Archive for the ‘本を読む楽しみ’ Category

『一般理論』 再読-その2

火曜日, 2月 10th, 2015

『一般理論』再読を始めるにあたり、その準備段階としていわゆる『需要・供給の法則』をしっかり押さえておく必要がありそうです。で、まずは『一般理論』に入る前に『需要供給の法則』の中味を確認したいと思っています。

というのも、古典派の経済学ではありとあらゆる場面でこの考えが登場し、需要曲線と供給曲線が交わった所で価格と売買される数量が決まる、というのがごく当たり前の話として認められているからです。

『一般理論』の最初に出てくる古典派の雇用理論の二つの公準というのも、労働の需要・供給と価格について需要曲線と供給曲線がどのように決まるか、という議論から始まるわけですから。

で、この需要供給の法則ですが、その中味については普通の経済学の教科書ではほとんどきちんとした説明がされていません。

そのことをまずお話したいと思います。

私が最初に疑問に思ったのは、需要と供給がマッチして値段と売買の数量が決まったとして、その次はどうなるのだろうということです。普通に考えれば需要と供給がうまくマッチしてめでたしめでたし、両方とも消えてしまうとそれでおしまいになってしまう、ということですが、どうもそうではなく、需要曲線も供給曲線もそのまま残るようです。だとすると、この需要供給の法則で言っている需要も供給も一旦マッチして終りということではなく、その後も継続的に発生する需要と供給のことのようです。

そのつもりでいくつか経済学の教科書を読んでみると、そのことがちゃんと書いてある本もありました。サムエルソンの経済学では、本文の中には書いてありませんが、需要曲線や供給曲線のグラフの所で『1年あたりの』需要なり供給なりの数量と書いてありました。
スティグリッツの経済学では、需要曲線や供給曲線の所には単に数量の単位しか書いてありませんが、本文の説明の一部に『週あたりの』という言葉があります。
それ以外ではこの需要・供給が一定期間の需要・供給のことを言っていて、継続的にほぼ同じ位の需要・供給が発生する物について議論しているんだということがまるで書いてありません。

ともかくサムエルソンの教科書で、この需要・供給というのが一定期間の需要・供給を意味するんだということが確認できたので、次に進むことにします。

で、この需要曲線あるいは供給曲線ですが、その意味は、ある商品に関してある値段が決まった時、その値段で買いたいあるいは売りたいという数量を(が)それぞれの買い手あるいは売り手ごとに決め(決まり)、値段を縦軸に、買いあるいは売りの数量を横軸に取ったグラフにし(これを個別の需要曲線あるいは供給曲線といいます)、これを全ての買い手・売り手について集計して値段ごとに市場全体の買いあるいは売りの合計の数量を横軸に取ったグラフを作ります(これが全体の需要曲線あるいは供給曲線になります)。

そこで、需要曲線は左上から右下に向かった曲線(値段が安くなると需要が増える)になり、供給曲線は左下から右上に向かった曲線(値段が高くなると供給が増える)になるので、その二つの曲線が交わった所で需要量と供給量が同じになり、そこの値段でそれだけの数量の売り買いが成立する、というわけです。

この需要曲線・供給曲線の作り方で、需要側が『買いたい』、供給側が『売りたい』数量を集計して、という説明が普通されるのですが、古典派の考えはそんなものとはまるで違います。『買いたい』とか『売りたい』とかいういい加減な話ではありません。『買いたい』ではなく『買います』、『売りたい』ではなく『売ります』ということです。

値段が100円の時1,000個売る、となったらそれだけ(1,000個分)の需要があったら何が何でも1,000個売らなければいけません。売りたいと思ったけどやっぱりやめた、なんてことは許されません。需要の方も同様で、値段が100円の時1,000個買うとなったらそれだけ供給してくれる売り手がいたら何がなんでも1,000個買う、ということです。

これだけでも大変なのに、古典派の経済学というのはもっとすごいものです。すなわち値段100円の時に1,000個売るという時の1,000個というのは、取りあえず1,000個売れると嬉しいなとか、前期が800個位だから今期は1,000個にしておこうか、とかいう話ではありません。1,000個までなら売上原価と販売経費を足して売値100円でしっかり儲かるけれど、1,001個にすると逆にその1,001個目について売上原価と販売経費を足すと売値の100円を上回ってしまい、儲けが少なくなってしまう。そのようなギリギリの数が1,000個だというものです。

買い手の方も、たとえば10個買うというのは、10個分のお金を払ってでも10個買う方が満足度が大きいけれど、11個買うとなると11個買った満足度から11個分のお金を払ってしまった不満感を差し引いたものが10個の場合より小さくなってしまう、というギリギリの個数です。

売り手も買い手もこのようなギリギリの個数をそれぞれの値段ごとに決めることができるとして、それを値段ごとに瞬時に集計してその集計結果にもとづいて値段と売り買いの数量が瞬時に決まる、そしてその値段と数量で売り買いが成立する、というのが、古典派の経済学の需要・供給の法則です。

