ピケティ 『21世紀の資本』その2

2月 2nd, 2015

毎週、土曜日の朝は予定が入っていなければBSでNHKの朝の連ドラの1週間分の再放送を見ているのですが、それが始まるまでの時間、NHKの地デジで『ニュース深読み』という小野フミエさんがやっている番組を見ています。いろんな問題について模型を使ってやさしく説明してくれる、なかなか面白い番組です。
おとといの土曜日はこの番組で、ピケティの資本論の話をしていたので、ぼんやり見ていました。この番組のまとめによると、ピケティの資本論というのは、資本収益率が経済成長率より大きいので、金持ちがより儲けが大きくなり、格差が拡大する、ということのようです。
その説明のために、資本収益率と経済成長率の推移を示すグラフが出てきました。
そのグラフ、すぐには気が付かなかったんですが、あとで考えてみたら横軸の年が0年から始まっていたような気がしました。今が2015年、というベースの0年です。
大昔の資本収益率や経済成長率をどうやって計算するんだろう、と思って、気になったので夕方、家の近くの本屋さんに行ってピケティの本を確認してきました。
グラフは横軸に年、縦軸に、資本収益率や経済成長率がプロットされている折れ線グラフです。横軸の期間は、0-1000, 1000-1500, 1500-1700, 1700-1820, 1820-1913, 1913-1950, 1950-2012, 2012-2050, 2050-2100という9つの期間です。
この中でまともに資本収益率や経済成長率が計算できると思われるのはせいぜい1913-1950, 1950-2012の2期間、無理したとしてもそれに1820-1913を加えた3つだけです。
残りは、どうやって計算したのかわからない昔の率と、どうやって予測するのか、予測が当たるのかどうかもわからない未来の率です。
更にその、多分実際の率が計算できると思われる期間について、『たまたま例外的に資本収益率より経済成長率の方が大きかった』けれど、グラフ全体を通して見ると、ほとんどの期間で資本収益率の方が経済成長率より大きい、ということのようです。
何というむちゃくちゃな議論の仕方なんだろう、とアキレハテテしまいました。
よく考えれば、つまらない話ですが、このグラフのスタートのところの0-1000年、というのもおかしな話です。
我々が使っている西暦の年には、0年、というのは存在しません。西暦1年の前の年は紀元前1年であって、0年という年はありません。(天文学の方ではそれでは不便なので0年を入れていて、そのために紀元前の年が一般の数え方と1年ずれている(紀元前100年が天文学では紀元前99年になる)ようですが。)
このグラフを見ながら、これはもしかするとこのピケティの本というのはかなりいい加減な、いかがわしい本なのかもしれないな、と思いました。
まともな本はまともな読み方で楽しめますが、いかがわしい本はいかがわしい本でそれなりの楽しみ方ができます。どこがどういかがわしいか、確認しながら読み進める、というのも面白いものです。
3週間前にこのブログでピケティの本について書いた時、さいたま市図書館のこの本の蔵書は1冊で、私の予約の順番は325番でした。3週間たって蔵書は8冊に増え、私の順番は305番にまで繰り上がりました。順番が20番も繰り上がったのは、待ちきれずに本を買ってしまって予約を取り消した人や、700ページもの大部の本を見て借りた途端に返してしまった人がいるんだろうな、と思います。この調子でいくと、3週間前に順番が回ってくるのに15年くらいかかりそうだ、とした計算は2年くらいにまで短縮されそうです。

2年後にこの本が真っ当な本なのか、いかがわしい本なのか、確認するのが楽しみです。

ピケティ 『21世紀の資本』

1月 13th, 2015

この本が話題になっているようです。
マスコミでは大騒ぎですが、私としては特に急いで読もうとも思わないので、しばらくしてほとぼりが冷めた頃読めば良いかなと思っています。

でもあまりにもこの本が話題になるので、試しに図書館に予約を入れてみました。さいたま市の市立図書館では蔵書が1冊に対して私の予約の順番は325番、単純計算すると順番が回ってくるのにだいたい15年位かかりそうです。そうすると80歳くらいになった時『15年前の予約の順番が回ってきました』ということになりそうで、それも面白いかなと思いました。

もちろんこれだけの予約が入っているので、多分蔵書の冊数も増えるでしょうから、こんなに待たないでも借りることができそうです。

で、予約してみたら今度はこの本を見てみたくなりました。読むわけじゃなく、本をパラパラと見てみるということです。

家の近くの書店に行って教えてもらうと、この本が数冊揃えてありました。プラスチックのフィルムで封がされていて、うち1冊だけ見本として中を見ることができます。700頁ちょっとの本ですが、後ろの100頁ほどは索引と注ですから、本文は600頁ほど。これに対して値段が6,000円ですから、まあほどほどの値段ではあります。とはいえベストセラーになるのであれば、もっと安くしても良いなと思います。こんな高い本をベストセラーにするというのは、本屋さんがうまいんでしょうね。

