先日紹介した末松太平著『私の昭和史』を読んで、またぞろ二・二六事件関係の本を読みたくなってしまいました。で、読んだのが
(1) 保坂正康さんの『秩父宮と昭和天皇』
(2) 原秀男さんの『二・二六事件軍法会議』
(3) 北博昭さんの『二・二六事件全検証』
(4) 『真崎甚三郎日記 昭和10年3月~昭和11年3月』
(5) 香椎浩平さんの『秘録二・二六事件 香椎戒厳司令官』
(6) 『文芸春秋に見る昭和史』第1巻
(7) 伊藤隆・北博昭編 『新訂二・二六事件判決と証拠』
の7冊です。
(1)は二・二六事件、青年将校の希望の星だった秩父宮の関わりについて確認するため。
(2)は二・二六事件軍法会議の裁判資料を60年がかりで探し出した法律家による説明。
(3)は『私の昭和史』の解説の部分に、末松太平の最後の戦いが、澤地さんの『雪は汚れていた』に書かれた将軍達の事前陰謀説を否定するためだったのだけれど、その陰謀説はこの本で学問的に完全に否定された、と書いてあるけれどそれが本当かどうか確かめるため。
(4)はその陰謀説の中心人物の真崎甚三郎大将の事件当時の日記。
(5)はその陰謀説のもう一人の中心人物の香椎浩平東京警備司令官・戒厳司令官の二・二六事件に関する手記と東京警備司令部・戒厳司令部の資料をまとめたもの。
(6)はその中に真崎甚三郎と柳家小さん(たまたま徴兵検査で入隊した途端に二・二六事件の反乱軍の一兵卒になってしまった)の思い出話、その他2,3の二・二六事件関係の話が入っています。
(7)は(3)の著者とその先生の二人による、60年ぶりに見つかった二・二六事件の判決文です。
(1)については以前読んでいたものですが、二・二六事件のくだりだけを読み直したものです。
(2)については改めて別途ちゃんとコメントしますが、とびきりお勧めです。
(3)について、この『私の昭和史』の解説にあった『事前陰謀説が学問的に否定された』に該当する部分について確認してみましたが、確かにこの(3)の著者はそう言っています。しかしその著者の議論は澤地さんの『雪は汚れていた』などと比べてはるかに杜撰なもので、『完全に否定された』などと言えるようなものではないことを確認しました。むしろ(2)によると、事前陰謀説が正しいことが明らかになっているようです。
澤地さんは『もしかすると全員が嘘つきだったかも知れない』という前提で資料を読んでいるのに対し(もちろんその前に匂坂法務官もそういう立場で取り調べをしているわけですが)、この(3)の著者の北さんという人は、『誰がこう言っているからこうだ』『誰がこう言っているからこれが正しい』という話しかしていません。まるで話にならないいい加減な議論です。
二・二六事件の『将軍たちの陰謀説』は青年将校達が自分達で革命政府を作ろうとしないで、自分達以外の大将を担ごうとした所から始まっていて、その青年将校達が担ごうとしたのが真崎大将という人で、この人は二・二六事件が起きた直後自ら青年将校達に担がれようとして、青年将校達が集まっていた陸軍大臣官邸に乗り込んだ人です。
もう一人の重要人物が香椎浩平という人で、二・二六事件の時、まずは反乱軍を鎮圧しなければならない立場の東京警備司令官という職にあり、その翌日にはさらに反乱を鎮圧して東京の治安を回復しなければならない戒厳司令官になった人なんですが、この人は反乱軍を鎮圧しようなんてことをまるっきり考えず、反乱軍も天皇の軍隊、それを鎮圧するのも天皇の軍隊、天皇の軍隊同士を殺し合いさせることだけは避けなければいけない、ということで、まずは反乱軍を自分の配下にして鎮圧する側の軍隊と一緒に警備に当たらせるなんてことをし(即ち反乱軍を正規軍としてしまったということです)、その後も反乱を反乱ではないことにしようと頑張った人です。そんな人が警備司令官、さらには戒厳司令官になったということですから、トンデモないことです。