現実にはもちろん、値段が100円だったらどれだけの数量売るか買うかなんてことは、その時にならなければ分かりません。しかも上に書いたようなギリギリの数量なんてものは普通考えません。考えたとしても、実際にそのギリギリの数量まで売ったり買ったりなんてことはしません。でも古典派の世界では全ての売り買いの参加者全員について、それぞれの値段について売り買いの数量がわかり、それを集計したそれぞれの値段ごとの全体の売りの数量・買いの数量が瞬時に分かり、その需要曲線と供給曲線の交わった所の値段がいくらになるか全員が分かり、その時その値段で自分が売りあるいは買う数量がいくつなのかも自動的にわかり、その値段・数量で売買が成立してめでたしめでたし、という、とても常識では考えられないような話です。

誰がどう考えても非常識な話なんですが、古典派の経済学はこのように考えることになっています。このように考えるのはもちろん理由があります。

すなわち、そのように考えることによって売買の値段と数量がきっちり決まる、ということです。これによって色々な問題が解けることになるからです。

学者にとって、現実的だけれどきちんとした結論を出すことができない(即ち解けない)問題と、現実的じゃないけれど論理的にきちんとした結論を出せる(解ける)問題と、どちらが良いかということになったら、答が出る方が良いのははっきりしています。

たとえ前提とするものがまるで現実的でなくても、論理的にきちっとした答えが出せればそれは業績として評価されます。現実的な問題を設定していくら頑張ってもしっかりした答えを出せなければ、それは業績とは認めてもらえません。

そんなわけで、この古典派の経済学がこれほど現実離れしているにも関わらずずっと正統派の主流の経済学の地位を保っている、ということになるわけです。

需要・供給の話、まだしばらく続きます。

ピケティ 『21世紀の資本』その2

月曜日, 2月 2nd, 2015

毎週、土曜日の朝は予定が入っていなければBSでNHKの朝の連ドラの1週間分の再放送を見ているのですが、それが始まるまでの時間、NHKの地デジで『ニュース深読み』という小野フミエさんがやっている番組を見ています。いろんな問題について模型を使ってやさしく説明してくれる、なかなか面白い番組です。
おとといの土曜日はこの番組で、ピケティの資本論の話をしていたので、ぼんやり見ていました。この番組のまとめによると、ピケティの資本論というのは、資本収益率が経済成長率より大きいので、金持ちがより儲けが大きくなり、格差が拡大する、ということのようです。
その説明のために、資本収益率と経済成長率の推移を示すグラフが出てきました。
そのグラフ、すぐには気が付かなかったんですが、あとで考えてみたら横軸の年が0年から始まっていたような気がしました。今が2015年、というベースの0年です。
大昔の資本収益率や経済成長率をどうやって計算するんだろう、と思って、気になったので夕方、家の近くの本屋さんに行ってピケティの本を確認してきました。
グラフは横軸に年、縦軸に、資本収益率や経済成長率がプロットされている折れ線グラフです。横軸の期間は、0-1000, 1000-1500, 1500-1700, 1700-1820, 1820-1913, 1913-1950, 1950-2012, 2012-2050, 2050-2100という9つの期間です。
この中でまともに資本収益率や経済成長率が計算できると思われるのはせいぜい1913-1950, 1950-2012の2期間、無理したとしてもそれに1820-1913を加えた3つだけです。
残りは、どうやって計算したのかわからない昔の率と、どうやって予測するのか、予測が当たるのかどうかもわからない未来の率です。
更にその、多分実際の率が計算できると思われる期間について、『たまたま例外的に資本収益率より経済成長率の方が大きかった』けれど、グラフ全体を通して見ると、ほとんどの期間で資本収益率の方が経済成長率より大きい、ということのようです。
何というむちゃくちゃな議論の仕方なんだろう、とアキレハテテしまいました。
よく考えれば、つまらない話ですが、このグラフのスタートのところの0-1000年、というのもおかしな話です。
我々が使っている西暦の年には、0年、というのは存在しません。西暦1年の前の年は紀元前1年であって、0年という年はありません。(天文学の方ではそれでは不便なので0年を入れていて、そのために紀元前の年が一般の数え方と1年ずれている(紀元前100年が天文学では紀元前99年になる)ようですが。)
このグラフを見ながら、これはもしかするとこのピケティの本というのはかなりいい加減な、いかがわしい本なのかもしれないな、と思いました。
まともな本はまともな読み方で楽しめますが、いかがわしい本はいかがわしい本でそれなりの楽しみ方ができます。どこがどういかがわしいか、確認しながら読み進める、というのも面白いものです。
3週間前にこのブログでピケティの本について書いた時、さいたま市図書館のこの本の蔵書は1冊で、私の予約の順番は325番でした。3週間たって蔵書は8冊に増え、私の順番は305番にまで繰り上がりました。順番が20番も繰り上がったのは、待ちきれずに本を買ってしまって予約を取り消した人や、700ページもの大部の本を見て借りた途端に返してしまった人がいるんだろうな、と思います。この調子でいくと、3週間前に順番が回ってくるのに15年くらいかかりそうだ、とした計算は2年くらいにまで短縮されそうです。