この本はかなり長期にわたる膨大なデータにもとづいて書かれているという話だったので、数字ビッシリの表がたくさん入っているのか、と思ったのですが、そのようなものはありません。表というよりはグラフが多少多目に入っています。これも普通の本よりは多目ということで、膨大なデータにもとづいて、というほどたくさんのグラフがあるわけでもありません。グラフは普通我々がエクセルで作るグラフをそのまま貼り付けてあるようなもので、ちょっと安っぽい感じですが、もちろんそれでグラフの値打ちが変わるわけでもありません。

グラフが入っているとはいえ、本文600頁を読みこなすのはなかなか大変そうだな、本を買った人の何人が読み通すことになるのかな、などと考えながら本屋を後にしました。

私としてはピケティを読む前に、まずはケインズの『一般理論』です。

『昭和戦争史の証言 - 日本陸軍終焉の真実』

1月 13th, 2015

この本の著者の西浦進という人は、陸軍幼年学校・陸軍士官学校(恩賜の銀時計組)・陸軍大学(主席で卒業)という、まさに軍人としてはエリート中のエリートといった人です。普通こういう人は参謀本部に入るんですが、この人は陸軍大学を出てすぐに昭和6年に30歳で陸軍省の軍務局軍事課という所に配属され、終戦までのほとんどの期間その軍事課にいたという珍しいキャリアの軍人です。

普通第二次大戦の本というと、戦争の現場の話か、あるいは参謀本部の作戦の話が多いのですが、この本は著者が属していた陸軍省軍事課の視点から戦争の実態について書いてあり、非常に面白い本です。

この軍事課というのは陸軍の予算を所轄する部門なので、大蔵省と予算折衝をする話も出てきます。また陸軍の編成・装備に関することも所轄しているので、兵隊の持つ銃をどのように調達するか、軍馬をどのように調達するか等々、他の本では読めないことが書いてあります。
もちろん際限もなく金を使いたがる軍の司令部との交渉、予算に関係なく作戦を立てようとする参謀本部とのやり取りも具体的に書いてあります。

著者はほぼ一貫して軍事課で仕事しているのですが、その間昭和9年から12年に中国・フランスに駐在し、スペイン内戦の時にはフランスからスペインに乗り込んでフランコ陣営を直接見てきた人です。また東條英機が陸軍大臣から総理大臣になった時(陸軍大臣も兼任)、陸軍大臣秘書官にもなって(半年間)、太平洋戦争の開戦に立ち会い、また終戦直前東條英機が外された後、東條の一派とみられてシナ派遣軍の参謀に異動して、結果、終戦後中国にいた日本軍の復員の交渉にも当たったという人です。

陸軍省というのは政府の一部ですから、統帥権の独立を言い立てて政府の言うことを聞かない参謀本部とは立場が違います。大本営ができた時、一部の人達はこれで政府に制約されることなく好き勝手できると期待したんだけれど、別に何も変わらなかったという話なんかも面白いです。統帥権独立というのは、陸軍の全体が言っていたというのとはちょっと違うようです。

満州軍を交代制にするか常駐制にするかとか、満州軍の将校の家族を一緒に住まわせるようにするかとか、シナ事変後急激に軍事物資の調達が増加し、予算担当としては何とかして値上がりを抑えようとしたのに、海軍がいくらでも金を払うというスタンスだったのでどんどん高くなって困ったとか、陸軍の中の経理官とか医官とか獣医とか、普通、軍の話の中心にならない人々の処遇の話も面白いですし、陸軍の人事が非適材非適所でむちゃくちゃで、特に航空隊を作った時の人事はシッチャカメッチャカだ、なんて話も面白いです。

太平洋戦争が始まった時、テレビのドラマなんかから国民全体が朝のラジオの「本日未明戦闘状態に入れり」というのを真剣な顔で聞いていたように感じますが、その朝ある新聞記者が著者に東条内閣の弱腰をなじるような電話をかけてきて、著者から「今朝は寝坊してラジオのニュースを聞いてないな」と言われて慌てて電話を切った、とかいう話も面白いです。

また日米開戦と同時に、それまでソ連を攻めていたドイツがソ連を攻めるのをやめたのに気がついた、というようなことがサラッと書いてあります。今までそんな視点で見たことがなかったので、改めてヨーロッパの第二次大戦と太平洋戦争をその相互関連の視点から見直して見ようと思います。

この本には山ほどの軍人が出てくるのですが、ほとんどが陸軍士官学校の卒業生で、そのいちいちに(第○期)と付いているというのもすごいな、と思いました。伝統的な日本の会社で入社年次が重要視され、「誰それは○年入社」というのがいつまでも付いてまわるのと同じで面白いです。