二・二六事件がとりあえず鎮圧され、軍法会議(軍の裁判)が開かれる時、戒厳司令官が軍法会議のトップになるのが普通だったのですが、この時は陸軍大臣がトップになり、この香椎さんは反乱軍を助け協力したのではないかと逆に取り調べを受ける立場になった人です。香椎さんは結局不起訴で裁判にならずに終わっていますが、真崎さんは裁判になり、何とも不思議な判決で無罪になっています。
いずれにしてもこのようなことになったのは、二・二六事件を起こした青年将校達が、せっかくテロで政府の高官を殺しておきながらそれで政府を乗っ取ろうとしないで、あとは誰かがやってくれるだろうなどといういい加減なクーデターをやってしまったため、それではというわけで真崎さんなどいわゆる皇道派の大将達がクーデターの乗っ取りを企んでしまったためです。
で、(4)はその真崎さんの日記ですが、実は二・二六事件の前日、真崎さんはその前の年に相沢中佐が永田軍務局長を殺した件で軍法会議に証人として呼び出され、『天皇の裁可がないから』などと言って実質的に証言拒否している人です。
また二・二六事件の青年将校達とは二・二六事件の前年の暮あたりから1月、2月にかけて何度か会い、資金援助の相談なんかもしています。そのあたりの日記が入っています。面白いことに二・二六事件の当時のこと(2月26日~29日分)は事件が決着した3月10日以降にまとめて記載されています。さすがにその当時は日記など書く余裕がなかったのか、あるいは決着がついてから問題とならないように考えて書いたのか分かりませんが。また4月1日以降は軍法会議に収監される7月6日まで日記が途絶えて(あるいは行方不明になって)います。
(5)はもう一人の重要人物の香椎さんの手記と、その当時の香椎さんがトップだった東京警備司令部・戒厳司令部の二・二六事件の進行状況に関する日々の報告書・その他の資料がまとまっています。もちろん事件が終わってから整理されたものですから、都合の良いように作り直されているのはほぼ確実ですが、面白い資料です。
この手記によると香椎さんは事件の発生の通報を受け、東京整備司令部に出勤するに際し、勝海舟の氷川清話を風呂敷に入れて持って行ったと自慢げに書いています。勝海舟が薩摩の西郷さんと話をして決めた江戸城無血開城にならって二・二六事件を軍隊同士の殺し合いにしないために、と勝海舟気取りです。
(6)も、先の真崎さんが『自分は不当に弾圧された、裁判は暗黒裁判だ』と批判している話や小さんさんの話の他にももう2,3、最初に首相官邸に乗り込んで取材した記者の話や『兵に告ぐ』のアナウンサーの話など、二・二六事件の話が出ています。
(7)は二・二六事件の裁判の判決の主文とその理由、特にどの証拠をどのように裁判官が判断したか、の全てです。
これだけで480ページにもなる大部なもので、とてつもなく歯ごたえがあります。なにしろ二・二六事件の裁判は全部で23のグループに分けて、計165人の被告の裁判ですから。とりあえず全部読む前に、一番最初の主な青年将校らの分と一番最後の真崎さんの無罪判決だけを読みましたが、これもとてつもなく面白いものです。真崎さんは『反乱者を利す罪』で起訴されたのですが、判決をえいやっとまとめると、『被告はいろいろ否認している所もあるけれど、他の証拠などからこれこれこのように反乱者を利したことは間違いない。しかしその行為が反乱者を利そうとしてやったことだと言う証拠は十分ではないので無実とする』というものです。
おかしな判決だなと思ったのですが、根拠となる陸軍刑法を見ると、『反乱者を利す罪』というのは反乱者を利すことが犯罪だということにはなっていないで、反乱者を利すためにこれこれをしたら犯罪だという規定になっているので、この判決はむしろ妥当なのかも知れません。
(続く)