2年後にこの本が真っ当な本なのか、いかがわしい本なのか、確認するのが楽しみです。

ピケティ 『21世紀の資本』

火曜日, 1月 13th, 2015

この本が話題になっているようです。
マスコミでは大騒ぎですが、私としては特に急いで読もうとも思わないので、しばらくしてほとぼりが冷めた頃読めば良いかなと思っています。

でもあまりにもこの本が話題になるので、試しに図書館に予約を入れてみました。さいたま市の市立図書館では蔵書が1冊に対して私の予約の順番は325番、単純計算すると順番が回ってくるのにだいたい15年位かかりそうです。そうすると80歳くらいになった時『15年前の予約の順番が回ってきました』ということになりそうで、それも面白いかなと思いました。

もちろんこれだけの予約が入っているので、多分蔵書の冊数も増えるでしょうから、こんなに待たないでも借りることができそうです。

で、予約してみたら今度はこの本を見てみたくなりました。読むわけじゃなく、本をパラパラと見てみるということです。

家の近くの書店に行って教えてもらうと、この本が数冊揃えてありました。プラスチックのフィルムで封がされていて、うち1冊だけ見本として中を見ることができます。700頁ちょっとの本ですが、後ろの100頁ほどは索引と注ですから、本文は600頁ほど。これに対して値段が6,000円ですから、まあほどほどの値段ではあります。とはいえベストセラーになるのであれば、もっと安くしても良いなと思います。こんな高い本をベストセラーにするというのは、本屋さんがうまいんでしょうね。

この本はかなり長期にわたる膨大なデータにもとづいて書かれているという話だったので、数字ビッシリの表がたくさん入っているのか、と思ったのですが、そのようなものはありません。表というよりはグラフが多少多目に入っています。これも普通の本よりは多目ということで、膨大なデータにもとづいて、というほどたくさんのグラフがあるわけでもありません。グラフは普通我々がエクセルで作るグラフをそのまま貼り付けてあるようなもので、ちょっと安っぽい感じですが、もちろんそれでグラフの値打ちが変わるわけでもありません。

グラフが入っているとはいえ、本文600頁を読みこなすのはなかなか大変そうだな、本を買った人の何人が読み通すことになるのかな、などと考えながら本屋を後にしました。

私としてはピケティを読む前に、まずはケインズの『一般理論』です。

『ケインズの「一般理論」再読』 その1

火曜日, 1月 6th, 2015

さて、いよいよケインズ『一般理論』の再読(と言ってももうすでにこの前の『一般理論』の感想文を書くのに、ほとんどの部分は多分3回以上、所によっては5-6回以上読んではいるんですが)を始めるにあたって、いくつか方針を立てました。

まず『一般理論』でケインズが攻撃の対象としているいわゆる古典派の経済学ですが、宇沢さん(先ごろ亡くなった宇沢弘文さん)によると、今だに正統派の主流の経済学の立場を保っていて、また最新の経済学もこの古典派の経済であり続けているようです。

で、最新の主流の経済学を『古典派』と呼ぶというのもおかしな話なんですが、ケインズが古典派と呼び、宇沢さんも古典派と呼んでいる以上他の呼び方をするわけにもいかず、私も古典派と呼ぶことにします。で、これが現在もまだ主流の正統派の経済学だということであれば、『一般理論』を読みながらついでにその古典派の経済学についても勉強してしまおうというのが方針のその1です。

『一般理論』は古典派の経済学者に向けて書かれているので、想定している読者は古典派の経済学をちゃんとわかっている、という前提で書かれています。ですから私のように古典派の経済学を知らない読者は、誰かにガイドしてもらう必要がありそうです。

で、もちろん宇沢さんの『ケインズ「一般理論」を読む』がそのガイドの一冊目になるのですが、もう一冊、宮崎義一・伊東光晴さんの『コンメンタール ケインズ 一般理論』というのをもう一冊のガイドとして、この二冊を参考にしながら『一般理論』を読もうと思います。これが方針その2です。

前回『一般理論』を読んだ時は、その全体像を把握しようとして読んだのですが、今回はできるだけ個々の部分をしっかり理解しながら読もうというのが方針その3です。

ただし『一般理論』というのは、古典派経済学とは別の『ケインズ経済学』というものができ上がっていて、その上でその全体像を説明しながら古典派経済学を批判する、という具合にはなっていません。まだ全体像が出来上がっていない状況で、古典派の経済学の枠組の中で(それを使って)古典派の経済学を批判しているというのが『一般理論』の立場ではないかと思えます。そのためその場所その場所で古典派の経済学の別の部分を批判するために使っている理屈は、必ずしも整合性のとれているものとはなっていないかも知れません。そのような前提の下で一つ一つ整合性を検証するのでなく、全体として『一般理論』の立場を考えてみようと思います。これが方針その4です。