話がすべて具体的で、満州事変から終戦まで陸軍の行政部門は、何を考え何をしていたのか良くわかる面白い本です。

お勧めします。

『ケインズの「一般理論」再読』 その1

1月 6th, 2015

さて、いよいよケインズ『一般理論』の再読(と言ってももうすでにこの前の『一般理論』の感想文を書くのに、ほとんどの部分は多分3回以上、所によっては5-6回以上読んではいるんですが)を始めるにあたって、いくつか方針を立てました。

まず『一般理論』でケインズが攻撃の対象としているいわゆる古典派の経済学ですが、宇沢さん(先ごろ亡くなった宇沢弘文さん)によると、今だに正統派の主流の経済学の立場を保っていて、また最新の経済学もこの古典派の経済であり続けているようです。

で、最新の主流の経済学を『古典派』と呼ぶというのもおかしな話なんですが、ケインズが古典派と呼び、宇沢さんも古典派と呼んでいる以上他の呼び方をするわけにもいかず、私も古典派と呼ぶことにします。で、これが現在もまだ主流の正統派の経済学だということであれば、『一般理論』を読みながらついでにその古典派の経済学についても勉強してしまおうというのが方針のその1です。

『一般理論』は古典派の経済学者に向けて書かれているので、想定している読者は古典派の経済学をちゃんとわかっている、という前提で書かれています。ですから私のように古典派の経済学を知らない読者は、誰かにガイドしてもらう必要がありそうです。

で、もちろん宇沢さんの『ケインズ「一般理論」を読む』がそのガイドの一冊目になるのですが、もう一冊、宮崎義一・伊東光晴さんの『コンメンタール ケインズ 一般理論』というのをもう一冊のガイドとして、この二冊を参考にしながら『一般理論』を読もうと思います。これが方針その2です。

前回『一般理論』を読んだ時は、その全体像を把握しようとして読んだのですが、今回はできるだけ個々の部分をしっかり理解しながら読もうというのが方針その3です。

ただし『一般理論』というのは、古典派経済学とは別の『ケインズ経済学』というものができ上がっていて、その上でその全体像を説明しながら古典派経済学を批判する、という具合にはなっていません。まだ全体像が出来上がっていない状況で、古典派の経済学の枠組の中で(それを使って)古典派の経済学を批判しているというのが『一般理論』の立場ではないかと思えます。そのためその場所その場所で古典派の経済学の別の部分を批判するために使っている理屈は、必ずしも整合性のとれているものとはなっていないかも知れません。そのような前提の下で一つ一つ整合性を検証するのでなく、全体として『一般理論』の立場を考えてみようと思います。これが方針その4です。

というわけで、今回は『一般理論』だけでなくガイドブックも二冊同時に読みながら、必要に応じて他の参考書も見ながら読み進めたいと思います。

うまく行くかどうか分かりませんが、とりあえずスタートです。

『理研の調査委員会報告書』

1月 6th, 2015

昨年12月26日に発表された、例のSTAP細胞に関する論文についての理研の「研究論文に関する調査委員会」の報告書と、それに関する説明用のスライドを読みました。

この報告書の目的はSTAP細胞に関する(Natureに載った)三つの論文について、研究不正があるかどうか、もしあるならその責任を負うべき物は誰かを明らかにすることで、調査の対象となるのはSTAP細胞を作った(ことになっている)小保方さんと小保方さんの作ったSTAP細胞からSTAP幹細胞を作った(ことになっている)若山さんと、研究チームのリーダーであった丹羽さんの三人です。

で、結論としては、論文の中の図についていくつかデータの捏造がみつかり、小保方さんの責任だと認定しており、若山さんと丹羽さんについては研究不正は見つからなかったということです。

しかしこの報告書の中味は、むしろ小保方さんが作ったSTAP細胞から若山さんが作ったSTAP幹細胞といわれるものが、遺伝子を調べてみると全て(STAP細胞とは別の実験で)若山さんの研究チームが作ったES細胞と同じものだということが分かったということのようです。

本来小保方さんの作ったSTAP細胞が残っていればそれを調べるのが一番良いんでしょうが、STAP細胞というのはほとんど増殖しないので、あまり長くはもちません。で、今はもう残っていません。しかしそのSTAP細胞をSTAP幹細胞にすれば増殖するようになり、ずっと残すことができるということのようです。

で、残っているSTAP幹細胞が全て別の実験で作られたES細胞と同じものだと分かったわけですが、それはSTAP細胞ができたと言った段階でES細胞だったということなのか、STAP細胞からSTAP幹細胞を作った、と言った段階でES細胞になったということなのかは分かりません。もちろんSTAP細胞を作る作業のどこで元となったマウスの細胞がES細胞になったのか、あるいはSTAP細胞からSTAP幹細胞を作る作業のどこでES細胞にすり替わったのかについては分からないままです。

