稲作は田植えでやっています。その間こんなに近い所にある国なのに、韓国は日本の田植えを見習おうとしなかったんでしょうか。大きな疑問です。田植えをした田んぼは、田植えの時から稲刈りの時まで一目でわかるはずですし、その間日本に往復している韓国人も多数いたと思うのですが、誰かこのあたりの事情を知ってる人がいたら教えて下さい。

いずれにしても日本は韓国と違って、中国と地続きじゃなかったこと、韓国のように科挙を導入しなかったこと、ラッキーだったなと思わずにはいられません。多分韓国史の教科書の説教臭さというのは儒教の性理学の名残なんだろうな、なんて考えています。

実はかなりの数の国の学校の教科書が日本語に訳されて出版されているようです。もし興味があったら読んでみて下さい。

総理大臣の問責決議案

6月 28th, 2013

国会があれよあれよのうちに終わってしまいましたね。
あの、総理大臣の問責決議案、というのは何だったんでしょうね。

社民、生活、みどりの共同提案、ということですが、見るからに小沢さんがバックで糸を引いているような顔ぶれですね。

この問責決議案に対して民主党も乗ってしまった、というのは、今度の参議院選に向けて自民党に格好の攻撃材料を与えてしまった、ということになりますね。もっともさらに鳩山さんがわけのわからないことを言って、なおさら自民党の民主党攻撃に関してはネタは有り余るほどですが。

鳩山さんも6月で民主党をやめる、ということのようですが、今はまだ民主党員じゃないんでしょうか? あの発言に対して細野さんはかなり怒ったそぶりを見せていましたが、民主党としては何の処分もできないんでしょうね。

それにしても今度の参議院選が終わったらそれこそほとんど存在がなくなってしまうような社民、生活、みどりの共同提案にほかの野党がみんな乗ってしまった、というのはどうなんでしょう。

輿石さんにしてみれば、参議院選が終われば参議院でも民主党の出番はなくなるのでこれが最後の見せ場、ということなのかもしれませんが、それを止められない民主党のトップもなんともふがいないですね。

仮に自民党がこの問責決議案の可決を受けて、『民意を問う』なんて言って衆議院を解散して衆参同時選挙、なんてことになったらどうするつもりだったんでしょう。

この前の衆議院選でかろうじて生き残った民主、維新、生活の議員さんたちもほとんど振り落されて衆参両院とも完全に自民党の独り舞台になっていたかもしれませんね。

安倍さんと石破さんのコンビはそんなに乱暴なことはしないでしょうが、これが小泉さんだったらそんなシナリオも十分ありだったかもしれませんね。

いずれにしてももう待ったなしの参議院選、まずは野党がどれくらいの候補を立てることができるのか、というところから、見ものですね。

ケインズ・・・17回目

6月 27th, 2013

さて、雇用関数の章に続くのは「物価の理論」、そして「景気循環に関する覚書」という章です。

「物価の理論」では物価がどのように決まるのか検討するのですが、その中でケインズはいわゆるミクロ経済学とマクロ経済学に分けるという議論をしています。
 『経済学を「価値と分配の理論」と「貨幣の理論」に分けるのは間違っている。
 個々の産業や企業が一定の資源をどのように配分するかという理論(ミクロの理論)と、全体としての産出量と雇用の理論(マクロの理論)に分けるのが正しい。
 というのも、個々の産業や企業を問題にしている間は貨幣のことを考えなくても良いけれど、全体について考える時は貨幣経済についての完全な理論が必要となるからだ。
・・・・
貨幣の重要性は本質的に現在と将来をつなぐ精妙な手段であり、貨幣の言葉に翻訳するのでなければ変化する期待が現在の活動にどのような影響を及ぼすか、議論を始めることさえできない。
・・・・
現実世界の問題というのは、以前の期待(見込み)はともすれば失望を免れず、将来に関する期待は我々の今日の行為に影響を与える(そして多分また失望させられる)、という問題だ。
・・・・
 また二つに分けるとすると、「定常均衡の理論」と「移動均衡の理論」に分けることができるかも知れない。』

というような話のあと、経済学という学問の本質について
 『我々の分析の目的は間違いのない答を出す機械ないし機械的操作方法を提供することではなく、我々の問題を考え抜くための組織的系統的な方法を獲得することだ。
 複雑化要因を一つ一つ孤立させることによって暫定的な結論に達したら、今度は再びおのれに返って考えを巡らし、それら要因間の相互作用をよくよく考えてみなければならない。
 これが経済学的思考というものである。
・・・・
 経済分析を記号を用いて組織的に形式化する擬似数学的方法が持つ大きな欠陥は、それらが関連する要因相互の完全な独立性をはっきりと仮定し、この仮定がないとこれらの方法が持つ説得力と権威がすべて損なわれてしまうところにある。
・・・・
 最近の「数理」経済学の大半は、それらが依拠する出発点におかれた諸仮定と同様単なる絵空事に過ぎず、その著者が仰々しくも無益な記号の迷路の中で現実世界の複雑さと相互依存とを見失ってしまうのも無理からぬことである。』
と言っています。

今の経済学者の先生方に、もう一度これらの言葉を熟読玩味してもらいたいと思うのですが、多分殆どの先生方は「そんなことわかってる。わかった上でちゃんとやってるよ」と答えるんでしょうね。あるいは、「そんなことを言っていたら時間ばかりかかってしまって誰からも評価してもらえないよ」とでも言うんでしょうか?