というわけで、今回は『一般理論』だけでなくガイドブックも二冊同時に読みながら、必要に応じて他の参考書も見ながら読み進めたいと思います。

うまく行くかどうか分かりませんが、とりあえずスタートです。

『ケインズ『一般理論』を読む』

木曜日, 12月 4th, 2014

宇沢弘文さんの本『経済学の考え方』『近代経済学の再検討』の次は、『ケインズ『一般理論』を読む』という本です。今は岩波文庫になっていますが、当初は岩波セミナーブックスというシリーズの一冊でした。はじめ、この岩波文庫の本を図書館で予約したのですが、いつまでたっても借りることができず、ちょっと古いけれどこの岩波セミナーブックスの方を予約したら大正解でした。版が文庫本よりかなり大きく、その分余白がたっぷり取ってあって、読みやすい本でした。

ケインズの『一般理論』はケインズが古典派の経済学を批判して、ケインズの経済学を提案している本です。しかもこの『一般理論』の読者として想定していたのが同業の経済学者、すなわち古典派の経済学者です。で、古典派の経済学を批判するにしても読者は古典派の経済学をしっかり理解している人ばかりです。そのつもりで書かれた本を、私のように経済学を良く知らない者が読むというのはなかなか大変です。古典派の経済学については、ケインズがそれを批判している所を読んで、そこからそんなものなんだろうな、と理解するしかありません。

ところがこの宇沢さんという人は、もともと古典派の経済学のスターとして活躍した人で、その後それを批判し、ついでにケインズの『一般理論』まで批判して『社会的共通資本』という考え方を主張した人ですから、古典派の経済学もケインズの経済学もしっかりわかっている人です。さらにこの本は市民セミナーでケインズの『一般理論』を読もうというものですから、読者として想定しているのは私のような経済学の素人です。私のような素人を読者としてケインズの『一般理論』を読みながら、そこに書かれて古典派の経済学、ケインズの経済学をきちんと解説してくれるという、何ともおあつらえむきの本であることが分かりました。

以前『一般理論』を読み終えた時、しばらくたったらもう一度『一般理論』を読み返そうと思っていたのですが、まさにうってつけのガイドブックがみつかったわけです。ケインズの『一般理論』とこの宇沢さんの本を一緒に読みながら、ケインズが批判している古典派の経済学、そのアンチテーゼとしてのケインズの経済学の両方を理解してみようと思います。

ケインズの『一般理論』でコテンパに批判されたはずの古典派の経済学が、その後もしっかり正統派の経済学の地位を保っているのはどうしてなのか、ケインズの経済学が勝てないのはなぜか、を考えながら読んでみようと思います。

この本の最初の部分に『なぜ『一般理論』を読むか』という章があります。この中で『一般理論』は経済学に大きな影響を与えたが、一方それを読んだ人はほとんどいない、ということが書かれています。ほとんどの人はケインズの経済学のヒックスによる解釈であるIS-LM理論を、ケインズ経済学そのものだと思い込み、あるいはそう教えられ、ケインズの『一般理論』を読むかわりにこのIS-LM理論およびその解説を読んで『一般理論』を読んだつもりになったということのようです。ですからこのIS-LM理論が破綻すると、それはケインズの経済学の破綻だと解釈したということのようです。

さらにケインズの『一般理論』というのは、ケインズとその周辺にいたケインズ・サーカスとよばれる(その当時)若手の経済学者達の議論をケインズが本にまとめたもののようですが、その中の中心的な人物の一人であるリチャード・カーンと宇沢さんが話した時の話として、『自分は昨年(1978年 一般理論の出版は1936年)初めて『一般理論』を読み通したが、一般理論の書き方はまったくひどい。一体何を言い、何を伝えようとしているのか、私にはまったく理解できない』という発言を紹介しています。すなわち『一般理論』の考え方を作った中心人物ですら『一般理論』をまるで読んでなかった、ということです。

何とも唖然とする話ですが、とはいえ、今となっては『一般理論』を読むしかないんですから、今度はじっくり読んでみようと思います。ケインズの書き方がひどいというのはわかっています。宇沢さんも平気で専門用語を使ってきます。このあたり専門家でない立場から、何とか解きほぐしながらじっくり読んでみようと思います。

ということで、古典流の経済学とケインズの経済学の両方の解説書としてお勧めします。

『近代経済学の再検討』

火曜日, 11月 11th, 2014

前回紹介した宇沢弘文さんの『経済学の考え方』は1989年の本ですが、そのちょっと前に書かれた『近代経済学の再検討』(岩波新書)は1977年の本です。

この本も新古典派の経済学の中味を検討し、ケインズによるその批判の内容を紹介し、ケインズの批判し残した部分として、社会的共通資本の理論を説明しています。

いくつも印象的な言葉があるので、順次それを紹介しましょう。

一番最初に『まえがき』のしょっぱなに書いてあるのが
【世界の経済学は今一つの大きな転換点に立っている。現実に起きつつあるさまざまな経済的、社会的問題がもはや、新古典派ケインズ経済学というこれまでの正統派の考え方にもとづいては十分に解明することができなくなり、新しい発想と分析の枠組みとを必要としているからである。】
です。