この調査は理研の中の調査ですから、分からないことは分からないと報告すれば終わりです。犯罪の捜査であれば、容疑者を取調べたりということになるのでしょうが、そこまでのことはできるはずもなく、しようともしないということです。

で、この報告書なんですが、読み始めた途端、あきれはててしまいました。調査の対象となる幹細胞に名前をつけて説明しているんですが(全部で12個の幹細胞が対象となっています)、たとえば報告書の一覧表ではFLS1~8となっているのが、スライドの方ではFLS3となり、報告書の本文ではFLSとなっているとか、報告書の一覧表では129B6F1ES1となっているのがスライドでは129B6F1となり、さらに129B6F1 GFP ES6となっているというような具合です。それが同じものを指しているのか違うものなのか、はっきりしません。だいたい分かるから良いじゃないか、ということなのかも知れませんが、そんないい加減なことで良いんだろうかと思います。

細胞生物学あるいは遺伝子生物学というのはそんなにいい加減なものなんだろうか。あるいはこの報告書は論文でなく単なる報告書だからこんなもんで良いんだということなんだろうか、あるいは理研の中の関係者が分かれば良いんで、外部の人間が報告書を読んで分かりにくくても良いんだということなのか分かりませんが、ちょっとがっかりです。

しかし報告書の中味については、この種のマウスの常染色体19対と性染色体1対の全てのゲノムをチェックして、どれとどれがどれほど似ているか・違いがどれほどあるかを調べ上げ、ここまで同じということは一方が他方から作られたものと考えるしかない、という結論を出す所は、遺伝子生物学の技術というのはとてつもなく進歩してしまっているんだなとホトホト感心しました。

で、STAP幹細胞3種類とF1幹細胞1種類が7種類のES細胞のうちの4種類のどれかと実質的に同じものだという結論が出て、結局これまでSTAP幹細胞だと言われていたものは実はES細胞であり、STAP幹細胞の証拠とされていたものはES細胞だから、ということになってしまったということです。

こうなると一番の疑問は、若山さんが行ったとされるSTAP細胞からSTAP幹細胞を作った作業というのは一体何だったんだろうということです。単にES細胞からES細胞を作ったということなんでしょうか。またその作業の過程で幹細胞でないもの(STAP細胞)から幹細胞(STAP幹細胞)を作るという作業と、既に幹細胞になっているもの(ES細胞)から幹細胞(ES細胞)を作るという作業の違いに気が付かないものなんだろうか、などという疑問がわいてきます。

STAP細胞ができたというニュースは、小保方さんの成果として大騒ぎされましたが、STAP細胞だけでは増殖もしないし、ほとんど何の役にも立ちません。これがSTAP幹細胞になることでES細胞やiPS細胞に匹敵する有用性が得られることになるので、今回のSTAP細胞に関する論文がその通りだったとしたら、小保方さんよりむしろ若山さんの方が脚光を浴びてもおかしくない話です。それだけ重要な仕事をした若山さんが論文を書くにあたり、基本的な確認作業をしなかったというのは、驚くばかりです。

また論文の全体について構成や文章作成について主に担当した笹井さんが、小保方さんの実験についてほとんど具体的に確認しないで、小保方さんの話を聞くだけで小保方さんに追加資料を作らせたり論文を書いたりしているようだ、というのも驚いてしまいます。

で、報告書の30ページにある
 【STAP細胞論文の研究の中心的な部分が行われた時に、小保方氏が所属した研究室の長であった若山氏と、最終的にSTAP論文をまとめるのに主たる役割を果たした笹井氏の責任は特に大きいと考える。】
は正にその通りだと思います。
この文章に続く
 【たまたま小保方氏と共同研究する立場にはなかった大部分の研究者も、もし自分が共同研究をしていたらどうなったかと考えると、身につまされることが多いだろう。】
という文とそれに続く文章は、論文に関する調査報告書の全体の結論として、今後このような問題が生じないようにするために自然科学者全員がどのようにすべきか、というメッセージになっています。

マスコミではともすると犯人捜しに注目が集まり、調査が中途半端だなどと批判されているようですが、もっと本質的なところにきちんと注目して冷静な分析と提言ができるというのは、やはりこの調査委員会、なかなかやるな、と思いました。

上で引用した報告書の30ページの部分以降、全体で1ページほどですが、なかなか読みごたえのある文章です。是非ネットで調べて読んでみて下さい。

報告書は、http://www3.riken.jp/stap/j/c13document5.pdfにあります。 

『GDP速報値』

12月 9th, 2014

7-9月のGDPの第2次速報値が昨日(12月4日)発表されました。前回の第1次速報値で、4-6月期は対前期比がマイナスになったのが今度は対前期比プラスだろうと皆が思っていたのにマイナスになってしまい、それが口実で解散総選挙となったわけですが、今度の第2次速報値では、調子良いはずの法人統計が計算に反映されるため、今度こそ対前期比プラスになるだろうとまたもや皆が思っていたのがマイナスになり、しかもほんのちょっとですが、第1次速報値より第2次速報値の方がマイナスが大きかった(季節調整済みの実質GDPの対前期比が、年率換算で、第1次速報値ではマイナス1.6%、第2次速報値ではマイナス1.9%)、という結果でした。