ケインズは、物価は需要や貨幣量や金利やいろんなものと関連して決まっていくもので、そう簡単に割り切れるものじゃないよ、ということを具体的に細かく説明してくれています。ここもあとでじっくり整理しながら読みなおす必要がありそうです。

次の景気循環の所でケインズは
 『景気循環は複雑きわまりない現象であって、それを完全に解き明かすには我々の分析で用いられた諸要素を総動員する必要がある。』

と言っています。とはいえ【総動員すれば解き明かすことができる】などとはもちろん言っていませんが。

ケインズは
 『景気循環は資本の限界効率の変化によって引き起こされると見るのが一番だと私は考えている』
と書いていますが、「資本の限界効率」というのは前にも書いたように、「投資の利回りの見込み」のことですから、要するに【いろいろな投資について、皆がどれ位儲かりそうかと考える、その見込みが変化することによって景気循環が起こる】ということです。

ケインズは景気循環のメカニズムについて議論していますが、もちろんそのメカニズムを理解することが目的ではなく、否応なしに起こる景気循環のサイクルの中で下向きになる時に恐慌にならないようにするにはどうしたら良いか、また上向きの好況の時にそれをできるだけ長持ちさせるにはどうしたら良いかという問題意識でこのメカニズムを考えています。これもアメリカ発の世界的な大恐慌を受けての現実的な問題意識です。

いずれにしても景気というのは本当に循環するのか、単に上がったり下がったりするということではないのか【「循環」と「上下」というのは何が違うのか】あたりから、このテーマはじっくり考えて見る必要がありそうです。

それは後のお楽しみにして、「一般理論」残りはあと2章です。

ケインズ・・・16回目

6月 11th, 2013

さてケインズは「一般理論」のまとめを書いた後、まずは再び古典派の議論をやっつけに行きます。

「一般理論」の頭の所で古典派をやっつけた時はたいした武器も持っていなかったので、賃金と雇用の関係についてだけ議論し、賃金を下げれば雇用は(失業がなくなるまで)いくらでも増やせるというのはおかしいじゃないか、と言っていたのですが、今度はもう「一般理論」の議論の枠組みがあります。

賃金が下がれば消費が下がり、所得も下がって雇用も減ってしまうじゃないかという議論で、改めて古典派の議論をコテンパンにしています。19章の付論の『ピグー教授の「失業の理論」』というところで、
【これまで長々とピグー教授の失業理論を批判してきたが、それは何も彼が他の古典派経済学者以上に批判を受けてしるべきだからではなく、彼の試みが、私の知る限り、古典派の失業理論を正確に記述しようとした唯一の例だと思われるからである。】
と書いてあります。こんなのを読むと、他の古典派の先生方は何をしていたんだろうと思ってしまいます。

そしてケインズは
【要するに古典派理論がその最も強靭な表現を見たこの理論に対して反論を提出しておくことは、私に課せられた責務であったのだ。】
と締めくくっています。

これで終わってしまっては古典派に文句をつけただけになってしまいますので、次の20章「雇用関数」という所で、ケインズはケインズ流の「雇用はどのように決まるか」という理論を展開します。ここはかなり数式(それも差分の式だったり微分の式だったりします)が多いので、面倒くさいかも知れません。

でもいかにもケインズらしく、何らかの原因で需要が増えた時、まずは在庫品がはけ、次に生産設備に余裕がある所で雇用が増え、次に新規の設備投資のために雇用が増え、新しい設備を動かすのに雇用が増えるというダイナミックなプロセスを見ながら、企業や労働者が時に思い違いをしたり、過度な期待をしたり失望したりしながら変化していく様をしっかり捉えています。

最後にインフレとデフレについて、これは単なる逆向きの現象ではなく非対称であることについて
【完全雇用に必要とされる水準以下への有効需要の収縮は、物価とともに雇用を低下させるのに対し、この水準を超える有効需要の拡大は、物価に影響を及ぼすだけだ。】
とか、
【労働者は賃金が低すぎるときは働くことを拒否することができるが、賃金が高いときに雇用を(企業に)強制することはできない。】
とか、面白いことを言っています。