『新古典派ケインズ経済学』というのはいったい何なんだろう、ケインズは新古典派経済学をやっつけてしまったんじゃなかったんだっけ・・・というのが正直な感想です。この新古典派ケインズ経済学というのは、新古典派の経済学がケインズ理論を取り入れたいわゆる新古典派統合の経済学のことかも知れませんが、私にとっては新古典派の経済学はケインズによって完璧に否定されてしまったと思っていたので、これが正統派の考え方だというのは驚きです。まあこのあたり私が経済学をあまり良く知らないということなんでしょうが。

次に『序章』の最後は
 【正統派の経済学について、その理論的な枠組みをかたちづくっているのは、言うまでもなく、新古典派の経済理論である。しかし新古典派の経済理論について、その基礎的な枠組みを明快に解説した書物はないと言っても良い。新古典派理論の基本的な考え方と中心的な命題とは、すべての経済学者にとって自明のこととして当然知らなければならないこととされてきたからである。本書ではまず、新古典派の経済理論について、その基礎的な考え方にさかのぼって、枝葉末節にとらわれることなく、その前提条件を一つ一つ検討することからはじめよう。】
となっています。この部分、ケインズの『一般理論』を読んでいるような気がします。

この新古典派の経済学について明快な説明がないことについては、『Ⅱ 新古典派理論の基本的枠組み』のはじめの方でも、
【新古典派経済理論の前提条件をどのように理解し、その理論的な枠組みをどのように捉えたらよいか、という問題について、経済学者の間で必ずしも厳密な意味で共通の理解が存在するわけではない。しかし現在大多数の経済学者にとって共通な知的財産として、ほとんど無意識的に前提とされているような基本的な考え方の枠組みが存在するのは否定できない事実であろう。これは、いわゆる近代経済学を専門としている人々にとって自明な考え方の枠組みであり、トマス・キューンの言うパラダイムを形成するものと考えてもよい。したがって、多くの場合に必ずしも明示的に表現されることはなく、研究論文はもちろんのこと、教科書の類いですら、この点に詳しく言及することはまず皆無であると言ってよいだろう。逆に、このような理論の基本的枠組みについては、わたくしたち経済学者が当然熟知していなければならないものであり、ひとつひとつ検討する必要のないほど自明のこととされてきた。そしてこの論理的斉合性を問うたり、基本的な命題に疑問を提起することは、ジョーン・ロビンソン教授がいみじくも指摘したように、近代経済学の研究にさいしての重大なルール違反であるとすらみなされることもあったのである。】

これは何ともはやの話ですね。こんなんで経済学を学問とか科学とか言えるのか、という話です。特に言葉の定義や前提条件を明確にすることがもっとも大事で、すべてをそこから始めることになっている数学をやった人間にとっては、このような状況は耐えられない話でしょうね。

で、このあと新古典派が自明のこととしている前提条件がまるで非現実的なものであり、その一部についてケインズが明確に批判したこと、そしてケインズが批判しなかった部分についても社会的共通資本の考え方を入れなければならないことを指摘して、この本は更なる新古典派の批判をしているんですが、最後の『おわりに』の最後に

 【本書では、経済学が現在置かれている危機的状況、すなわち理論的前提と現実的条件との乖離という現象の特質をできるだけ鮮明に浮彫りにするために、現代経済学(日本では近代経済学と呼ばれている)の基礎をなす新古典派の経済理論の枠組みについて、その皮と肉を剥いで、骨格を露わにするという手段を用いた。このような手法によってはじめて修辞的な糊塗に惑わされることなく新古典派理論の意味とその限界とを誤りなく理解することが可能であるだけでなく、現実的状況に対応することができるような理論的体験の構築もまた可能になると考えたからである。 しかしこの極限的な接近方法は、審美的な観点から感性を害うような反応を感ずるだけでなく、職業的な観点から、往々にして非知的な、そして退嬰的な反発を招く危険性が皆無ではない。とくにわが国では、高度成長期を通じて、いわゆる近代経済学者が、社会的にも政治的にも大きな役割を果たすようになり、政策的提言、社会的発言、アカデミックな地位などにおいて、20年前とは比較にならないような影響力を持つようになってきたのであるが、そのもっとも重要な契機は、新古典派的経済理論という分析手法の効果的な適用という点にあった。したがって、このような形で批判的検討を加えようとすると、多くの経済学者の職業的な既得権益に抵触せざるを得なくなるからである。】
とあります。やはり自分が生まれ育った新古典派を裏切って批判する立場に立つ、というのは覚悟のいることのようです。