これで野党の方は「それ見たことか」「アベノミクスは失敗だ」と声を張り上げているようです。自民党の方は「ちょっと時間がかかるだけで、アベノミクスはうまく行っている」と主張し続けています。

私も法人統計がGDP速報に反映されれば前期比プラスになるだろうと思っていたので、ちょっと、もとの数字を見てみました。すると7-9月期のGDPそれ自体は第1次速報値より第2次速報値の方が大きくなっています。しかしGDPが大きくなっているのは7-9月期だけでなく、それ以前の期も軒並み大きくなっています。特に直前の4-6月期の増額修正は7-9月期の増額修正より大きく、その結果として対前期比がマイナスになってしまった、ということのようです。

通常の月であれば第1次速報値と第2次速報値の違いは法人統計の所くらいなものなのですが、12月に発表される速報だけはこれ以外にも、前年(2013年)の数値についてGDPの確報にもとづいて修正し、さらに前々年(2012年)の数値についてGDPの確々報にもとづいて修正するということをやっているので、結果として2012年の頭の分から数字が大きく修正されています。

名目原系列というナマの数字についてはこのように2年前の頭からの修正ですが、これが実質の年換算の数字となるとこれに季節調整が加わるので、さらに数年さかのぼって数字が変わります。

そんな仕組みになっているというのは、今回の修正を見るまで知りませんでした。で、GDPは7-9月期、4-6月期より落ち込んだわけですが、それは4-6月期が今まで思っていた以上に良かったんだという話で、これは2012年の1-3月期までさかのぼってずっと今まで思っていた以上に良かったんだ、という話でした。このあたり、詳しい話は、元の数字を見るしかなく、政府の発表資料には載っていないので、新聞では報道されていません。一応このような話があるというくらいは発表資料でも軽く触れてはいるんですが。

とまれこの7-9月期の第2次速報値が前期比プラスになっていたとしたら、野党の方のアベノミックスは失敗だという主張が難しくなっていたでしょうし、またその時にはアベノミクスはうまく行っているのになぜ消費税の引き上げを先送りしたんだ、なぜ解散したんだという話になり、わけのわからない選挙になっていたかも知れないと考えると、まあまあ良かったかなと思います。

あとは14日の投票結果を楽しみに待ちたいと思います。

私は6日の土曜日に早々と不在者投票を済ませてしまっているんですが、今回は読売新聞の出口調査の対象となりました(前回はNHKの出口調査でした)。土曜日なのに寒い中投票所の前で待っている、というのもご苦労様なことです。

『ケインズ『一般理論』を読む』

12月 4th, 2014

宇沢弘文さんの本『経済学の考え方』『近代経済学の再検討』の次は、『ケインズ『一般理論』を読む』という本です。今は岩波文庫になっていますが、当初は岩波セミナーブックスというシリーズの一冊でした。はじめ、この岩波文庫の本を図書館で予約したのですが、いつまでたっても借りることができず、ちょっと古いけれどこの岩波セミナーブックスの方を予約したら大正解でした。版が文庫本よりかなり大きく、その分余白がたっぷり取ってあって、読みやすい本でした。

ケインズの『一般理論』はケインズが古典派の経済学を批判して、ケインズの経済学を提案している本です。しかもこの『一般理論』の読者として想定していたのが同業の経済学者、すなわち古典派の経済学者です。で、古典派の経済学を批判するにしても読者は古典派の経済学をしっかり理解している人ばかりです。そのつもりで書かれた本を、私のように経済学を良く知らない者が読むというのはなかなか大変です。古典派の経済学については、ケインズがそれを批判している所を読んで、そこからそんなものなんだろうな、と理解するしかありません。

ところがこの宇沢さんという人は、もともと古典派の経済学のスターとして活躍した人で、その後それを批判し、ついでにケインズの『一般理論』まで批判して『社会的共通資本』という考え方を主張した人ですから、古典派の経済学もケインズの経済学もしっかりわかっている人です。さらにこの本は市民セミナーでケインズの『一般理論』を読もうというものですから、読者として想定しているのは私のような経済学の素人です。私のような素人を読者としてケインズの『一般理論』を読みながら、そこに書かれて古典派の経済学、ケインズの経済学をきちんと解説してくれるという、何ともおあつらえむきの本であることが分かりました。