その後の『あとがき』には
 【本書の内容は、この数年間にわたるわたくしの思索をまとめたものであるが、ここで取り上げた主題の一つ一つについて、いずれも不完全なまま、このようなかたちで一冊の書物として出版することに対して、大きな心理的抵抗を感じないわけにはゆかない。ただ新古典派の経済学を学んで、自らも研究を行ってきた者の一人として、この新古典派の制約的体系を否定して、新しい思索的な、分析的な枠組みを構築することがいかに困難であるかという苦悩の軌跡を記して読者の参考に資することができたらという、かすかな期待を持ってこの書物をまとめたのである。】
とあります。

ケインズも宇沢さんも新古典派のホープとして活躍した後で新古典派を批判する立場に転じ、新しい経済学(ケインズの経済学、宇沢さんの社会的共通資本の理論)を提案しているわけですが、ケインズが新古典派を一刀両断しているのに対し、宇沢さんは日本人らしくちょっと遠慮勝ちというのも面白いですね。

社会的共通資本については、宇沢さんはそのままのタイトルの本を別途2000年に、これも岩波新書として出版していますが、新古典派経済・ケインズ経済学とのかかわりでそれらを批判する中で宇沢さんが社会的共通資本の考えに至った経緯について理解するには、この本の方が良く分かるかも知れません。

ケインズにも宇沢さんにもこれだけ批判された新古典派経済学ですが、いくら批判されても相変わらず正統派の立場を保っているのも不思議なことですね。

『経済学の考え方』

火曜日, 10月 28th, 2014

別稿で経済学者の小島さんと宇沢さんの話を書きましたが、その宇沢さんの本の話です。

図書館で検索してみると何冊も書いていますが、まずは読みやすそうな新書をいくつか借りてみました。

その中でまず読んだのが、『経済学の考え方』岩波新書 です。この本は
 アダム・スミス
 リカードからマルクス
 ワルラスの一般均衡理論
 ヴェブレンの新古典派批判
 ケインズ
 戦後(第二次大戦後)の経済学
 ジョーン・ロビンソン
 反ケインズ経済学
 現代経済学の展開
という具合に、経済学の歴史に沿ってそれぞれの考え方を説明しています。

特にヴェブレンの新古典派批判の所(その前のワルラスの一般均衡理論の所も同じですが)は、非常に面白いものです。
ケインズの『一般理論』は新古典派の議論を批判して新しい考え方を提案しているものですが、この『一般理論』を読むだけでは新古典派がどんな議論をしているのかが良く分かりません。それがこのヴェブレンの所を見ると良く分かります。

宇沢さんによるとケインズの前に既にこのヴェブレンが新古典派を徹底的に批判しているということですが、歴史的にはケインズの一般理論を受けてヴェブレンが見直され、再発見されたということのようです。

で、宇沢さんによるヴェブレンの新古典派の説明は見事なものです。

普通議論をする時は、言葉の定義を明確にしたりあらかじめ議論の前提条件を明確にしたりしないで議論してしまいます。そこで議論をしながら『なぜ、どうして』なんて質問をするとあまり喜ばれません。『なぜ、どうして』を三回くらい連続でやると、たいていの場合相手は怒って議論をやめるか、あるいは喧嘩になってしまったりします。

しかし数学の世界では言葉の定義は明確にしておかなければならないし、前提条件も明確にしておく必要があります。その上で『なぜ、どうして』と聞かれた時は何度でもきちんと説明しなければならないことになっています。

とはいえ、数学者も時には『そんなの当り前だろう』と言ったりすることもあるんですが、それでも必要となったらいつでも『当たり前だ』ということを証明する必要があります。『当たり前だろう』と言ったことが、実は当り前じゃなかったなんて場合は、大変なことになります。

で、宇沢さんは、ヴェブレンの議論では、まず新古典派の議論の前提条件を明確にした、と言っています。すなわち、新古典派がこのような議論をしているその議論が論理的に正しく展開されているということは、その議論のバックにこのような前提条件がなくてはならないということで、前提条件を一つ一つ明らかにしていったわけです。これはとてつもなくしんどい作業ですが、それをヴェブレンがやったということです。

宇沢さんももともと数学専攻から経済学の方に行った人のようで、ヴェブレンという人も最初は数学をやった人のようですから、そんな思考パターンに慣れているのかも知れません。あるいはそうしないと気持ちが悪いということでしょうか。その気持ちは良く分かります。

で、この整理された前提条件を見ると、確かに新古典派の主張する議論はそれらの前提から論理的に証明できそうな気がします。と同時に、その前提条件は現実とはまるで乖離してしまっている絵空事、というのも良く分かります。

このように説明してもらうと『一般理論』もさらに分かりやすいんでしょうね。宇沢さんには『一般理論』の解説書もありますから、これを読むのが楽しみになりました。

で、後ろの方に『反ケインズ経済学』というのが出てきます。それは、『合理主義の経済学、マネタリズム、合理的期待形成仮説、サプライサイド経済学など多様な形態をとっているが、その共通の特徴として、理論的前提条件の非現実性、政策的偏向性、結論の反社会性を持ち、いずれも市場機構の果たす役割に対する宗教的帰信感を持つものである』と、一刀両断にバッサリやってしまうコメントにはびっくりしました。ここまで言い切ってしまう人はなかなかいません。特に経済学者では。