以前『一般理論』を読み終えた時、しばらくたったらもう一度『一般理論』を読み返そうと思っていたのですが、まさにうってつけのガイドブックがみつかったわけです。ケインズの『一般理論』とこの宇沢さんの本を一緒に読みながら、ケインズが批判している古典派の経済学、そのアンチテーゼとしてのケインズの経済学の両方を理解してみようと思います。

ケインズの『一般理論』でコテンパに批判されたはずの古典派の経済学が、その後もしっかり正統派の経済学の地位を保っているのはどうしてなのか、ケインズの経済学が勝てないのはなぜか、を考えながら読んでみようと思います。

この本の最初の部分に『なぜ『一般理論』を読むか』という章があります。この中で『一般理論』は経済学に大きな影響を与えたが、一方それを読んだ人はほとんどいない、ということが書かれています。ほとんどの人はケインズの経済学のヒックスによる解釈であるIS-LM理論を、ケインズ経済学そのものだと思い込み、あるいはそう教えられ、ケインズの『一般理論』を読むかわりにこのIS-LM理論およびその解説を読んで『一般理論』を読んだつもりになったということのようです。ですからこのIS-LM理論が破綻すると、それはケインズの経済学の破綻だと解釈したということのようです。

さらにケインズの『一般理論』というのは、ケインズとその周辺にいたケインズ・サーカスとよばれる(その当時)若手の経済学者達の議論をケインズが本にまとめたもののようですが、その中の中心的な人物の一人であるリチャード・カーンと宇沢さんが話した時の話として、『自分は昨年(1978年 一般理論の出版は1936年)初めて『一般理論』を読み通したが、一般理論の書き方はまったくひどい。一体何を言い、何を伝えようとしているのか、私にはまったく理解できない』という発言を紹介しています。すなわち『一般理論』の考え方を作った中心人物ですら『一般理論』をまるで読んでなかった、ということです。

何とも唖然とする話ですが、とはいえ、今となっては『一般理論』を読むしかないんですから、今度はじっくり読んでみようと思います。ケインズの書き方がひどいというのはわかっています。宇沢さんも平気で専門用語を使ってきます。このあたり専門家でない立場から、何とか解きほぐしながらじっくり読んでみようと思います。

ということで、古典流の経済学とケインズの経済学の両方の解説書としてお勧めします。

『近代経済学の再検討』

11月 11th, 2014

前回紹介した宇沢弘文さんの『経済学の考え方』は1989年の本ですが、そのちょっと前に書かれた『近代経済学の再検討』(岩波新書)は1977年の本です。

この本も新古典派の経済学の中味を検討し、ケインズによるその批判の内容を紹介し、ケインズの批判し残した部分として、社会的共通資本の理論を説明しています。

いくつも印象的な言葉があるので、順次それを紹介しましょう。

一番最初に『まえがき』のしょっぱなに書いてあるのが
【世界の経済学は今一つの大きな転換点に立っている。現実に起きつつあるさまざまな経済的、社会的問題がもはや、新古典派ケインズ経済学というこれまでの正統派の考え方にもとづいては十分に解明することができなくなり、新しい発想と分析の枠組みとを必要としているからである。】
です。

『新古典派ケインズ経済学』というのはいったい何なんだろう、ケインズは新古典派経済学をやっつけてしまったんじゃなかったんだっけ・・・というのが正直な感想です。この新古典派ケインズ経済学というのは、新古典派の経済学がケインズ理論を取り入れたいわゆる新古典派統合の経済学のことかも知れませんが、私にとっては新古典派の経済学はケインズによって完璧に否定されてしまったと思っていたので、これが正統派の考え方だというのは驚きです。まあこのあたり私が経済学をあまり良く知らないということなんでしょうが。

次に『序章』の最後は
 【正統派の経済学について、その理論的な枠組みをかたちづくっているのは、言うまでもなく、新古典派の経済理論である。しかし新古典派の経済理論について、その基礎的な枠組みを明快に解説した書物はないと言っても良い。新古典派理論の基本的な考え方と中心的な命題とは、すべての経済学者にとって自明のこととして当然知らなければならないこととされてきたからである。本書ではまず、新古典派の経済理論について、その基礎的な考え方にさかのぼって、枝葉末節にとらわれることなく、その前提条件を一つ一つ検討することからはじめよう。】
となっています。この部分、ケインズの『一般理論』を読んでいるような気がします。