権丈先生は、右側の経済学、左側の経済学、という言い方をするのですが、この右側の経済学のことを反ケインズ経済学、というんですね。初めて知りました。

最後に『現代経済学の展望』として、反ケインズ経済学が淘汰されて未来に向けて明るい希望を持ち、その中で日本の若年の経済学者たちについても大いに期待しています。この本が1988年に書かれているのでもう四半世紀も前の話で、その後今までについても書いてもらいたかったなと思います。淘汰されたと思った反ケインズ経済学は今も大威張りで生き続けているようですから。しかしそれはまた別の本で読むことにして、宇沢さんの他の本を読むのが楽しみです。

アダム・スミス以降の経済学の流れを(宇沢さん流にではありますが)全体として理解するのにとても良い本だと思います。

お勧めします。

『数学でつまずくのはなぜか』

火曜日, 10月 28th, 2014

先日、経済学者の宇沢弘文さんが亡くなりました。
私も名前くらいは知っていたのですが、長いひげをはやした変わった人だなくらいの興味しかありませんでした。

私のブログで時々参照する権丈先生のホームページに『この宇沢さんの死亡に対する小島寛之さんの追悼文が今ネットで話題になっている』という記事があったので、その追悼文を読んでみました。
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20140928/1411891840
確かに何とも素晴らしい追悼文ですね。
で、にわかにこの小島さんと宇沢さんに興味がわいてきました。

小島さんは大学で数学を専攻し、卒業してから塾で数学を教えていて、たまたま市民大学で宇沢さんが講師をしているのを知って受講し、宇沢さんの経済学をもっと勉強したいと経済学の大学院に入り、そのまま経済学者になってしまった人のようです。

この追悼文に書かれている宇沢さんと小島さんの師弟関係は感動するほど見事なものです。私のようにそのような師弟関係に縁のない(誰かの師になるような人間じゃないし、誰かの弟子になることもできなさそうだし)者からすると何とも羨ましい話です。

で、この小島さんの書いた本と、宇沢さんの書いた本をいくつか借りてみました。

宇沢さんの方は別に書きますが、この小島さんの書いた本の中に
 『数学でつまづくのはなぜか』 講談社現代新書
というのがあります。塾の先生をしていた時代に数学がなかなか分からない生徒がいて、その生徒にとって数学のどこがどう分からないのか、というのを考えて、分かるように指導した話と、その生徒にとって分からなかったということが数学的にどういうことなのかを検討している本です。

すぐ分からない生徒の分からない話の部分は分かりやすい話ですが、その分からないことの説明の部分は、かなり数学が分かっていないときちんと理解できないような結構本格的な内容です。数学というのは、自然に分かる人にとっては自然に分かってしまう(そのために自然に分からない人がどうして分からないのかなかなか分からない)ものだけれど、どこかで突っかかって分からなくなってしまうというのもそれほど珍しい話じゃないし、おかしな話ではない、ということが良く分かります。

自然に分かる人にとって自然に分からない人がどこで突っかかってしまっているかというのは本気にならないと分からない話ですから、数学の先生がそこまでちゃんとやってくれる人でないと、突っかかったままで『数学は分からない、数学はキライだ』ということになってしまうんだろうな、と思います。

やはり数学を専攻した人だけに説明はきちんとしていますが、その分きちんと説明しようとして、慣れない人にはちょっと面倒くさいかも知れません。

昔数学がわからなかったという経験のある人は、分からなくても当り前の話だったんだということを確認してみるのも面白いかも知れません。

お勧めします。

『防衛大学校で戦争と安全保障をどう学んだか』

木曜日, 10月 23rd, 2014

もうひとつお薦めの新書が「防衛大学校で戦争と安全保障をどう学んだか」という本で、祥伝社新書で出ています。著者は二人の、防衛大学校で優秀論文の表彰を受けている人で、防衛大学校を卒業後、防衛省・自衛隊を退職してこの本を書いたということで、まだ卒業したばかりの人です。

タイトルの通り、自分達がどう考えているかというより、防衛大学校でどのように教えられたかという話になっていて、勉強した内容を一般の人に分かりやすいように整理して本にしたという形のものです。

「戦争」とか「平和」とか気軽に口にする言葉ですが、その内容をきちんと整理して考えるのに良い本だと思います。また防衛大学校で、どのようなことがどのように教えられているのか、というのも興味があります。

防衛大で優秀論文を書いたほどの二人が卒業後すぐに自衛隊をやめてしまうというのは、何とも勿体ないような話です。しかし現職の自衛官が安全保障の話とか自衛権の話とかを一般に向けて話すことは規則上できないので、この本を書いたりいろんな所で話をするために二人とも自衛隊をやめたということです。確かに現職の自衛隊の将校がそんな話をし始めたら大騒ぎになってしまうでしょうから、仕方ないことなのかも知れません。