この新古典派の経済学について明快な説明がないことについては、『Ⅱ 新古典派理論の基本的枠組み』のはじめの方でも、
【新古典派経済理論の前提条件をどのように理解し、その理論的な枠組みをどのように捉えたらよいか、という問題について、経済学者の間で必ずしも厳密な意味で共通の理解が存在するわけではない。しかし現在大多数の経済学者にとって共通な知的財産として、ほとんど無意識的に前提とされているような基本的な考え方の枠組みが存在するのは否定できない事実であろう。これは、いわゆる近代経済学を専門としている人々にとって自明な考え方の枠組みであり、トマス・キューンの言うパラダイムを形成するものと考えてもよい。したがって、多くの場合に必ずしも明示的に表現されることはなく、研究論文はもちろんのこと、教科書の類いですら、この点に詳しく言及することはまず皆無であると言ってよいだろう。逆に、このような理論の基本的枠組みについては、わたくしたち経済学者が当然熟知していなければならないものであり、ひとつひとつ検討する必要のないほど自明のこととされてきた。そしてこの論理的斉合性を問うたり、基本的な命題に疑問を提起することは、ジョーン・ロビンソン教授がいみじくも指摘したように、近代経済学の研究にさいしての重大なルール違反であるとすらみなされることもあったのである。】

これは何ともはやの話ですね。こんなんで経済学を学問とか科学とか言えるのか、という話です。特に言葉の定義や前提条件を明確にすることがもっとも大事で、すべてをそこから始めることになっている数学をやった人間にとっては、このような状況は耐えられない話でしょうね。

で、このあと新古典派が自明のこととしている前提条件がまるで非現実的なものであり、その一部についてケインズが明確に批判したこと、そしてケインズが批判しなかった部分についても社会的共通資本の考え方を入れなければならないことを指摘して、この本は更なる新古典派の批判をしているんですが、最後の『おわりに』の最後に

 【本書では、経済学が現在置かれている危機的状況、すなわち理論的前提と現実的条件との乖離という現象の特質をできるだけ鮮明に浮彫りにするために、現代経済学(日本では近代経済学と呼ばれている)の基礎をなす新古典派の経済理論の枠組みについて、その皮と肉を剥いで、骨格を露わにするという手段を用いた。このような手法によってはじめて修辞的な糊塗に惑わされることなく新古典派理論の意味とその限界とを誤りなく理解することが可能であるだけでなく、現実的状況に対応することができるような理論的体験の構築もまた可能になると考えたからである。 しかしこの極限的な接近方法は、審美的な観点から感性を害うような反応を感ずるだけでなく、職業的な観点から、往々にして非知的な、そして退嬰的な反発を招く危険性が皆無ではない。とくにわが国では、高度成長期を通じて、いわゆる近代経済学者が、社会的にも政治的にも大きな役割を果たすようになり、政策的提言、社会的発言、アカデミックな地位などにおいて、20年前とは比較にならないような影響力を持つようになってきたのであるが、そのもっとも重要な契機は、新古典派的経済理論という分析手法の効果的な適用という点にあった。したがって、このような形で批判的検討を加えようとすると、多くの経済学者の職業的な既得権益に抵触せざるを得なくなるからである。】
とあります。やはり自分が生まれ育った新古典派を裏切って批判する立場に立つ、というのは覚悟のいることのようです。

その後の『あとがき』には
 【本書の内容は、この数年間にわたるわたくしの思索をまとめたものであるが、ここで取り上げた主題の一つ一つについて、いずれも不完全なまま、このようなかたちで一冊の書物として出版することに対して、大きな心理的抵抗を感じないわけにはゆかない。ただ新古典派の経済学を学んで、自らも研究を行ってきた者の一人として、この新古典派の制約的体系を否定して、新しい思索的な、分析的な枠組みを構築することがいかに困難であるかという苦悩の軌跡を記して読者の参考に資することができたらという、かすかな期待を持ってこの書物をまとめたのである。】
とあります。

ケインズも宇沢さんも新古典派のホープとして活躍した後で新古典派を批判する立場に転じ、新しい経済学(ケインズの経済学、宇沢さんの社会的共通資本の理論)を提案しているわけですが、ケインズが新古典派を一刀両断しているのに対し、宇沢さんは日本人らしくちょっと遠慮勝ちというのも面白いですね。

社会的共通資本については、宇沢さんはそのままのタイトルの本を別途2000年に、これも岩波新書として出版していますが、新古典派経済・ケインズ経済学とのかかわりでそれらを批判する中で宇沢さんが社会的共通資本の考えに至った経緯について理解するには、この本の方が良く分かるかも知れません。

ケインズにも宇沢さんにもこれだけ批判された新古典派経済学ですが、いくら批判されても相変わらず正統派の立場を保っているのも不思議なことですね。

データベースがパンクしました。

11月 11th, 2014

しばらく、この『ブログ版コメント』のページが編集できませんでした。

10日ほどかかってようやく、データベースがパンクしていたことが分かりました。
その理由は、例によってジャンクのコメントがたくさん入ってきたためかと思っていたのですが、データベースの中を見てみたら、なんとこのページの右上の方にあるカウンタの集計のためのレコードが膨大に膨れていた、ということが分かりました。