軍事や戦争について専門的な本になるとなかなか読むのが大変になってしまうんでしょうが、防衛大を出たばかりの、まだ30歳前の著者が学校で学んだことを解説しているんですから、読みやすい本になっています。

軍隊や戦争の話をすると軍国主義者のように思われ、軍隊や戦争のことを考えない、その話をしないのが反戦・平和主義だというような大きな誤解が、まだ大手をふってまかり取っている状況ではなかなか素直に読んでもらえないかも知れませんが、集団的自衛権の話や憲法9条の改正の議論をするのであれば、軍隊や戦争について少なくともこの位の知識を身につけた上で皆が考えるようになったらいいなと思います。

『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか』

水曜日, 10月 22nd, 2014

最近ブログが更新されていないというお叱りを頂いたので、ちょっと新書を2冊ほど紹介します。

1冊目は『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか』 岩瀬昇著 文春新書 という本です。
著者は大学を出て三井物産に入り、ずっと石油や天然ガスの事業にかかわってきた人です。その人が40年の経験を元に素人にもわかるように書いた本で、なかなか面白い本です。

日本が輸入している天然ガスは、欧米と比べて非常に高いということが折に触れてマスコミでも取り上げられますが、日本が輸入する天然ガスとアメリカやヨーロッパでパイプラインで供給される天然ガスというのは商品の性格がまるで違い、単純な値段の違いで比較できるものではない、ということが良く理解できます。

シェールガス・シェールオイルというのがエネルギー革命としてもてはやされていますが、これがうまく行くのはアメリカだけだろうという説明も納得できます。あんなイチかバチかの大勝負に一生をかける人がいて、そんな博打に大金を投資する人がいるというのは、世界でもアメリカくらいだということです。

この本の題にもなっている石油の埋蔵量の話も面白いです。「埋蔵量」に統一された定義はなく、また計算方式も様々で、その計算も時として大幅に間違っていたりする、なんて話も実例で説明されると良くわかります。

三井物産は商社として石油や天然ガスを売ったり買ったりしているわけですが、自分の所でも(子会社で)製産する立場でもあります。で、著者は石油の先物取引のディーラーとしての仕事もするのですが、基本的に差金決済の先物取引の一部として現物を売却することもあり、その立場を利用して現物の売却に伴う税金の節税をするなんて話は非常に面白い(こんなのバラしちゃって良いのかなあという)話です。

多分著者が一番言いたかったことなんだと思いますが、この本の後半でエネルギー問題について触れています。

エネルギー問題というと何となくすぐに電力の話と思い勝ちですが、実は電気にしないまま使っている石油・石炭・天然ガスがたくさんあるということを、資源エネルギー庁の資料で説明しています。

日本で使っているエネルギーの総量が21,147千兆ジュールで、そのうち9割が石油・石炭・天然ガスとなっていること。そのうち最終的に消費されているエネルギーの総量が14,527千兆ジュールで、そのうち電力は家庭用・企業用・産業用合わせて3,299千兆ジュールと、2割ちょっとにしかならないこと。また電力は発電に投入したエネルギーの半分以上が発電ロスとなってしまっていて、電力になるのは4割しかない(投入するのが9,121千兆ジュール、電力になるのが3,731千兆ジュール)ということなどの説明があります。

このような状況のため、いわゆる再生可能エネルギーについては電力の一部をこれで賄うことができたとしても、電力以外の所で使われている石油・石炭・天然ガスを再生可能エネルギーで代替するのは難しいということで、あまり重要視していません。

また日本で期待のメタンハイドレートについても何も触れていません。

いずれにしても石油・石炭・天然ガスを中心とするエネルギー問題について良くまとまっていて、参考になる本です。

本の中身とは別に、作りの方ではいかにも新書らしくいいかげんな作りになっています。縦書きの新書なので、数字も縦書きになってしまい、さすがにグラフについては横書きのグラフをそのまま縦書きの文章の中にはめ込んでいるのですが、表になると数字を縦書きにしてしまうため、たとえが123は数字の1, 2 ,3を縦に並べる、23.456だと23は数字を横に並べて、その下に小数点の「.」、その下に4, 5, 6を縦に並べるという具合で、表としてはもっとも悲惨な安直な段組みとなっています。

とはいえ、本の中の表やグラフは読まない人も多いようですから、それでも良いのかも知れませんが
(私は勿体ないので表もグラフも読むので、こんな所が気になります)。

この本の著者は実はライフネット生命の社長の岩瀬さんのお父さんです。著者が講演のレジュメとして用意していた資料が面白いというので、息子さんが知り合いの編集者に見せて、その結果がこの本になったということのようです。

ライフネット生命の社長の岩瀬さんが、こんな仕事をしている父親の息子として育ったんだという興味もありますが、そんな興味は別として、この本は十分に価値ある本だと思います。

良かったら読んでみて下さい。