そこでもちろんそのデータをすべて削除して、カウンタはゼロスタートでやり直しです。

これで何とか無事に動いてくれるといいのですが。

『経済学の考え方』

10月 28th, 2014

別稿で経済学者の小島さんと宇沢さんの話を書きましたが、その宇沢さんの本の話です。

図書館で検索してみると何冊も書いていますが、まずは読みやすそうな新書をいくつか借りてみました。

その中でまず読んだのが、『経済学の考え方』岩波新書 です。この本は
 アダム・スミス
 リカードからマルクス
 ワルラスの一般均衡理論
 ヴェブレンの新古典派批判
 ケインズ
 戦後(第二次大戦後)の経済学
 ジョーン・ロビンソン
 反ケインズ経済学
 現代経済学の展開
という具合に、経済学の歴史に沿ってそれぞれの考え方を説明しています。

特にヴェブレンの新古典派批判の所(その前のワルラスの一般均衡理論の所も同じですが)は、非常に面白いものです。
ケインズの『一般理論』は新古典派の議論を批判して新しい考え方を提案しているものですが、この『一般理論』を読むだけでは新古典派がどんな議論をしているのかが良く分かりません。それがこのヴェブレンの所を見ると良く分かります。

宇沢さんによるとケインズの前に既にこのヴェブレンが新古典派を徹底的に批判しているということですが、歴史的にはケインズの一般理論を受けてヴェブレンが見直され、再発見されたということのようです。

で、宇沢さんによるヴェブレンの新古典派の説明は見事なものです。

普通議論をする時は、言葉の定義を明確にしたりあらかじめ議論の前提条件を明確にしたりしないで議論してしまいます。そこで議論をしながら『なぜ、どうして』なんて質問をするとあまり喜ばれません。『なぜ、どうして』を三回くらい連続でやると、たいていの場合相手は怒って議論をやめるか、あるいは喧嘩になってしまったりします。

しかし数学の世界では言葉の定義は明確にしておかなければならないし、前提条件も明確にしておく必要があります。その上で『なぜ、どうして』と聞かれた時は何度でもきちんと説明しなければならないことになっています。

とはいえ、数学者も時には『そんなの当り前だろう』と言ったりすることもあるんですが、それでも必要となったらいつでも『当たり前だ』ということを証明する必要があります。『当たり前だろう』と言ったことが、実は当り前じゃなかったなんて場合は、大変なことになります。

で、宇沢さんは、ヴェブレンの議論では、まず新古典派の議論の前提条件を明確にした、と言っています。すなわち、新古典派がこのような議論をしているその議論が論理的に正しく展開されているということは、その議論のバックにこのような前提条件がなくてはならないということで、前提条件を一つ一つ明らかにしていったわけです。これはとてつもなくしんどい作業ですが、それをヴェブレンがやったということです。

宇沢さんももともと数学専攻から経済学の方に行った人のようで、ヴェブレンという人も最初は数学をやった人のようですから、そんな思考パターンに慣れているのかも知れません。あるいはそうしないと気持ちが悪いということでしょうか。その気持ちは良く分かります。

で、この整理された前提条件を見ると、確かに新古典派の主張する議論はそれらの前提から論理的に証明できそうな気がします。と同時に、その前提条件は現実とはまるで乖離してしまっている絵空事、というのも良く分かります。

このように説明してもらうと『一般理論』もさらに分かりやすいんでしょうね。宇沢さんには『一般理論』の解説書もありますから、これを読むのが楽しみになりました。

で、後ろの方に『反ケインズ経済学』というのが出てきます。それは、『合理主義の経済学、マネタリズム、合理的期待形成仮説、サプライサイド経済学など多様な形態をとっているが、その共通の特徴として、理論的前提条件の非現実性、政策的偏向性、結論の反社会性を持ち、いずれも市場機構の果たす役割に対する宗教的帰信感を持つものである』と、一刀両断にバッサリやってしまうコメントにはびっくりしました。ここまで言い切ってしまう人はなかなかいません。特に経済学者では。

権丈先生は、右側の経済学、左側の経済学、という言い方をするのですが、この右側の経済学のことを反ケインズ経済学、というんですね。初めて知りました。

最後に『現代経済学の展望』として、反ケインズ経済学が淘汰されて未来に向けて明るい希望を持ち、その中で日本の若年の経済学者たちについても大いに期待しています。この本が1988年に書かれているのでもう四半世紀も前の話で、その後今までについても書いてもらいたかったなと思います。淘汰されたと思った反ケインズ経済学は今も大威張りで生き続けているようですから。しかしそれはまた別の本で読むことにして、宇沢さんの他の本を読むのが楽しみです。

アダム・スミス以降の経済学の流れを(宇沢さん流にではありますが)全体として理解するのにとても良い本だと思います。

お勧めします。